平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

社会的使命感と雑毒の善

信心の喜びは大悲佛心の喜びを得ること

質問:

 浄土真宗は私を「煩悩具足の凡夫」と指摘し、「自力(はからい)を捨てよ」と言います。この教えにしたがって自己を見つめるとき、自分のいろいろな欲望や執着については、指摘されるままですから何の疑問もありません。
 しかし一方で、私が「@社会に対してある問題を感じており、Aその問題が解決される事を願う気持ち、Bその問題を解決しようとする能動的な使命感をもち、C全く不完全ながらもその使命感を実行しつづけている」ことも事実です。この部分をどう解釈したらよいのでしょうか?
 この社会的使命感には当然、功名心や利益心、縄張り意識、感謝賞賛を求める意識などが垢のようにこびりついています。だから、自力とか雑毒の善と指摘されてばその通りなのですが、雑毒ながらも勇気をもって使命感を実行し、継続している原動力が「名利心」だけだと簡単に片付けてよいのでしょうか?
 こびりついた名利心が使命感の本筋から私を脱線させる事は常にあります。しかし、なんども脱線しながらも、気が付くと元の本線に戻っており、当初の使命感のとおりに実行している自分を見つけます。これでも、全ては名利心のなせるわざと思わなければならないのでしょうか?
 そうすると、わたしはこれまでの私の活動、私を教えて育ててくださった数々の師、私の活動の現在と協力者、将来の計画を全て「あさましき煩悩のわざ」としてとらえなければなりません。そうなると、なんと砂を噛むような味気ないじんせいでしょうか。親鸞聖人は凡夫が抱く社会問題に対する問題意識や使命感、その実行について何とおっしゃっているのでしょうか。

返答

 このご質問には、とても大切な問題が、ある意味無造作に盛り込まれています。
 まず、本当に「浄土真宗は私を煩悩具足の凡夫と指摘」しているのでしょうか? また、「自分のいろいろな欲望や執着については、指摘されるままですから何の疑問もありません」とこのとですが、欲望や執着は自分そのものではありません。本当の自分はどこにあるのでしょう。

◆ 信心と社会的使命の関係

 ご存知かと思いますが、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の誓われた48の本願のうち、第一願から 「国」の問題が出てきます。如来が総じて問題としたのは個人の問題に留まっていません。社会的使命感は、阿弥陀如来を仰ぐ念仏者であれば当然保持すべき心得でしょう。

たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 四十八願 1 より

▼現代語版
わたしが仏になるとき、わたしの国に地獄や餓鬼や畜生のものがいるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 この詳細について[ご本願を味わう 第一願 無三悪趣の願] にも引用しましたが、「一人ひとりが人間として成就し、この煩悩濁世の世を浄めて、りっぱな社会を造る外には、人間の救いはないとさとって、その道として四十八願を見出だし、自己を成就し浄土を造った。その歴史の底を貫いて、人間の魂の根源から動かしている、根源的主体を法蔵菩薩とといているのです」と島田幸昭氏も述べてみえますように、如来の本意は、「私たち一人一人が人間として成就して社会に貢献していく」ことにあります。

 たとえば自分の浅ましいことが知れるのは、仏の力であるということを説明するのに、昔はよく「松影の暗きは、月の光かな」という譬が引かれていました。「松の影」とは人間の浅ましい相、「月の光」とは仏の光明のことといわれているのですが、ここには一つの盲点がありましょう。もちろん月が出なかったら、松の影は地上には映りませんが、その影を見ているのは月ではなく、自分ではありませんか。龍樹菩薩が「刀は相手を斬ることはできても、刀自身を斬ることはできない。眼は他のものを見ることはできるが、眼自身を見ることはできない」と言っているように、この譬では影を見ている自分自身が見えてないでしょう。見ている眼は愚かではありません。
<中略>
信仰の場合では、影が自分であるといいます。人間は煩悩のかたまりとか、罪のかたまりと言っていますが、これはまちがいで、影はどこまでも影であって、松でもなく、蟹でもありません。仏教では煩悩のことを、垢とか毒といっていますが、これはくせのことです。どんなに垢にまみれていても、私は垢ではありません。くせはくせ、私は私です。愚かな自分を悲しみ、浅ましい自分に泣いている、その悲しみ泣いている、それが本当の自分です。腹が立ち、欲が起こるのはくせで、腹を立てたくない、欲を起こしたくない、そう願っているのが自分です。この泣いている心、願っている心を仏性というのです。

