平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:煩悩即菩提について教えて下さい |
この問題については、辞典にも出てきますので、まずそちらを引用します。
『仏教語大辞典』中村元著/東京書籍
【煩悩即菩提】ぼんのう−そく−ぼだい 煩悩がそのままさとりの縁となること。さとりの現実をさまたげる煩悩も、その本体は真実不変の真如であるから、それを離れた法はないので、そこにさとり(菩提)の名をたてて両者の相即をいう。生死即涅槃とともに大乗の究極を言い表した句としてしばしば引用される。→不断煩悩得涅槃 ふだんぼんのうそくねはん <『法華玄義』九上(大)三巻七九〇中><『往生要集』(大)八四巻六九下><『一偏語録』下、門人伝説>「煩悩といふも菩提」<謡曲『卒都婆小町』>[参考]この趣意のことは、インドで説かれていた。「諸煩悩是道場」<『維摩経』菩薩品(大)一四巻五四二下>「淫怒癡性即是解脱」<『維摩経』観衆生品(大)一四観五四八中>「常に生死即涅槃を行ずれば、諸欲の中に於て実に染なし」<『大集経』九〇巻>(大)=『大正新修大蔵経』
『真宗新辞典』法蔵館
ぼんのう−そく−ぼだい 煩悩即菩提 煩悩がそのまま菩提であるということ.大乗仏教の根本的な教理.煩悩と菩提とは,その相を異にしているけれども,その体性からいえば一実の真如であり,煩悩を離れて菩提はなく,菩提を離れて煩悩はなく,両者は絶対矛盾しつつ相即するという.「本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩菩提体無二と すみやかにとくさとらししむ」[高讃]の(左)「ぼんなうぼだいもひとつみづとなり ふたつなしとなり」.「弥陀の智願海水に 他力の信水いりぬれば 真実報土のならひにて 煩悩菩提一味なり」[末讃]の(左)「われらこころとほとけのおむこころとひとつになるとしるべし」「あんらくじょうどにむまれぬれば あくもぜんもひとつあぢわいになるなり」「ぼむなうとくどくとひとつになるなり」.「生死即涅槃にして煩悩即菩提なり,円融無碍にして無二無別なることを,・・・諸法は本より常に自ら寂滅の相なれども,幻の如く定性なく心に随ひて而も転変す」[要集],「煩悩・業・苦の三道すなはち法身・般若・解脱の三徳なり,また法・報・応の三身なり,かくのどとく観達すれば煩悩即菩提,生死即涅槃なり.・・・無明即明なるがゆへに煩悩すなはち菩提なりと達し,煩悩即菩提なるがゆへに衆生即仏なるとしるを本来成仏といふ」[歩船],「凡夫は煩悩即菩提ときけども,その理を達せざれば煩悩はもとの煩悩にてまたく正見にかなはず」[決智]. ⇒不断煩悩得涅槃[高讃]=浄土高僧和讃(親鸞) (左)=左訓 [末讃]=正像末法和讃(親鸞) [要集]=往生要集 [歩船]=歩船鈔(存覚) [決智]=決智鈔(存覚)
煩悩(=心身を苦しめ、わずらわすもの)と菩提(=さとりの智慧)は一般的に正反対の作用に思われますが、その本体は相即(一体)ということです。これは一見矛盾しているようですが、「無明変じて明となる、氷融けて水となるがごとし」(往生要集)という有名な比喩によっても表されています。
また、同じく往生要集に、「さらに遠き物にあらず。余処より来るにもあらず。ただ一念の心にあまねくみな具足せること、如意珠のごとし」と、『涅槃』『菩提』が、はるか彼方にあるような印象を否定しています。
煩悩を無くすということは、生命力を削ぐようなものでしょう。生命力を削いでしまったら菩提心・求道心も削がれてしまいます。たとえば、人間関係を冷淡にすれば愛欲は枯れてきますが、慈愛も発揮されなくなります。慈愛と愛欲は同じではありませんが、全く違うものでもありません。「即」とは、同一ではないが不二の関係であることです。
しかし、「煩悩即菩提」を無反省に受け取って、煩悩の起こるがままにすれば良いのかというと、これはとんでもない誤解です。
譬えば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。但だ蓮華を採りて、臭泥を取ること勿れ。『出三蔵記集』巻十四、鳩摩羅什伝
【意訳】
譬えて言えば、汚い泥水の中に美しい蓮華が生えるようなものだ。どうかその美しい蓮華の花だけを採って、決して、汚い泥水の方は取り入れてくれるな。
問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。
答ふ。かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。もつぱら仏弟子にあらず。
<中略>
道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。往生要集 巻上 正修念仏 作願門
【意訳】
問う。煩悩と菩提とがもし一つならば、ただ意のままに煩悩を起こしても良いのか。
答える。そのような見解を起こすものを<空の意味を誤解する者>と名づける。全く仏弟子ではない。
<中略>
道を修める者は、本来もっている仏性を顕わすけれども、仏道を修めない者は、ついにこの道理を顕わすことはないのである。
生死即涅槃なり、煩悩即菩提なり、円融無礙にして無二・無別なり。しかるを一念の妄心によりて、生死の界に入りにしよりこのかた、無明の病に盲ひられて、久しく本覚の道を忘れたり。往生要集 巻中 別時念仏 臨終行儀 勧念
【意訳】
生死はそのまま涅槃であって、煩悩はそのまま菩提であり、円かに融けあって礙りなく、無二であって差別がないことを知るべきである。けれども一念の妄心に由って、生死界に入ってからこのかた、無明の病のために盲となり、久しい間本覚の道を忘れていたのである。
とありますように、私たちは妄心や無明に遮られて、煩悩がそのまま菩提となると証することは出来ないのです。
それでは、いかにして煩悩即菩提を証するかといいますと、「本願力」「他力」によると説かれます。
他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。親鸞聖人御消息(一九)
【意訳】
他力というのは、仏の智慧が不思議であるということで、煩悩の満ちた凡夫がこの上ないさとりを得るについては、仏と仏のはたらきなのである、重ねて行者のはからいではないのである。
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ高僧和讃 善導讃
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。歎異抄(三)
【意訳】
煩悩に満ちた我らは、どんな修行によっても迷いを離れることはできない。(如来はそれを)あはれに思って本願をおこされたのであり、それは悪人の成仏のためであるから、他力をたのみにする悪人こそ、浄土に往生する因なのである。
以上、引用文が多く、難解な語も多かったかも知れませんが、「煩悩即菩提」は究極の境涯から発せられる言葉ですので、誤解をされることの無いよう注意が必要です。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}、 {百八煩悩} )