還浄された御門徒様の学び跡 |
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
『仏説無量寿経』巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願(18)
▼意訳(「現代語版」より)
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを誹るものだけは除かれます。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 住不退転 唯除五逆 誹謗正法
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く
『仏説無量寿経』巻下 正宗分 衆生往生因 十八願成就
▼意訳(「現代語版」より)
すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。
宗祖が隆寛律師の『一念多念分別事』を註釈された『一念多念文意(一念多念証文)』の中で、本願成就文をひらかれて、次のようにあらわされています。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
▼意訳(「現代語版」より)
「聞其名号」というのは、本願の名号を聞くと仰せになっているのである。聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞」というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である。「信心歓喜乃至一念」というのは、「信心」とは、如来の本願を聞いて疑う心がないことである。
然経言聞者 衆生聞仏願 生起本末 無有疑心 是曰聞者
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり
▼意訳(「現代語版」より)
無量寿経に『聞』と説かれているのは、私たち衆生が、仏願の生起本末を聞いて疑いのこころがないのを聞というのでる)。
註:〈生起本末とは、仏願の起こり来ったおいわれ(由来)であり、その願が成就されている事実、結果をいう。〉
罪悪深重の凡夫があるが故に本願が生まれたのであり、凡夫の、衆生の苦悩に対して発せられた如来の誓願であり、罪悪深重の凡夫を憐れんで救わんが為に発願されその結果(本末)、成就されている第十八の誓願があるといえる。
元来、他力の信心はその体は名号法そのものである。名号の内容は「信巻」における成就文の釈のごとく「仏願の生起本末」である。この仏願の「生起」を聞いたのが機の深信の内容であり、また仏願の「本末」を聞いたのが法の深信の内容といわれる。この仏願の生起本末の内容を自らの側の仕事とするのが信罪福心の自力心である。それ故、一深心を二種に開かれた理由はこの信罪福心を否定せんがためといわれる。即ち仏願の生起を聞くことによって信罪の心が否定され、仏願の本末を聞ことによって信福の自力心が否定されるのである。
『現代の教学問題』 二種深信について(48頁・稲城選恵師)
設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国 不果遂者 不取正覚
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
▼意訳(「現代語版」より)
わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生まれたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。
傍線部分「聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国」について――
「十方の衆生がわたしの名を聞いて、この国(浄土)に思いをかけて、さまざまな功徳を積んで、こころから我国に生れたいと願う」
法蔵菩薩は、すでに清浄な仏国土の建立を成就され、阿弥陀如来となって今、現に、西のかた極楽浄土において教えを説いていられる。四十八の願いは全て成就されているのである。
その阿弥陀さまの成就された願いがありながら、「浄土に生れさせていただくために自分自らがさまざまなもろもろの功徳、善行をつみ善徳を積み重ねなければと思い、此れを実行しようと苦しむのは如何なものか」というのが、考えねばならぬ命題なのである。
浄土真宗において、第十八願をもって本願とし、王本願とも申し上げている。繰り返し学んでいることであるが、「すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません」と誓われているのが第十八願である。積善を前提としていない他力回向の本願力である。
二種深信 善導大師 「散善義 上輩観」
善導大師の二種深信釈は、《衆生は、罪悪生死の凡夫であり、はかりしれない昔より生死の迷いの世界を流転し、その世界から抜け出でる手がかりすらないと思いさだめることである》…・機の深信
そして、《阿弥陀仏の四十八願は衆生を間違いなく必ず救いおさめとってくださるのであり、その願力によって浄土に往生させてくださる》ことを心から信ずることが、「聞其名号 信心歓喜」なのである。
法の深信は第十八願のそのおこころをいう。
ここに自力心を真っ向から否定する他力信心がある。第十九願、第二十願を[自力諸行往生]、[自力念仏往生]とされるゆえんである。
学びを深めてみえる方は既にご承知と思いますが――
阿弥陀さまの成就された願いがありながら、「浄土に生れさせていただくために自分自らがさまざまなもろもろの功徳、善行をつみ善徳を積み重ねなければと思い、此れを実行しようと苦しむのは如何なものか」というのが、考えねばならぬ命題なのである
というところは、浄土真宗で最も誤解を生じやすい箇所ですので、しっかりと見定めていかなくてはなりません。
これは、「念仏者は努力しなくてよい」という意ではなく、むしろ努力の源となる熱意が、如来よりたまわる金剛の心に由来するものとなるので、歓喜の中で努力を続けることができるのです。これは、「本願成就のいわれ」を社会生活の中で学ぶことによって、自ずと為されるものです。
浄土の成就した姿はいわば外見であり、これを一心不乱に想うのではなく、浄土建立の道理(いわれ・生起本末)を学ぶことが如来の本意をいただく近道なのです。
「成就された願い」でありながら、我が胸の内を法蔵菩薩が「修行の場」と定められた意味を味わいたいと思います。
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