平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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はじめまして、わたしはご縁で浄土真宗という恵まれた環境の中に生まれました。また、嫁ぎ先が(知らなかったが・・)浄土真宗で子供も浄土真宗の保育園に通っています。私が選んだ訳でなく 何となく今気がつけばこうなっていた。最近二人目を出産し、ふと今までの私の、このご縁を思い起こすと自然と涙が出るのです。いままで仏様のことを考えなかった自分が、なんと罪深い者かなどど思ったりして、(なぜこんなことを考えるのか自分でも分からない)涙がどんどんあふれ出るのです。そこで質問いたします。
1.なぜこのように涙が自然とあふれ出るのか?
2.私は今後なにをすればこの心が楽になれるのか?
どうぞよろしくお願いします。
ご質問、ありがとうございました。
常日頃、返答は編集委員内でさせていただいておりましたが、ある年長の篤信者とご縁をいただき、今回から賛助していただくことになりましたので、より広い視点からお応えできるできると思います。
返答1
質問を拝読しながらご縁の深さを思いとても嬉しく思いました。
なみだについて鮮烈な思い出がいくつかあります。
一番最初のなみだの思い出は3才の頃でしょうか、今は亡き兄が祖母の亡骸のそばで滂沱と涙している姿がなぜかセピア色のもやの中に浮かんでいます。 成人してからも突然思い出すとき、きっとあれはお祖母さんの亡くなったときのことに違いないと自分に言い聞かせています。なぜなら、その時のことでそれ以外の風景が浮かぶことは無いからです。次はその兄が太平洋戦争が終わって病気のまま日本にかえり、折角故郷に帰り着いたのに一年ほどで亡くなり、そのときも、それからあと何十年も両親が若くして逝った兄のことを私に語るときいつも涙して語ったことです。悲しい思い出のなみだですね。
その所為か、自分には性格的に涙もろいところがあるようです。テレビのドラマを見ては涕し、根性もの漫画を見ては涕して、自分でも恥ずかしいような可笑しいような思いをするときがあります。 先日、次男が1級土木施工管理技士の試験に合格したといって、声を弾ませて電話してきました。「よかったねー。…・」と思わず涙が溢れそうになり慌てて電話を切りましたが、長い子育ての過程で「積み木崩し」の危機に苦しんだ頃のことを思い出し、涙が溢れてくるのを押さえきれませんでした。
私は報恩講をはじめに年に数回、家内と本山に参拝いたしますが、平日の静かな、あの広いお堂の中に座って阿弥陀様を拝していると、しみじみと有難く、何故か涙が溢れそうになります。そんな時に還浄した親のことを想い、「またつれてきてもらったよ…・」と涙をのみこみながら心の中で話し掛けています。
浄土真宗の家に生まれ、知らずに嫁いだ先がまた浄土真宗のお家で、そして子供が授かり、そのお子さんがお寺の付属幼稚園でしょうか通園されている、そんなご縁の深さをひそかに心にありがたく思われ、また二人目の赤ちゃんにめぐまれ、きっとその子が母の腕の中で全身を安心して預けてすやすやと眠っておられる姿、それを見ながら訳もなく涙があふれそうになっている。きっと「いのち」、あなたのご両親、そのまたご両親、ずっとずっと遥かないのちを受け継いでいる「いのち」の、そのひびきがあなたを揺さぶるのではないでしょうか。ただわけもなく、ただ自然に涙するのではない。 いのちのひびきがゆさぶり、その心を深いところで打つのではないでしょうか。
「知らず求めざるに名号の功徳はわが身に満ちみちるありがたさ、不可思議さ」の想いを、親鸞聖人のお言葉
「知らず求めざるに…・」本当にその通りですね。 「わたしたちが《なむあみだぶつ》と念仏し、《浄土》とか《極楽》とか申すことは、そのことがとりもなおさず仏さまのお仕事をさせてもらっていることなのです」と教えていただきました。「国土の名字 仏事を成す いずくんぞ思議すべきや」という曇鸞大師のお言葉を開いて述べた言葉です。 気の遠くなるような遥かな昔からのいのちの歴史を今受け継いでこの世に生まれさせていただいた私たち、そのいのちを子どもたちや孫たち次の世代につなぐことのできる喜び、ありがたさ、不可思議。そのことを思うときわたしは、あなたさまが「ありがとうね、あなたの母親にしてくれて…・」と二人のお子さんに感謝し、あなたをこの世に生んでくださって、仏法に遇わさせてくださったご両親に感謝し、そのみんなを大きく包み込んでいてくださるほとけさまにお礼を言うことのできる一日が、あなたの心をいつも豊かに暖かいものにしてくださるのではないでしょうか。
「積み木崩し」といいました。何年か前に有名になった言葉です。わたしは3人の子供たちと真正面に向き合って皆が卒業するまでの間、子育てをしてきたと思っていました。 でも違うんですね。子供たちに育ててもらっていた10年間だったんですね。
今はそれぞれが親になっています。どんな思いで子育てをしているのでしょうか。きっといつかは「あの時、子供に育ててもらっていたんだな」と気づいてくれるときが来るでしょう。 おたずねになった心のうちを推し量りながら、自分の思いを重ねながら書き連ねました。
様々なご縁を思うにつけ、今の自分自身が情けなく思えてくるんですよね。
私も同じです。今までの人生は一体何だったのか? って、泣けてきます。色々な人にお世話になりながら、そんな大切なものに気付かず、自分勝手に生きてきて、それでも許されて今の自分がここにある。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
親になると、子どもを思う心、つまり親心が芽生えてきて、自分でもその気持ちの強さに驚くほどです。考えてみれば、そんな強い心に今まで自分は包まれていたんですよね。すごいことですよ。
だから涙があふれ出ない訳がない。それが本当の自分です。今まで本当の自分に気付かなかっただけです。
そして、その気持ちを忘れずに、まだ大切な心に気付いていない人たちに伝えて下さい――「みんな、あたたかい心に包まれて生きているんですよ」と。そして、そうしたあたたかい心を育み伝えるために仏教があるのだと。
それが本当に楽になる道でしょう。ただし、如来の心を心としているのですから、涙はいつまでも枯れません。自分の涙は枯れても、如来の涙はいつまでもあふれ出ています。泣きながら、笑いながら、喜び一杯の人生をお送りください。
