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憲法十七条

聖徳太子の政治理念・哲学の表明

【アジアの仏教】

◆ 憲法十七条 原文(書き下し文)

 夏四月[なつうづき]丙寅[ひのえとら]朔戊辰[ついたちゆちのえたつのひ]に、皇太子[ひつぎのみこと](=聖徳太子)、みづからはじめて[いつく]しき[のり]十七条[とおちあまりななおち]作りき。

一にいはく、[やわ]らかなるをもつて[とうと]しとなし、[さか]ふることなきを[むね]となす。人みな[たむら]あり、また[さと]れるひと少なし。ここをもつてあるいは[きみ][かぞ][したが]はず、また隣里[さととなり][たが]へり。しかれども上和[かみやわ]らぎ下睦[しもむつ]びて、事を[あげつら]ふに[かな]ふときは、すなはち事理[こと]おのづからに通ふ、なにの事か成らざらん。

 二にいはく、[あつ]く三宝を[うやま]ふ。三宝とは仏・法・僧なり。すなはち四つの生れの終りの[よりどころ][よろず]の国の極めの[むね]なり。いつの[つき]、いづれの人か、この[みのり][とうと]ばざらん。人はなはだ悪しきもの[すくな]し、よく教ふるときはこれに従ふ。それ三宝に[]りまつらずは、なにをもつてか[まが]れるを[ただ]さん。

 三にいはく、[みことのり][うけたまわり]りてはかならず[つつし]め。君をばすなはち[あめ]とす、[やつこらま]をばすなはち[つち]とす。[あめ][おお]ひ地は載せて、四つの時[したが]ひ行はれて、[よろず][しるし]、通ふことを[][つち][あめ]を覆はんとするときは、すなはち[やぶ]るることを致さまくのみ。ここをもつて、君のたまふときは[やつこらま][うけたまわ]る、[かみ]行ふときは[しも][なび]く。[それ][みことのり]を承りてはかならず慎め、[つつし]まずはおのづからに敗れなん。

 四にいはく、群卿[まちきみたち]百寮[もものつかさ][いや]びをもつて[もと]とせよ。それ[おおみたから]を治むるの本、かならず礼びにあり。[かみ]礼びなきときは[しも][ととの]ほらず、下礼びなきときはもつてかならず罪あり。ここをもつて、群臣[まちきみたち]礼びあるときは[くらい][ついで]乱れず、百姓[おおみたから]礼びあるときは国家[あめのした]おのづからに治まる。

 五にいはく、[あじわいのむさぼり]を絶ち[たからおしみ][]てて、あきらかに訴訟[うつたえ][さだ]めよ。それ百姓[おおみたから][うつたえ]へ、一日[ひとひ][][わざ]あり。一日[ひとひ]すらもなほ[しか]なり、いはんや歳を[かさ]ねてをや。このごろ訟へを治むるひとども、[くぼさ]を得て常とし、[まかない]を見ては 外字「ゲン」[ことわりもう]すを聴く。すなはち[たから]あるものの訟へは石をもつて水に投ぐるがごとし、[とも]しきものの訴へは水をもつて石に投ぐるに似たり。ここをもつて貧しき[おおみたから]はすなはちせんすべを知らず。[やつこらま]の道またここに[]けぬ。

 六にいはく、[]しきを[]らし[ほま]れを勧むるは、[いにしえ]の良き[のり]なり。ここをもつて人の善れを[かく]すことなかれ、悪しきを見てはかならず[ただ]せ。それ[へつら][あざむ]くものは、すなはち国家[あめのした][くつがえす]すの[][うつわもの]たり、人民[おおみたから]を絶つの[][つるぎ]なり。また[かだ][]ぶるものは、[かみ][むか]ひてはすなはち好みて[しも][あやま]りを説き、下に逢ひてはすなはち上の[あやま]ちを誹謗[そし]る。それこれらのごとき人、みな君に[いさお]しさなく、[おおみたから][めぐ]みなし。これ大いなる乱れの本なり。

