平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
「至誠心」を持つとは、自力を尽くしてみよと言う事でしょうか?逆に、自力をひるがえす努力のことですか?
実際、生活の中では具体的にどのような事でしょうか? 至心に念仏するということですか? 毎日勤行を欠かさないということでしょうか? ボランティアやお布施など、善根を植えることに努めよということですか? 何事にも道徳的に正しい心と行いに努めよということですか? 怒らず嘆かず柔和忍辱に努めよということですか? 御聖教を一生懸命学べということですか? 聞法し内観せよということですか? 或いは、六波羅蜜を行ぜよということですか? 教えてください。
ご質問者は経典をよく学んでみえることがわかります。またこの心(三心)の解釈は非常に重要な問題ですから、まず前半にこの問いの発せられたところまでを説明し、次にその答えを書かせていただきますが、先に要点だけを述べておきますと――
「至誠心」は『観無量寿経』に顕されているところは自力の三心の出発点である真実心で、懸命に努め励んで起こす心ですが、隠されている真意は、「如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生まれようと願う」という「大悲回向の心」に他なりません。
また、一切衆生を救う普遍の法が名号となり、それが念仏の大行として施され、その法が私の事実となってゆことを信心といいます。本願の三心は信楽の一心に摂まり、真実信心として私たちは受け入れますが、信心の実際の徳が広大であることを知らしめるために三心に開いて誓われてあるのです。
結局、至心・至誠心といいましても、名号そのもの、如来の本体であり、私たちとしては、それを疑いなくいただくという信心の他には存在しないのです。しまも信心は、私たちの行動をないがしろにするものではありません。むしろ自力の余分な力みが消え、自由無碍なる活動を可能にする心なのです。
「至誠心」とは「真実心」のことで、浄土往生に必要な三種の心=「至誠心・深心・回向発願心」のうち最初に起こすべき心であると、『観無量寿経』に顕されています。
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。かの国に生ずるとき、この人、精進勇猛なるがゆゑに、阿弥陀如来は、観世音・大勢至・無数の化仏・百千の比丘・声聞の大衆・無数の諸天・七宝の宮殿とともに〔現前す〕。観世音菩薩は金剛の台を執りて、大勢至菩薩とともに行者の前に至る。阿弥陀仏は、大光明を放ちて行者の身を照らし、もろもろの菩薩とともに手を授けて迎接したまふ。観世音・大勢至は、無数の菩薩とともに行者を讃歎して、その心を勧進す。行者見をはりて歓喜踊躍し、みづからその身を見れば、金剛の台に乗ぜり。仏の後に随従して、弾指のあひだのごとくにかの国に往生す。かの国に生じをはりて、仏の色身の衆相具足せるを見、もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。光明の宝林、妙法を演説す。聞きをはりてすなはち無生法忍を悟る。須臾のあひだを経て諸仏に歴事し、十方界に遍じて、諸仏の前において次第に授記せらる。本国に還り到りて無量百千の陀羅尼門を得。これを上品上生のものと名づく。
『仏説観無量寿経』 正宗分 散善 上上品
▼現代語版
ここで釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「極楽世界に往生するものには、上品上生から下品下生までの九種類がある。
その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。
その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。
この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。
それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。
この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。
その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。
すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。
この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。
そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。
そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。
さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。
そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。
これを上品上生のものと名づける。
「至誠心」の「至」とは「真」、「誠」とは「実」をあらわし、「真実の心」「誠実な心」「偽りのない心」であり、「諸善万行を修めて往生しようとするものの起す心」の第一歩となるのが「至誠心」です。
ですから――
至心に念仏するということですか? 毎日勤行を欠かさないということでしょうか? ボランティアやお布施など、善根を植えることに努めよということですか? 何事にも道徳的に正しい心と行いに努めよということですか? 怒らず嘆かず柔和忍辱に努めよということですか? 御聖教を一生懸命学べということですか? 聞法し内観せよということですか? 或いは、六波羅蜜を行ぜよということですか?
