平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

真実の信心か否かはどうやって見分けるの?

― 真剣に、しかし凝り固まらず ―

質問:

「他力の信心」すなわち「真実信心」が「かなめ」と書かれてありましたが自分の信心が「他力の信心」すなわち「真実の信心」なのか否かはどうやって見分けることができるのでしょうか。
 あるいは自分でははっきりわからないものなのでしょうか

返答

 ご指摘のように、[死んで浄土へ往生できる人とできない人] におきまして、「かなめは真実信心」と書かせていただきました。これは浄土真宗の基本姿勢なのですが、具体的に「どうやって見分けることができるのでしょうか」ということにつきまして、言葉で解答を示すことは非常に難しい問題かと思われます。
 しかし、ネット上で言葉を省く訳にはいきません。できるかぎりわかり易く、また大胆に述べさせていただきますが、<これが模範解答です>と誇れるものではありません。ある種の方向性を示すことでご勘弁を願います。

◆ 祈りから願いの世界に

 選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。
<中略>
 浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。
 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。

『親鸞聖人御消息』(1) 建長三歳辛亥閏九月二十日 より


▼現代語訳(日本の名著6 親鸞/中央公論社)
 弥陀が選びぬかれた本願の念仏は、有念のものでも無念のものでもありません。有念とはすなわち色や形を心におもうことであり、無念というのは形を心にかけず、色を心におもわず、念うということさえないことをいいます。これらはまったく聖道の教えであります。
<中略>
 浄土宗にもまた有念・無念の二つがあります。有念は三昧にはいっていないという意、無念は三昧にはいっているという意であります。しかし浄土の教えでいう無念は聖道でいう無念とは違います。またこの聖道でいう無念のなかにも有念のものがあります。これらはよくよくその道の人に尋ねてください。
 浄土宗の教えに、真実のものと、仮のものとがあります。真実のものというのは選びぬかれた本願であり、仮のものというのは三昧にはいることと三昧にはいらないで行う善との二つであります。そしてこの選びぬかれた本願は浄土の真実の教えであり、三昧にはいることと三昧にはいらないで行なう善との二つは方便の仮の教えであります。浄土の真実の教えは大乗の中の至極であります。



 笠間の念仏者の疑ひとはれたる事
 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

『親鸞聖人御消息』(6) 建長七歳乙卯十月三日 より


▼現代語訳(同上)
 笠間の念仏者の疑い問われた事。
 浄土の真実の教えの意では、浄土に生まれる人の機根に、他力をまたねなならないものと自力でできるものとの別がありますが、このことはすでにインドの思想家やシナ・日本の浄土の教えを鼓吹された師たちがいわれたことであります。まず自力ということは、人それぞれの機縁に差はありますが、弥陀以外の仏の名を口に称え、あるいは心に念じ、または念仏以外の善行を修めて、わが身をたのみ、みずからの賢しらなはからいの心をもって、身・口・意の乱れを取りつくろい、清浄をよそおって浄土に生まれようと思うことで、これを自力といいます。また他力ということは、弥陀がお誓いのなかにとくに選び取って摂められた、第十八の、念仏するものを浄土に生れさせようとの本願を信ずることで、これを他力といいまうす。さて他力は如来のお誓いですから、他力においては、義の捨てられていることが義である、と法然聖人は仰せになったことであります。義ということは、はからうという意味をあらわす言葉です。人の賢しらなはからいは自力ですから、義というのです。本願を信じてのうえは、かならず浄土に生まれるのですから、他力においてはさらにそのうえにはからいを加える必要はない、というのです。

 以上、「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり」、「弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり」とありますように、<如来より選択された本願を信じ念仏させていただくこと>が「真実の信心」です。このことは、たとえば親鸞聖人のご体験を通してつぶさに知られるのです。聖人が法然門下で三願転入をはたされたことは有名ですが、これは真実信心が明らかになる、ある意味<仏教の歴史>ともいえるでしょう。
 そこで、まずは [浄土真宗と法華経など諸経との関係 #聖人の三願転入] を見て下さい。一部、再掲載しますと――

自力聖道門を捨てて法然門下に入った最初の段階では、「万行諸善の仮門・双樹林下往生=さまざまな行や善を修める方便の要門」、つまり<自分が定善散善の様々な善根功徳を積み、その力で浄土に生まれようとする>という第十九願・『観無量寿経』に顕れた〔要門諸行による方便化土への九品往生〕に固執してみえた。

 続いて、「善本徳本の真門・難思往生=自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした」、つまり<念仏を称えることが救われる道であると気づき、心を励まして称え、その力で浄土に生まれようとする>という第二十願・『阿弥陀経』に顕れた〔真門自力の称名による方便化土の疑城胎宮への往生〕に進まれた。

