平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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仏教に於いて「親孝行」の定義なるものはあるのでしょうか?
仏教は生きた教えであり、あまり「定義」ということで内容を固めない方がよいのですが、「親孝行」を積極的に説くのは儒教など中国の思想であり、仏教では孝行を第一とするのではなく、仏心を主軸として生きる、その結果が親孝行にもなる、と理解していただくとよろしいかと思います。
また、気をつけなければならないのは、自分の親のみに孝行するということは、時として狭量な感情を生み、自他の壁を高くすることになってしまいます。こうなると、親子の依存が高まり過ぎて確執を生み、互いの社会性を妨げる結果になりがちです。
仏教で父母や孝行についての記述を見ますと――
一切の男子は是れ我が父なり、一切の女人は是れ我が母なり。一切の衆生は皆是れ我が二親、師君なり。
『教王経開題』 より
慈父の恩高きことなお山王のごとく、悲母の恩深きこと大海のごとし。
『大乗本生心地観経』巻三 より
子には慈悲を加えるが親の道、また親には孝行を尽くすが子の道。
『盤珪禅師法語』上巻 より
父母は七世、師僧は累劫なり。義深く、恩重し。
『浄心誡観法』下 より
また、これは有名な文章ですが――
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなりと云々。
『歎異抄』5 より
というように、自分の両親だけに孝養しない。また、追善供養はしない、ということを宣言されてみえます。これは死後の問題だけではなく、当然生きている両親にも言えることです。そして如来回向の菩提心をもって目の前の人と関わっていく、「まづ有縁を度すべきなり」とあります。これは仏教の押し付けではなく、相手から道を聞いていくことで仏教が現実に展開することをいいます。
では、仏教でいう本当の孝行は何かといいますと、一つは敬恭供養であり、もう一つは菩提心の相続です。
敬恭供養につきましては、例えば {お盆を迎えて}に書いておりますが、自分はへりくだり、親を尊敬して、親から道を聞く。言葉は色々あるけれど、“この深い親心を知ってほしい、受け取ってほしい”という願いにお応えさせていただくことです。これは、自分が親の立場だったら子どもに何を願うか、ということを考えてみれば解ります。
自分が一生かけて為そうとしてきた事柄、苦労や悲喜こもごも、これらを通して得てきた様々な人生の智慧や真心を、子孫に相続してほしいのではないでしょうか。自分が死んでも、残せる宝がある人生は幸せです。ただし、宝といっても金銭ではありません、真心です。金銭は相続争い等の副作用がついて回りますが、真心の相続は副作用がありません。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」と申します。名を残せるような自分でありたい、と願うことは大切ですが、実際に歴史に名を残すことができる人はごく一部です。ですから、名は残せなくても、せめて生きた証しを残したい、と皆願っているはずです。そこで、よくよく親の一生を聞き、深きを学び、家宝とし、できれば国宝とする。そうした親のいのちともいうべき宝を相続していけば、“この一生は虚しいものではなかった”と、親は本当に安心できるのです。
つぎに菩提心につきましては、{月愛三昧}の註にも書きましたが、たとえば、父を殺し母を幽閉するような親不孝の究極ともいえる罪を犯したアジャセ王であっても、懺悔と菩提心の発露でその罪が消え、清浄な身になったことが記されています。
仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。
〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。
そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。
<中略>
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。
<中略>
われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前にして悔ゆ。願はくは後にまた造ることなからん。願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発せしめん。心を繋けてつねに、十方一切仏を思念せん。また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること、なほ妙徳のごとくして等しからん〉と。
そのときに世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆を荘厳すとす。
『涅槃経』 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈116 に引用)
意訳▼(現代語版 より)
釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている>と。
阿闍世が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなくさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れな長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>と。
そのとき、摩伽陀国の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心をおこした。このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、阿闍世王の重い罪も軽くなった。そして阿闍世とともに韋提希夫人や妃や女官たちも、ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
そのとき、阿闍世が耆婆にいった。<耆婆よ、わたしは命終ることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである。
<中略>
如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。あらゆる人々はみな如来の子なのである。
<中略>
わたしはかつて悪知識に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。今仏の前にこれを懺悔する。願わくはふたたびこのような罪をつくるまい。願わくはあらゆる人々がことごとく菩提心をおこし、すべての世界の仏がたを心にかけて常に念じてほしいと思う。また願わくはあらゆる人々が永久に煩悩を離れ、文殊菩薩のように明らかに仏性をさとってほしいと思う。
そのとき、世尊は阿闍世をほめたたえて仰せになる。<よろしい。もし人が菩提心をおこすなら、その人は仏がたとその大衆をうるわしくととのえるものであると知るがよい。・・>
この無上菩提心こそ真実信心の内容であり、自分で起こしたようでありながら、実は「もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり」とありますように、如来が先手で私と成りきり、菩提心となって発動していただいた果報をいただいているのです。
この如来回向の菩提心を、親を通して相続させていただく。これが究極の親孝行なのではないでしょうか。
『安楽集』にいはく(上)、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。以上
『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末)119 より
意訳▼(現代語版 より)
『安楽集』にいわれている。
「真実の言葉を集めて往生の助けにしよう。なぜなら、前に生まれるものは後のものを導き、後に生れるものは前のもののあとを尋ね、果てしなくつらなって途切れることのないようにしたいからである。それは数限りない迷いの人々が残らず救われるためにである」
こうした道心不退は、わが身一代で終わるものではありませんし、また終わらせることを避けねばならないでしょう。 阿弥陀仏の存在意義もここにあるのです。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}