 七にいはく、人おのおの[よさ]しあり、[つかさど]ることよく[みだ]れざるべし。それ賢哲[さかしひと][つかさ][よさ]すときは[]むる[こえ]すなはち起る、[かだま]しきひと官を[たも]つときは[わざわ]ひ乱れすなはち[しげ]し。世に生れながら知る人少なし、よく[おも]ふときに[ひじり]となる。事、大いなり[いささ]けきことなく、人を得てかならず治まる。時、[][おそ]きことなく[さかしひと][]ふ、おのづからに[ゆる]るかなり。これによりて国家[あめのした]永久[とこめずらorとこしなへ]にして、社稷[くに][あや]ふからず。[かれ][いにしえ]の聖の[きみ]は、官のためにもつて人を求めて、人のために官を求めたまはず。

 八にいはく、群卿[まちきみたち]百寮[もものつかさ]、はやく[まい]りておそく退[まか]づ。[おおやけ][わざ] 外字「コ」[いとorもろき]なし。終日[ひめもす]に尽しがたし。ここをもつておそく朝るときは[すみ]やけきに[およ]ばず、はやく退づるときはかならず[わざ]尽きず。

 九にいはく、[まこと]はこれ[ことわり]の本なり。[わざ]ごとに信あるべし。それ[][]しき、成り[]らぬこと、かならず信にあり。群臣[まちきみたち]ともに信あらば、なにの事か成らざらん。群臣信なくは、[よろず]の事ことごとくに敗れなん。

 十にいはく、忿[こころのいかり]を絶ち[おもえりのいかり]を棄てて、人の[たが]ふを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの[]ることあり。かれ[]んずればすなはちわれは[あし]んず、われ是みすればすなはちかれは非んず、われかならず[ひじり]なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫[ただひと]ならくのみ。是く非しきの[ことわり]、たれかよく定むべき。あひともに賢く愚かなること、[みみがね][はし]なきがごとし。ここをもつてかれの人[いか]るといへども、[かえ]りてわが[あやま]ちを恐れよ。われ独り得たりといへども、[もろもろ]に従ひて同じく[おこな]へ。

 十一にいはく、あきらかに[いさ]み・[あやま]りを[]て、[たまもの][つみな]ふることかならず当てよ。日ごろ、賞すれば功みに[]いてせず、罰へば罪に在いてせず。[わざ][]れる群卿[まちきみたち]、よく賞・罰へをあきらかにすべし。

 十二にいはく、国司[くにのみこともち]国造[くにのみやつこ]百姓[おおみたから][おさめとら]らざれ。国にふたりの君あらず。[おおみたから]にふたつの[あるじ]なし。率土[くにのうち]兆民[おおみたから][きみ]をもつて主とす。所任[よさ]せる官司[つかさみこともち]はみなこれ王の[やつこらま]なり。いかにぞあへて[おおやけ]と、百姓に賦斂[おさめと]らん。

 十三にいはく、もろもろの官者[つかさびと][よさ]せるは、同じく職掌[つかさごと]を知れ。あるいは病し、あるいは使ひありきとて[わざ][おこた]ることあり。しかれども知ること得んの日には、[あまな]ふことむかしより識るがごとくにせよ。それあづかり聞くことなしといふをもつて、[おおやけ][まつりごと]をな[ふせ]ぎそ。

 十四にいはく、群臣[まちきみたち]百寮[もものつかさ][うらや][ねた]むことあることなかれ。われすでに人を[うらや]むときは人またわれを嫉む、嫉み妬む[うれ]へその[きわ]まりを知らず。このゆゑに[さとり]おのれに[まさ]るときはすなはち[よろこ]びず、[かど]おのれに[まさ]れるときはすなはち嫉妬[ねた]む。ここをもつて、五百[いおとせ]にて[のち]いまし今[さかしひと][]ふとも、千載[ちとせ]にてももつてひとりの[ひじり]を待つこと難し。それ[さか]しき人・聖を得ずは、なにをもつてか国を治めん。