 やがて、「選択の願海・難思議往生=選択本願の大海に入ることができた。・・・難思議往生を遂げようとする」つまり<ただ仏の誓いを信じて、すくわれる身の喜びの上から念仏申すほかはない>という究極の第十八願・『無量寿経』に顕れた内容〔弘願念仏による真実報土への往生〕に転入されていかれたわけです。

このように、第十九願や第二十願は方便の願いであると書かせていただきました。しかしこれらの願を、第十八願・真実信心の立場でもう一度見つめ直していくことで、より信心が明らかになってくるのではないでしょうか。

 例えば、最初の「万行諸善の仮門」は「定善散善の様々な善根功徳」によって覚りを得ていこうとする方法です。「定善」というのは、いわば高度な「イメージ・トレーニング」です。

 どんな世界でも集中力の欠けた人は向上しません。例えば野球やサッカー等のスポーツでも、また会社経営や金融・政治といった分野でも、もちろん芸術・文化の世界も、高度なイメージを保ち、集中力を養い、内外にビジョンを示すことにより、優れた活動が可能になります。そして伝統ある世界では、成功した人のあとを慕い、その人のようになりたい、と思い続けることにより、自分を高めていくことが可能になります。

「定善」とは、そうした憧れを、究極の人格である「無量寿仏」と、究極の清浄荘厳世界である「浄土」を明確にイメージすることによって成仏を可能にしていこうとする道です。しかし、結果として聖人はこの道を退けられるのですが、それは「如来や浄土は私たちがイメージできるような限界あるものではない」ということを示してみえるのでしょう。

 しかし、私たちは常に物事を自分の想いでとらえようとします。浄土への想いは、どんなに練られていても、またどんなに大きくてもそれは有限で、いわゆる自力です。ですから有限をいくら足しても無限にはなりませんが、それでも可能な限り理解しようとする活動を止めることはできません。事実、一度も浄土に想いをはせることをしなければ、ご縁が断たれてしまいます。また「自力ではダメだ」と聞かされても、自力を自分の力で消し去ることはできないのです。

 こうした思索については、例えば [はからいを捨てることは求道心も捨てること? (#限りない思索を促す)] に引用しましたが、「真に人間を超えた不可思議なるものに触れた人は、自己のはからいを打ち砕かれながら、逆に限りなく思索を促され続けるものである(梯實圓)」というように、無限の思惟を可能にするものです。

 経典を読んだり思索を重ねていくと、私の中にある種のイメージが出来上がります。これは「独影境」といわれるもので、いわば「理念的な祈りの世界」です。成功を祈ったり、<平和な世界に全ての人々が生きる>こと等をイメージすること、これなくして私の人生は始まりません。イマジネーションの欠落したところには教育も文化も成立しないのです。

 しかし、ここには大きな落とし穴があります。自分で描いたイメージに自分が縛り付けられてしまうのです。そして、往々にしてそこに他人も巻き込み、時としてそれは多くの人を傷つける結果になってしまいます。
 ところが、面白いことに、如来や浄土というのは、私のイメージには絶対入りきれないように表現されているのです。

 例えば――

ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるが ゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉をして百宝の色〔ありとの想〕をなさしめよ。〔その葉に〕八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光〔天〕蓋のごとく七宝合成せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝・梵摩尼宝・妙真珠網をもつて交飾とす。その台の上において自然にして四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とす、第七の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさんとき、雑観することを得ざれ。みな一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいて、みづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 華座観