島田幸昭著『仏教開眼四十八願』より

「煩悩具足の凡夫」とは浄土真宗でよく使われる言葉ですが、この言葉を大上段に振りかざしてしまうと、話は単純ですが真実とはいえません。「煩悩具足の凡夫」とは、如来の光明に照らされた私の自覚からのみ見えてくるのものであり、決して既成事実として断定されるものではないのです。
 ところがこれを、自己を限定する思考に転化したり、他人に押し付けたりすることで、民衆を宿業の鎖で縛り、身分差別の存続に一役買った歴史さえあるのです。これは愚民政策の最たる例と言わざるを得ません。

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり

『浄土和讃』(九四) 諸経讃


五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

『正像末浄土和讃』(31)

 如来は私たちを拝みこそすれ、蔑む心は持ってみえません。如来の願いが様々なご縁によって私に至り届き、そこで本当の私を見出し、尊く成長していく要が信心です。「お育てにあずかる」ということを抜きに語れば「煩悩具足の凡夫」という言葉はその真意を失います。煩悩は如来の光明に出遭う機会とはなりますが、私自身が煩悩ではありません。煩悩を正直に見つめ、煩悩をなげく心こそ、信心となって至り届いた如来の心のあらわれであり、その種を育て、身体中に満たし花開かせることが信心の生活なのです。

 そんな中、私の信心と社会的使命とはどのように関わっていくのでしょう。

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。以上

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 偈前序説 より

▼意訳(現代語版)
そもそも誓願の内容には、真実の行信があり、また方便の行信がある。その真実の行を誓われた願は、諸仏称名の願(第十七願)である。その真実の信を誓われた願は、至心信楽の願(第十八願)である。これがすなはち選択本願の行信である。その救いの対象は、善人や悪人大乗や小乗の教えに遇うもの、これらすべての凡夫である。その往生は、難思議往生である。その仏と国土は報仏・報土である。これがすなはち、衆生のはからいを超え、真如にかなった、唯一真実の本願海であって、『無量寿経』に説かれた法のかなめであり、他力真宗の教えの本意である。
 ここに、仏の恩を知り、その徳に報いるために曇鸞大師の『往生論注』をひらいてみると「菩薩は仏にしたがう。それはちょうど親孝子な子供が母にしたがい、忠義な家来が君主にしたがって自分勝手な振舞いをせず、その行いが、必ず父母や君主の意向によるようなものである。仏の恩を知ってその徳に報いるのであるから、何ごともまず仏に申しあげるのは当然である。また衆生救済の願いは、軽々しいことではない。如来の尊い力がなければ、どうしてこれを達成することができよう。そこで、如来がそのお力をお加えくださることを乞うのである。このようなわけで天親菩薩は仰いで世尊に告げられるのである」といわれている。

 これは『正信念仏偈』の前に述べられたお言葉ですが、「衆生救済の願いは、軽々しいことではない。如来の尊い力がなければ、どうしてこれを達成することができよう」とありますように、「衆生救済の願い」は私の願いとして転じられてこそ如来の本意なのです。ですから、私が真摯に如来の心を学ぶことは、結果として社会的使命を果す極みともなりましょう。そしてそれは、自分個人の勝手な計らいを超え、常に如来の誓願を仰ぎ、常に如来の徳を讃嘆する中に活動の源を見出してゆくべきなのです。

