平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

悔いなく生涯を過ごす事は出来るのか?

― 正定聚に住するがゆえに必ず滅度に至る ―

質問:

先日出先で入ったお店の中で,
「我が生涯に 一片の悔いなし」という言葉をみかけました。

今までに何度となくこの言葉を見る度に思っていたのが,


  自分の生涯に於いて一度の後悔もしないで過ごす事が出来るなんて,
  なんて,凄い事だろう。素晴らしい人なのだろう。。。
  どんなに裕福な暮らしをすると生涯に於いて
  後悔をしないで暮らす事が出来るのだろう。。。とか,
こんな事ある筈ないやんか!!

等と考えたりしていましたが,最近は自分が死する時,
このように思って死ぬ事も出来るのではないのだろうかと思える様になりましたが,
実際のところ,どんなに人間として優れていても,何一つ不自由のない生活をしている人だって,
人間として生きる限り,心には迷いが生じたり,過ぎた事に思いを馳せ後悔する事もあるでしょう。
そのような繰り返しの人生の中で,一片の後悔も残さずに死する事は可能でしょうか。

何時か話して頂いた事のある「自分の座標軸」をしっかりと定める事が出来れば良いのでしょうか。
人の道を外れぬ,揺ぎ無い座標軸。。。

返答

「我が生涯に 一片の悔いなし」というのは、多くの文学や論にも表されていますが、店内に書かれていたというのは、おそらくある漫画作品の名文句だと思われます。ただ作品は知らなくてもこの言葉は胸に刺さりますね。

 仰る通り、<人間として生きる限り,心には迷いが生じたり,過ぎた事に思いを馳せ後悔する事もある>のが人生でしょう。私も日々後悔の連続であり、慚愧・懺悔の絶えない毎日を送っています。
 そういう現実がありながら「一片の悔いなし」と今言い切るのであれば、それは余程鈍感であるか、まだ人生を自覚的に立ち上げていない人でしょう。特に最近は、自分の行動を正当化する技術ばかり身につけ、言い訳ばかり上手になり、本来の人間性が成長しない人たちも多く目にします。さらに目を社会に転じれば、組織の暴走に加担しながら責任逃れをする人たちや、自らの堕落を理論武装して正当化を図る人たちも見受けられます。
 そういう現実を見ますと、「一片の悔いなし」と堂々と胸を張られるより、率直に「申しわけありません」と深く悔いる言葉を述べることの方が大切に思われます。

 しかし同時に、私の中にも、「我が生涯に 一片の悔いなし」と堂々と言ってみたい、という思いがあるのも事実です。そのためこの言葉は様々な歌や小説などにも登場し、また、<このように思って死ぬ事も出来るのではないのだろうか>という希望も我が胸に響き続けています。仏教ではこれを「滅度」とも「択滅無為」ともいい、聖者の死として尊んでいます。驚くことに人間は皆、とても適うとは思えないこのような大きな願いを持ち続けて生きているのです。これはどうしたわけでしょう。

 こうした問題に結論めいた返答をするのははばかられる気もしますが、私自身の求道の歩みの中からお応えさせていただこうと思います。

 未完成の完成

欲は外に求めるもので、実現の可能性を予想しますが、願はまごころに裏づけられたもので、自己自身に求めるもので、絶対に成就する可能性がないと解っておりながら、なお求めずにおれぬという願いのことです。

(島田幸昭)