というご質問は、そうしたことをふまえての問いなのでしょう。もし「自利の三心」に留まっていましたら、答えは「そのような行を懸命に努め励もうとする行者が起こす心」、ということになります。では「そういう心ではないのか」と問われれば、「そうした自力の心が自己矛盾にぶち当たってさらに深まっていったところに展開される心」がその本体であり、それは「如来よりふり向けられた心」といえましょう。
ちなみに『仏説無量寿経』においても「至誠心」の記述がありますので参考にして下さい。
仏、阿難に告げたまはく、「それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん」と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 三輩往生 より
▼現代語版
さらに続けて仰せになる。
「次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである」
以上のように、経文、特に『仏説観無量寿経』の表面にあらわれた意味からみますと、「至誠心・深心・回向発願心」は自から励んで起こす心ですから「自利の三心」と名づけられます。しかしこの心をもっと深く掘り下げて経を読んでみますと、表に顕われた義(意味)の奥に、隠された義のあることが知られてきます。そこで浄土真宗ではこの三心について「顕説」と「隠彰」の両義を立て、「顕説」では「自力の三心」ですが、「隠彰」では「利他、他力の三心」であり、『大無量寿経』第十八願の三心と同一であるとします。つまり「至誠心」=「至心」、「深心」=「信楽」、「回向発願心」=「欲生」という図式になります。
またいはく(散善義)、「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。
『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。乃至 不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 大信釈 引文 より
▼現代語版
また次のようにいわれている(散善義)。
「『観無量寿経』の〈何等をか三と為す〉から〈必ず彼の国に生ず〉までは、三心とは何かということを説き、その三心が浄土に往生する正しい因であると明かされたものである。そこには二つのことが示されている。一つには世尊は衆生の能力・素質に応じて利益を与えられるのであるが、仏のおこころは奥深く、うかがい知ることができない。そこで、仏が自ら問いかけを設けて明らかにしてくださらなかったなら、他のものには理解することができないということを明かされる。二つには、世尊が自らその三心とは何かという問いに対して、その一つ一つをあげてお答えになったことを明かされるのである。
経に〈一つには至誠心〉と説かれている。<至>とは真であり、<誠>とは実である。すべての人々が身・口・意の三業をもって修める行は、必ず、如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召しである。うわべだけの賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、悪い本性は変わらないのであり、それはあたかも蛇や蝎のようである。身・口・意の三業に行を修めても、それは毒のまじった善といい、また、いつわりの行というもので、決して真実の行とはいえないのである。もし、このように自力の心で、行を修めようとするのであれば、たとえ身を苦しめ心を砕いて、昼夜を問うことなく、ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて毒のまじった善というのである。この毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生まれようと求めても、決して生まれることはできない。なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修められたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身・口・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことに由る(如来を経て、如来の行を行じて、如来によりしたがって、如来のまことを用いて、ということである)からである。すべて、このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生まれようと願うのであれば、またすべてみな真実なのである。
また、真実に二種ある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。(中略)衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。・・・」