◆ 法執を避ける

 以上のように、弥陀の本願と社会的使命は密接に絡み合っています。ただし、念仏の行者がこれを実際に行じていくとき気をつけなければならないことは、「私は仏法の使者である」というような思い上がりが生じてきたり、本願を説くはずが自説を説く、如来のおかげであるはずを自分の功績として褒めてもらいたい、などという性根が頭をもたげてくることです。
 これは親鸞聖人においても同様だったことが記されています。

 まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 仮偽弁釈 より

▼意訳(現代語版)
 いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、歎かわしいことである。

 しかし、自身の無慚無愧に気付かれた聖人は、これを単に歎くのではなく、一切衆生とともに、如来のはたらきによる慚愧へと転換されていかれます。

 それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。<中略>仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたはず」と。以上

『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈 より

▼意訳(現代語版)
 さて、仏は治しがたい病のものについて、『涅槃経』に説かれている。 「迦葉よ、世の中にはその病を治しがたい三種類の人がいる。一つには大乗の法を謗るもの、二つには五逆罪を犯すもの、三つには一闡提である。このような三種類の人の病は、この世でもっとも重く、これらはみな声聞や縁覚や菩薩などの教えでは治すことができるものではない。<中略>これらの人は仏・菩薩にしたがって、すべてのものをさとりに至らせる尊い法を聞いてその病が治り、無上菩提心をおこすであろう。声聞や縁覚や菩薩などは法を説く説かないにかかわらず、これらの人に無上菩提心をおこさせることができない」

 こうした聖人のお言葉について、階級闘争の地獄を経験してきた中国人の張偉さんは――

 聖人は、弥陀の誓願に救われる衆生の中の一人である親鸞と、すべての衆生を内包する一人である親鸞を見出して、心の中で大きな転機を迎えたのです。慚愧の心のない自身が、阿弥陀如来によって慚愧することができた。そこにおいて、心の深いところから人間のはからいの次元の怒りを飲み込む大きな慚愧と悲しみが生じてきたのでしょう。それと同時に本願の無辺の慈悲に包まれる歓喜の情も生じてきます。そのような感情のうねりが『教行信証』全体を貫いています。

張偉 著『海をこえて響くお念仏』大悲の救済の道をひらく より

というように味わわれてみえます。

 さらに、「正義は負けろ」の意味 にも引用しましたが、金子大榮氏は――

 如来の加威力による信楽は敬虔であり、大悲の広慧力に依る眞心は柔軟である。それ故に、その信心は顛倒でなく虚偽ではない。而してそこに現われる喜びの心は聖尊[ほとけたち]の重愛を感ずるものである。洵にこれ永遠眞実なる光の中に自身を見出せる喜びである。
 信心が若し我等の心によりて決定せらるならば、それは固執の形となるであろう。そこには敬虔の情もなく柔軟の心もあり得ない。したがって、その信心は顛倒であり虚偽である。
 それ故にそこに喜びといふものがあっても、それは内心に誇りを有つ凡夫の満足に過ぎない。それは決して諸仏の重愛を感ずるということはないであろう。ただこれ邪見驕慢の小肯定に外ならぬからである。
<中略>
 信心とは如来の本願を聞きて疑いなき心である。それは大なる願心が小さき胸へと徹る一念である。それ故に信心というも歓喜の外にはない。それは狭き凡心が広き佛心に覚まされる時尅である。そこに現われる歓喜こそ信心といわれるものであらねばならない。
<中略>
 自の喜びの深さは、他の喜びとなれることを知るところにあるようである。随喜されない喜びは眞の喜びではない。これは人間の自他に於て感ぜられることである。しかるに今ここに信心の喜びは佛心の喜びを得ることであることを知らしめられた。その喜びは究まるところがない。洵に広大難思の慶心である。
 今さらに信心とは大悲であり大喜であると説かれたる、その御心の有難さを思う。愛情によるわれらの小喜・小悲は、みなその大悲・大喜の心に和め解けしめられるのである。

