巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈(後半)
【五】・・・
われ誓ふ、仏を得たらんに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼〔の衆生〕に、ために大安をなさん。
たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、
一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あら
んに、光明ことごとく照らして、このもろもろの国に遍じ、かくのごとく
精進にして、威神量りがたからん。
われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん。
国泥Eのごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん。われまさに哀愍して、一切を度脱すべし。
十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでにわが国に到らば快楽安穏ならん。
幸はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。願を発して、かしこにして所欲を力精せん。
十方の世尊、智慧無碍にまします。つねにこの尊をして、わが心行を知らしめん。
たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ〉」と。
仏説無量寿経 巻上【五】 ・・・・・
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏たがの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、
涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、
わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
【大無量寿経点睛】
法蔵菩薩の願い
経意は、第14号の「発願」の項を見て下さい。
【科分】 法蔵菩薩は師の世自在王仏の徳を讃めている間に、自分の胸に発こって来た願いを表白している段です。
【法蔵菩薩の願い】 今日までの日本浄土教は法然が、アミダ仏はひとえに衆生を救いたい願いから、ナモアミダブツと称えるだけで浄土に生まれる、たやすい法を考え出したといっているので、真宗学者はその腹で経を読んでいるから、常識的では考えられない誤った読み方をしているのです。それは『歎異抄』に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」とある、その言葉だけに執われて、願いを発こした法蔵菩薩その人の立場が全く忘れられていたからです。今ではそれを一々問題にする余裕はありませんが、大切な点だけ指摘しておきます。
法蔵菩薩は世自在王仏に出遇った時、一目見て何とりっぱな王様だろうか、それに引き換え私は何とみすぼらしい、国王とは名ばかりの誠に恥ずかしい姿である。私もあなたのようになりたいと、経にはそれを「私も覚って聖法の王に斉しくなりたい」と説いているのです。これは自分の願いの全体を一口で言い現しているので、「総願」と名づけています。
【覚る道】 それではどうしたらりっぱな王になれるか。世自在王仏とはどういうお方か。その一つ一つを分析し具体的に明らかに自分のものにしたい。それがさきに讃め称えた五つの徳です。それがためにはこの世に対する執着と我が身を愛する我執を離れて、その上に常に三昧に住して自己を失わず、深い仏の智慧を身に即けてあるがままの人生を知らねばならぬ。それを経には「生死を解脱し、布施をして意を調え、身を持[たも]ち(持戒)、辱[はずかし]めを忍び、常に内なる願いに催されて励み(精進)、かくして三昧と智慧を主眼としよう」といっている。前の生死解脱は身についた欲を離れることであり、後の六度の行は菩提心の成長と正しい人生観の確立を眼指しているのです。この二つが覚る道の内容です。
ここに問題があります。従来の聖典ではほとんどが「聖法の王に斉しく生死を解脱せん」とここで切って読んでいます。これは仏とは生死を解脱したものという考えからですが、それは原始仏教の考えで、大乗仏教はそれをアラカンの悟りといって、仏はさらに六度の菩薩行を修せねばならぬとしています。それは欲を離れて生死を解脱するだけでは、自灯明の自己確立はできるか知れませんが、法灯明の人生観がなければ、それは真実なものではありません。主体の智慧も、空とか無我をさとる「慧」だけであって、形のある世界が見える「智」のない個人的なもので、それは悟で現す出家者のさとりです。六度の行は人生を生きて行くのに、自然環境の厳しさや、夫婦関係、親子関係、兄弟関係の家庭環境や、隣近所の人間関係、また会社と個人、組織と個性などの社会環境や、団体と団体、国と国などの国際関係や、その矛盾的環境を身証体解して、人生を生きる主体性の確立と、正しい人生観を身につけることです。
また、経の六度の文も皆名詞に訓[よ]んでいるのですが、それでは意味が通じません。金子先生も指摘しているように、「三昧」が死んでしまいます。六度の行は初めの布施だけが他に対するもので、後の五つは皆自分に対する問題です。それで、経に「布施して意を調える」といっているのは、他に施すことが目的ではなく、それによって自分の心を浄めることが本意です。それは「七仏通誡の偈」の「諸[もろもろ]の悪は作すことなかれ、衆[もろもろ]の善はこれを行え。それによって自らその意を浄めよ」と、悪をすれば悪に僻[ひが]み、善をすれば善を誇ることを誡めているのと同じように、施せば施したという恩着せがましい心が起きるそれ誡めたのでしょう。また「忍辱[にんにく]」を忍耐と解釈していますが、辱ははずかしめるという字ですから、人が見てはいないか、何か言いはしないか、人の心を気にしたり、人の顔色を窺ったりすることを誡めたのだと思います。