 十五にいはく、[わたくし]を背きて[おおやけ][]くは、これ[やつこらま]の道なり。すべて人私あるときはかならず恨みあり、[うら]みあるときはかならず[ととの]ほらず、同ほらざるときはすなはち私をもつても公を[さまた]ぐ。憾み起るときは、すなはち[ことわり][たが][のり][やぶ]る。[それ]初めの[くだり]にいはく、[かみ][しも][あまな][ととの]ほれといへるは、それまたこの[こころ]なるかな。

 十六にいはく、[たみ]を使ふに時をもつてするは、[いにしえ]の良き[のり]なり。[ゆえ]に冬の月に[いとま]あり、もつて民を使ふべし。春より秋に至るまでにて[なりわい][こかい][とき]なり、[おおみたから]を使ふべからず。それ農せずはなにをか[くら]はん、[くわと]らずはなにをか[]ん。

 十七にいはく、それ事、独り[さだ]むべからず、かならず[もろもろ]とよく[あげつら]ふべし。[いさ]けき[すべ]はこれ[かるがる]しく、かならずしも衆とすべからず。ただ大いなる事を論ふに[およ]んでは、もしは[あやま]りあること疑はしきときあり、故に衆とあひ[わきま]ふるときは[こと]すなはち[ことわり][]

◆ 憲法十七条 現代語訳

 推古天皇十二年(西暦604年)の4月3日に、聖徳太子は、みずからはじめて十七条からなる厳然たる法(道徳的法)を作られた。

 一、うちとけ和らぐことを大事にし、背き逆らうことがないよう心がけよ。人はみな徒党を組み、道理をわきまえる者は少ない。だから、ある者は君主や親にしたがわず、隣近所と仲違いをおこす。しかし、上下の者が仲よくし、執われの心をはなれて話し合うことができるならば、道理が自然と通り、何事も成就しないことはない。

 二、三宝をあつく敬え。三宝とは、仏(=覚者)・法(=仏になる教え)・僧(=教えを喜び実践する集い)である。すなわち四つの生れ(=胎生・卵生・湿生・化生のすべての生物)の最後のよりどころ、すべての国の究極の教えである。いつの時代でも、どのような人でも、この教えを貴ばないことがあろうか。人は極悪のものは少ない、よく教えれば従うものである。その場合、三宝に依りもうしあげなかったら、なにに依って我執のとらわれを正すことができようか。

 三、君主の命令を受けたら必ず謹んで従え。君はすなわち天であり、臣はすなわち地である。天が地の上にあってこそ、四季は順にめぐり、万物の生気は通うができる。地が天を覆おうとするときは、すなわち必ず破壊をまねくであろう。このように、君主の命には臣は従い、上が行うことには下がならうべきなのである。だから、天皇の命令には必ず従え、従わないなら自らが破滅してしまうであろう。

 四、朝廷の役人たちは、礼儀(うやまい)を根本とせよ。民衆を治むる根本は必ず礼儀にある。上の者が礼儀知らずなきときは下は整わない、下が礼儀知らずのときはかならず罪をつくる。だから、朝廷の役人たちに礼儀があるときは、位の順は乱れず、百姓(=民衆)に礼儀があるときは国家はおのづから治まる。

 五、食欲や物欲を捨て、公明正大に訴訟を判定せよ。民衆の訴訟は日に千の事もある。一日でもこのありさまであるから、時が重なればなおのことである。このごろ訴訟を裁く者どもには、私利私欲がはびこり、賄賂を見て裁決する。すなはち財力あるものの訟へは石を水に投げるようであり(よく耳を貸す)、貧乏者の訴へは水を石に投げるように(耳を貸さずに)いる。これでは貧しき民衆は解決の術を持たない。君臣の道はこれでは満たされない。

 六、悪をこらしめ善を勧めるのは、古き良き手本である。だから他人の善を隠すことのないよう、悪を見たら必ず正しなさい。へつらいあざむくものは、国家を覆す鋭い刃物であり、人民を絶つ先の鋭い剣である。口先だけでこびへつらう者は、上に対してはいい顔をして下の過誤を説き、下に逢うと上の失態をそしる。そうした人は、君主に対して忠誠心なく、民衆を慈しむ心がない。これは(国を)大きく乱す本である。