金子大榮 著『口語譯・教行信証』信の巻 領解 より

と述べられています。
 つまり「内心に誇りを有つ凡夫の満足」は「邪見驕慢の小肯定」であり、真実信心は「狭き凡心が広き佛心に覚まされる」ことにより「小喜・小悲は、みなその大悲・大喜の心に和め解けしめられる」という境涯を生みます。
 社会的使命というのも、「自の喜びの深さは、他の喜びとなれることを知る」という随喜こそ本来であり、その源はあくまで如来の慈悲より発しています。

 こうした慚愧の源をもたない活動は、得てして自己の主張の押し付けとなり、他人や他宗を誹謗することに自責の念もなく、頑[かたくな]なグループを作って閉じこもるような、社会の害毒にしかならない行動に陥りがちです。実際、世界中で宗教の違いによる紛争が絶えない一つの原因はここにあるといえましょう。
 そうした意味でも「悲しきかな愚禿鸞」と歎かれた聖人のお言葉は、様々な世界で宗教者や個人が活躍する時の基本姿勢となるのではないでしょうか。

◆ 教学と実践

 さらに、教学と実践の関係についても話を進めてみなければなりません。といいますのは、浄土真宗の組織が社会的な行動を起こそうとする際、よく「そんな社会的な活動より教学を学ぶことが先ではないか」という意見が出るからです。そしてその意見は結局、社会的な行動の足を引っ張ることにつながることが多いのです。

 実際、自由な話し合いの場においては様々な積極的な意見が出ても、「それは教学的にはどうなんですか?」という問いが出ると、途端にその積極性が失われてしまうことが往々にしてあります。

 「教学」が先か「実践」が先か、という議論の中で、あきらかに言えることは、教学に則って実践があり、実践を支えるために教学があります。どちらが先かという不毛の議論をやる暇があったら、少しでも若者に夢と希望を与えられる環境づくりを急がねばなりません。
 教学と実践が車の両輪として力強い前進を見たのは、蓮如上人の時代でした。思うに、これは念仏の第一期黄金時代だと考えられます。次に第二期黄金時代は念仏の声が全世界に聞こえる時でしょう。少なくとも、若い人はそういう夢と使命感を持って行動すべきです。自分たちの能力を日本で発揮するのみならず、広い世界で鍛え、活躍すべきなのです。これからの国際社会の将来は無数の若い念仏者による伝道を必要とします。
 アメリカのテロ事件を機にキリスト教とイスラム教の争いが顕在化している今、現実と向きあって実践するという、当面の課題を真摯に希求するなら、「殺すなかれ」「血を流すなかれ」という教えを、世界に向って伝道することが急務になってきています。
 「念仏の声を世界に子や孫に」というスローガンが出来てすでに二十年、念仏の救いのすばらしさは浄土に通ずる今を生きようとするものとして、人類社会の未来を拓[ひら]くものとして、遅いながらも着実な歩みを続けています。世界に自由、平等、平和を実現するためのミッションとして、また個人的な孤独や生死の問題に答える宗教として、私たちは十分ではないが、亀の歩みを続けてきたことは確かです。
 仏教は突き詰めるところ、一人ひとりの凌[しの]ぎです。他人を見るのではなく、自分が何を考え、どう実践するかです。自分をどう見せるかではありません。伝道も自分にないものをあるかのように見せかけるのではなく、良いも悪いもすべてをさらけ出して、求める人に強く訴えようとする時に、アミダさまのお手づぎができるのです。
 私の場合、永いベッド生活を支えてくれたお念仏との出会いは、いつ思い出しても感激するドラマでありました。そしていつも、ご恩報謝とは何だろうと思案していましたが、自己満足のお念仏だけでは何にもならないのではないかという想いは、消すことができませんでした。
 十八年も前になるでしょうか、両親を亡くして傷心のお釈迦さまの跡を訪ねる旅行に出た時に、偶然会ったアメリカの若者たちとの語らい、彼らが山登りだけではなく、仏教を勉強したいのだということを知るに至りました。その時、いつの日かネパールに仏教研究所を建てて、年間五万人もやってくる彼らに、親鸞聖人の教えを学んでもらおうと決心しました。そして十年後、赤レンガ造りの瀟洒[しょうしゃ]な夢のペンションは、カトマンズ国際空港から車で二十分のところに実現しました。現在は二階建て、五部屋、十二ベッドの規模になり、宿泊料は無料です。
 この計画にはもう一つの意図があることを明かさなければなりません。それは寺院経営はどうあるべきかを実験するためのデータ集めです。付近の人に呼びかけて、少年部や青年部を組織し、毎週、仏教を一時間勉強し、その後市内を一時間清掃することから始めました。ほかに、会員の具体的な活動内容は、でこぼこ道に対応する車イスを外注で現地生産し、貧しい身障者に無料で配る、献血運動をしてストックを確保する、ボランティア医師五人に頼んで無料診療を実施し、薬を無料で配る、入院中の患者を見舞い果物を配る、仏教研究所の旗を先頭に平和行進する、などです。
 外国人にはネパール、インド、チベット方面の旅行の情報提供と相談も行っています。私も毎年、車イスの添乗員として、多くの日本の同行をここにお連れして、引き続きインド方面へ仏教遺跡の旅にでかけることにしています。
 これからの夢は、この仏教研究所を短期大学に格上げして、各国の若者に英語で教学を学習してもらい、お釈迦さまの国から念仏のメッセージを全世界に発信して、平和な社会、美しい地球を創る行動に大きな貢献ができることです。

