平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
思わぬ2通のお返事 ありがとうございました。
特に、命の響きが私を揺さぶっている。言葉だけが仏法ではない・・・。というお言葉、また涙があふれてきました。これもご縁で、これだけ親様が私に気づかそうとあの手この手で、挑んでくださっているのに気づかないでいる。まだ親様を身近に感じない私のこの根性、しぶといし、最低ですね・・・。
実はメールする前に、同じ質問を実家の親にぶつけたことがあります。すると「この子を見なさい、お前にあるがままのすべてをあずけている。そしてお前は、この子を抱くことを喜び・幸せを感じている。そういうことなんだよ・・・。」と教えてくれました。
まさしく、教えていただいたことと同じでした。
私は若い頃から福祉に興味を持ち、夢は高齢者・心身障害者のお世話をすることでした。お世話というか、特に心身障害者の方については、失礼ですが、不自由な心と身体で生まれてきた人の、心というか生き方を見たかった。
今思うと、何かのきっかけで私は自分を探していたのかもしれません。私も子供の頃から差別を受ける環境の中に生まれてきました。でも不思議なことに不幸と感じることは1度もありませんでした。むしろ、差別を受けている人の気持ちに、(差別を受ける内容は違っても)少しでも近づけることが嬉しくも感じています。
話が脱線しましたが、現在は介護保険のケアマネジャーをしています。在宅に出向き、様々な家の実情を、まのあたりにしています。そして、自分の愚かさ、人間の愚かさをまざまざと知らされました。私なんか、口ではきれい事を言い、心の中はなんと、汚れているのか・・・。私の心の中には魔物が根を生やしています。
1、この根はどうやって枯らせることができるのでしょうか?
2、こんな気持ちで福祉に携わっていいのでしょうか?
すみませんが上記の2点についてもう一度質問させて下さい!
回答させていただくより先に、まず、質問を読んで、 「まるで仏法を聞かせていただいているようだな」と思いました。 深く仏法をいただいてみえる方からの問い、とまで感じます。
さて仏教、特に浄土真宗の教えは、こうして深く内面を見つめることが重要なのですが、 正直に自分の姿を見ることができないため、如来の心を受けとることができず、 言葉だけの理解で終ってしまうことが多々あるのです。
「自分の愚かさ、人間の愚かさをまざまざと知らされました。私なんか、口ではきれい事を言い、心の中はなんと、汚れているのか・・・。私の心の中には魔物が根を生やしています。」
これは、正直に自分を見つめると、必ず見えてくる「存在の矛盾」なのです。 いわば向上心が現実の問題にぶつかった時に必ず起こる心です。 これは仏教では「直心」とか「至心」と言いまして、 この心こそ「宗教心」と呼ばれるもので、人間としての成長には欠かせないものなのです。
心に巣くう魔物の根は、仏教では煩悩と言いますが、 正体に気付かずそのまま放置していると、まさに心が伏魔殿になります。 しかし煩悩を煩悩と見抜くことができれば、覚り(信心)の縁となります。 煩悩をむしろ糧にして、人生を深めていけるのです。 野放しにするのではなく、負けるのでもなく、正体を見破ることが重要です。 それが仏教の力であり、その力が念仏に凝縮されているのです。
煩悩も覚りも実は同一の根から出ているのですが、 煩悩は、本人がまだその性質をよく理解できていなくて、自分で制御できない力をいいます。 覚りは、正体を見破って、制御を心がけ、生かす方向性を見出した力をいいます。 同じ力ですが、柔軟性をもって使い切れるかどうかで、煩悩にも覚りにもなるのです。 魔物の根は、いわば「生命力」に繋がっているのです。 煩悩の本質を本当に見破れば、断ち切る必要はなくなります。
これは教学としては、氷と水の関係で説明されています。
氷は水とは全く別物のようですが、氷が融ければ水になりますから、氷が多ければ水も多い。
煩悩が多ければ、それだけ覚りの力も強い。
欠点が多い人ほど、生き切る力も強く、信心の味わいも深い、という訳です。
しかし心に浄土を持たない(気付かない)人は、氷が氷のままこびり付いて、
水の流れの妨げになってしまいます。
煩悩の短所を短所のまま発揮してしまうのです
ぜひ早く心の氷を融かせて、信心の水を味わってほしいと思いますが、
もう既に融けかかってみえると思いますので、そのまま正直に生きていって下さい。
そしてその心の水を福祉の活動に役立てて頂きたいと思います。
誰もが<魔物が根を生やしている心>を抱えながら、それでも尊い生き方を目指しています。 ですから、その矛盾した有り様を深く知ることが、相手を深く理解することにつながるのです。 逆に、<自分は優しい心を持っていて可哀相な人たちを助けている>というのは、ただの思い上がりで、本当の福祉ではありません。 生命の矛盾を自分の問題として理解してこそ福祉といえるでしょう。
