平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

自力諸善をしりぞけられた訳

如来の真意を聞き開き、新たな展開を

質問:

18願の信心の返答について

早速のご返答(編集註:[第十八願の信心の疑問])ありがとうございました。
@  1月13日質問しました冒頭文の「必ず助け取る」につきまして、返答では「この部分で既に誤解の芽が顔をのぞかせているように感じます。失礼かも知れませんが、真実信心とは似て非なるものを感じざるを得ないのです。」とありました件について。
私の質問が文章の引用先を記載していなかったたことをお詫びします。
この文書は浄土真宗某寺ホ−ムペ−ジでの48願紹介の冒頭文そのままです。
浄土真宗某寺に取り返しのつかない悪いことをしてしまいました。
素人がわかったような文書を書くから返答のような懸念が生まれますよね。私がバカでした。
A 私の聞きたかった「18願の心で諸善を修することが必要であるが、大事なことは諸善ではないか。」についての返答は未熟な私には教科書的でまだ理解できません。
現世において横超に18願に入ることが本当にできるのでしょうか。
現世において称名念仏だけで善根や功徳を修しなく難思議往生が本当にできますか。
親鸞聖人は「まず自分は初めに第19願の心に到った、それから第20願に進んだ、それから第18願の願に出ることができた」とおしゃってみえるそうですが、法話の講師もこの道を歩まれたのだろうから、その第19願の実行から第18願だという信念をもたれた経験をお話してほしい、教科書の説明ではなく。
第19願ではいけないので第18願になりなさいと言われても、私などはその第19願すらできないのです。スタ−ト時点で躓いておるのです。
B さらに「仏教を学ぶ基本姿勢」として「衆生とともに歩むことなく大乗経典は読めませんし、浄土経典はなおさらです。」とご指導いただきました。今後の指針とします。
自分の現在社会に置き換えて48願を考え、質問ではリストラにつながる教えで苦をまねきかねないと提起したつもりでしたがまだまだ発想が劣るのでしょうね。
「三願転入」、「顕彰隠密の義」、「雑行雑修自力」などの説明がありましたが、これらは本当にそうなんだろうか、経典をひねくりまわすよりもっと素直に読んでもいいのではないかという私の段階です。
いや、素直に読めればきっと善導・親鸞はじめ経典解説者のとおりなんでしょうね。
C 質問の後で読んでいた本に私の疑問に明解に答えているのがありました。
暁烏敏 「嘆仏偈講話」より「不如求道 堅正不卻」
今日の人々はこの道を求めるために一生懸命な心について正しい理解をもたないようである。
殊に真宗や基督教の人たちは多く仏の力、神の力によって助けられ、救われるものだとして、神の前、仏の前にひれ伏して、頭を下げ、礼拝し、その御利益にて助けて貰うのだといふ乞食根性を離れないのである。
さうした乞食根性は法蔵菩薩の精神に背いておるのです。
法蔵菩薩の誓願は、師匠世自在王仏の前に頭を下げて、その御利益によりて助けて貰う、救うて貰うというものではない。
自分自らの道を求めて精進するというのである。これが阿弥陀仏の信念である。
ですから自分の不真面目な、不純なごまかし生活をそのままにしておいて、罪あるもののお助けだ、悪人正機の本願だといって、へつらいながら仏像の前に礼拝したからって安心出来ないのは当たり前である。
そんなことで安心しようと思うのが無理なのである。
そこで自らの心に許されないものが感ぜらるるのである。
ややもすれば仏をごまかそうとする。そんな根性で何で助かるものか。  (中略)
ほんとうの礼拝は、自分の智慧の眼を開かせていただき、自分の進むべき道を明らかにして下さった御恩に対し感謝する思いで、思わず知らず頭が下がるのである。自然に礼拝の心が湧くのである。

暁烏師は精進こそ阿弥陀仏の信念であり、そこから自分の智慧の眼が開け、自然に礼拝の心が湧くといって見える。礼拝から自然に自分の進むべき道が明らかになるとは言ってみえない、少しの精進しか私にはできないだろうけれども私もそう思うのです。

返答

「教科書的でまだ理解できません」ということですが、結果として教科書的な言葉と同じになったのかも知れませんが、前回、[第十八願の信心の疑問] で返答した内容は、すべて領解を経て書いたものですし、引用させていただいた文も、肯きながら引かせてもらった内容です。教科書的に書いた文は一字もないつもりです。

 ただ、それでも「まだ理解できません」ということですから、今回は少し大胆に述べてみます。ただそのため私の領解が色濃く出てしまう懸念もありますので、以下の返答を読まれた後は、掲載した言葉は引用文以外全て捨てていただきたいと思います。