以上のように、親鸞聖人は善導大師の著になる『観経疏』散善義を引用しながらも、読み変えをほどこし換骨奪胎し、浄土往生に必要な「至誠心・深心・回向発願心」の三種の心は表面に顕れたのは「自力の三心」ですが、真意は「如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生まれようと願う」という「利他、他力の三心」であったと肯かれるのです。
はっきり申しますと、親鸞聖人は善導大師の味わいに異議を唱え、曇鸞大師の浄土本流に戻そうと努力されてみえるのです。
また聖覚法印の著『唯信鈔』を引かれて、聖人は――
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生・辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
『唯信鈔文意』 より
▼意訳
「具三心者必生彼国」(観経)というのは、三心をそなえれば、かならずかの国に生れる、ということである。だから善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心即不得生」(礼讃)と述べられた。「具此三心」<この三心を具して>というのは、三つの心をそなえなさいということである。「必得往生」<かならず往生を得る>というのは、「必」はかならず、「得」はうるという、「うる」というのは往生をうるということである。「若少一心」<もし一心かけぬれば>というのは、「若」は「もし」とか「ごとし」ということで、「少」は「欠ける」とか「少ない」ということである。一心が欠けてしまえば往生できないということである。一心欠けるというのは信心が欠けるということ。信心が欠けるというのは、本願真実の三信心が欠けるということである。
『観経』の三心を得たのちに、『大経』の三信心を得るのを「一心をうる」といいう。こうした理由から『大経』の三信心を得ないことを「一心欠ける」というのである。この一心が欠ければ、真の報土に生れないということである。『観経』の三心は定善・散善における二つの心だが、定散の二善をひるがえして、『大経』の三信を得ようと願うまでの、方便・方法として深心と至誠心があると知るべきである。真実の三信心を得なければ、「即不得生」なのである。「即」は「すなはち」、「不得生」というのは「生れることを得ない」ということである。三信が欠けているから報土に生れない、ということである。
雑行雑修をしている定機・散機の人は、他力の信心が欠けているから、多くの生を受け長い時をへだてた無限の時間を経てから、他力の一心を得たのちに真実報土に生れるのであるから、すなはち「生れない」というのである。もし仏智を疑って胎生・辺地に生れたら、五百歳を経て、あるいは億千万の人々の中に、ときにまれに一人、真の報土に生まれるというのだ。だから三信を得ることをよくよく心得て願うべきである。
つまり表面的には自ら励んで三種の心を起すように見えるのですが、やがて<如来から真実をふりむけていただいているのだ>という味わいに至ることになるのです。法を聞いたこともなく経典に触れてもいない者が、いきなり<如来から真実の心をいただく>ということはあり得ません。真摯に誠実に法を聞かなければなりませんが、そうした自力の積み重ねの果てに他力があるのではなく、自力が呼び水となって、やがて他力の本流が湧き出てくるのです。また、その自力でさえ、よくよく考えれば他力に促された努力であった、と後から肯けるのです。
以上の説明にありましたように『観無量寿経』における「至誠心・深心・回向発願心」の真意は、「如来の大悲回向心である」といただくことができるのですが、こうした領解については、親鸞聖人ご自身が三願転入([浄土真宗と法華経など諸経との関係 #聖人の三願転入] 参照)を果されてみえることから、具体的な相が明らかになってきます。
聖人の経験はもちろん一人・一例なのですが、聖人が背負っている課題は全人類に波及する問いですから、そこでの経験は個人を超えた意味を持ち得るのです。
なお、親鸞聖人の読み変えについては――
ところで、善導大師によれば、至誠心とは、内心と外相とが一致して内外共にまことであるような状態を意味していた。それゆえ「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」というのである。内心に貪欲・瞋恚・奸詐の心が渦巻いているような状態で、たとえ外相に賢善精進のふるまいをしてみても、それは煩悩という毒の混じった善に過ぎないから浄土には往生できない。・・・いいかえれば浄土へ往生するためには、阿弥陀仏が浄土を建立されたのと同質の真実心をもって修行し、願生しなければならないというのである。しかし果して凡夫にそのようなことが出来るであろうか。
