平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

無碍の一道と現世利益

― 無碍光は自在のはたらき ―

質問:

 無碍の一道と現世利益との関係に就いてお伺いします

 私は、無碍の一道とは真宗の現世利益として、開かれる道と戴いていますが、お教えください。

返答

 『歎異抄』の未熟性

 ご質問は、歎異抄の文からの質問であろうと思われます。

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

『歎異抄』 7

意訳▼(現代語版 より)
念仏者は、何ものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。
 このように聖人は仰せになりました。

 一方『浄土和讃』の現世利益讃には、

一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり (98)

南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ (99)

南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり (100)

天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり (106)

願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり (107)

南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり (110)

『浄土和讃』 現世利益讃 より

との記述があります。

「念仏者は無碍の一道」であって、「そのいはれいかんとならば」つまりその理由が、「信心の行者には天神・地祇も敬伏し・・・」ということで、このことが現世利益讃にあるのですから、『歎異抄』を依りどころとすれば<無碍の一道とは真宗の現世利益として、開かれる道>というご理解に間違いはないことになります。
 実際よくよく経典等を読み説けば、念仏の功徳の極みは正定聚・不退転の菩薩としての生活であり、その結果として副次的に死の問題が滅度として解決するので、念仏の功徳は現世利益こそが全てと申しあげて間違いありません。

 しかしここで問題となってくるのは、『歎異抄』に書かれてある内容をそのまま丸呑みすることができるかどうかです。言われている内容を確かめ、内容が真実に相応しているかどうか確かめなければなりません。結果として似た言葉になったとしても、途中の経緯が間違っていたり、「なぜか?」と問わなければ、内容がともなってきません。
 どうも『歎異抄』の著者(おそらく唯円)はあまり物事を深く問わない性格のようで、聖人の第一の答えで納得しているようですが、私はこのままでは納得できません。本当にこの通りのことを聖人が言われたのかどうか分かりませんが、「如来の真実義を解したてまつらん」という願いを持てば、もう少し食い下がらなくてはなりません。

 こう言いますのも、もし「念仏者は無碍の一道なり」である理由が「信心の行者には天神・地祇も敬伏し・・」等にあるとすれば、「無碍の一道」の依りどころは「天神・地祇」の態度ということになってしまい、「魔界・外道も障碍することなし」とか「罪悪も業報を感ずることあたはず」「諸善もおよぶことなき」が原因となって、副次的に「無碍の一道」の内容を生む、ということになってしまいます。つまり、信心ではなく如来の本願でもなく、他の存在が名の依りどころとなっているのです。
 これはどう見ても順序が逆ではないでしょうか。
 象と足跡の関係で譬えてみれば、「天神・地祇も敬伏し」は足跡であり結果で、「無碍の一道」は象であり原因です。足跡は相の一つではあっても象の真実を証明するものではありません。「無碍の一道」を生む因は本願成就の経緯であるはずで、如来の先手を見逃してはならないでしょう。

 浄土真宗は、{迷信の有害性について}にも書きましたように、本願成就のいわれを聞き開くことが基本であり、人生の問いを持ち続け、本願の因縁果を具体的に尋ねていかなくてはなりません。言葉だけなら、どんな宗教でも「こんな利益がある、あんな利益もある」と言えますが、言っている事が本当であるかどうかをきちんと証明し、自分の人生で確かめなければなりません。

「念仏者は無碍の一道」というが、「無碍の一道」とはどういうことか、何故そう言い切ることができるのか、本当に今の自分は無碍の一道を歩んでいるのか、と問うこと。そして「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」という状態を本当に経験できているのかどうか、本当に諸仏が私を百重千重囲繞して喜び護っているのか等、具体的な事柄を挙げて明かにしなければなりません。
 以下、そうしたことを念頭において、不充分かも知れませんが具体的に検証させていただきます。

 二種の親心

 さて、無碍の一道の詳細を説明する前に、阿弥陀仏の基本的なはたらきについて述べてみなければなりません。それは、阿弥陀仏を親に譬えた場合、親心には大別して二種あることを忘れてはならない、ということです。