 誓われた理由を問う

 @ につきましては、この――<何も出来ない私であっても、どうぞ助けて欲しいと、「南無阿弥陀仏」を称える。称名念仏すれば、必ず助け取ると誓われた第十八の願をひたすら拠り処として、仏の絶対他力を頼みとしている>という文ですが、第十八願の柱となっている三心(至心・信楽・欲生)の領解は一体どこにあるのでしょう。仏教の信心と外道の信仰の違いが解っている言葉とは思えません。仏意を尋ねず通念や知り口で表現しては仮の教説になってしまいます。それゆえ、「言葉はよいが胸に自力の根がのこる」という懸念を抱かせたのでしょう。
 親鸞聖人は、何ごとにおいても常に「真・仮・偽」を問われます。念仏の形は同じでも中身を問われるのです。名号の示される真意を問うことなく称える念仏は仮であり偽であるわけです。
 そういう意味では、次元は違うでしょうが、この返答も文字を追いながらもその意を汲んでいただきたいと思います。また、ここで意を尽くし切れていない箇所は、質問者自らが仏意を求めて、その成果をどこかで述べてください。私自身も多くの師に学びながら、可能な限り自らの問いを法に求めて、こうしてお応えしているのです。

 親鸞聖人の領解は、あくまで如来の本願力回向の菩提心を身に満たすことです。つねに仏意を求め随順することが肝心なのです。そのために称名せしむる如来のお示しを学ぶのです。示した指にとらわれるのではなく、示した指の先を見てほしいのです。「示した指」は「念仏をとなえよ」ということであり、「示した指の先」には「真実信心」とか「浄土の菩提心」とよばれる如来の量りがたい・言い尽くせないはたらきがあります。「功徳が満ちた我が名をたたえてほしい」と言わずにおれなかった仏意を尋ねてゆくのです。しかし「真実信心」も言葉だけを見れば「示した指」に過ぎません。言葉では言い尽くせない心を、あえて言葉で示しているのです。

人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。

『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 聖道釈 二門通塞 (『大智度論』の引用)より

▼意訳(現代語版 より)
人が月を指さして教えようとすつときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。
その人は《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。

「称名念仏すれば、必ず助け取ると誓われた」という箇所も、誓われた真の理由を問うのです。称名念仏の内容を問うのが親鸞聖人の姿勢です。そしてその姿勢を生むのがまさに「如来のはからい・浄土の業」なのです。理由や内容を問わず、ただ「必ず助け取る」ということを文字に依ってとらえ、それを救済の約束と理解しては、「示した指」にとらわれたように、如来の誓願はまことに虚しく停滞してしまいます。

弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

『浄土和讃』(一・二)冠頭讃 より

 泥の器に清水を入れても浄化されないように、いくら清らかな念仏をとなえても、浄土の建立された経緯を学ぶことなく、疑念に満ちていては、内容の無い空虚な念仏と言わざるを得ません。しかし、念仏の持つ功徳(四十八願成就のいわれに顕わされている内容)により、偽から仮に、仮から真に行者を導きますので、行としては念仏は真なのです。

 勿論、単に「となえればいい」というのではなく、教・行・信・証の全てにわたって真・仮・偽の峻別をはかるのが親鸞聖人の姿勢です。
 例えば称名念仏に関しても、真を求められ、如来のはたらきや徳を学び、私たちのいのちや文化や歴史の中に業の鎖を見て、それとともに確かに如来のいのちが流れていることを見させていただき、常にその立場から私たちの業を浄じてみえるはたらきや徳を称えさせていただくのです。
 称える称えないに関わらず、如来は常にはたらいてみえるのですが、そのはたらきに気付くことができるかどうかが分かれ目なのです。地下水はあまねく人々の底に流れているのですが、そのことを知らなければ無いに等しい。知っても汲まなければ無いに等しい。汲もうとしても実際に汲まなければ無いに等しいのです。

 そうして、如来よりお育てにあずかった「真・仮・偽を見抜く心」は、単に教学理解にとどまらず、行住坐臥、生活のすべてから、社会に起こっている問題にいたるまで見抜く心になり、同時にそれを見抜けなかった自分の浅はかさを縁として、なお一層のお育てにあずかることになるのです。

 そのために、正しい教えを学び、真に行じ、真の信に満たされ、浄土の業を証明していくのです。
 『浄土真宗の教え』 のコーナーでは、本願の詳細を学んでいますので、まだ途中ですが、参考にして下さい。

 歴史に学ぶ

〉 私の聞きたかった「18願の心で諸善を修することが必要であるが、大事なことは諸善ではないか。」についての返答は未熟な私には教科書的でまだ理解できません。
〉 現世において横超に18願に入ることが本当にできるのでしょうか。
〉 現世において称名念仏だけで善根や功徳を修しなく難思議往生が本当にできますか。