おそらく善導大師は、そうあらねばならない仏道の道理と、現実の煩悩具足の自己との矛盾に悩みつつ、戒律の厳守と、絶えざる罪障の懺悔とを自らに課していかれたのであった。
<中略>
こうした善導大師の至誠心釈に疑問をもたれたのが法然聖人であった。もし内に煩悩をもっていることが往生の障りになるのならば、貪瞋煩悩をもったまま白道を行くと説かれた二河白道の喩えと矛盾するし、なによりもつぎの深心釈の機の深信との法の深信が両立しなくなると考えられたのであった。・・・こうして至心とは内に信心(深心)をもって念仏することであって、煩悩をなくすことではないとみられていた。
ところが親鸞聖人は、浄土にふさわしい真実心とは、煩悩を超えた無漏智のことであって、そのような真実心は凡夫の上には存在しないし、起こしようもない。凡夫は死ぬまで愛憎の煩悩を燃やしながらしか生きようがないものであるといいきり、真実とはかかる凡夫を救おうと願い立たれた阿弥陀仏の本願だけにあることだといわれる。
『尊号真像銘文』にはそのことを、
至心は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(註釈版聖典、六四三頁)
といわれている。すなわち至心とは、私を救いたまう本願の心である。それゆえ至心は私が起こす心ではなくて、はからいなく信受すべき心であるといわれるのであった。
こうした立場から聖人は「散善義」の文章を読み変えていかれる。『愚禿鈔』下や、『信文類』によれば、
一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。(中略)まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。(註釈版聖典、五一七頁)
と読まれたのがそれである。それは後に述べるように、二種深信や、二河譬の心によって至誠心釈を読めば、こう読まざるを得ないという信念があったのである。
梯實圓 著『教行信証の宗教構造』第六章 第五節 より
さて、最後に『大無量寿経』における「至心・信楽・欲生心」の三心についての領解をひとつ紹介してみたいと思います(本来は多くの領解を披露したいのですが、少し長くなりましたので)。
親鸞聖人は、それまでこれを「至心に信楽して我が国に生まれんと欲え」と、一連の言葉として読んでおられたのを、至心と信楽と欲生心と、三つの心と領解して、これを「浄土の菩提心」と読んでおられます。・・・小乗仏教は「そこから」の解脱でありますが、大乗仏教は人間であることの自覚です。それに対して浄土教は、仏教に違いありませんが、自分からさとるのではなく、浄土からの呼びさましによる菩提心だと思っています。
<中略>
至心は真実心に違いありませんが、まだその内に不純なものをはらんでいて、その在り方は理想主義から抜けきれません。理想主義というのは、その描いている理想は、現実を否定内容とした現実の投影で、夢であり、その眼は常にかなたをにらんでいて、足もとは「やせ馬の尻を叩く」奮闘努力型です。したがっていつも緊張していなければなりませんが、それは生き方に無理があるからです。仏教ではこれを自力というのです。しかし至心そのものは矛盾をはらんでいて不純ですが、この心は仏性の開発に重要な役割を持っているのです。そこでこの至心のことを引出仏性と呼んでいるのです。
<中略>
聖徳太子は、深い心といわれる信は、自己の中に矛盾を見出す心といっておられます。信は真心ですから、自分で信じようとして信じられるものではなく、気がついて見れば、今までなかった新しい心が生まれているのです。そうなろうと思うて、そうなるのではなく、気がついて見ると、そうなっている心です。それを親鸞聖人が「廻向の信」といわれたのではないでしょうか。これは信ずるという、こちらから働きかける信ではなく、疑いないという、向こうからこちらへ働きかけてくる信だともいっておられます。
<中略>
信心の智慧は何が見えるのか、と申しますと、第一に見ている自分の眼が見える。肉体の眼は向こうのものは見えても、見ている自分の眼は見えない。それを龍樹菩薩は、「刀は相手を斬ることができても、刀自身を斬ることはできぬのと同じことである」といっています。信心の智慧は能所不二といって、見ている自分の眼が見える。また前が見えると同時に後が見える。蓮の花は泥田でないと咲きませんが、花が開けば内に実がある。信眼の花が開くと、前面に宿業の泥田が見えると同時に、内面にそれを照らしている「不可称不可説不可思議の功徳」の実が見える。信心の眼は泥田と花と実の三つが、同時に見える智慧です。
ここで気をつけねばならぬことは、同じ信心といっても、そこで進化が止まるのと、さらに信楽に展開するのと二つあることです。
<中略>