向坊弘道「伝道 No.57」より

 現在の教団の一番の問題は、「実践を導かない教学」、そして「教学を忘れた実践」、ということに尽きるでしょう。向坊弘道氏(福岡教区 門徒)も述べられてみえるとおり、仏の心が広まることでしか本当に世界に平和が訪れることはないでしょう。

 親鸞聖人のお言葉を、去勢した視点でしか理解していないと、教学と実践が空回りしてしまいます。本当は、社会的使命を実践に移すためには、大いに教学を学ぶ必要があるのです。そのためには、教学を中途半端に聞かないことです。そして必ず実践をともなって学ぶことです。
 どんな小さなことからでも実践はできます。私の日常生活がその実践の場です。家庭の中から社会にその範囲は自ずと広がるはずです。そして活動を通してこそ、教学もより深く味わうことができるのです。

 教えを学べば心が動き身体も動く。実践すれば教えを学びたくなる。そして社会的使命も浄土の尊さから自ずと生じ導かれるものです。そうした中で、「穢土と浄土」「この世とあの世」「此岸と彼岸」の関係をしっかり把握することも重要になります。なぜなら、ここにこそ教学が実践を導く源があるからです。

仏教でこの世というのは、迷いの世界をいい、それに対してさとりの世界を、あの世というのです。ここで世界というのは、地球や星の世界のことではなく、社会のことです。仏教で三世間ということを説きます。噐世間と衆生世間と如来世間ですが、これがはっきり解れば、この世とあの世、穢土と浄土が解ります。私がまだ若い頃、ある有名な仏教学者に、「噐世間とは何をいうのでしょうか」と尋ねましたら、一口「山河大地」といわれました。私はびっくりしました。この人は唯識学の大家といわれているのに、唯識がわかっておらん。この人さえ解っておらんのだから、他は推して知るべし。仏教界に人はおらんのかと、情けなくなりました。「噐世間」は、噐はうつわで、私たちがそこに生活している場所のことですから、今日の環境のことです。一口に環境といっても、その中に自然環境と道具環境と人間環境と社会環境の四つがありますが、仏教でいう世間は、山とか川というような、自然環境ではなく、そこに住んでいる人によって造られた社会環境のことです。「世間はうるさい」という、あの世間のことです。その噐世間に、衆生世間と如来世間がある。衆生世間は、迷いの世界といわれる宿業による五濁悪世のことであり、如来世間は、さとりの世界で、法蔵菩薩の本願によって成就された浄土のことです。その衆生世間のことを、この世とか穢土といい、如来世間のことを、あの世とか浄土というのです。しかもこの二つの世間は別々にあるのではなく、唯だ一つの噐世間の二面です。詳しくいう時間がありませんが、弥陀の浄土は遠くにあるのではありません。「法蔵が、修行の場所はどこにあるか。みんな私の胸のうち」。衆生世間は、盲目的な我執によって造られた世界であり、如来世間は、一人ひとりに宿っている仏性によって造られた世界で、この私たちがいう社会は、二重の構造を有っているのです。「シャバの世界というも、ここのこと。極楽の世界も、ここのこと。これは目の幕切りをいう」と、浅原才市同行がいっているでしょう。これは心の眼が開かねば、見えぬ世界です。浄土に生まれるとは、この衆生世間に住んでいたものが、如来世間に眼を開くことです。
<中略>
・・・この世は重々無尽の世界であることをさとりました。
