平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
「他力の信心」すなわち「真実信心」が「かなめ」と書かれてありましたが自分の信心が「他力の信心」すなわち「真実の信心」なのか否かはどうやって見分けることができるのでしょうか。
あるいは自分でははっきりわからないものなのでしょうか
ご指摘のように、[死んで浄土へ往生できる人とできない人] におきまして、「かなめは真実信心」と書かせていただきました。これは浄土真宗の基本姿勢なのですが、具体的に「どうやって見分けることができるのでしょうか」ということにつきまして、言葉で解答を示すことは非常に難しい問題かと思われます。
しかし、ネット上で言葉を省く訳にはいきません。できるかぎりわかり易く、また大胆に述べさせていただきますが、<これが模範解答です>と誇れるものではありません。ある種の方向性を示すことでご勘弁を願います。
選択本願は有念にあらず、無念にあらず。有念はすなはち色形をおもふにつきていふことなり。無念といふは、形をこころにかけず、色をこころにおもはずして、念もなきをいふなり。これみな聖道のをしへなり。
<中略>
浄土宗にまた有念あり、無念あり。有念は散善の義、無念は定善の義なり。浄土の無念は聖道の無念には似ず、またこの聖道の無念のなかにまた有念あり、よくよくとふべし。
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。
『親鸞聖人御消息』(1) 建長三歳辛亥閏九月二十日 より
笠間の念仏者の疑ひとはれたる事
それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
『親鸞聖人御消息』(6) 建長七歳乙卯十月三日 より
以上、「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり」、「弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり」とありますように、<如来より選択された本願を信じ念仏させていただくこと>が「真実の信心」です。このことは、たとえば親鸞聖人のご体験を通してつぶさに知られるのです。聖人が法然門下で三願転入をはたされたことは有名ですが、これは真実信心が明らかになる、ある意味<仏教の歴史>ともいえるでしょう。
そこで、まずは [浄土真宗と法華経など諸経との関係 #聖人の三願転入] を見て下さい。一部、再掲載しますと――
自力聖道門を捨てて法然門下に入った最初の段階では、「万行諸善の仮門・双樹林下往生=さまざまな行や善を修める方便の要門」、つまり<自分が定善散善の様々な善根功徳を積み、その力で浄土に生まれようとする>という第十九願・『観無量寿経』に顕れた〔要門諸行による方便化土への九品往生〕に固執してみえた。
続いて、「善本徳本の真門・難思往生=自力念仏を修める方便の真門に入って、ひとすじに難思往生を願う心をおこした」、つまり<念仏を称えることが救われる道であると気づき、心を励まして称え、その力で浄土に生まれようとする>という第二十願・『阿弥陀経』に顕れた〔真門自力の称名による方便化土の疑城胎宮への往生〕に進まれた。
やがて、「選択の願海・難思議往生=選択本願の大海に入ることができた。・・・難思議往生を遂げようとする」つまり<ただ仏の誓いを信じて、すくわれる身の喜びの上から念仏申すほかはない>という究極の第十八願・『無量寿経』に顕れた内容〔弘願念仏による真実報土への往生〕に転入されていかれたわけです。
このように、第十九願や第二十願は方便の願いであると書かせていただきました。しかしこれらの願を、第十八願・真実信心の立場でもう一度見つめ直していくことで、より信心が明らかになってくるのではないでしょうか。
例えば、最初の「万行諸善の仮門」は「定善散善の様々な善根功徳」によって覚りを得ていこうとする方法です。「定善」というのは、いわば高度な「イメージ・トレーニング」です。
どんな世界でも集中力の欠けた人は向上しません。例えば野球やサッカー等のスポーツでも、また会社経営や金融・政治といった分野でも、もちろん芸術・文化の世界も、高度なイメージを保ち、集中力を養い、内外にビジョンを示すことにより、優れた活動が可能になります。そして伝統ある世界では、成功した人のあとを慕い、その人のようになりたい、と思い続けることにより、自分を高めていくことが可能になります。
「定善」とは、そうした憧れを、究極の人格である「無量寿仏」と、究極の清浄荘厳世界である「浄土」を明確にイメージすることによって成仏を可能にしていこうとする道です。しかし、結果として聖人はこの道を退けられるのですが、それは「如来や浄土は私たちがイメージできるような限界あるものではない」ということを示してみえるのでしょう。