 七、人には各々任務があり、職務は乱れずすべきである。徳が高く道理を知る人が官職につくと褒め称える声がたちまち起る、わるがしこい人が登用されると禍い乱れがたちまち多くなる。この世に生れながら(世の道理を)知る人は少ない、よく(道理を)思うときに聖者となる。事の大小にかかわらず、適任者が職務に着いてこそ善く治まる。急ぎ過ぎたり緩慢すぎることなく賢人を登用すると、自然にゆとりが生れる。これによって国家は永く存続し、国土人民に危険がなくなる。いにしえの聖王は、官職のために人を求めて、人のために官職を求めたりしなかった。

 八、朝廷の役人たちは、朝早く来て遅く帰れ。公務は余裕がない。その日にやり尽すことは難しい。朝遅く来ていては急ぎの用事に間に合わない、早く帰ったらどうしても仕事を終えることができない。

 九、信(誠実)は正義の根本である。事務ごとに信を持ちなさい。善悪や成功失敗の原因は信の有無にある。役人たちに信があるなら、どんな事業も成功する。役人たちに信がないなら、どんな事業もすべて失敗するだろう。

 十、忿怒の心を絶ち、瞋恚を棄てて、人と意見のの違うことを怒るな。人はみな心があり、心はそれぞれ執着がある。ある人が是認すれば自分は否認する、自分が是認すれば他人が否認する。自分は聖人ではないし、他人は愚者ではない。ともに(欠点の多い)凡夫にすぎないのである。善悪の理屈は誰がよく定めることができよう。お互いに賢く愚かであることは、鐶(金属製の輪)の端が無いようなものである。だから他人が瞋るといっても、かえって自分の過ちを恐れなさい。自分ひとり会得していると思っても、衆議に従って同調して行いなさい。

 十一、明確に功罪を観察し、功績には賞し、過失には罰することを必ず行え。日ごろ、賞は功績に対してなされていない、罰は罪科に対してなされていない。任務にあたる朝廷の役人たちは、、よく賞・罰へを明らかにすべきである。

 十二、国司(中央から地方に赴いた役人)・国造(世襲の地方官)は、民衆から勝手に財物や労力などを集めとってはならない。国にふたりの君主はない。民衆にふたりの主人はない。地の続く限りの億兆の民は王を主人とする。任に就いた官司はみな王の家臣である。どうして政府の仕事として、民衆から取立てを行うのか。

 十三、もろもろの官吏に任じられたら、同様の職務を掌握しなさい。例えば病気になったり、使役があったりして仕事が欠けたりすることがある。しかし(同僚が)良く知っているならば、協調して前任者のしたようになさい。そんな任務は聞いてないなどと言って、決して公務を停滞させてはいけない。

 十四、朝廷の役人たちは、嫉妬してはならない。自分が人を嫉妬するときは他人は自分を嫉妬している、嫉妬の患いは際限が無い。このために智恵が自分に勝っていると喜ばず、才能が自分より優秀だと嫉妬する。このように、五百歳の後たった今賢い人に遇っても、千年たっても聖人を待つことは難しい。賢い人や聖人を得なければ、どうして国を治めることができるだろう。

 十五、私情を離れて公益をめざすのは、朝廷役人の道である。すべての人は私情があるときはかならず恨みがある、憾みがあるときはかならず間違いが起こる、間違いが起こるときは私情によって公益を妨たげる。憾みが起るときは、制度に違反し法を破る。それ故に初めの章(第一条)に、「上下の者が仲よくし、執われの心をはなれて話し合う」というのは、またこのことである。

 十六、民衆を使うときは時節をわきまえてするのは、古き良き手本である。冬には閑があるから(この時)民衆を使いなさい。春から秋に至るまでは農作業や養蚕の時節であるから、民衆を使ってはならない。農作業をしないで何を食べるのか、養桑しないで何を着るというだろうのか。

