還浄された御門徒様の学び跡 |
本願のおいわれ(由来)を学ぶとき、わたしはいつも次の経言がうかびます。 大無量寿経のなかの次の経言です。
去来現仏 仏々想念
[去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ]
『仏説無量寿経』 巻上 序分 発起序 出世本懐 より
「過去の仏様も未来の仏さまも今の世の仏様も、互いに念じあっていてくださる」というこの言葉。無量寿経のはじめ、お釈迦さまが禅定(何よりも優れた智慧の境地)に入られ、これから無量寿如来(阿弥陀さま)のおいわれを説法されるときのお言葉のひとつで、このあとには「今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません…・・」と続いています。
金子大榮師は、こう味わいをされている。
原始仏教者が念仏して自身を観、人生を観じている間に、 寿命無量を感じ光明無量を感じ、ついには本願を感得したのではないか。
然れば本願を感得したものは念仏である。
しかし本願を感得した念仏は、一転してそれ自身を本願の中に見出したのである。
南無阿弥陀仏の念仏こそ本願力回向の念仏であり、大悲の本願の中に南無阿弥陀仏の道を見出すことなのである。
わたくしは、このお味わいの中に、お釈迦さまが、マガダ國のウルビルバーの林の中で《過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をしたものはなく、これからもないであろう》と自らおおせになった程の世にもまれな激しい苦行に入られ、六年をへて、苦行を捨て、菩提樹の樹の下で最後の瞑想に入られ、夜明けの明星の輝きを仰いだとき、「無上の悟りをひらき、無上覚者となられたお釈迦さま」と、金子大榮師の言う「原始仏教者」とが一つになって、そして大きく大きく私に迫ってくるようにおもえる。
なもあみだぶつ なもあみだぶつ
歎異抄第十六条には「…ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだし……・」云々とあります。
さきにあげた浄土和讃 冠頭の一首のなかの「……憶念の心つねにして…」、名号を称えるそのこころは、まことにほれぼれと阿弥陀仏を仰ぎ、阿弥陀さまを憶念し、深く信順するこころなのではあるまいか。
歎異抄の結びには
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
と常々、親鸞聖人が仰せであったとしるされている。
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