 A につきまして、まず「現世において横超に18願に入ることが本当にできるのでしょうか」という疑問は早く除いてもらいたいのです。まずは「速やかに入ることができる」ということを法友との語らいにおいて確認してみて下さい。「称名念仏」とは念仏の徳を称えることですが、その功徳を学ぶ過程の中で、念仏にはあらゆる善根や功徳が完全に具わっている、ということの意をよく学んで下さい。経典や論釈に詳しく出ていますので、じっくり味わっていただきたいのです。

 またこれは善知識との出遭いなくしては成り立ちませんので、よき友によき師にたくさん出遭ってください。大乗仏教は個人で覚ることは無理で、必ず良き師に導かれ、よき友に励まされて道を歩みます。仏・法・僧の三宝そろわないところに大乗仏教の展開はありえません。浄土教は、そうした流れの上、諸仏の勧めまで得て歩むことができますので、速やかに正定聚不退転の位を得ることができるのです。
 なお、善知識との出遭いは、単に顔を合わせることではなく心で出遭うのです。もしかしたら、「まだ善知識と出遭っていない」と思ってみえるかも知れませんが、実はまだそう認識できないだけで、尊い人が周りに沢山みえるのかも知れません。さらに言えば、顔を合わせなくても、本や手紙での出遭いもやはり出遭いのうちでしょう。

〉 親鸞聖人は「まず自分は初めに第19願の心に到った、それから第20願に進んだ、それから第18願の願に出ることができた」とおしゃってみえるそうですが、法話の講師もこの道を歩まれたのだろうから、その第19願の実行から第18願だという信念をもたれた経験をお話してほしい、教科書の説明ではなく。

 この文には少し疑問があります。少なくとも浄土真宗の門をたたくまでになった人に自力諸善を勧める必要は無いのではないでしょうか。五濁悪世の度合いがますます激しく、東西南北の文明が和合することなく衝突し、人類の生存さえ危うくする現代において、鎌倉時代に決着のついた箇所をまた同体験するのは時間の無駄です。一刻も早く真実信心を得て、浄土の菩提心を満たした行者がそれぞれの場において念仏の功徳を展開することが求められるのに、です。実際、念仏者がまごまごしているため、念仏の功徳の展開が遅くなり、功徳を称えられることが少なくなり、「死んだ人の手向け」程度の重さしかなく、それも今では称える声さえ低くなってしまいました。これもひとえに教学の停滞が原因なのではないでしょうか。
 浄土真宗はいつまで往生の教学問題に留まっているのでしょう。私と相手と社会へ浄土の功徳を展開するため、一刻も早くその柱を打ち立て、如来の本願を心にとどめて行動を開始するべき時なのに、いまだに親鸞聖人の捨てられた道に未練を残し、中途半端に教えを追っている有様です。
 毒の恐ろしさを理解するためわざわざ毒を食らう必要はありません。親鸞聖人の命がけの経験を生かすためにも、自力の雑毒は、教えと現実社会とそして念仏の門を叩くまでの自分の経験に学んでおけば充分です。いわば歴史に学ぶことで果すことができるはずです。

 これは、例えば釈尊が苦行を捨てられたのと同様でしょう。真の念仏者は早く自力諸善を捨てることが求められます。そうしないと自利に適わない以上に、他人に知らず知らず悪思想をばら撒くので迷惑至極です。

 覚りの岸は遠く、迷いの流れは急です。川のどこから入ってどの道を通れば良いか、危険な箇所はどこか、どこが成否の分かれ目になるか、渡った者の指導を仰がねば、ほとんどの人は溺れてしまい、激流に流されてしまいます。
 釈尊は自ら「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう」と述べてみえるのですが、これは「このような苦行をした上でなければ悟りは開けない」という意味ではありません。しかし誰かが一度は通らねばならない道でしょう。釈尊はもと王子だったため文武に秀でる縁を受け、苦行に耐える頑強な肉体と精神を持っていたからこそ、命を落すことなく苦行に耐えることができたのです。そうして苦行の危険性と成果の無さから未練なくこれを捨てられました。
 成道後、釈尊は弟子たちにも苦行を捨てさせ、中道の修行を勧められるのです。苦行の甲斐のなさを納得させるため弟子にわざわざ苦行をさせたりはしません。時間の無駄であり危険だからです。仏教者は「必要ない」という釈尊の経験からの指導を信じ八正道を歩むのです。これが悟りの岸を渡る道のひとつだったのです。