 まず一つは、「どうぞ自立し、社会的な責任を果し、生き甲斐のある人生を歩んでくれよ」とか「どうか恩を仇で返すようなことはしないでくれ、人の道に外れたような恥ずべきことをしないでくれよ」という親心です。それは総じて言えば「本気で道を求めてほしい」という求道心・願作仏心の相続に立った心です。これは子に面と向かって指導する時にはたらく親の教説でしょう。

 もう一つは、「もし自立できなくても、社会的な責任を果せなくても、生き甲斐のある人生を歩めない時でも、決して見捨てはしない」とか「もし恩を仇で返すようなことをしても、人の道に外れた恥ずべきことをしたとしても、どこまでも寄り添ってともに歩みます」という摂取不捨・度衆生心の心です。これはいわば、子が眠りについた時に語りかける親心でしょう。

 この二種は一見正反対のようですが、ともに親心の裏表であることが解るでしょう。親が真実願うのは前者の心ですが、裏には全てを許し抱きとめる後者の心も持っているのです。もしこれが半面だけの心になってしまえばどうなるでしょうか。

 第一の心だけなら、「自立し、社会的な責任を果し、生き甲斐のある人生を歩め」「恩を仇で返すようなことや、人の道に外れたような恥ずべきことをするな」という命令になってしまい、「しっかり生きなければだめだ」という叱咤激励になってしまいます。これは、どこかで線引きをして、その範疇に入らなければ排除する、という「評価」を意味するのであり、この評価に漏れないよう頑張ることを仏教では自力というのです。自力を子どもに強要すれば虐待につながりかねず、実際に多くの悲劇が起っている事実を見ても、半面だけでは不充分であることがわかるでしょう。

 それでは、第二の心だけならどうなるでしょう。「自立できなくてもいい、社会的な責任を果せなくてもいい、生き甲斐のある人生を歩めなくてもいい」「恩を仇で返してもいい、人の道に外れた恥ずべきことをしてもいい」などと、自堕落を促すことになってしまいます。これでは本気で道を求める人間は育ちません。
 現在の浄土真宗の教義では、時として後者のみの立場に立ったお説教を聞くことがありますが、これでは真実の宗教とは言えませんし、阿弥陀仏のお心を示しているとはいえないでしょう。如来の真実義を領解しようと志さないところには、すべての法は朽ちてしまうのです。

 ですから半面だけではだめで、「願作仏心」という求道心と「度衆生心」という摂取不捨の両方がはたらかなければ、子どもは安心して成長できません。教育問題でも、「厳しく育てるのか、褒めて育てるのか」ということが議論されたりしますが、当然両方必要なのです。 『仏説無量寿経』では、主に前者の立場心に立って書かれたのが下巻、主に後者の立場に立って書かれたのが上巻です。上巻に比べ下巻が厳しい内容になっているのは、同じ親心でも立場を変えているからで、下巻は釈尊が師としての導きをしていることからも解るでしょう。そして念仏者は、この両面の親心(如来回向の菩提心)によって様々な障害を乗り越える智慧と功徳を得ることができるので、「念仏者は無碍の一道」となる機会を得るのです。

 この親心は、現実の肉親だけに限定されず、普遍的な親心であり、一切衆生の胸を通して相続されてきた心であり、これが私の主体を育てるのです。すると、生活の中で「背後の声」とか「我ならぬ我の声」と言われる声を聞き分ける、それも最も深い心に届く純粋な如来の声を聞くことができるのです。浄土は一切衆生の存在の奥底に伏流する仏性が創った世界なのです。信心が深心とも呼ばれる訳はここにあります。地下水も深ければ深いほど清らかになるように、深きに伏流する仏性こそが我執や地域性・時代性を超える内容に純化されているのです。

 なお、願作仏心と度衆生心の両方必要ということは、これは親心だけではありません。世間にある物事全ての真実は常にこの両面が入っているのであり、真実に逆らって半面だけを押し進めようとするから様々な障碍に遮られ、時として悲劇が起るのです。

 無碍について経典等から

 私の領解では私論になってしまいますので、無碍について、経典にはどう顕わされ、高僧がたはどのように領解されてみえるのか見てみましょう。
「念仏者は無碍の一道」の因は如来の無碍光にあることは、まず経典が示しています。