親鸞聖人は信の一念は、「信は道の元、功徳の母」で、新たな人生の出発点です。というのは出家の解脱の仏教では、生死から解脱した、そこはどんな世界か、解脱した自己は何ものか、これから何をするのか。そのことが一つも明らかにされていません。・・・親鸞聖人はその自己は「五濁悪世の衆生の、選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の、功徳は行者の身に満てり」と、浄土の功徳を血の中に有っている存在です。その信は浄土の信ですからです。
親鸞聖人は信楽は「真実誠満の心」といっておられますが、それは如来の真実心が、衆生の上に花と開いたことをいわれるのでしょう。・・・信は衆生の任すか任さぬかというような、決断によるのではなく、はっと気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が開けているのです。仏の方が先手です。ここにもそのさとりがじっと待っている静的な涅槃か、われわれに直接はたらきかけてくる動的な浄土かの違いが現われているのだと思います。
<中略>
親鸞聖人は、「欲生というは、如来、諸有の群生を召喚したもうの勅命なり」といっておられます。善導大師では、如来の召喚は「汝、一心正念にして直ちに来れ」と、汝と、個人に向かって呼びかけられていますが、親鸞聖人は「諸有の群生」です。これは善導と親鸞では立場が違うからでしょう。善導は出家者で、「自己一人」の救いですが、親鸞は在家者で、全人類を背負うた社会的自覚に立っているからでしょう。もちろん親鸞聖人にあっても、直接召喚の勅命を聞いているのは、「親鸞一人」に違いありませんが、その自覚内容をいっているのです。
<中略>
至心は自己の真実の在り方を求める心ですが、まだ即自的で、自己が何ものか、自己の置かれている場所が自覚されていません。それが信楽になりますと、自己が場所的に自覚されて、わしは人間である。先祖によって産み出され、先祖の歴史を背負い、人間として深い願いを血の中に宿している自分であると、自己が置かれている歴史的世界が見えてきます。また欲生心はさらに、全人類がそこに置かれている運命共同体としての世界が、自己の内に自覚され、世界が自己を呼びさますという形で、菩提心が働いてくるのです。
<中略>
至心から信楽への脱皮は「二河白道のたとえ」にあるように、自己の内にあって、自己を裏切る煩悩とか、あるいは性格とかが問題となっています。自己が問題となって、自己の内にある自己に背くものが、脱皮の媒介となります。また信楽から欲生へは、また改めて客観的な相手とか環境社会が媒介となってです。それは初めの本能から至心への脱皮の媒介と材料は同じですが、捉え方が、本能の場合は対立的に、それらを自己と切り離して見ているのですが、信楽の場合は、自己がそこに置かれている場所としてですから、どうしても自己を超え、社会を超えた立場、つまり浄土が生れてこなければ救われぬ道理です。・・・ もちろん努力せずに自然にそうなるのではないですよ。努力せねばなりませんが、努力したことによって直接進化するのでなく、それが縁となって、内から新しい心が生まれてくるのです。
<中略>
さっき申しましたことをまとめて申しますと、人間は自覚的存在といわれているように、至心の心の起こった、そこから人間が始まるのですが、至心の心は、自分のした行為の反省によって、自分と自分の生きている環境を知って行くのですが、それは試行錯誤によるのです。それを仏教では後悔といっています。至心がさらに進化すると、した行為を通して自分の性格が解り、起こった現象において、ものの原理とか法則を知ってゆくようになる。また自分の習慣とか、社会の慣習などの行為的世界をです。これを自己反省の立場から慚愧といっています。・・・外の言葉でいえば、我執と愚かによって動かされ、形成されてきた行為的世界が見えてくる。この世の宿命が見えてくる。これを懺悔といい、この心はすでに至心を超えて、深い心といわれる信楽に転入しているのです。それがさらに信楽によって見出だされた浄土を、この五濁の世に、また自分の世界に、浄土を実現しようとする願いが発こってくる。これを欲生というのです。
島田幸昭 著『仏教開眼 四十八願』 より
以上、三心の領解として参考になるのではないでしょうか。
中でも、「信は衆生の任すか任さぬかというような、決断によるのではなく、はっと気がついて見れば、今までなかった新しい深い心が開けているのです。仏の方が先手です。ここにもそのさとりがじっと待っている静的な涅槃か、われわれに直接はたらきかけてくる動的な浄土かの違いが現われているのだと思います」とありますが、これは浄土の本質を顕していると思います。
信というのは、その性格上、本来自らが作る心ではありません。信が発生する前に、既に信に値するはたらきが展開されていてこそ疑いを晴らすことができるのです。逆に「信じます」と力説すればするほど、それは信じることにためらいが発生している証拠でもあるのです。そうした自力の信は、結果として真偽を判別する妨げにもなってしまいます。しかし、そうした迷いを経てこそ真実に到達するということもまた真なのです。