 やがて大勢の修行者が岸に渡り、時代とともに道は増えていきますが、五濁悪世のせいで迷いの有様が変化し、水かさも増し、人々の精神は虚弱になり、過去に多くの仏教者が渡った道の全てが実際には渡れない道である、ということを親鸞聖人は身をもって味わわれたのです。
 親鸞聖人は、少なくとも私たちの心身と比較すれば、驚く程強じんな肉体と精神を兼ね備えてみえたと思います。その過程でたどり着いたのが行としての念仏の白道(資料1資料2資料3 ▼参照)であり、やがてその内容を問題として、本願力回向の菩提心である真実信心に至ったわけです。

 親鸞聖人に学ぶのは、こうした歴史の経緯でありますが、失敗まで追体験する必要はさらさらありません。自力諸善を自分の経験で「必要ない」と納得するには、親鸞聖人と同様の心身をもって同様の修行を長年にわたって為さねばなりません。まして「親鸞聖人はこれを捨てられた」という情報があるのですから、自ずと真剣さは無くなります。

欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈 より

▼意訳(現代語版より)
浄土往生を願う出家のものも在家のものも、信には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。

 「第19願すらできないのです」などと成果の期待できない枯れた道を歩まず、浄土建立の経緯を聞き開く道を歩まれてください。第十八願は「する」のではありません。「肯ける」という世界です。それは第十八願が肯けるというだけでなく、あらゆる真の教行信証が肯け、仮や偽の教行信証から離れることができる境涯です。これは浄土の功徳を学べば必ず獲得できます。そうすれば、お聖教を読むとき、言葉ひとつひとつに如来のいのちを見出すことができます。また、現実社会の問題も、如来召喚のよび声をたよりに、目指すべき真実の方向に眼を向けることができるのです。そして、真実でない方向に傾く者や、偽の思想に引っ張られている者や、自らの態勢を崩していながら自分の向いた方向を正しいとして迷う衆生の有様が見えてきます。そして何より、そこに自分の姿を見出すことができるのです。見出す鍵は念仏ですが、念仏が鍵となるためには、念仏の徳を詳しく知ることです。

 念仏の徳を述べ伝え、念仏の心を中心に歩む行者は、釈尊がただ独り悟りの岸に到達できた時よりこの方、綿々として無上菩提心を相続させてきたのであり、衆生済度のはたらきを自他に受け継いでいるのです。

安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきはもなし

『浄土和讃』(二〇)讃弥陀偈讃 より

 第十八願をふまえた展開

〉 自分の現在社会に置き換えて48願を考え、質問ではリストラにつながる教えで苦をまねきかねないと提起したつもりでしたがまだまだ発想が劣るのでしょうね。
〉 「三願転入」、「顕彰隠密の義」、「雑行雑修自力」などの説明がありましたが、これらは本当にそうなんだろうか、経典をひねくりまわすよりもっと素直に読んでもいいのではないかという私の段階です。
〉 いや、素直に読めればきっと善導・親鸞はじめ経典解説者のとおりなんでしょうね。

 B につきまして、「自分の現在社会に置き換えて48願を考え」とありますが、本当に四十八願の真意を領解できてみえるのかどうか、が問われます。深く領解することは正定聚・不退転の菩薩とならねばかないませんが、せめて「人類の歴史を褒め、社会性を尊むことが本願のもよおしである」ということは見えてみえるでしょうか。
 四十八願は第一願から順を追って、実に見事に組み立てられていますので、自分に置き換える前にまず仏意がいずれにあるかじっくり考えて領解して下さい。領解を経ず文字だけを現実に置き換えたら如来の真意を失います。
 仏意は「まごころ」で読んでいただかなくては読めません。懇切丁寧な経論釈を書かれた仏意を蔑ろにしないようにじっくり読んで下さい。経典や仏身はこの「まごころ」をこそ顕そうとしたもので、おそらく「求道の過程で必ずこの意に気付いてくれるだろう」という想いを込めて書かれたのでしょう。仏法は仏宝です。ここが宝の山であるということに早く気付いていただきたいのです。

「経典をひねくりまわすよりもっと素直に読んでもいいのではないか」ということについては、「素直に」というのが「仏意に随って」という意味なら賛成です。しかし先にも申しましたように、「文字通りに」という意味ならこれは大乗仏教経典を読む基本に適っていません。
 大乗仏教経典は、覚りの側の三昧の境地から現実に還って言葉が発せられたものです。特に浄土三部経の内容は、純粋な究極の覚りの一点から、一切衆生の複雑に幾重にも重なりあった現実社会へ向かって歴史を通して功徳が延びて、言葉として展開しているのです。いわば覚りの側からの摂取不捨の真言です。世俗の常識や論理では表現できないものを、あえて世俗の言葉を使って表現している正法なのです。これは世に伏流する尊い心の歴史なのです。
「真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない」と『大智度論』にありますように、大乗仏教経典を読む場合は如来への信が不可欠ですが、最初は雑毒の混じった信でも、それが誘い水になり、やがて回向の信が如来の側からあふれてくるので、自ずと雑毒の教行信証は捨てられ純粋な教行信証に転じられます。そしてその時「真実の智慧を依りどころとし」の意が味わえると思います。