如来の正覚は、その智量りがたくして、〔衆生を〕導御するところ多し。慧見無碍にして、よく遏絶することなし。

『仏説無量寿経』 3 巻上 序分 発起序 出世本懐

意訳▼(現代語版 より)
如来のさとりは、はかり知れない尊い智慧をそなえ、人々を限りなく導くのである。その智慧は実は自在であり、何ものにもさまたげられない。

仏(世自在王仏)の無碍智のごとく、通達して照らさざることなけん。
願はくはわが功慧の力、この最勝尊(世自在王仏)に等しからん。

『仏説無量寿経』 8 巻上 正宗分 法蔵発願 重誓偈 より

意訳▼(現代語版 より)
師の仏の何ものにもさまたげられない智慧がすべてを照らし尽すように、
願わくは、わたしの功徳や智慧の力も、このもっともすぐれた仏のようでありたい。

無碍の智をもつて人のために〔法を〕演説す。

『仏説無量寿経』 30 巻下 正宗分 衆生往生果 より

意訳▼(現代語版 より)
何ものにもさまたげられない智慧によって、人々のために法を説く

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ起ちてさらに衣服を整へ、合掌し恭敬して無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともにかの仏の無着・無碍なるを称揚し讃歎したまへばなり」と。

『仏説無量寿経』 41 巻下 正宗分 釈迦指勧 霊山現土 より

意訳▼(現代語版 より)
 釈尊はさらに阿難に仰せになった。
「阿難よ、そなたは立って衣をととのえ、合掌してうやうやしく無量寿仏を礼拝するがよい。すべての世界の仏がたは、いつもみなともに、その仏が何ものにもとらわれずさまたげられないことをほめたたえておられるのだから」

 このように、無碍は「さわりない」「さまたげられない」「自在」のはたらきであることが顕わされています。
 さらに親鸞聖人も、無碍ということについて――

 ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

『顕浄土真実教行証文類』 総序 より

意訳▼(現代語版 より)
私なりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 100 一乗海釈 一乗嘆徳 より

意訳▼(現代語版 より)
つつしんで、往生を願うすべての人々に申しあげる。本願一乗海は、さまたげるものもなく果てしなく、もっともすぐれて奥深く、説き尽くすことも、たたえ尽すことも、思いはかることもできない徳を成就されている。なぜかといえば、誓願が不可思議だからである。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 28 三一問答 法義釈 信楽釈 より

意訳▼(現代語版 より)
 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。 すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。

しかれば大聖(釈尊)の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。

『顕浄土真実教行証文類』 証文類四 18 往還結釈 より

意訳▼(現代語版 より)
以上のことから、釈尊の真実の仰せにより知ることができた。この上ないさとりを得ることは、阿弥陀仏の本願力の回向によるのであり、還相のはたらきを恵まれることは、阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本意をあらわしているのである。こういうわけであるから、天親菩薩は、何ものにもさまたげられない広大な功徳をそなえた一心をあらわして、娑婆世界にあって煩悩に汚されている衆生を教え導いてくださり、曇鸞大師は、往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわし、他利と利他との違いを通して他力のの深い教えを詳しく説き広めてくださった。仰いで承るべきであり、つつしんでいただくべきである。

金剛の真心は、無碍の信海なりと、知るべし。

『愚禿鈔』 上 一乗機教 より

意訳▼
決して壊れることのないまごころは、さまたげられることのない信心の大海であると知るべきである。

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。

『尊号真像銘文』 6 より

意訳▼(現代語版 より)
「無礙」というのは、さまたげられることがないというのである。さまたげられることがないというのは、衆生の煩悩や悪い行いにさまたげられることがないのである。

無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。

『一念多念証文』 18 より

意訳▼(現代語版 より)
「無礙」というのは、衆生の煩悩や悪い行いに少しもさまたげられず、そこなわれないことをいうのである。

無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。

『唯信鈔文意』 2 より

意訳▼(現代語版 より)
無礙光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。無礙光仏はすべての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。その光明は智慧であると心得なさいというのである。