<一片の後悔も残さずに死>にたいという思いは、誰の胸にも響いている深い願いです。深い願いというものは、永遠に成就しないものでありながら、諦めたり取り下げることができないものなのです。
 たとえば、「大金を手に入れたい」とか「先生になりたい」というのは欲望で、適うこともあり、また適わなくても諦めることができます。しかし大金を手に入れた者が金の本質を自覚すれば、「その金を有効に使って社会的貢献をしたい」との願いが起こります。また先生になった者が先生として自覚が起これば、「生徒に信頼され、彼らの人生に貢献できるような先生に成りたい」という願いが起きます。これは永遠に成就し切りはしないながらも、現に先生である以上願いを取り下げることはできません。これを「場所的自覚」といいます。
 この時、「私は既に先生として完成した」「私の努力のおかげでお前たちは立派な人間になれたんだ」と言い切ってしまったら、その言葉は抜け殻になってしまい、先生としても人間としても成長が止まってしまいます。宗教者でも、「私は皆より修行が積んであって偉いんだ」というような態度の者がいますが、これでは法執の臭気が紛々と漂う結果になってしまいます。このように自ら悔いることを止めた人間は、相手に対して高圧的・加虐的になってしまい、龍樹菩薩はこのような態度を、『助道法』を引いて「地獄のなかに堕するより悪い」と批判しています。
{往生論註 1} 参照)

 「一片の後悔も残さずに死にたい」という願いは、歴史的・社会的人間としての自覚が定まれば、必ず自分の身心の底から湧きあがってくるものです。これも永遠に成就し尽すことはないながらも、現に生きている以上願いを取り下げることはできないのです。しかし「我が生涯に 一片の悔いなし」という言葉を、「自分の今の人生がそうである」と言い切るとしたら、これは言葉の抜け殻であり、詐欺師の世迷言に過ぎません。
 我が胸に正直になれば、むしろ「悔いに悔いを重ねてきた人生ですが、多くの尊いご縁により、ここまでお育ていただきました」と頭が下がります。これを慚愧といいます。そして悔いたことを皆に開けば、皆の道心を誘い、仏性が発露し、仏心を展開することになるのです。

「永遠に未完成でありながら成就を求め続ける、その求め続けるままが完成した姿である」というものが「願い」の世界です。これが「仏のいのち」であり「無量寿」の主体です。願いが本物に成った時、そうした「未完成の完成」が姿を現します。仏教ではよく「寿終之後」(寿終りてののちに)という表現が出てきますが、「死んだ後だったら適うんだな」と理性で解釈してしまうと言葉が抜け殻になってしまいます。本当は「死ぬまでには何とか願いを適えたい」という願いの深さが、「せめて死んだ後には」という言葉になって顕れるのです。

私という柿
熟するのは
私の 死後になりそうだな
何しろ この柿
熟するのに
まだながい年月が
かかるので

(榎本栄一)

 こうしたことは曇鸞大師も「木の火箸で草木を摘んで焼き尽くす」{※資料1▼ 参照}という有名な譬えで諭されています。

 第十一願から

 こうした願いは、たとえば阿弥陀仏の四十八願にはどのように顕わされているのでしょう。

漢文
設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

 これが有名な「正定聚に住するがゆえに必ず滅度に至る」と言われる{必至滅度の願}です。「滅度」とは何かというと――

涅槃に入ると同じように、死に切る、死んでも悔いがないとさとることです。経にはそれを「善逝」と説いて、仏の十の徳の一つに数えています。善逝とは善く逝くということで、思い残しなく死ぬことができるということです。

(島田幸昭)

と言われるように、完全燃焼の人生を送る果てに得られる徳でしょう。「為すべきことは全て為してきた」と、死に際して告白し、皆がそれを受け入れるならば、その人はまさに「善逝」という仏徳を現して死を迎えることができます。
 このように「死に切る」ためには「生き切る」必要があります。思い残し無く死ぬためには、生きている現実が充実しなくてはならない。「生きて甲斐あり、死んで悔いの残らぬ人生」を全うすることが、生きている今の私が背負っている課題です。そしてこの重要な課題を確実に成就する方向に歩んでいる人のことを「正定聚・不退転の菩薩」といいます。これは如来回向の信心(真実信心)の徳によって成就されるのです。
{正定聚・不退転の菩薩について}参照)

 第十八願から

 では実際に「正定聚・不退転の菩薩」に成るためにはどうすればいいのか。この深まりを具体的に顕わしたものが阿弥陀如来の第十八願です。

漢文
設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(詳細は {至心信楽の願} 参照)