 今回いただいた質問も、勉強を重ねていかれた後に読み返されると、「どうしてこんな目前にある簡単なことが分からなかったのだろう」と不思議に思われる時が来ると思います。私自身も、分からない時は本当に分からなかった。それが聞法を続けていて、気が付いたら全ての教説が胸に響くようになるのです。何度も聞いた言葉なのに、そこにいのちが通っていることに気付くのです。

 さらに「三願転入」等については、先に述べましたように、親鸞聖人の境涯に学んでいただき、速やかに第十八願に帰入し、本願力回向の菩提心を依りどころとしていただきたいと思います。そして、第十八願をふまえて、第十九願・第二十願と「三願展開」の方向にむかう新たな教学の展開にも耳を傾けて下さい。

 真の礼拝について

〉 質問の後で読んでいた本に私の疑問に明解に答えているのがありました。
〉 暁烏敏 「嘆仏偈講話」より「不如求道 堅正不卻」
〉 今日の人々はこの道を求めるために一生懸命な心について正しい理解をもたないようである。
〉 殊に真宗や基督教の人たちは多く仏の力、神の力によって助けられ、救われるものだとして、神の前、仏の前にひれ伏して、頭を下げ、礼拝し、その御利益にて助けて貰うのだといふ乞食根性を離れないのである。
〉 さうした乞食根性は法蔵菩薩の精神に背いておるのです。
〉 法蔵菩薩の誓願は、師匠世自在王仏の前に頭を下げて、その御利益によりて助けて貰う、救うて貰うというものではない。
〉 自分自らの道を求めて精進するというのである。これが阿弥陀仏の信念である。

「不如求道 堅正不卻」はご存知の通り『大経』にある「讃仏偈」の一節です。この言葉は「供養一切 斯等諸仏」の後に出てくるのですが、「供養」と「求道」の関係をどう見たらいいのでしょう。「供養」は止めて「求道」でしょうか。「供養」を通しての「求道」でしょうか?

 ところで、暁烏敏氏は大谷派の僧侶ですが、私は宗派にはこだわらず、時として宗旨・宗教も超えて、尊敬できる教説には耳を傾ける姿勢で学んでおります。すると他宗旨他宗派の中にも、心打たれる教説を展開される方々が大勢みえることがわかります。しかし中には導きどころを示し得ない説も多々あり、特に早合点の多い方も大勢みえますので注意が必要です。
 また、全体についてはよき導きとなっても、一部で問題点を残す教説もあります。さらに、部分的には問題なさそうなのに、全体のつながりが破綻している説もあります。これは先にある「言葉はよいが胸に自力の根がのこる」の例に当てはまってしまう場合で、真宗を名のっている僧侶の説にもみえる場合があるのです。
 もっと厳密に言えば、仏以外は誰も経典の意を完全に理解している訳ではありません。常に理解不足や言い足りないところが多かれ少なかれあるのです。もちろんこの文章を書いている私も同様です。それでもほぼ仏意を言い尽くされているのではないか、と信頼できる教説が聖典になっていまして、特に浄土論や往生論註や教行信証などは正しい導き書となっています。

 ところで、私が座右の銘というかそれ以上の重みでいただいているのが、「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念[おもい]を難思の法海に流す」という親鸞聖人のお言葉(『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(末) 後序)です。ここにあらゆる教説を観る眼が与えられ、人生の指針が顕れていると味わっていますが、本当に凄い言葉です。凄い領解です。

「心を弘誓の仏地に樹て」ると一体何が見えるでしょう。
 今まで「自分の分別の場」に立っていたところから一転し「弘誓の仏地にたつ」。しかも「樹つ」のですから根も張ったということです。微動だにしない浄土の大地に心がたてば、自分の微動・流転・転変する姿がまず見えます。ここに大きく慚愧・懺悔がもよおされ、浄土の徳が現われるのです。私が如来を見て仰いでいたところから転じて、如来の眼が私の眼に成り切っていただくのです。だからこそこの心は金剛心なのです。
「念を難思の法海に流す」と何が見えるでしょう。
 今まで「群生海」つまり「煩悩にまみれた社会・時代のうねり」に巻き込まれていたところから、同じ社会でも「法海」という真実をあきらかに現わす流れに添う。すると、その時々に合わせて言葉を誤魔化し、仏法でさえねじ曲げて解釈する浅ましい奴隷根性が見える。それも、自分の姿として見える。