などと、顕わされてみえます。特に最後は、無碍とは智慧であり、阿弥陀仏の智慧は全ての仏の智慧を集めて姿を現わした仏である、ということが顕わされています。ここでは智慧だけが述べてありすが、当然功徳の集合体でもあります。阿弥陀仏とは、一切諸仏の集合体であり、一切諸仏の歴史が「今・ここで・私」において報いた仏である、ということがわかります。全ての仏道は阿弥陀仏の形に純化され集約され、私に成り切った南無阿弥陀仏といただくのです。過去一切の功徳が私に宿るのです。

 また曇鸞大師は――

五念門を出すとは、なんらか五念門。 一には礼拝門、二には讃嘆門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり。  「門」とは入出の義なり。 人、門を得ればすなはち入出無礙なるがごとし。 前の四念はこれ安楽浄土に入る門なり。 後の一念はこれ慈悲教化に出づる門なり。

『往生論註』 48 巻下 無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下 より

意訳▼(聖典意訳 より)
五念門のものがらを出すとは、  何等か五念門なる。一つには礼拝門、二つには讃嘆門、三つには作願門、四つには観察門、五つには回向門なり。  「門」とは、出入することを意味する。人が門を得たならば、入るのも出るのも自在であるがごとくである。五念門の中で前の四念は安楽浄土に入る門であり、後の一念は慈悲のために迷いの世界に出る門である。

「遍」に二種あり。 一には聖心あまねく一切の法を知ろしめす。 二には法身あまねく法界に満つ。 もしは身、もしは心、遍せざるはなし。 「道」とは無礙道なり。 『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道より生死を出づ」と。 「一道」とは一無礙道なり。 「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。 かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。

『往生論註』 巻下 無量寿経優婆提舎願生偈註 巻下125 より

意訳▼(現代語版 より)
「遍」の意味に二種がある。一つには、さとりの心があまねくすべての法を知りつくすことであり、二つには、仏身があまねくすべての世界に満ちわたることである。仏は身も心もゆきわたらぬところがない。「道」というのは無碍道である。経(華厳経)に「十方の無碍人たる仏は、一道によって迷いを出られた」と説かれている。一道とは一無碍道のことである。無碍とは、迷いとさとりが本来不二であるとさとることである。このように諸法不二の相にさとり入ることが無碍の相である。

十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚を号したまふ。
二智円満して道平等なり。摂化縁に随ふがゆゑに若干なり。
われ阿弥陀の浄土に帰するは、すなはちこれ諸仏の国に帰命するなり。
われ一心をもつて一仏を讃ず。願はくは十方無礙人にあまねからん。
かくのごとき十方無量の仏、ことごとくおのおの心を至して頭面をもつて礼したてまつる。

『讃阿弥陀仏偈』 50 より

意訳▼(意訳聖典 より)
十方三世のあらゆる仏たちは、同じく一如法性に随って正覚を得られた。
智慧も慈悲もまどかにそなえてそのさとりは平等である。ただ衆生の機縁に随って済度されるからいろいろとわかれている。
わたしが阿弥陀の浄土に帰依することは、すなはち一切の諸仏に帰依することである。
わたしは一心に弥陀一仏を讃嘆したてまつる。願はくは十方の仏たちの思召しにかないよう。
このように十方のすべての仏たちを、ことごとく心をこめて礼拝したてまつる。

というように、無碍(無礙)というのも全ては如来回向の菩提心であるという領解です。「入出無礙」という言葉もありますが、「入」は浄土に往生すること、「出」は世間に還ることで、これは、心を浄土の地に樹てながら、衆生世間の様々な機会において形を示し言葉を発することができる、ということを言われるのでしょう。なおここでも、「われ阿弥陀の浄土に帰するは、すなはちこれ諸仏の国に帰命するなり」とあるように、阿弥陀仏は諸仏の純化された集合体であることがわかります。すべての仏の功徳を活かすのが阿弥陀仏なのです。
 また道綽禅師は、菩提心を三種類に分け、報身ゆえに無碍である理由を説明しています。