「仏」というのは「如来」はじめ様々な呼び方がありますが「親さま」とも称させていただきます。これは、如来は私を一人子のように慈しんで下さるからです。もっと言いますと、私を一人子のように慈しんで下さる暖かい心に現に私は包まれていて、その心を発する方を「仏」・「如来」・「親さま」と称させていただくのです。そして、この心が私たちに至り届いたことを「南無阿弥陀仏」と喜ばせていただいているのです。
こうした順を親鸞聖人は――
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
『浄土和讃』弥陀経讃 弥陀経 意 (八二)
と称えてみえます。
そしてその喜びの受けとられた姿を「信心を得る」と呼び、喜びの受けとられた場を「浄土」と呼ぶのです。
おそらくこうした教えを、言葉ではなく、親としての立場になられた体験を通して聞かれたのでしょう。言葉だけが仏法ではないのです。親になって初めて親の名の尊さに気付く。そして親の立場の悲しみに気付くのです。
人は人間関係において、その立場に育てられるということが重要になってきます。子どもを産めば一応は親という立場になりますが、本当に親に成るということは親の立場というものに育ててもらう、それは子どもに照らされて私がお育ていただくことでかなうのでしょう。
如来の足元にある蓮華座は、如来の立場の尊さを顕しています。如来は全ての生命の親(親心)ですが、二人の子の親となってその一端をかいま見られて「涙が自然とあふれ出る」という体験をされたのでしょう。人の涙は止まることはありますが、如来の涙は常に流れっぱなしです。無限の過去から未来永劫、止まることはありません。それは大悲の涙であり、本当の親心なのです。
人生は厳しいものです。老病死の苦はまぬがれず、生きていくことも苦に満ちています。辛い人生をただ一人孤独に歩んでいくことを思うと、親はその辛さを共に味わい、またそのいのちの行く末まで先に思いやることになります。
私たちは、そうした暖かい心に包まれながら今まで過ごしてきたのでしょう。様々な罪も許されていく中で歩みを進めてきたのでしょう。こうした気付きが涙をあふれさせたのかも知れません。
迷える親心ほど、痛しく悲しいものは私にはない。そこには子故の闇がある。けれどもその闇はただの闇ではない。親心に輝く闇である。私には、闇は悲しみでない。闇に入る光が悲しみである。けれども悲しみも痛みも私のものでない。故に悲しみもよろこびであり、痛みも和らぎである。悲痛と歓喜とが私に一つである。そこには善悪正邪の世界ではない。悪が善にましてひかり、邪が正をこえて認められたる世界である。子なる私は、善もほしからず悪もおそれなき心をうる。ただそこには順[したが]う心があるのみである。そのままの心があるのみである。私に親を安んずる孝はなく、親を正しくする善はない。あるものは、親にそむく罪と、親の迷いなる闇のみである。ここにただ ざんげと よろこびがある。それは、ただ親なる名である。
[正親含英]
さて、「私は今後なにをすればこの心が楽になれるのか?」という問いですが、方法は二通りあります。
まずは、親としての悲しみを放棄する方法です。涙の元を断ってしまうのです。つまりドライに割り切って生きる。親の責任も、義務を全うするところまでは果して、後は子どもの勝手(よく言えば自主性)に任せるのです。
しかし、せっかく親の場の尊さに気付かれたのですから、割り切るのではなく、涙の重さを引き受け、慚愧の思いを通して、あらゆるいのちと心を通わせてみるのはいかがでしょう。いわば「何をすればこの心が楽になれるのか?」という方法を放棄する方法があります。
涙が涙のまま、胸が締め付けられるような痛みを通してこそ、本当に人と交わることができるのです。ドライな人は用事が済んだら交わりは必要なくなりますが、慈悲の涙に気付いた人は、用事が済んでも、その人がそこに居なくても、そしてたとえ命が尽きても、交わりは如来の心となって常に人々を照らします。
そうした縁に恵まれたのですから、涙を流したまま本当の楽を得る、「悲痛と歓喜とが私に一つである」という心を、法を聞く中でいただいていってほしいと思います。
最後に、親鸞聖人が如来の誓願を様々に称えられた文を紹介させていただきますが、この中で「きびしい父のようである」、「哀れみ深い母のようである」、「乳母のようである」と親にたとえて仰がれてみえるのが分かります。
敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆゑに。善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。なほ利剣のごとし、よく一切・慢の鎧を断つがゆゑに。勇将幢のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。なほ利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆゑに。なほ利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆゑに。善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道を知らしむるがゆゑに。なほ涌泉のごとし、智慧の水を出して窮尽することなきがゆゑに。なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆゑに。なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆゑに。なほ伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。なほ君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆゑに。なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆゑに。なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆゑに。なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに。よく三有繋縛の城を出して、よく二十五有の門を閉づ。よく真実報土を得しめ、よく邪正の道路を弁ず。よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮ぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。まことに奉持すべし、ことに頂戴すべきなり。
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 一乗海釈 一乗嘆徳
▼意訳(現代語版)