 つまり、今までは薄氷のような自我の場に立ち、転変する群生海に流されて生きていた自分の姿を、如来が見られた通りに肯くのです。肯いた人は、同様に迷い悩む人々と共感する。そして同時に、すかさず懺悔・慚愧の言葉が述べられます。他を責める時でも常に自分の姿をそこに見出すのです。つまり真の懺悔は人類を代表した重みがそなわっています。
 私も迷いの人生を重ねてきまして、とても自分の人生を誇ることはできませんが、それに気付かせていただいたことが慶びなのです。

 扨、戦前から戦後にかけては、各宗旨・宗派とも、時代のうねりの中で教学が右往左往しました。例えば――非戦を訴える同門の僧侶を非難したり、戦地に赴く兵士に「死んで白骨となって帰ってこい」と言って送り出したり、時流に応じて天皇を賛美したりマルクス主義に傾いたり、何ごとも「男らしく引き受けるべき」として訴訟を妨害する等々、そこには自分の信念を仏の信念とすりかえ、時代の流れに添って法を捻じ曲げてきた僧侶の姿がありました。
 これを「時代のせいだ。教団を守るために仕方が無かった」と言い訳することは簡単ですが、その前に「仏地に樹」ち、「法海に流」した心念で、まずは懺悔をして頂きたい。他を見る前に自分の姿が見えてこそ本物でしょう。ところが、さらに自己弁護をはかり、弱き者に鞭打ち、時代の流れに添って大げさな言葉を述べ続ける僧侶も多くいました。

 おそらく知識の面ではそうした時代に翻弄された僧侶も勝れたものがあったのでしょう。また周囲には、好印象を与える人格が魅力を放っていたのでしょう。しかし残されている書を読む限り、どうも<行き当りばったりで、大げさな言葉が踊っている>と疑念を感じずにはいられないのです。

 ある意味、時代のうねりは信心の試金石でありました。それが一旦破れたとしたら、そこからもう一度如来の心に出遭い、自らの懺悔を通して次の展開を果さねばならないと思います。

いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす

『涅槃経』(迦葉品) より
(『顕浄土真実教行証文類』 化身土文類六(本) 真門釈 引文)

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
完全な聞[もん]でないとは、どのようなことであろうか。如来の説かれた教えは十二部経である。その中の六部の教えだけを信じて後の六部を信じないのは、完全な聞ではない。また、この六部の教えを受けたといっても、読んで理解することもできずに人に説くのであれば、何のためにもならない。それは、完全な聞ではない。また、この六部の教えを受けて、議論のために、他の人よりもすぐれたいために、利益のために、世俗的な目的のために、それを読んで人に説くのは、完全な聞ではない。

 「乞食根性は法蔵菩薩の精神に背いておる」・「自然に礼拝の心が湧くのである」等の言葉ですが、言葉については承るにしても、その心はどこに樹ってみえるでしょう。念はどこに流れているでしょう。
「ややもすれば仏をごまかそうとする。そんな根性で何で助かるものか」と述べてみえますが、誰が一番仏をごまかそうとしたのでしょう。一々の言葉について云々するだけでなく、その心根を問うことが必要かも知れません。
 問題を提起する時は、常に自分の姿をかえりみて、まずは慚愧・懺悔から始めるのが本来ですが、この言葉は、大きく道を外れた(と思われるように解釈して)人を引き合いに出し、それを非難して、自説を正当化するはからいが見え隠れします。

 念仏の行者は本願成就の経緯を聞き開いているうちに無上菩提心をおこし、仏果を含んだ信が私の人生を成就し、自他や社会を浄じていくのです。阿弥陀仏の信念は精進だけではありません。経典では「讃仏偈」にあるように六波羅蜜すべてを含んでいますが、その讃仏偈でも「光顔巍々として、威神極まりなし」と、まずは世自在王仏への礼拝から始まります。
 如来を礼拝するためには、私が如来の智慧と功徳のはたらきをたずねていく必要は確かにあります。訳も分からずに礼拝するのは正定行とは言えません。しかし未熟であっても本願の展開により、やがて真の礼拝に結びついてゆくのです。如来の側から始まる展開を忘れては真の礼拝はありません。礼拝だけでなく他の讃嘆・作願・観察・回向についても、如来の先手を見逃してはなりません。

 如来には大別すると「心光」と「色光」の光明があります。「色光」は智慧の具体相である徳を現わし、人々の信頼や尊敬を集めるはたらきをする光明ですが、「心光」は如来の側の純粋なはたらきで、ここにおいて、<私の思いを超えた私>を仏心によって見出し、それが私に成り切って下さるのです。「心光」のはたらきは私の側の感謝や精進によっておこるのではありません。といいますのも、感謝や精進の中には自分の心情が含まれているため、雑毒がまじり依りどころとはならないからです。心が晴れ晴れし感謝できる時はよいのですが、感謝できない時は自分を責めることになってしまいます。「心光」は感謝・精進できない私をも認めて、諸仏とともに励まして下さるのです。ここから始まって真の感謝・真の精進が生まれるのです。

