平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

仏壇にロウソクを立てる意味

光明は如来の智慧と徳のはたらきを表わす

質問:

仏壇にろうそくを立ててあるのをよく見かけますが、なぜろうそくを立てるのですか?
ろうそくにはどのような意味があるのですか?

返答

 ろうそくには当然火を灯し、周囲を明るく照らしますが、ろうそくに限らず、光明は如来のはたらきを象徴しています。
 光明を大別すると、「心光・智慧の光明」と「色光・身放の光明」があり、前者は智慧そのもののの偉光をあらわし、後者は智慧の外にあらわれた具体相、つまり徳をあらわしています。仏像や仏画では、後光が放射状に延びているのは智慧の光明を表現し、身を包む甲羅のようなものは身放の光明を表現しています。(参照:[光明無量の願][ろうそくの色について]

『仏事のイロハ』(末本弘然著/本願寺出版社)には、以下のように説明されています。

 ローソクの火には二つの面があります。一つは“光”です。周囲を明るく照らすその光は、如来さまの智慧を象徴すると言われています。心の奥底までも知り尽くし、どろどろとした迷いの闇を隈なく照らして真実に向かわしめる智慧の光明です。
 もう一面は“熱”で、私はこれを如来さまの慈悲を表わすと味わっています。熱が氷を解かすように、お慈悲の“温もり”が私の固く閉ざした心を解きほぐして下さいます。またその炎からも、休むことなくはたらきかけて下さっている如来さまのお慈悲の心が伝わってくるでしょう。

 また、『大般涅槃経』には、仏の光明について以下のように譬えてあります。

 広い暗黒の野原がある。何の光もささない。そこには無数の生物がうようよしている。
 しかも暗黒のために互いを知ることがなく、めいめいひとりぼっちで、さびしさにおののきながらうごめいている。いかにも哀れな有様である。
 そこへ急に光がさしてきた。すぐれた人が不意に現われ、手に大きなたいまつをふりかざしている。真暗闇の野原が一度に明るい野原となった。
 すると、今まで闇を探ってうごめいていた生物が立ち上がってあたりを見渡し、まわりに自分と同じものが沢山いることに気がつき、驚いて喜びの声をあげながら、互いに走り寄って抱きあい、にぎやかに語りあい喜びあった。

 いまこの野原というのは人生、暗黒というのは正しい智慧の光のないことである。心に智慧の光のないものは、互いに会っても知りあい和合することを知らないために、独り生まれ独り死ぬ。ひとりぼっちである。ただ意味もなく動き回り、さびしさにおののくことは当然である。
「すぐれた人がたいまつをかかげて現われた。」とは、仏が智慧の光をかざして、人生に向かったことである。
 この光に照らされて、人びとは、はじめておのれを知ると同時に他人を見つけ、驚き喜んでここにはじめて和合の国が生まれる。
 幾千万の人が住んでいても、互いに知り合うことがなければ、社会ではない。
 社会とは、そこにまことの智慧が輝いて、互いに知り合い信じあって、和合する団体のことである。
 まことに、和合が社会や団体の生命であり、また真の意味である。

 ちなみにこの前半は、「灯の集い」でもよく用いられる言葉です。

 さらに『仏説無量寿経』におきましては、阿弥陀如来の光明を12種類の呼び名を挙げて、そのはたらきをたたえています。

 仏、阿難に告げたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一なり。諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏光ありて、百仏世界あるいは千仏世界を照らす。要を取りてこれをいはば、すなはち東方恒沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたまたかくのごとし。あるいは仏光ありて七尺を照らし、あるいは一由旬・二・三・四・五由旬を照らす。かくのごとくうたた倍して、乃至、一仏刹土を照らす。このゆゑに無量寿仏をば、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず。もし三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし。寿終りてののちに、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明は顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀したまふに、聞えざることなし。ただ、われのみいまその光明を称するにあらず。一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに歎誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞・大衆のために、ともに歎誉してその功徳を称せられん。それしかうしてのち、仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を歎められんこと、またいまのごとくならん」と。仏のたまはく、「われ、無量寿仏の光明の威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽すことあたはじ」と。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 光明無量 より