 第一に菩提心の功用を出すとは、『大経』にのたまはく、「おほよそ浄土に往生せんと欲せば、かならずすべからく菩提心を発すを源となすべし」と。 いかんとなれば、「菩提」といふはすなはちこれ無上仏道の名なり。 もし心を発し仏に作らんと欲すれば、この心広大にして法界に遍周せり。 この心究竟して等しきこと虚空のごとし。
<中略>
 第二に菩提の名体を出すとは、しかるに菩提に三種あり。 一には法身の菩提、 二には報身の菩提、三には化身の菩提なり。 法身の菩提といふは、いはゆる真如実相第一義空なり。 自性清浄にして、体穢染なし。 理、天真に出でて修成を仮らざるを名づけて法身となす。 仏道の体本を名づけて菩提といふ。 報身の菩提といふは、つぶさに万行を修してよく報仏の果を感ず。 果の因に酬ゆるをもつて名づけて報身といふ。 円通無礙なるを名づけて菩提といふ。 化身の菩提といふは、いはく、報より用を起して、よく万機に趣くを名づけて化身となす。 益物円通するを名づけて菩提といふ。

『安楽集』11 より

意訳▼(現代語版 より)
第一に菩提心のはたらきを示すというのは、《大経》に説かれてある。
 すべて、弥陀の浄土の往生を願うものは、必ず菩提心を起こすことを根源とする。
 菩提とはどういうことかというと、これは無上仏果の名である。もし菩提心をおこして成仏しようと思うならば、この心は広大であって十方法界にあまねくゆきわたり、この心は何物にもさまたげられないこと虚空のようである。
<中略>
 第二に菩提の名体を出すならば、菩提に三種がある。一つには、法身菩提、二つには、報身菩提、三つには、化身菩提である。法身菩提というのは、真如実相第一義空であって、その本来の性が清浄で体にけがれはなく、その法理は本来真実のものであって、修行によってできるものでない。それを名づけて法身といい、それが仏果の根本となるものであるから、名づけて菩提という。
報身菩提というのは、つぶさにあらゆる行を修めて、それによって報仏の報果をうるのである。その果が因位の行に報うてできたものであるから、名づけて報身といい、その智慧が円満融通して何ものにもさまたげられないのを名づけて菩提という。
化身菩提というのは、報身より利他のはたらきを起こして、よくあらゆる根機に応ずるのを名づけて化身といい、衆生を利益することが自在であるのを名づけて菩提という。

 また憬興師は、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏等の名の理由を顕わしてみえます。

無量光仏、算数にあらざるがゆゑに。無辺光仏、縁として照らさざることなきがゆゑに。無碍光仏、人法としてよく障ふることあることなきがゆゑに。

『述文賛』より(『顕浄土真実教行証文類』 真仏土文類五 36 真仏土釈 引文 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
<無量光仏>とあるのは、はかり知ることができないからである。<無辺光仏>とあるのは、照らさないところがないからである。<無碍光仏>とあるのは、何ものにもさえぎられることがないからである。

〈慧見無碍〉といふは、最勝の道を述するなり。

『述文賛』より(『顕浄土真実教行証文類』 教文類一 6 出世本懐に引用)

意訳▼(現代語版 より)
<その智慧は、実に自在であり>とあるのは、何よりもすぐれた智慧の境地について述べたのである。

 自由と自在の違い

 以上のように、無碍とは自在のはたらきであり、如来の無碍光のはたらきが、私の無碍の生活となってはじめて「念仏者は無碍の一道なり」と言い切れるのです。
 ところで、「自在」とはどういうことを言うのでしょう。どうもここに問題を解く鍵がありそうです。

 そこでもう一度「現世利益讃」を引いてみると――

一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり (98)

南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ (99)

南無阿弥陀仏をとなふれば 梵王・帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり (100)

天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり (106)

願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり (107)

南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり (110)

『浄土和讃』 現世利益讃 より

というように、一見すると、念仏者は「三世の重障」や「流転輪廻の罪」から解放され、「梵王・帝釈・諸天善神・天神・地祇・十方無量の諸仏」全てが自分を災厄から護ってくれているように読めます。こんな都合の良いことが本当にあるのでしょうか。