晴れた心に安心するは
自力疑い悪虫よ

(浅原才市)

 つまり、礼拝を経ずに「自分の進むべき道」を見たという「道」は、少ないならがも「私道」が含まれているのです。聖典の教説の中から自分の理解できたところのみを受け入れ、それが多いと礼拝するが、理解できない時は本気で礼拝できません。ですから主になるのは、常に身業・口業・意業・智業・方便智業において如来の法門に随順する(如来のはたらきで、せしめられる)ところから「自分自らの道を求めて精進する」方向であり、精進や感謝から礼拝する方向は従になります。
 多くの人は最初はこうした従の理解のみで、まだ主になる方向が見えていません。それでも聞法を続けていくといつか心が転じられ、浄土からのはたらきかけが私そのものであることが見えるようになります。

〉 ほんとうの礼拝は、自分の智慧の眼を開かせていただき、自分の進むべき道を明らかにして下さった御恩に対し感謝する思いで、思わず知らず頭が下がるのである。自然に礼拝の心が湧くのである。

 ですから、こうした解釈だけではまだ常識の範疇であり、仏意を明らかにしたものとは言えません。薄皮一枚の差ですが、この差を破くことがある意味難しい。努力だけでは破れず、複雑な背景があるので見抜くことが難しいのですが、それでも聞法を続けていれば、いつか必ず破れる時が来ます。
 なおこれは、ひとり浄土真宗のみの問題ではありません。正しく仏法を伝えている宗旨であれば、たとえ感謝というような善であっても執着せず、常に今・今・今と新たな善業の展開を起こします。
 真実の感謝は痕跡を残しません。世俗の感謝は感謝によりかかります。浄土に往生するためには世俗の善では適わないというのは、こういうことからも言えるのです。また浄土の表現の中にもそうしたことがきちんと譬えて書かれています。

 現実にはどちらでもいいような、「鶏が先か卵が先か」と同じような問題に思えるかも知れませんが、「ほんとうの」と本質を聞くところで、「感謝が先で礼拝は後」と強く主張されれば反論せざるを得ません。感謝や精進が先行した礼拝は、時として勧めもしますが、それだけではまだ完全な礼拝とはいえません。親鸞聖人も『正信念仏偈』の初めに「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とまず礼拝されてみえます。ここが常識との差なのです。「一体何をこだわっているのか」と思われるかも知れませんが、大事なところですので、しつこく述べているのです。

 もし今の時点で分からなければ、とりあえず言葉だけ心にとめておいて、後日もう一度読み直して下さい。私も以前は同様の過ちを犯していました。当HPにも初期の頃の文章にはその誤謬がにじみ出ているかも知れませんので、時々全体をチェックしているのです。

「如来が先手」ということが真に分かると(これは「何でもいいから礼拝しろ」ということではありません)、聖典の内容全てが輝く宝であることに気付きます。全てというところがありがたいのです。
 特に最初は冗長に思える『教行信証』ですが、自分の思いを離れ仏意をうかがうと、どの引用文も、どの一文もないがしろにできない内容であることに気付きます。礼拝はそうした仏道の始まりであり、礼拝が後になる理解には私道が含まれると述べた理由です。

 私道も、周囲が穏やかな時には仏道と同じ方向を向く場合が多いのですが、時代や社会のうねりに飲まれてしまうと方向が狂いがちです。狂ったことに気付き正されるのは、衆生に回向される法蔵菩薩の修された功徳、つまり常に真実を求める純粋な仏心に依るしかありません。無明の闇の中で進んでも迷いを深める可能性が大です。実際、浄土真宗の歴史の中でも、時代の波に飲まれ、私道ゆえに迷い果てた教学が死屍累々と積み重なっているのです。
 まずは如来に礼拝して本願を学び、智慧の光を信受し、深き底よりの喚び声を聞き、実際の生活で如来の示す方向(生き方)を求めることが肝心です。方向が決まれば、それからの歩みは虚しい努力ではなくなります。障害や苦難があっても歓喜のうちに進むことができます。

 六波羅蜜も、真・仮・偽を見抜く如来のはたらきを得れば真の六波羅蜜になります。如来回向の金剛心を源泉とし、浄土召喚を示す方向に随いつつ六波羅蜜を意識していれば、おのずと六波羅蜜の真の姿が行じられるのです。しかし、自分の感謝や精進を先行させて、如来回向の心を後回しにして六波羅蜜を行っても、それは凡夫にとっては仮の行に留まるしかありません。
[浄土真宗には善の勧めはない?] 参照)