 ここでは「一切衆生悉有仏性」と生命の奥底に流れている尊い仏性が、「至心」から「信楽」に純化され「欲生」と展開されていく道程が顕わされています。「至心」が仏性の種(真実誠種)であれば「信楽」は仏性の功徳が「身に満てり」という了因仏性(真実誠満)、「欲生」は身に満ちた功徳を社会に展開することによって深い願いを身に刻んでゆく生因仏性(願楽覚知)です。
{※資料2▼ 参照}

 後悔は起こった意識の波に眼がついているのですが、慚愧はその根底の性格に目がついた段階です。「思うも思わざるもこれ妄念、造るも造らざるもこれ罪のかたまり」。思うたから悪いのでもなく、思わぬから善いのでもない。したからせんからではなく、その根本の性格そのものの悪に対する慚愧です。
 ところが懺悔は性格をもっと深めて、その由って来たる根源の、無始よりこのかたの宿業に眼がついたことです。一般には悪の行為に対する反省を懺悔といっていますが、それは意味が転化したので、仏教本来の意味ではありません。
<中略>
人間は自覚存在といわれているように、至心の心の起こった、そこから人間は始まるのですが、至心の心は、自分のした行為の反省によって、自分と自分の生きている環境を知って行くのですが、それは試行錯誤によるのです。それを仏教では後悔といっています。
至心がさらに進化すると、した行為を通して自分の性格が解り、起こった現象において、ものの原理とか法則を知ってゆくようになる。また自分の習慣とか、社会の慣習などの行為的世界をです。これを自己反省の立場から慚愧といっています。それらを自己を苦しめ悩ますもの、自己を束縛するものとして、それを自己に対するものとして見れば、第二反抗期の心で、自殺か革命か、どちらかに走るのでしょうが、それを人間としての共通の運命、人間であることの宿命、人間の歴史的宿命、もっと深い所に地上の宿命、それらを自己の生きている場所として捉える。外の言葉でいえば、我執と愚かによって動かされ、形成されてきた行為的世界が見えてくる。この世の宿命が見えてくる。これを懺悔といい、この心はすでに至心を超えて、深い心といわれる信楽に転入しているのです。
それらがさらに信楽によって見出された浄土を、この五濁の世に、また自分の世界に、浄土を実現しようとする願いが発こってくる。これを欲生心というのです。

(島田幸昭)

 ある意味人間は、深く悔いることができる能力を持った生物なのでしょう。過去を正当化することなく、自他の失敗に学び、深く悔いることによって人類は文化文明を開花させてきたのです。それは、人間の存在の尊さを損なうものではなく、≪一片の悔いなし、と言える人生にしたい≫という尊い願いが働いているからこそ、深き悔いを発生させたのです。
 心を至して自らの内に見えた罪悪は確かに醜いものですが、罪悪を罪悪と見た目そのものは尊い。この目が仏性です。対象として見えた自分の言動や心根は悔いるばかりですが、悔いている主体は尊いのです。この主体を純化し育てあげ社会に展開することが人間としての尊き勤めであり、ここを自分の座標軸としてゆくのです。<人の道を外れぬ,揺ぎ無い座標軸>は、常に現実のこの場における「人の道を外れた,揺れ続ける我が心」を深く悔いる中にこそあり、ここに人類共通の大願を見出してゆくことになります。
{三大宗教の存在に矛盾は無いのでしょうか? #理性の役割と限界} 参照)

 島田師も仰るように、「悔い」は「後悔」・「慚愧」・「懺悔」と深まってゆく(もしくは脱皮してゆく)のです。「後悔」は言動の表面の問題で、「今度はこういうことはしないように」という反省で済みますが、小手先の問題では済まないのが自分の性格です。ここを変えるのは「慚愧」という大変な努力が必要ですし、さらに、人間という存在の底に根ざした宿業は、悔い改めることができない程の深みに見出した無明・煩悩です。これが「無慚無愧の自覚」とも「懺悔」とも顕わされた深い悔いなのです。ここにおいてようやく全人類の落ち着きどころを見出し、同朋としての共感がはたらくのです。