▼現代語版
ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができのたで、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申しあげた。
「世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか」
 そこで釈尊は韋提希に仰せになった。
「韋提希よ、その仏を見たてまつりたいと思うなら、次のように想い描くがよい。
 まず七つの宝でできた大地の上に蓮の花があると想い、その蓮の花びらの一つ一つが百の宝の色を持っていると想い描くのである。 その花びらには八万四千のすじがあって、まるで天の美しい絵のようである。 またそのすじは、それぞれ八万四千の光に輝いている。 それらが一つ一つはっきりと見えるようにするがよい。 花びらは小さいものでも大きさが二百五十由旬はある。 この蓮の花には、このような花びらが八万四千もあるのである。 その花びらと花びらの間はそれぞれ百億の宝玉で飾られていて、それぞれの宝玉は千の光明を放っている。 その光明はまるで七つの宝でできた天蓋のようにひろく地上をおおっている。 蓮の花の芯は釈迦毘楞伽宝でできた台座となっており、さらにそれが八万の金剛宝・甄叔迦宝・梵摩尼宝や美しい真珠の網でいろいろに飾られている。 そしてその台座の上には四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねたように高く、宝柱の上の幔幕はちょうど夜摩天の宮殿のようであり、五百億もの美しい宝玉で飾れている。 それぞれの宝玉には八万四千の光があり、その光はそれぞれ八万四千の異なった金色に輝き、さらにそれらの金色の輝きがひろく宝の大地に満ちわたり、いたるところでさまざまなすがたとなる、すなわち金剛の台ともなり、真珠の網ともなり、あるいは色とりどりの花の雲ともなるというように、いたるところで見るものの思うままのすがたをとり、仏のすぐれたはたらきをあらわしている。 このように想い描くのを華座想といい、第七の観と名づける」
 さらに釈尊が阿難に仰せになった。
  「阿難よ、このようなすばらしい花は、もともと法蔵菩薩の本願の力によってできあがったものである。 もしその仏を想い描こうとするなら、まずこの蓮の台座を想い描く観を行うがよい。 ただしこの観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。 その花びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっきりと想うがよい。 この観が成就したなら、五万劫という長い間の迷いのもとである罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。
 このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである」

 一由旬は帝王一日の行軍の距離、もしくは牛車の一日の旅程で約60kmということですから、「二百五十由旬」となると何と15,000km。こうした地球規模の花びらが84,000枚あり、花びらひとつひとつに84,000のすじがあって、しかも84,000色に光り輝いていて、花びらの間に10,000,000,000の宝玉が飾られ、ぞれの宝玉は1000の光明を放って地上をおおっている・・・

 しかもこんな壮大な世界を――「この観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。その花びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっきりと想うがよい」ということで、これでは誰もが投げ出したくなるような修行ですが、実は浄土をイメージするということは、自分の小さなイマジネーションを破ることにつながる、つまり想念を使って想念を捨てる(超える)修行であったと思われます。そしてそれは結果から戻って言えば、散善や自力念仏を通り選択本願の大海に入る、つまり如来よりふり向けられた信心・人生観に気づく方法となってゆくのです。

 如来が観見された世の実相は、迷いの境涯の人がいくら想像しても想像し切れない世界なのです。しかし、現実を離れたところに浄土があるわけではありません。同じ現実でありながら、覚りの眼で見た現実と、迷いの眼で見た現実は、全く違った相に見えるのです。浄土の相は、覚りの眼で見た相であり、この真実より回向されるはたらきを信受することにより、現実を見る眼そのものが転じられ、覚りの智慧を得ることができるのです。

 これによって「祈りの世界」から「願いの世界」に転じていきます。「祈り」は希望ですが、「願い」は本来の姿が現出したものです。

◆ 自力を通してこそ他力は知れる

 ところが、「定善」に留まっていると、たとえこのような行を修めても、おごり高ぶる心がおきてしまい行は完成しません。そうした雑念の原因は、私の中に名誉や利益をむさぼる心が居座っているからです。

 こうした問題は「散善」でも発生し、様々な善根功徳を積んでも<わたしが>というとらわれの心におおわれているため、自利・名誉欲がどこまでもついてまわり、善根功徳の力で浄土に生まれようとする営みは成功しません。
 さらに「称名念仏」も、自分の功徳として称えているうちは<自力念仏>であり、「仏の智慧のはたらきを知ることがない」のです。

 しかし、かと言って、自ら励んで「善」を施したり「称名念仏」を行なうことを躊躇していたのでは、真の善にも真実信心にも出会えません。これらはいわば誘い水。自ら念仏を称え、仏願の示す道を歩むことで、おのずと名号のはたらき自体が私の中で顕わになってくるのです。自力の限界が知られたり、自らの行動が煩悩の毒に染まった自力に過ぎないと知られてくるのも、自力を超えたはたらき、つまりは本願の功徳が成就した姿なのです。
(※注:名号は如来の願いが因果として具体化された言葉「南無阿弥陀仏」等。念仏は名号が私に真実信心としていたりとどいて報恩となった「南無阿弥陀仏」。)

 今、自分の中にとらえた浄土や如来のイメージがあるとすれば、それらはすべて方便であり仮の信心なのです。どんなに努力しても、理解しても、「こういうものです」と示し得るところは皆自力なのです。

 しかし、自力を引き出し、さらにその固執を破る名号のはたらきが、いつのまにか私の内に不断に展開しているのを、私に知らしめて下さるのが念仏なのです。如来の功徳は名号として常にはたらいていまして、そのはたらきこそ頼りであり依るべきですが、私の側からは念仏を時々ながらも絶えず称えることが重要なのです。