しかし、私たちは常に物事を自分の想いでとらえようとします。浄土への想いは、どんなに練られていても、またどんなに大きくてもそれは有限で、いわゆる自力です。ですから有限をいくら足しても無限にはなりませんが、それでも可能な限り理解しようとする活動を止めることはできません。事実、一度も浄土に想いをはせることをしなければ、ご縁が断たれてしまいます。また「自力ではダメだ」と聞かされても、自力を自分の力で消し去ることはできないのです。
こうした思索については、例えば [はからいを捨てることは求道心も捨てること? (#限りない思索を促す)] に引用しましたが、「真に人間を超えた不可思議なるものに触れた人は、自己のはからいを打ち砕かれながら、逆に限りなく思索を促され続けるものである(梯實圓)」というように、無限の思惟を可能にするものです。
経典を読んだり思索を重ねていくと、私の中にある種のイメージが出来上がります。これは「独影境」といわれるもので、いわば「理念的な祈りの世界」です。成功を祈ったり、<平和な世界に全ての人々が生きる>こと等をイメージすること、これなくして私の人生は始まりません。イマジネーションの欠落したところには教育も文化も成立しないのです。
しかし、ここには大きな落とし穴があります。自分で描いたイメージに自分が縛り付けられてしまうのです。そして、往々にしてそこに他人も巻き込み、時としてそれは多くの人を傷つける結果になってしまいます。
ところが、面白いことに、如来や浄土というのは、私のイメージには絶対入りきれないように表現されているのです。
例えば――
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 華座観
一由旬は帝王一日の行軍の距離、もしくは牛車の一日の旅程で約60kmということですから、「二百五十由旬」となると何と15,000km。こうした地球規模の花びらが84,000枚あり、花びらひとつひとつに84,000のすじがあって、しかも84,000色に光り輝いていて、花びらの間に10,000,000,000の宝玉が飾られ、ぞれの宝玉は1000の光明を放って地上をおおっている・・・
しかもこんな壮大な世界を――「この観を行うときには、決して雑然と想い描いてはならない。その花びら、宝玉、光、台座、宝柱をそれぞれ一つ一つ正しく想い描いて、ちょうど鏡に自分の顔かたちを映し見るように、それらをみなはっきりと想うがよい」ということで、これでは誰もが投げ出したくなるような修行ですが、実は浄土をイメージするということは、自分の小さなイマジネーションを破ることにつながる、つまり想念を使って想念を捨てる(超える)修行であったと思われます。そしてそれは結果から戻って言えば、散善や自力念仏を通り選択本願の大海に入る、つまり如来よりふり向けられた信心・人生観に気づく方法となってゆくのです。
如来が観見された世の実相は、迷いの境涯の人がいくら想像しても想像し切れない世界なのです。しかし、現実を離れたところに浄土があるわけではありません。同じ現実でありながら、覚りの眼で見た現実と、迷いの眼で見た現実は、全く違った相に見えるのです。浄土の相は、覚りの眼で見た相であり、この真実より回向されるはたらきを信受することにより、現実を見る眼そのものが転じられ、覚りの智慧を得ることができるのです。
これによって「祈りの世界」から「願いの世界」に転じていきます。「祈り」は希望ですが、「願い」は本来の姿が現出したものです。
ところが、「定善」に留まっていると、たとえこのような行を修めても、おごり高ぶる心がおきてしまい行は完成しません。そうした雑念の原因は、私の中に名誉や利益をむさぼる心が居座っているからです。
こうした問題は「散善」でも発生し、様々な善根功徳を積んでも<わたしが>というとらわれの心におおわれているため、自利・名誉欲がどこまでもついてまわり、善根功徳の力で浄土に生まれようとする営みは成功しません。
さらに「称名念仏」も、自分の功徳として称えているうちは<自力念仏>であり、「仏の智慧のはたらきを知ることがない」のです。
しかし、かと言って、自ら励んで「善」を施したり「称名念仏」を行なうことを躊躇していたのでは、真の善にも真実信心にも出会えません。これらはいわば誘い水。自ら念仏を称え、仏願の示す道を歩むことで、おのずと名号のはたらき自体が私の中で顕わになってくるのです。自力の限界が知られたり、自らの行動が煩悩の毒に染まった自力に過ぎないと知られてくるのも、自力を超えたはたらき、つまりは本願の功徳が成就した姿なのです。