無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ

『正像末和讃』97 悲歎述懐

 いくら仏教を聞き開いても、「無始よりこのかた」の流転・沈迷・繋縛の宿業は消えることはありません。しかし煩悩を煩悩と見抜く真心の智慧(菩提心)は生じます。生じた智慧によって宿業・煩悩が養分となり、なおかつ宿業・煩悩の汚れのない仏性の華を咲かせることができるのです。煩悩の泥の中にあっても、蓮華座の徳と正定聚の菩薩に教え導かれ、如来回向の信心の華を開くことができるのです。
{※資料3▼ 参照}

 しかし世の中を見渡せば、悔いなければならぬ行為を正当化し、心から謝ることを忘れた者たちが大きな顔をしてふんぞり返っている有様です。仏性を踏みにじり、罪に罪を重ねながら、相手を非難するばかりの者たちが多すぎます。しかも国や国際社会に大きな責任を負う立場の者までもが、無反省で横柄な態度を取り続けています。
 自分や自国の業を正当化してばかりいれば、世界は分裂し、暴力の嵐が吹き荒れます。これが地獄を作る元。「一片の悔いなし」という人生を願いながら、そう言い切ることのできぬ我が生涯を見続け、敬虔な気持ちで人々と接し、相手の立場を解して交流を深めたいところです。

 聖典等資料

※資料1

おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。「巧方便」とは、いはく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火テンをして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火テンすでに尽くるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもつてのゆゑに巧方便と名づく。このなかに「方便」といふは、いはく、一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願す。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。

『往生論註』巻下 105 より

意訳▼(聖典意訳より)
 およそ、「回向」ということばの意味を解釈するならば、菩薩が自身で集めたところのあらゆる功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに仏果[ぶっか]に向かわせることである。
 「巧方便」というのは、菩薩が自分の智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼こうとして、もし一人の衆生でも成仏しなかったならば、自分は仏になるまいと願う。ところが、衆生のすべてがまだ成仏しないのに、菩薩はさきにみずからが成仏することである。たとえば木の火ばしをもって、草木を[]んで焼き尽くそうとするのに、その草木がまだ焼けきらないうちに、火ばしがさきに焼けきるようなものである。自分の身を後にして、しかもその身が他の衆生よりもさきに成仏するから巧方便[ぎょうほうべん]と名づける。
 いまここに方便というのは、すべての衆生を摂めとって、ともどもに弥陀の浄土に生まれようと願うことである。それはかの仏国はすなわち、ついに仏になるところの道であり、最もすぐれた方法だからである。

※資料2

問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに、論主(天親)一心といふや。
答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主(天親)三を合して一とせるか。

顕浄土真実教行証文類 信文類三(本) 三一問答

意訳▼(現代語版 より)
 問うていう。阿弥陀如来の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天菩薩は「一心」といわれたのであろうか。
 答えていう。それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は「至心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。

あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 字訓釈

意訳▼(現代語版 より)
 明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決定してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。
 いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。この信楽がすなわち一心であり、一心はすなわち真実の信心である。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのである。よく知るがよい。

また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。

 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈

意訳▼(現代語版 より)
 また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるためには本願の三心を一心と示した天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことはどう考えたらよいのであろうか。

 答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
 この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈

意訳▼(現代語版 より)
 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈

意訳▼(現代語版 より)
 次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの定善・散善の自力の回向ではないから、不回向というのである。
 あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力(利他)真実の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。
※資料3

〈淤泥華〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。

『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 17 還相回向釈 引文(論註)

意訳▼(現代語版 より)
<煩悩の泥の中に蓮の花を開く>とは、『維摩経』に、<高原の乾いた陸地には蓮の花は生じないが、低い湿地の泥沼には蓮の花が生じる>と説かれている。これは凡夫が煩悩の泥の中にあって、菩薩に教え導かれて、如来回向の信心の花を開くことができることをたとえたのである。まことに菩薩は、仏・法・僧の三宝を次々と受け継いで広く盛んにし、絶えないようにされているのである。


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