 称える時は、思わず口をついて出たり、<さあ称えよう>と励んで念仏するのですが、意識・無意識の別なく、それは他力の摂取の内にある念仏であり、如来が常に先手のはたらきなのです。これは「本願成就のいわれを聞き開く」ことで適います。四十八願全てが私の存在を明かにし、存在の尊さを活かしてゆくのです。称名も、自力と思って励んで念仏していたら、いつの間にか他力の催しだったと、後で知られます。

 真実信心は常に自分が作ったイメージや行や信を破り超えるはたらきをもっているのですが、反面、自ら励むことを通してこそ真実は顕れ出てくるのです。ですから、自力を完全に否定することは、真実信心への道を断ってしまうことになります。
 そして勿論、自力を破る本願のはたらきを無視して自分のつくりあげた境地に留まることは、思い上がった達観を許し、安逸を貪ったり苦行を強いて、それを他人に押し付けることにつながります。ですから常に聞法や読経は欠かせません。

 他力とは如来の本願力であり、それはどこまでも私の日々の暮しに入り込み、私に語りかけ、自力の力みを除き、自力を包み込みつつ自力を超える世界をお示しになります。私はそのことを誇るのではなく、懺悔の心としていただき、家庭や社会に浄土の徳が展開する主体となって立ち上がってゆくのです。その方法こそ、何度も繰り返しますが、「本願成就のいわれを聞き開く」ということで適うのです。

◆ 様々な信心の味わい

 蓮如上人は、仏法を聞く態度について様々指摘をされてみえます。

一、前々住上人(蓮如)法敬に対して仰せられ候ふ。 まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり、人に直されまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは心得の直ることあるべからず、まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ云々。

『蓮如上人御一代記聞書 本』(106)


▼現代語版
 蓮如上人が法敬坊に、「まきたてということを知っているか」とお尋ねになりました。法敬坊が、「まきたてというのは、畑に一度種をまいただけで、何一つ手を加えないことです」とお答えしたところ、上人は、「それだ。仏法でも、そのまきたてが悪いのである。一通りみ教えを聞いただけで、もう十分と思い、自分の受け取ったところを他の人に直されたくないと思うのが、仏法についてのまきたてである。心に思っていることを口に出して、他の人に直してもらわなければ、心得違いはいつまでも直らない。まきたてのような心では信心を得ることはできないのである」と仰せになりました。

 聞いたところを何度も味わうとともに、自己の領解を皆に披露し、心得違いを直すべきとの指摘は重要です。恥ずかしくても黙っていては真実信心に至ることは難しいのです。ですから信心に近道があるとすれば、多くの人に出会い、本音で語り合う中に見出すことができるでしょう。また他人の述べる法の味わいを聞くことも尊いご縁になっていきます。周りの人は、私を写し出す鏡となってくださるのです。


 例えば、浄土真宗では篤信者のことを「妙好人」と称していましたたが、そのひとりに浅原才市という方がおられました。その方の書かれた歌を少し紹介します。

名号は 不思議な慈悲で
合点がいらぬ
合点いらぬが 南無阿弥陀仏


違うことは 言うじゃない
このままとは違います
言葉はよいが 胸に自力の根が残る
はやくご縁にあいなさい


娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと


目が変わる 世が変わる
ここが極楽に変わる
うれしや 南無阿弥陀仏


慚愧には歓喜のよろこびあり
歓喜には慚愧のあやまりあり
これ南無阿弥陀仏なり
これが才市がよろこびよ


口に出るのが南無阿弥陀仏
不思議でならぬ南無阿弥陀仏
居り場が知れぬ 知れぬはずだよ
機法一体 南無阿弥陀仏


仏が私に成り切って
南無阿弥陀仏のもらいきり


 また、張偉(チャン・ウェイ)さんという中国からの留学生の書かれた[海をこえて響くお念仏](法藏館)には、「苦悩のままの救済」「難度海を度する大船」ということについて、こんな味わいを述べられています。

 その大船は、海の上に浮かんで溺れそうな人を海から救い出すのではなく、海よりも大きくて、もがいている人間と海そのものを載せている大船だというほうがよいと思います。


 向坊弘道氏が『甦る仏教』に著した中に、印象的な言葉があります。

親鸞聖人は歎異抄で、
「よきひと(法然)の仰せをかうぶりて信ずるほかに、別の仔細なきなり」 と言われています。信頼する師、法然上人が「念仏を信じなさい!」とおっしゃるので、理屈抜きに信じたと告白していますが、そのために二十年間も疑問をもって比叡山で修行しているのです。
 そこで迷信と正信の違いを吟味してみると、それは疑いにあります。徹底的に疑えば、正しい信心にたどりつくことができるのです。