【一切の恐懼[くく]】は、一切の衆生のことですが、何と私たちの日暮らしを的確にいい当てていることでしょう。恐懼とは恐れ戦[おのの]くことで、ちょうど雀が餌をついばむ時のように、びくびくしている姿のことです。「為作[いさ]大安」を大安を作さんと訓んでいますが、これは仏像が右手に施無畏印[せむいいん]を結んでいるあれで、親が側にいるだけで子は安らいでいるように、王がしっかりしておれば国民のために大安となることで、「大安とならん」と訓むのでしょう。
【わが道を行く】 諸仏を供養するよりも私は私の道を求めて行くという経の文。諸仏を供養することは大乗仏教を貫く重要なことであり、今日でいう社会奉仕もその一つですから、ここの文は問題になって、中には翻訳の間違いだろうという人もありました。今日は口を開けば人のため世のためとか、社会奉仕といっていますが、私は、ここの文は法蔵菩薩の根本精神であり、全ての人の生活態度でなければならぬと思います。
だいぶん前のことですが、女の人が「私は嫁に来て舅姑のお世話をし、子供の世話をし、ようやく手が離れたと思ったら、夫が中風になりました。これでは一生人の世話で終わってしまいますが、私の世話ができるのはいつでしょうか」と。
人の世話を止めて自分の世話をするのではなく、人の世話をするそのことがそのまま、私の人生修行であったと心の向きを変えることでしょう。法蔵菩薩は国王ですから、国がどうしたらりっぱになるだろうか、国民がどうしたらもっと賢くなるだろうかと、国のこと民のことだけに目が向いて、自分のことを忘れていたものが、世自在王仏に出遇って初めて、問題は国よりも民よりもまず自分だと気がついたことです。
私はこの法蔵菩薩の思想は『地蔵本願経』の、智慧の勝れている国王が一切智成如来となり、慈悲の勝れている国王が永遠に仏になることができぬ地蔵菩薩となったとある、この経を踏まえているのではないだろうかと思っています。
親鸞が「浄土の大菩提心は願作仏心(まことの人になりたいと願う心)をすすめしむ。願作仏の心はこれ度衆生心と名づけたり」といっている。国を思う心全体が、自分がりっぱな王にならねばならぬという心に昇華したことです。
【光明無量】 これからいよいよ国王としての具体的な願いですが、その第一が光明が量りないようにということです。これは、国や国民に対して目が向いている即時的な願いに対し、国王自らに対する願いとなったので、対自的願いといいます。
光明とは何か。目に見えない働きを光明とたとえたのです。龍樹はその光明を智慧の光明と身放の光明とに分け、賢首はこれを智光と身光といっています。
身光のことを俗に後光が射すという。照らすとは、智慧の光明は相手を見て理解する働きで、生きるために自分が使うもの、身放の光明は、相手に自分が信頼され尊敬される徳の働きのこと。これを経には「光明悉く照らす」と「威神量り難い」と分けています。
光明は何を照らすのか。無数の諸仏の世界と、無数の衆生の世界です。今日まではただ諸仏の世界を照らすとだけ解釈していましたが、刹土[せつど]は宿業の世界のことです。
【国土と住民】 国は勝れて第一に、住民は智徳兼ね備えて相好は美しく、修道としての環境はこの上ない。また国は清らかで執われることなく涅槃の如くであって、どこの国よりも超え勝れた国にしたい。
【衆生救済】 一切の迷えるもの、また悩めるもの悉くを哀れんで、心の眼を開かしめ、十方よりわが国に来て生まれるものは皆心は安らかに喜びは清らかであり、真実の楽しみを知らせたい。
【決誓】 師の世自在王仏よ。これは私があなたにお遇いしてさとりを得た真実の願いであります。これはまた全ての人皆が願い求めているものであると思います。幸[ねが]わくば師よ。この願いの真実であることをご証明下さい。私は一層自信を深めてこの願いを成就するために、命をかけて精進いたします。
また私を取り巻いている人は皆、賢い人々である。私は私の宿業で、時にはつい腹を立てたり、気に入らぬことを言うかも知れませんが、それは私の本心からではありませんから、どうぞ皆様の真心の智慧をもって、この私を内から動かしている止むに止まれぬ深い願いを知って、証誠護念下さるようお願いします。
経に「十方の世尊」と呼んでいるのは、どこか遠くにいる仏たちのことではありません。人間一人ひとりに宿っている仏性(諸仏)のことです。
私が六つの時、家の二銭銅貨を一つ盗んだことがあります。その時母から「誰も見ておらんと思っても<天知る地知る、人知る我知る>といって、天も地も皆知っているのだよ。それだけではない。<盲人千人、眼あき千人>といって、誰も知らんと思っていても、人は皆知っているのだよ」といわれました。その時私は目の見えない人と目の見える人と合わせて二千人と思っていました。後に仏法を聞いて、人は千人だが一人ひとりに諸仏が宿っていることだと解りました。意識的には言えないが、深層意識では皆解っていることをいっているのです。
この経の初めに一万二千の弟子たちは気がつきませんでしたが、阿難が今日のお釈迦様は何とお顔が美わしいといいますと、弟子たちは一様にまことその通りと頷いた、そのことです。
「心行」は口で言ったり身で行ったりしたことではなく、心の底から常に一貫してその人を動かしている生活精神の深い願心のことです。ここの文はまことに厳粛な私たちの生活の事実をいっているのです。
法蔵菩薩は最後に、「たといこの身はどんな苦難に遇おうとも、この願いが成就するまでは堪え忍んで、決して悔いは致しません」とその決意の堅いことを表白しています。
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