 十七、重大なことを独断で行ってはならない。必ずみんなで議論すべきである。少さい事は軽妙に、必ずしも皆と相談しなくてもよい。ただ大事を論ずる場合は、誤まりがあるかどうか判らない場合がある、そのため皆と論議すると事態に道理を得るができる。

◆ 『憲法十七条』の成立した時代背景 

 以上のような憲法は、現代の憲法と違い、官人としてのあるべき姿を訓示として表しています。
 今でこそ官僚制度の弊害が叫ばれていますが、当時の日本は族制国家であり、天皇崩御の度に繰り返される跡目争いと権力闘争は、当の天皇候補者さえ恐怖の中で暮らす状況でした。また、隋や新羅、百済でも既に律令国家としての体裁が整えられていて、外交的に日本の立場を確立させるためにも、こうした官人としての心得を憲法として明文化することは必須だったと思われます。

 六世紀の大和政権は、朝鮮外交の失敗、皇位継承問題と豪族の対立により危機的状況にあった。朝鮮半島では、任那が新羅に滅ぼされ(562)、国内では物部守屋を倒して蘇我馬子が実権を握った。馬子は、対立を深めた崇峻天皇をも暗殺し、推古天皇を擁立した。この女帝の下で、摂政として国政を推進したのが聖徳太子である。
 太子は、内外の危機を打開するために、天皇中心の中央集権国家建設につとめた。憲法十七条と冠位十二階とで、豪族が官人として行うべき道徳と秩序を整えようとしたものである。文章は、儒教思想を基礎に、仏教・法家などの影響が見られる。

 この当時、物部氏を倒して権力を一手に掌握した蘇我馬子は、単なる補政官から実際上の執政官へと成り上がっていました。そこで登場したのが聖徳太子で、彼は天皇の位を権力の座から宗教的権威の座に移行させ、自らが摂政として馬子と時に協力し、時に政治対決して政務を行いました。

 その途上で編み出されたのが『憲法十七条』であり、そこには儒教、仏教、法家の思想が反映されています。

儒教思想の反映
3条(臣は君に対して)4,6,9条(「臣」僚相互間について)8,13,17条(官人の服務規律や議事の決め方)5,12,16条(官人の民に対する道)
「官人としての臣が、君に対して従順であり、相互に儒教的な徳を守り、民に対して仁慈であれば、国家はおのずから治まる」
仏教思想の反映
2条(仏教への帰依)10条(全体として仏教的であり、中に「我必ず聖に非ず。彼必ず愚に非ず。共に是凡夫ならくのみ」という一節もある。)
「政治道徳を説く儒教と出世間的な仏教とは相容れないはずであるが、儒教的な道徳の実践のためには、私心を去ることが必要で、そのためには仏教に帰依して己をむなしくせよというのであろう。(このような仏教の見方は、一般の呪術的な仏教への帰依とは異なっている。そこには、『三経義疏』(法華経・勝鬘経・維摩経3経の注釈書で、聖徳太子の撰)にみられるような哲学的な仏教の理解がひそんでいるといえる)
法家の思想の反映
11条(信賞必罰)14,15条(公私の別)
法家は、儒家が徳知を重んずるのに対し、法律による法治を重視する。また、儒家が家族道徳に重きをおいて、君臣と父子の矛盾をも慣習的な礼の秩序によって調和させようとするのに対し、君権による法の絶対を説き国家権力による礼への干渉をも辞さないものがある。

 蛇足かもしれませんが、江戸時代の国学者の中には、「天皇を暗殺した蘇我馬子と協力した」と言って聖徳太子を非難する向きもあったのですが、これは全くのお門違いで、もし直接馬子を解任すれば、推古天皇の命が狙われるのは必至でした。またこの当時、混乱があれば多くの民衆の血が流される結果となります。太子は外交面で隋や新羅との国交を回復させたり、官人のあるべき姿を表すなど、積極的な政治活動によって相対的に馬子の力を弱めたのでした。

■引用文献■
浄土真宗聖典-注釈版-/本願寺出版部
精選日本史史料集/第一学習社
日本歴史大系/山川出版


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