平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「正義は負けろ」の意味

― 二種の負け姿 ―

質問:

 一つ教えていただきたいのは金子大栄師のことば「正義は負けろ」です。
 大法輪に載ってましたね。その出典と本来の意味をご教示いただけると幸いです。
 この言葉はアメリカに贈りたいですね。

返答

 大法輪10月号では、「ネット巡礼記」で当HPも紹介されていまして、そのご縁で質問して頂いたようですが、「正義は負けろ」という言葉について、まずは大法輪での解説を引用させてもらいます。

正義は負けろ

――金子大栄

 金子大栄師はお東系の真宗学者ですが、日本仏教各宗派を超えた広い讃仰者をもった方でした。その折々の一つ言葉に、掲出の句や「我正しと思わば負けよ。さすれば平和あり」と語られたそうです。ひと頃「正義は必ず勝つ」という、裁判事件を材にした連続テレビドラマがありました。「正しい事を正しいと主張するのに何の遠慮がいるものか」というのが、私たちの社会通念・世間常識。でも今の世の中、正しいことを正しいと主張する所に、どのくらい揉めて、争い、憎み合い、はては殺し合うことか。
<中略>
 蓮如も「負けて信とれ」といわれています。「正義は負けろ」に通じます。商売の世界では、「この言葉、真だなあ」と思わされること、再々なのです。

『大法輪』10月号 仏教の名句・蔵言 解説:亀井鑛 より

 以上にありますように、これは金子氏の「折々の一つ言葉」として普段から述べられていたもので、出典が特定されるものではないようです。
 また「本来の意味」については、上記の解説が既に教示となっていますが、金子氏の文をひとつ紹介させていただき、信心について味わいを深めてみましょう。

 如来の加威力による信楽は敬虔であり、大悲の広慧力に依る眞心は柔軟である。それ故に、その信心は顛倒でなく虚偽ではない。而してそこに現われる喜びの心は聖尊[ほとけたち]の重愛を感ずるものである。洵にこれ永遠眞実なる光の中に自身を見出せる喜びである。
 信心が若し我等の心によりて決定せらるならば、それは固執の形となるであろう。そこには敬虔の情もなく柔軟の心もあり得ない。したがって、その信心は顛倒であり虚偽である。
 それ故にそこに喜びといふものがあっても、それは内心に誇りを有つ凡夫の満足に過ぎない。それは決して諸仏の重愛を感ずるということはないであろう。ただこれ邪見驕慢の小肯定に外ならぬからである。
<中略>
 信心とは如来の本願を聞きて疑いなき心である。それは大なる願心が小さき胸へと徹る一念である。それ故に信心というも歓喜の外にはない。それは狭き凡心が広き佛心に覚まされる時尅である。そこに現われる歓喜こそ信心といわれるものであらねばならない。
<中略>
 自の喜びの深さは、他の喜びとなれることを知るところにあるようである。随喜されない喜びは眞の喜びではない。これは人間の自他に於て感ぜられることである。しかるに今ここに信心の喜びは佛心の喜びを得ることであることを知らしめられた。その喜びは究まるところがない。洵に広大難思の慶心である。
 今さらに信心とは大悲であり大喜であると説かれたる、その御心の有難さを思う。愛情によるわれらの小喜・小悲は、みなその大悲・大喜の心に和め解けしめられるのである。

金子大榮 著『口語譯・教行信証』信の巻 領解 より

◆ 我執の負け

 多くの宗教で、また一部の仏教宗派でも、布教伝道というものを<他を否定して自分達の教えを信じさせること>と考え、教法を押し付けたり強要した方法がとられることがあります。これは上記でいえば、「我等の心によりて決定せらる」、つまり自分の思い込みで信じているのであって、喜びといっても自己満足に過ぎない訳です。
 そのため、法を本当には受け入れることができず、逆に教えに固執し、他人がその教えを聞き入れないと、逆上したり、相手を<可哀相な人>と見下すことで本心を誤魔化しているのでしょう。実に「自力の信」ほど危険なものはありません。