なお、親鸞聖人はこうした心について、以下のように述べてみえます。
仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈
▼以下意訳(現代語版)
如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりにこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
このように――「はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない」という慚愧において、ご質問の内容と同様の響きを私は感じます。
また、HPで、「至誠心」を持つとは具体的にどういうこと? #利他、他力の三心 に引用しました文を、以下に短くですがまた引かせていただきますので、参考にして下さい。
至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から抜けきれません。理想主義というのは、その描いている理想は、現実を否定内容とした現実の投影で、夢であり、その眼は常にかなたをにらんでいて、足もとは「やせ馬の尻を叩く」奮闘努力型です。したがっていつも緊張していなければなりませんが、それは生き方に無理があるからです。仏教ではこれを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。
<中略>
人間は自覚的存在といわれているように、至心の心の起こった、そこから人間が始まるのですが、至心の心は、自分のした行為の反省によって、自分と自分の生きている環境を知って行くのですが、それは試行錯誤によるのです。それを仏教では後悔といっています。至心がさらに進化すると、した行為を通して自分の性格が解り、起こった現象において、ものの原理とか法則を知ってゆくようになる。また自分の習慣とか、社会の慣習などの行為的世界をです。これを自己反省の立場から慚愧といっています。・・・外の言葉でいえば、我執と愚かによって動かされ、形成されてきた行為的世界が見えてくる。この世の宿命が見えてくる。これを懺悔といい、この心はすでに至心を超えて、深い心といわれる信楽に転入しているのです。それがさらに信楽によって見出だされた浄土を、この五濁の世に、また自分の世界に、浄土を実現しようとする願いが発こってくる。これを欲生というのです。
島田幸昭 著『仏教開眼 四十八願』 より
こうした試行錯誤は単なる迷いとは違います。私たちの生命を、根元から、生死を越えて支え包み込んで下さる御手を、現実のひとつひとつに見出す縁となるのです。
ケアマネージャーさんは、対象の方々がどのようなグレードに相当するのか、をヒヤリングされ、面接されて決定していくことも大事なお仕事のひとつと聞いています。(間違っていたらごめんなさい)
介護保険の最前線で直接、間接に対象の方や、それを介護しておられる家族の方々、また現場で介護に従事されている方がたとの毎日は大変なご苦労があることでしょう。福祉の現場で自分の気持をこめて働きたい、仕事をしたいという初志と、時には仕事を割りきってしなければならないときの自分の気持との心の揺れはきっとあなた様を苦しめるときが多いのでしょうね。「私なんか、口ではきれい事を言い、心の中はなんと、汚れているのか・・・。私の心の中には魔物が根を生やしています。」とおっしゃられる木蓮さん。その言葉の行間に秘められている心の葛藤が垣間見られるような思いでいます。
能楽観世流の宗祖、世阿弥の言葉に「是非初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。命には終りあり。能には果てあるべからず。」という言葉があります。あなた様が志された利他行、その福祉を志された初心、「是非初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず」ということではないでしょうか。そして「能には果てあるべからず」と言っています。この「能…」を「利他行…・・」と置き換えたとき、利他の菩薩行には完成も、終わることもないということでありましょう。もう何年も昔にふと目にしたこの言葉、今もわたしの心に焼き付いています。そして自分が愚かにも自分を忘れそうになったとき、ふっとこの警句が浮かび私を救ってくれることがあります。一度この言葉をじっくりと味わって見てください。きっと何かを得られることがあるのではないでしょうか。
そしてあなた様の悩みに、あなた自身が、自分で自分の心に寄り添っていくことができるのではないでしょうか。
素晴らしい感性を秘めておられる木蓮さんにこうしてお便りを差し上げることができるご縁を本当にあり難く存じております。
合掌