最近、日本の伝統的体質である『和』について論議を呼んでいる。というのも、社会的な大問題が起ると、大抵、組織内でかばい合いが行われた形跡が見られ、マスコミはその度に「これは日本の伝統的体質である『和』のせいだ」と問題点をここに集約させようとする。
確かに警察署内で、各省庁内で、建築業者内で、原子力関係者内で、国会内で見せる馴れ合いの『和』は悪質で醜く、社会悪の根元に挙げられる。だが、これが本当の意味で『和』なのだろうか?
◆ 『和』を貴ぶ体質
『和』が日本の伝統的体質であることは否めない。学校でも会社でも、和が重要視されることは経験で学んでいるし、先生や経営者や政治家は、その組織内の和が保てるかどうかにまず手腕が問われる。
また聖徳太子の制定した『憲法17条』の冒頭第一条には――
和を以 て貴 しと[ 為 。[ 忤 うること無きを[ 宗 と為[ [日本書紀・憲法17条]
と有名な条文が出ていることでも分かる通り、かなり歴史をさかのぼってもこの『和』を貴ぶ体質がうかがえる。
このように、和が保たれなければその組織は力を発揮出来ないことは自明の理である。しかしその和を保つために、データ改ざんや犯罪の隠蔽が行われたりするなら、それは主客転倒というものであろう。組織の体裁を本当に繕うのであれば、個人と同様、組織内の問題を道理にかなった方法で解決すべきである。
◆ 弟子持たず
『和』については、仏教教団でも重要視され、古い戒律においても多くの条文が「和合を保つこと」に当てられている。(戒律について 参照)
ただ、仏教教団における人間関係は、あくまで個人の主体が確立されていることが前提となる。たとえば釈尊は晩年、弟子のアーナンダから、最期に特別の説法を懇願された時――
アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか? わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
と応えられ、修行の主体を弟子たちに任せている。この辺り、教団や組織のあり方として、中村元氏は――
ゴータマ・ブッダは、以下の文から見て明らかなように、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。「親鸞は弟子一人ももたず」という告白が、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの右の教え何ら直接の連絡はないにもかかわらず、論理的には何かしらつながるものがあると、訳注している。
冒頭で引用した『和を以て貴しと為・忤うること無きを宗と為』の条文も、「人皆党あり、
組織外の人を排斥するような、また他の組織を拒絶するような、そうした排他的な組織では内部に対しても和は保たれない。そこにうごめくのは単なる統制であり、馴れ合いで、隠蔽が行われれば悪は拡大し横行する。そうした組織では個人の主体は踏みにじられるしかない。
『和して同ぜず』という言葉もある。個々の意見は違っていても和合する、違いを認め合うところに人間としての本当の和が成立するのだろう。日本の伝統的体質も、こうした『和』であれば、大いに成長させれば良い。
今は『同じて和せず』が横行。組織への隷属は排他と差別の元凶である。
(参照:{憲法十七条})
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