(※注:名号は如来の願いが因果として具体化された言葉「南無阿弥陀仏」等。念仏は名号が私に真実信心としていたりとどいて報恩となった「南無阿弥陀仏」。)
今、自分の中にとらえた浄土や如来のイメージがあるとすれば、それらはすべて方便であり仮の信心なのです。どんなに努力しても、理解しても、「こういうものです」と示し得るところは皆自力なのです。
しかし、自力を引き出し、さらにその固執を破る名号のはたらきが、いつのまにか私の内に不断に展開しているのを、私に知らしめて下さるのが念仏なのです。如来の功徳は名号として常にはたらいていまして、そのはたらきこそ頼りであり依るべきですが、私の側からは念仏を時々ながらも絶えず称えることが重要なのです。
称える時は、思わず口をついて出たり、<さあ称えよう>と励んで念仏するのですが、意識・無意識の別なく、それは他力の摂取の内にある念仏であり、如来が常に先手のはたらきなのです。これは「本願成就のいわれを聞き開く」ことで適います。四十八願全てが私の存在を明かにし、存在の尊さを活かしてゆくのです。称名も、自力と思って励んで念仏していたら、いつの間にか他力の催しだったと、後で知られます。
真実信心は常に自分が作ったイメージや行や信を破り超えるはたらきをもっているのですが、反面、自ら励むことを通してこそ真実は顕れ出てくるのです。ですから、自力を完全に否定することは、真実信心への道を断ってしまうことになります。
そして勿論、自力を破る本願のはたらきを無視して自分のつくりあげた境地に留まることは、思い上がった達観を許し、安逸を貪ったり苦行を強いて、それを他人に押し付けることにつながります。ですから常に聞法や読経は欠かせません。
他力とは如来の本願力であり、それはどこまでも私の日々の暮しに入り込み、私に語りかけ、自力の力みを除き、自力を包み込みつつ自力を超える世界をお示しになります。私はそのことを誇るのではなく、懺悔の心としていただき、家庭や社会に浄土の徳が展開する主体となって立ち上がってゆくのです。その方法こそ、何度も繰り返しますが、「本願成就のいわれを聞き開く」ということで適うのです。
蓮如上人は、仏法を聞く態度について様々指摘をされてみえます。
一、前々住上人(蓮如)法敬に対して仰せられ候ふ。 まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり、人に直されまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは心得の直ることあるべからず、まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ云々。
『蓮如上人御一代記聞書 本』(106)
聞いたところを何度も味わうとともに、自己の領解を皆に披露し、心得違いを直すべきとの指摘は重要です。恥ずかしくても黙っていては真実信心に至ることは難しいのです。ですから信心に近道があるとすれば、多くの人に出会い、本音で語り合う中に見出すことができるでしょう。また他人の述べる法の味わいを聞くことも尊いご縁になっていきます。周りの人は、私を写し出す鏡となってくださるのです。
例えば、浄土真宗では篤信者のことを「妙好人」と称していましたたが、そのひとりに浅原才市という方がおられました。その方の書かれた歌を少し紹介します。
名号は 不思議な慈悲で
合点がいらぬ
合点いらぬが 南無阿弥陀仏
違うことは 言うじゃない
このままとは違います
言葉はよいが 胸に自力の根が残る
はやくご縁にあいなさい
娑婆の世界はここのこと
極楽の世界もここのこと
これは目の幕切りをいうこと
目が変わる 世が変わる
ここが極楽に変わる
うれしや 南無阿弥陀仏
慚愧には歓喜のよろこびあり
歓喜には慚愧のあやまりあり
これ南無阿弥陀仏なり
これが才市がよろこびよ
口に出るのが南無阿弥陀仏
不思議でならぬ南無阿弥陀仏
居り場が知れぬ 知れぬはずだよ
機法一体 南無阿弥陀仏
仏が私に成り切って
南無阿弥陀仏のもらいきり
また、張偉(チャン・ウェイ)さんという中国からの留学生の書かれた[海をこえて響くお念仏](法藏館)には、「苦悩のままの救済」「難度海を度する大船」ということについて、こんな味わいを述べられています。
その大船は、海の上に浮かんで溺れそうな人を海から救い出すのではなく、海よりも大きくて、もがいている人間と海そのものを載せている大船だというほうがよいと思います。
向坊弘道氏が『甦る仏教』に著した中に、印象的な言葉があります。
親鸞聖人は歎異抄で、
「よきひと(法然)の仰せをかうぶりて信ずるほかに、別の仔細なきなり」