≪時≫
時が来て時が去る
吸う息吐く息今の時
私を包む悠久の時

今の時があればこそ
私に満ちた永遠の時
時と共に時を歩まん

時にまかせて時にひたる
決してあせらず時のままに
時を追わず時を悔やまず

時そのものになりきって
時が一人で歩む時
すべての時は堂々と歩む


 さらに、「至誠心」を持つとは具体的にどういうこと? #利他、他力の三心に島田幸昭 氏の領解が述べられていますが、素晴らしい味わいだと思います。

 また、真実信心は様々な具体相となって顕れますが、「現生正定聚の益」としてまとめられると思います。([現象利益を説かなければ新興宗教に負ける?#本当の現世利益] 参照) こうした利益に、いつの間にか肯いている私を見るのが真実信心のはたらきです。

 真実信心を味わう上で重要なのは「平生業成」ということです。これをキーワードに、例えば先ほどの『仏説観無量寿経』にあった「定善」について読むと、単に頭の中のイメージに留まるものではない、と指摘することができます。

金を底とし、宝を間へたる池に生ぜる華、
善根の成ぜるところの妙台座あり。
かの座の上にして山王のごとし。
ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。

龍樹菩薩 著『十二礼』より


▼現代語版
底に金砂輝き、七宝を尽くして成る 浄土の宝池に咲き出でた蓮華は、
如来の本願の善徳から成る 精妙な台座となっている。
その台座の上に、如来は、 須弥山のように泰然と坐しておわす。
それ故に私は、うやうやしく 弥陀如来を礼拝したてまつる。

 如来は「本願の善徳から成る精妙な台座」に坐してみえます。これは如来が如来という台座、つまり名号を発する立場として活動し続けてみえることを顕しています。
 如来が法蔵菩薩となって願いを起こし、それを成就する因果を示すのも、国に三悪道があることを見逃していては、如来が如来に成りきれない、そうした如来としての悲願において衆生の救済がなされるのです。

 同様に私たちも、浄土に至ると蓮の花に包まれる様子が『仏説観無量寿経』に描写されていますが、これを真実信心の上から見るとどのようにいただくことができるでしょう。

この事を見るとき、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開く想をなすべし。 蓮華の開くとき、五百色の光あり。来りて身を照らし、〔心の〕眼目開くと想へ。仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ〔と想へ〕。十二部経と合して、出定のとき〔想を〕憶持して失はざれ。この事を見をはるを無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至す」と。

『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 普観


▼現代語版
 以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
 まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。 そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。 また自分の目が開くのを想い描くがよい。 そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。 さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。 この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。 この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。 このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
 無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである

「定善」においては単にイメージですが、如来からの呼び声として読ませてもらうと、――私の居場所がここに設けられていて、その場や名(例えば社会的・家庭的な役割)によって育てられ、その名の示す願いに照らされ、人として花開いてゆく。そしてそこに開かれた世界は、自然も人々の声もみな尊い教えとして聞こえ、経典の教えそのものであると見抜くことができる。

 これは浄土に往生したら、ということですが、結果は原因である今に及びます。今の私にその呼び声は響いてくるであって、決して絵空事ではないのです。浄土に生まれたいと願う、その願うところに浄土がはたらくのです。阿弥陀仏の浄土は、本願を胸にした一切諸仏の功徳が集まった場、といえるでしょう。

 私が今の現実の立場において、その場に育てられ、その名の尊さに照らされ、私が人としての花を開かせてゆく。その過程において、出会う人、経験するすべての物事が、みな尊い教えであり、経典に説かれてあることを裏づけている。――このように味わうことができると思います。

 現実社会は流転・無常ですが、そこに生きることを蔑視しない姿勢が「平生業成」に顕れています。責任を担いながら苦の世界を生き切る、そこにおいて私が育てられ、仏法と出会うこともでき、流転を離れた常住の法を経験できるのです。

 真実でないものは、こうした過程のどこかで破綻をきたし、留まっている状態なのです。ただし、それがいずれ破れていく壁であれば、方便としての役割にはなっているでしょう。
 おもに「祈る」という状態は多くの宗教で経験されるものですが、これが凝り固まると狂気に変質することは世界の歴史・政治の示すところです。ここを超えるためには、どうしても浄土との出遭いが必須となります。そこで最も重要な行が念仏であることは、長々と書きました通りです。


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浄土の風だより(浄土真宗寺院 広報サイト)