 ここで思い出してほしいのは、「無碍」とは「自在のはたらき」ということです。如来の自在が私の自在と成り切った時に、念仏の功徳が生活にはたらくのです。そして、重要なのは、自在は自由とは違うということです。
「自由」とは、他者や時代や場所からの解放をいいます。権力や金銭からの解放、時代の縛りからの解放、移動の自由などですが、これらは全て他者との関係において優位に立つことを意味しています。ですからこうした自由のためには―― 民主主義や資本主義の体制を整え、金銭を貯めて自由に使用できるようにし、新たな時代を打ち立てるために過去の価値観を打ち破り、政府に旅行の自由を要求したり、閉鎖的な国に圧力をかけて開国を迫るのです。

 しかし、こうした自由を得たとしても、肝心の自分の人生観が定まらなければ、自由の謳歌は単なる「わがまま人生」に過ぎず、獲得した自由が何のためにあるのかさえ解らなくなってしまいます。それに外側からの自由はどうしても制約があります。他者との関係を断って生活することはできませんし、政治や権力者からの影響も排除できません。無理に自由を求めたり押し付ければ、他者の憎悪を買うこともあります。また、今の時代に生きていることも、この国に生まれたということも、変えることはできません。自由には制限があり、また自分の成長を妨げる副作用もついています。
 さらに、内側の問題についても、自分の性格は環境によってつくられた面も多々あり、過去は変えることができません。また私は人類の歴史の上に生れてきましたので、人類の尊さとともに業も背負って歩むことになり、結果として征服欲などが盛んであり、内面の自由ということも思うほど簡単には達成できないことがわかります。

 これに比べて、自在というのは、この場この身において私の活動にさわりがなくなる、無碍になることをいいます。「ここで鳴らない太鼓はどこに行っても鳴らない」といいますが、場所を変えたり立場を変えることばかり追わず、この身でこそできること、この立場でこそ為せることをする。災難が無いように努力するだけではなく、災難があったらあったでそれを活かして成長していく逞しさが自在のはたらきです。内外の災厄がそのまま生きる、癖が個性として輝く、この自在のはたらきこそ仏教の本質なのです。「念仏のひとをまもるなり」は、こうした自在のはたらきが生活に根付くことをいいます。

 もう一つ、「念仏者は無碍の一道なり」の「一道」とはどういうことをいうのでしょう。

 一般的には「念仏の道以外には目もくれない」とか「それ以外の道は捨て去る」と理解されがちですが、これで本当に「無碍」の生活が成り立つのでしょうか? 世界には他の道も多数あり、そうした人達とも付き合っていかねばいけません。多くの経典から学び、他宗教や科学や文学や芸術などからも学び、心の土壌が豊かになってこそ人生観も定まり、無碍の生活になるのではないでしょうか。
 親鸞聖人は『仏説無量寿経』について――

しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、知るべしと。

『顕浄土真実教行証文類』 教文類一 7 六句嘆釈 より

意訳▼(現代語版 より)
すなわち、これらの文は、真実の教を顕す明らかな証である。まことに『無量寿経』は、如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、この上なくすぐれた経典であり、すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり、すべての仏がたがほめたたえておられるまことの言葉であり、時代と人々に応じた真実の教えである。よく知るがよい。
と褒め称えられてみえます。

 この中で「一乗究竟の極説」とありますが、「一乗究竟」とは「この道だけで他は捨てる」というのではなく、「この一道に生きるが、全ての道も活かす」ということでなければ本当に「一乗究竟」とは言えません。「他力だけが良い、自力は捨てよ」では、他力は良くても、捨てられた自力の道は死んでしまうか、反発して他力の障りになってしまいます。先に引きました『唯信鈔文意』にも、阿弥陀仏は「一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」であり、諸仏の智慧が集まり活かされてこその阿弥陀仏の名のりです。
 また、そうした諸仏の智慧であっても、「浄土の菩提心によって正定聚の菩薩に成らなければいけない。安逸を求めて往生を願う者は捨てる」ということでは、菩提心の起っていない多くの衆生は排除されてしまいます。浄土の菩提心が信受されるまでの導きは、摂取不捨の心が現実にはたらかなければ絵に描いた餅に過ぎなくなってしまいます。