▼意訳(現代語版より)
 さて、釈尊が阿難に仰せになる。
「無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、他の仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。
 無量寿仏の光明は、百の世界を照らし、千の世界を照らし、ガンジス河の砂の数ほどもある東の国々をすべて照らし尽し、南・西・北・東北・東南・西南・西北・上・下のそれぞれにある国々をもすべて照らし尽すのである。 その光明は七尺を照らし、あるいは二・三・四・五由旬を照らし、しだいにその範囲を広げて、ついには一つの仏の世界をすべて照らし尽す。 このため無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・焔王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と名づけるのである。
 この光明に照らされるものは、煩悩が消え去って身も心も和らぎ、喜びに満ちあふれて善い心が生れる。 もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後に迷いを離れることができる。
 無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名の聞こえないところはない。 わたしだけがその光明をたたえるばかりでなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じくたたえておいでになるのである。 もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、日夜それをほめたたえ、まごころをこめて絶えることがなければ、願いのままに無量寿仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられる。 その後、仏のさとりを開いたときには、今わたしが無量寿仏の光明をたたえたように、すべての世界のさまざまな仏がたや菩薩たちにその光明をたたえられるであろう」
釈尊が仰せになる。
「無量寿仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく説き続けても、なお説き尽すことができない」

 曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』において、こうした仏の様々な名のりの由来を解釈されました。

 南無阿弥陀仏{釈して無量寿と名づく。『経』(大経)に傍へて奉讃す。また安養ともいふ。}

現に西方この界を去ること、十万億刹の安楽土にまします。
仏世尊を阿弥陀と号けたてまつる。われ往生せんと願じて帰命し礼したてまつる。
成仏よりこのかた十劫を歴たまへり。寿命まさに量りあることなし。
法身の光輪法界にあまねくして、世の盲冥を照らす。ゆゑに頂礼したてまつる。
智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
解脱の光輪限斉なし。ゆゑに仏をまた無辺光と号けたてまつる。
光触を蒙るもの有無を離る。このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
光雲無礙にして虚空のごとし。ゆゑに仏をまた無礙光と号けたてまつる。
一切の有礙光沢を蒙る。このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
清浄の光明対ぶものあることなし。ゆゑに仏をまた無対光と号けたてまつる。
この光に遇ふもの業繋除こる。このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
仏光照曜すること最第一なり。ゆゑに仏をまた光炎王と号けたてまつる。
三塗の黒闇光啓を蒙る。このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。
道光明朗にして、色超絶したまへり。ゆゑに仏をまた清浄光と号けたてまつる。
一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
慈光はるかに被らしめ、安楽を施したまふ。ゆゑに仏をまた歓喜光と号けたてまつる。
光の至るところの処法喜を得。大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
仏光よく無明の闇を破す。ゆゑに仏をまた智慧光と号けたてまつる。
一切諸仏・三乗衆、ことごとくともに歎誉したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
光明一切の時にあまねく照らす。ゆゑに仏をまた不断光と号けたてまつる。
光力を聞くがゆゑに、心断えずしてみな往生を得。ゆゑに頂礼したてまつる。
その光仏を除きてはよく測るものなし。ゆゑに仏をまた難思議と号けたてまつる。
十方諸仏往生を歎じ、その功徳を称したまへり。ゆゑに稽首したてまつる。
神光、相を離れたれば、名づくべからず。ゆゑに仏をまた無称光と号けたてまつる。
光によりて成仏したまへば、光赫然たり。諸仏の歎じたまふところなり。ゆゑに頂礼したてまつる。
光明照曜すること日月に過ぎたり。ゆゑに仏を超日月光と号けたてまつる。
釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず。ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつる。

曇鸞法師(大師)作『讃阿弥陀仏偈』 より

 親鸞聖人は曇鸞大師のこの解釈を下地に、『正信偈』や『浄土和讃』を著され、浄土真実の教えを日本において展開する礎とされたのです。

(参照:{弥陀果徳 光明無量 }


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