 本来は、そうした私が「永遠眞実なる光」に照らされることによって、我が姿に驚き、慚愧の心が芽生え、「大なる願心が小さき胸へと徹る一念」によって目覚める、そうした歓喜を真実信心と呼ぶのです。これは自らが生み出した小さな誇り、つまり他と見比べて勝とうとする我執が負けて、おのずから敬虔で柔軟な心に転じられることを意味します。

 こうした姿について「負けて信とれ」という蓮如上人のお言葉をもう少し詳しく聞いてみますと――

 総体人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。

『蓮如上人御一代記聞書』(160)

――以下意訳―― (現代語版)
「概して人には、他人に負けたくないと思う心がある。世間では、この心によって懸命に学び、物事に熟達するのである。だが、仏法では無我が説かれるからには、われこそがという思いもなく、人に負けて、信心を得るものである。正しい道理を心得て、我執を退けるのは、仏のお慈悲のはたらきである」と、蓮如上人は仰せになりました。

と、明確に示して下さっています。

◆ 法執の負け

 ここでもう一つ忘れてならないことがあります。それは以上のような理屈を頭に詰め込み、その理論を振りかざして得意になっている人が案外多いことで、これは法執といって、我執以上に慎まねばならない課題です。これは喩えるなら、芸術作品を値段を聞いて納得しているような状態で、本当に作品に感動したところから言葉が出ていないため、他の人に感動を呼び起こすことなどなく、それでも理論を振りかざして相手をやり込めようと必死になっている、そんな人がけっこう多くみえるのです。

 つまり、「随喜されない喜びは眞の喜びではない」ということを知らず、<相手をこの教えでやり込めてやろう>とか、<あいつの驕慢な心根を打ち砕いてやろう>と、布教・伝道を勝ち負けで計るようになると宗教が凶器と化します。
 実際にはこの凶器がどんな姿かと言いますと――「あれだめ」「これだめ」「そんなもんは仏教じゃない」「仏心なんか理解できるわけない」「この宗旨以外の教えは必要ない」「念仏も一生懸命称えるもんじゃない」「とにかくおまかせ」「信心だけが大事だ」などと、本来は深い味わいの中から自ずとつむぎ出された言葉を、ただ表面をなぞって人に押し付けているだけ、という有様になります。

 本当は、自心の喜びが相手に伝わり、「愛情によるわれらの小喜・小悲は、みなその大悲・大喜の心に和め解けしめられる」という自然なるはたらきの中で展開されるものなのです。私の心も相手の心も共に不完全なまま、その不完全な姿を受け入れることによって、完全な覚りに転じるはたらきを共感していけるわけです。これは法を誇る心である「法執」に、一旦負けてもらうことで成し遂げられる伝道と言えるでしょう。

◆ 宗教観の違い

 最後に「この言葉はアメリカに贈りたいですね」と述べてみえます。本来は「まさにその通り」と賛同したいところなのですが、現実には中々すぐには想いが届かない言葉ですし、このまま直訳しても誤解が生じるだけでしょう。

 誤解の大きな要因となりそうなのが宗教観の違いで、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は共に「原罪」を問題とし、楽園を追放された人間が神との契約を守ることで再結合され救われる、という思想が基本にある訳です。すると自動的に、自分達の教えが及んでいない地域の人たちは<皆救われていない>と見ることになります。ですから多少強引でも教えを流布させることは絶対的な善となり、そうした神の使命を果たすことを正義と考えています。

 そうした人たちに、いきなり「正義は負けろ」と言っても通じないし、大きな誤解を生んでしまうでしょう。「正義」は彼らにとって負けてはならないもので、生きる基盤を奪いかねない問題となってしまします。

 ですから「一切衆生悉有仏性」(一切の衆生は仏性を有す)という仏教の基本視座を受け入れせしめることが大切になります。回りくどいようですが「急がば回れ」でしょうか。また、「父母のために念仏したことはない」の真意でも書きましたが、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」(歎異抄)と言われるように、テロで被害を被った方も、テロを引き起こした人たちも、みな父母兄弟であるのですが、それが感じられるだけに、テロ行為も、また喧伝される報復も、実に重く悲しい事態と言わざるを得ません。


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