 如来の真意が「浄土回向の菩提心」にあるとしても、それ以外を排除するのではなく、むしろ他の道を尊み学び尽していくところに浄土のお育てがあるのではないでしょうか。三輩往生や九品往生が記されているのも、真実義は一つであっても、摂取不捨のはたらきにより聖道門や一切衆生との関係を切ることなく一乗究竟に集約されていくことを願われているのではないでしょうか。だからこそ「十方称讃の誠言」と称えられているのでしょう。二種の親心のところでも言いましたが、願作仏心と度衆生心は無上菩提心の裏表なのです。

 また、「時機純熟の真教」というのも、これは「時代に限定されない教え」であるとともに、「あらゆる時代の苦悩を機会としてとらえて熟していく教え」でもありましょう。「こんな悪い時代では念仏ははたらかない」とか「昔は素朴でよかったが今の人に念仏は伝わらない」などと言うのはこの経典の真意が読み取れていない証拠です。どんな時代でも、誰にでも、時代や人の特徴を通じて熟するのが念仏の特徴です。
 たとえば蓮如上人が「後生たすけたまえ」という形で往生を説かれたのは、明日の希望のない戦乱の中で活きる形で説かれたのですが、現代には現代社会の苦悩を縁とした説き方があるはずです。『仏説無量寿経』はあらゆる機に応じて熟すようになっていて、様々な形や言葉が創造されてくるのです(参照:{得弁才智の願})。
 時代や場所が変っても、自在のはたらきによって「無碍の一道」が今現在の私の生活になれるのだ、ということを自らの人生で確かめてみたいと思います。

 古来、無碍に円融と自在の二義を分ち、円融は佛の自証に名け、自在は衆生摂化に用ひられてゐる。されば自証の他に化他なければ、円融の徳の現行する所に、自在の義が現るると領解すべきであらうか。円融の徳に依りて自在の行が成立するのである。それ故自在の用を説くことが、そのまま円融の徳を讃せらるるものといはるるであらう。而して光明の用を以て佛の躰徳を讃せらるるは、十二光讃を一貫する讃意であり、それはその徳の明らかなるものに随ふものではあらうが、その意は弥陀を本願に於て顕はさんとせらるることに依るのではないであらうか。

 之に依りて無碍光の所対を見るに、偈讃には「一切の有偈」といひ、憬興師は「人法として障ふることあることなきが故に」と釈してある。されば無量光が人障即ち我障を除き、無辺光が法障を消すものなることを既に領解さる吾等は、躊躇する所なく、無碍光は正に無量無辺の二光を惣合統一するものといふことを得るであろう。即ち無量無辺の二光は無碍光の二相であり、随いてこの二光は無碍の徳に於て成就するのである。されば先に無量無辺の二光は観音と勢至の二徳に相応せることを領解せるをここに想起すれば、無碍光こそ正しく弥陀の徳を顕はすものであらねばならぬ。さればこそ『浄土論』には帰命尽十方無碍光如来と讃へ、高祖も之に依って「無碍光佛は・・・阿弥陀佛の御かたちをしらせ給はねば、その御かたちをたしかにたしかに知らせ参らせんとて、世親菩薩御力を尽して顕はし給へるなり」(末灯鈔)【註:親鸞聖人御消息 13】といひ、また「十二光佛」とはいへ「詮ずる所は、無碍光仏と申し参らせ候ことを本とせさせ給ふべく候」(御消息集)【註:親鸞聖人御消息 31】と仰せられてあるのである。この意味に於て無量光を以て量徳或は相徳を顕はし、無辺光を以て性徳を表はすとすれば、この相性二徳を併有する無碍光こそ、光明の躰徳を顕はすものといはるるであらう。