 最後に、ちょっと義憤にかられるのが以下の言葉です。

〉 殊に真宗や基督教の人たちは多く仏の力、神の力によって助けられ、救われるものだとして、神の前、仏の前にひれ伏して、頭を下げ、礼拝し、その御利益にて助けて貰うのだといふ乞食根性を離れないのである。

 この部分は、巧妙に問題の本質をすり替えた意地の悪さを感じます。同門の人々を見下し、わざわざ誤解し、その誤解に基いて一刀両断にしているのです。「この僧、思い上がりも甚だしい」と言わざるを得ません。供養の無い求道など私道に過ぎません。

 如来に頭を下げるのは乞食根性からではありません。如来の願力が私に与える敬虔な行為なのです。つまり、真に礼拝することで、傲慢な心を静め雑毒の活動を止め、如来の心の展開に乗じる準備をしつつ、そこに如来の名のり・叫びを聞くのです。

 聖典等資料

※資料1

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。忽然として中路に二の河あるを見る。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。「この河は南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念す。「われいま回らばまた死せん。住まらばまた死せん。去かばまた死せん。一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり。かならず度るべし」と。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。もし住まらば、すなはち死せん」と。また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得ず。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。これはこれ喩へなり。
 次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふ。「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。

また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また「回向」といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

三心すでに具すれば、行として成ぜざるはなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし。

善導大師著『観経正宗分散善義』 巻第四 上輩観 上品上生釈 回向発願心釈 + 三心結釈 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 引文 に引用)

▼意訳(現代語版『顕浄土真実教行証文類』より)
 また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。
 ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河を火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。<この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。私は今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北に逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう>と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。<わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない>と。
 こう考えた時、にわかに東の岸に、<そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう>と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚[よ]ぶ声がする。この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西に進んだ。
そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。
しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。以上は譬えである。

 次にこの譬えの意味を法義に合わせて示そう。
<東の岸>というのは、迷いの娑婆世界をたとえたのである。
<盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく>というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである。
<人影一つない広野>というのは、いつも悪い友にしたがうばかりで、まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。
<水と火の二河>というのは、衆生の貪[むさぼ]りや執着の心を水にたとえ、怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。
<間にある四、五寸ほどの白い道>というのは、衆生の貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたのである。貪りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のありさまはかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえたのである。
また、<波が常に道に打ち寄せる>というのは、貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、<炎が常に道を焼く>とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。
<道の上をまっすぐに西に向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。
<東の岸に人の勧める声が聞え、道をたどってまっすぐに西へ進む>というのは、釈尊はすでに入滅されて、後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。すなわち、これを声にたとえたのである。
<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。
<西の岸に人がいて喚ぶ>というのは、阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。
<間もなく西の岸にたどり着き、善き友と会って喜ぶ>というのは、衆生は長い間迷いの世界に沈んで、はかり知れない遠い昔から生死に迷い続け、自分の業に縛られてこれを逃れる道がない。そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来たれと招き喚ばれのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。
 また、すべての行者よ、何をしていても いついかなる時でも、この他力回向の信心を得て間違いなく往生できるという思いがあるから、これを回向発願心というのである。
 また、回向というのは、浄土に往生して後、さらに大いなる慈悲の心をおこして、迷いの世界に還って衆生を救う、これも回向というのである。
 以上の至誠心と深心と回向発願心の三心が欠けることなくそなわれば、もはやすべての行が成就しないことはない。願と行がすでに成就しているので、往生しないという道理はない。また、この三心は、定善にも通じるのである。よく知るがよい。

※資料2

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈 より

▼意訳(現代語版より)
いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の譬[たと]えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一真実の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。
「清らかな信心がおこる」というのは、金剛のように堅固な真実の心を得ることである。如来の本願力によって回向されたすぐれた信心であるから、破壊されることはない。これを金剛のようであるとたとえたのである。

※資料3

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

親鸞聖人著『一念多念証文』20 より

▼意訳(現代語版より)
「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬[たと]えにしめされている通りである。このような嘆かわしいわたしどもも、二河にはさまれた一すじの白道すなわち本願のはたらきの中を一歩一歩と少しずつ歩いていくなら、無碍光仏と示された光明のお心に摂め取ってくださるから、必ず浄土に往生することができる。そうすれば、浄土のさとりの花に生れ、阿弥陀如来と同じく、この上ないさとりを開かせていただくのである。このことを根本としなさいというのである。これを、「致使凡夫念即生[ちしぼんぶねんそくしょう]」といわれているのである。水火二河の譬えの中に、「一歩二歩と行く」とあるのは、一年二年と過ぎていくことをたとえているのである。  諸仏が世に出られ、釈尊がさとりを開かれて教えを説かれた本意は、凡夫は弥陀の本願を疑いなく信じて、正定聚の位に至り、浄土に往生することを根本としなさいということなのである。



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