と言われています。信頼する師、法然上人が「念仏を信じなさい!」とおっしゃるので、理屈抜きに信じたと告白していますが、そのために二十年間も疑問をもって比叡山で修行しているのです。
そこで迷信と正信の違いを吟味してみると、それは疑いにあります。徹底的に疑えば、正しい信心にたどりつくことができるのです。
≪時≫
時が来て時が去る
吸う息吐く息今の時
私を包む悠久の時
今の時があればこそ
私に満ちた永遠の時
時と共に時を歩まん
時にまかせて時にひたる
決してあせらず時のままに
時を追わず時を悔やまず
時そのものになりきって
時が一人で歩む時
すべての時は堂々と歩む
さらに、「至誠心」を持つとは具体的にどういうこと? #利他、他力の三心に島田幸昭 氏の領解が述べられていますが、素晴らしい味わいだと思います。
また、真実信心は様々な具体相となって顕れますが、「現生正定聚の益」としてまとめられると思います。([現象利益を説かなければ新興宗教に負ける?#本当の現世利益] 参照) こうした利益に、いつの間にか肯いている私を見るのが真実信心のはたらきです。
真実信心を味わう上で重要なのは「平生業成」ということです。これをキーワードに、例えば先ほどの『仏説観無量寿経』にあった「定善」について読むと、単に頭の中のイメージに留まるものではない、と指摘することができます。
金を底とし、宝を間へたる池に生ぜる華、
善根の成ぜるところの妙台座あり。
かの座の上にして山王のごとし。
ゆゑにわれ、弥陀尊を頂礼したてまつる。
龍樹菩薩 著『十二礼』より
如来は「本願の善徳から成る精妙な台座」に坐してみえます。これは如来が如来という台座、つまり名号を発する立場として活動し続けてみえることを顕しています。
如来が法蔵菩薩となって願いを起こし、それを成就する因果を示すのも、国に三悪道があることを見逃していては、如来が如来に成りきれない、そうした如来としての悲願において衆生の救済がなされるのです。
同様に私たちも、浄土に至ると蓮の花に包まれる様子が『仏説観無量寿経』に描写されていますが、これを真実信心の上から見るとどのようにいただくことができるでしょう。
この事を見るとき、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開く想をなすべし。 蓮華の開くとき、五百色の光あり。来りて身を照らし、〔心の〕眼目開くと想へ。仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ〔と想へ〕。十二部経と合して、出定のとき〔想を〕憶持して失はざれ。この事を見をはるを無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至す」と。
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 普観
「定善」においては単にイメージですが、如来からの呼び声として読ませてもらうと、――私の居場所がここに設けられていて、その場や名(例えば社会的・家庭的な役割)によって育てられ、その名の示す願いに照らされ、人として花開いてゆく。そしてそこに開かれた世界は、自然も人々の声もみな尊い教えとして聞こえ、経典の教えそのものであると見抜くことができる。
これは浄土に往生したら、ということですが、結果は原因である今に及びます。今の私にその呼び声は響いてくるであって、決して絵空事ではないのです。浄土に生まれたいと願う、その願うところに浄土がはたらくのです。阿弥陀仏の浄土は、本願を胸にした一切諸仏の功徳が集まった場、といえるでしょう。
私が今の現実の立場において、その場に育てられ、その名の尊さに照らされ、私が人としての花を開かせてゆく。その過程において、出会う人、経験するすべての物事が、みな尊い教えであり、経典に説かれてあることを裏づけている。――このように味わうことができると思います。
現実社会は流転・無常ですが、そこに生きることを蔑視しない姿勢が「平生業成」に顕れています。責任を担いながら苦の世界を生き切る、そこにおいて私が育てられ、仏法と出会うこともでき、流転を離れた常住の法を経験できるのです。
真実でないものは、こうした過程のどこかで破綻をきたし、留まっている状態なのです。ただし、それがいずれ破れていく壁であれば、方便としての役割にはなっているでしょう。
おもに「祈る」という状態は多くの宗教で経験されるものですが、これが凝り固まると狂気に変質することは世界の歴史・政治の示すところです。ここを超えるためには、どうしても浄土との出遭いが必須となります。そこで最も重要な行が念仏であることは、長々と書きました通りです。