 また「一切の有障」を内外二障に分ち、外障に山河大地あり、内障に貪瞋痴慢ありといふ、その意味を究むれば、外に順逆苦楽あり、内に是非善悪ありと領解せられねであらうか。洵に吾等の生活の障りとなれるものは、是等内外の二障である。さればその障りを除く無碍光こそ、吾等の生活を照らす光であるといはねばならぬ。之に依りて無量光が心を光暁する光であり、無辺光が身に光触する光であれば、無碍光は生活に光澤あらしむる光であるといふを得るであらう。ここに於て高祖の無碍光の意義を釈せらるるものを見るに、「無碍といふは碍ることなしとなり。衆生の煩悩悪業に碍へられざるなり」(銘文)【註:尊号真像銘文6】といひ、また「無明の闇をはらひ悪業に碍へられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍は悪業煩悩に碍へられずとなり」(『文意』)【註:唯信鈔文意4】と示されてある。特に「第十八の本願成就の故に阿弥陀如来と成らせ給ひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来と顕はし給へり。この故に善き悪しき人を嫌はず、煩悩のこころを簡ばず、隔てずして、往生は必ずするなりと知るべしとなり」(末灯鈔)【註:親鸞聖人御消息6】といふ領解は、留意せらるべきである。洵に「念仏者は無碍の一道」(『歎異抄』八丁)である所以は、無碍光の利益に依るのである。この意味に於て「念仏衆生を摂取し給ふに碍ることましまさぬ故に、無碍光と申すなり」(名號徳)【弥陀如来名号徳3】といひ、また大行を顕はすに特に「称無碍光如来名」(『行巻』一丁)を以てせらるることに、殊に甚尽の意味を感ぜしめらるることである。

 さらば、吾等内外二障の生活をして無碍ならしむるものは無碍光であるが、その無碍光の徳を現実に將来するものは如何なるものであらうか。偈讃には「光沢蒙」るといふ。沢は潤ひである。洵に有碍の人生に於て法の潤ひこそ最も尊きものであらねばならぬ。その潤ひを御左訓には、「光にあたる故に智慧の出で来るなり」とある。これ即ち触光に依りて与へらるる柔軟の心である。柔軟の心の生ずる所、「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずること能はず、諸善も及ぶことなき」(歎異抄)無碍の大道は開くるのである。「無碍光佛の光の御心に摂め取ら」(証文)るれば、無碍の光徳はそのまま衆生の徳として与へらるるのである。これ洵に「難思議」である。

昭和16、2、23

 最後に、無碍光の利益、柔軟の心に依りて現るる無碍の生活そのものを顕はせば、吾等は教証として、高祖の「圓融至徳嘉號轉悪成徳正智、難信金剛信楽除疑獲証真理也」(『惣序』)【註:顕浄土真実教行証文類 総序】といひ、「夫無碍難思光耀滅苦証楽、萬行円備嘉號消障除疑」(略典 序)【註:浄土文類聚鈔 序】と説かるるものを挙げることが能きる。称名念佛は人生の動乱をそのまま価値内容たらしむる実践的智慧であり、本願を信受することは、人生に於ける根本疑惑を解除して、往くべき道を自証せしむる光である。これ即ち轉成の光である。その無碍難思の光は、吾等流轉の一生をそのまま成佛の道ならしめ、衆生をして苦悩の中にも喜びを感ぜしめ、涙の中にも微笑を見出さしむるのである。随ってそれは宿業の果報の外に何物をも求めず、与えられたる生活のままに満足する道となる。洵にこの轉成の道にもまして、有碍の人生に生活を無碍ならしむるものはない。「弥陀の本願には老少善悪の人を簡ばれ」(歎異抄)ざることも、順逆苦楽に碍りなきことも、ひとへに轉成の徳に依るのである。吾等もまたここに於て古哲に和して、「本願円融一乗は、逆悪摂すと信知して 煩悩菩提躰無二と、速やかに疾くさとらしむ。五つの不思議を説く中に、佛法不思議に如くぞなき、佛法不思議といふことは、弥陀の弘誓に名けたり」【註:高僧和讃 32,33 曇鸞讃】と讃歌せざるを得ない。

昭和16、3、15補

島田幸昭著『十二光の名義』 無碍光 より

なお、「外障に山河大地あり」と書いてあるのは昭和16年当時の理解であって、後には社会的な問題として理解されてみえるようです。

 聖典等資料

仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。

『仏説無量寿経』 11 巻上 正宗分 弥陀果徳 光明無量 より

意訳▼(現代語版 より)
 さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。このため無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名づけるのである。


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