 たとえば私を中心とすれば、そこに父があり母があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界ががらっと変る。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。在り方の関係が変るだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変る。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の国の住民である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の国の住民である。私の国が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の国が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それはその人が、周囲の人の胸にどう映っているかという所に現われている。何とこの世は不思議な世界だなあ。しかし何と厳粛な世界であろうか。ははあ、仏教で一仏一土、一つの国に二仏並び出ずというがこのことか。この世はお釈迦さまの世界で、無勝国土という。このシャバ世界には、仏はお釈迦さまだけであるというが、解釈の間違いである。お釈迦さまを中心とすれば、この世はお釈迦さまの世界であるが、私を中心とすれば、この世は私の世界である。これは責任重大だぞと思いました。
<中略>
私たちの常識の眼は前面だけしか見えませんが、心の眼は「前を向いたまま、前と後が同時に見える眼」です。菩提心は、前面に宿業の世界を見出だすと同時に、見ている自分の立場となっている浄土を自証する智慧です。今「国に地獄・ガキ・畜生がないように」というのは、前面に見えた私たちの現実生活に対して願っているのですが、そう願うことによって、願っている自己の足元に真実の世界を見出だすのです。「そこから」逃げた所に浄土はない。「ここで鳴らん太鼓は、どこへ行ってもならん」のです。与えられた「そこにおいて」どう生きるか。自己の真実の在り方を求めて起ちあがる。逃げたい一ぱいの心が、ここを外にして、私の生きる場所はどこにもなかった。受けねばならぬ宿業は受けてゆこうと、重い宿業を背負うて立ったとたんに、宿業は背中に負うた荷物で、立った両足は、浄土の大地から生え抜いた蓮台を踏まえているのです。浄土は自己の在り方の真実を求めて立った、その菩提心が、自己の内面に感ずる世界です。
<中略>
 ここで問題になるのは、苦とは何かということです。今まで仏教徒が問題にしてきたものは、多くは生老病死の四苦と、それに愛の別離苦、怨憎の会苦、求めて得ざる苦、五陰盛苦の四つを加えた八苦ですが、私は地獄という言葉によって現わされている苦は、自然苦、人間苦、社会苦、そういう人生全体の苦というものをひっくるめて、言うておるように思います。浄土教で主として問題になるのは、業苦といわれるもので、たんなる自然苦ではなく、盲目的な衝動的行為によって、歴史的に形成された罪の報いとしての苦ですから、むしろ人間悪、社会悪といった方がよいかも知れません。

島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』 より



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