還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第一集 4

大悲の本願

【浄土真宗の教え】

 大悲の本願

 本願のおいわれ(由来)を学ぶとき、わたしはいつも次の経言がうかびます。 大無量寿経のなかの次の経言です。

去来現仏 仏々想念
 [去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまふ]

『仏説無量寿経』 巻上 序分 発起序 出世本懐 より

「過去の仏様も未来の仏さまも今の世の仏様も、互いに念じあっていてくださる」というこの言葉。無量寿経のはじめ、お釈迦さまが禅定(何よりも優れた智慧の境地)に入られ、これから無量寿如来(阿弥陀さま)のおいわれを説法されるときのお言葉のひとつで、このあとには「今、世尊もまた、仏がたを念じておいでになるに違いありません…・・」と続いています。

金子大榮師は、こう味わいをされている。

 原始仏教者が念仏して自身を観、人生を観じている間に、 寿命無量を感じ光明無量を感じ、ついには本願を感得したのではないか。
 然れば本願を感得したものは念仏である。
 しかし本願を感得した念仏は、一転してそれ自身を本願の中に見出したのである。
 南無阿弥陀仏の念仏こそ本願力回向の念仏であり、大悲の本願の中に南無阿弥陀仏の道を見出すことなのである。

 わたくしは、このお味わいの中に、お釈迦さまが、マガダ國のウルビルバーの林の中で《過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をしたものはなく、これからもないであろう》と自らおおせになった程の世にもまれな激しい苦行に入られ、六年をへて、苦行を捨て、菩提樹の樹の下で最後の瞑想に入られ、夜明けの明星の輝きを仰いだとき、「無上の悟りをひらき、無上覚者となられたお釈迦さま」と、金子大榮師の言う「原始仏教者」とが一つになって、そして大きく大きく私に迫ってくるようにおもえる。

 なもあみだぶつ なもあみだぶつ

 歎異抄第十六条には「…ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだし……・」云々とあります。
 さきにあげた浄土和讃 冠頭の一首のなかの「……憶念の心つねにして…」、名号を称えるそのこころは、まことにほれぼれと阿弥陀仏を仰ぎ、阿弥陀さまを憶念し、深く信順するこころなのではあるまいか。

 歎異抄の結びには

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

と常々、親鸞聖人が仰せであったとしるされている。

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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