平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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仏前結婚式を挙げる意義というのは、『仏前結婚式式次第』に掲載しましたように――
一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むさえ浅からぬえにしがあればといわれております。また、勤式指導所編集の『法式規範』では――
この世に生を受け、数多い人びとの中で、妻とよび夫とよぶ間柄となることは、格別に深い因縁があればこそであります。
まして、人生の門出を飾る結婚式を、仏祖の前で誓うことは、まことに意義が深いといわなければなりません。ことに仏教徒は、家庭においても、お内仏を中心とした生活を送るわけですから、何事でも仏祖のご照覧を仰ぐねきでありましょう。
この意味からも、仏前結婚式は、まことに意義あることとお勧めいたします。岡崎諒観著『仏事の心得 その3』より
結婚式は、親鸞聖人の流れをくむ者にとって生涯聞法の大切な儀式であり、如来のご尊前において念仏に薫る人生を送ることを表明する儀式。
というように、み仏を中心とした新たな家庭をつくる第一歩としての儀式ですから、殊更「男女間に限ったとこと」という限定を見出すものではありません。また夫・妻という記述があったにせよ、それは大多数の結婚の形態を想定して男女が記されているもので、結婚の意義を異性間に限定するものではない、と理解すべきでしょう。
これをもっと遡って考えてみますと、法然上人が禅勝房に「現世をすぐべき様」として、
現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろづをいとひすてて、これをとどむべし。いはくひじりで申されずば、め(妻)をまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行[るぎょう]して申すべし。流行して申されずば、家にゐて申すべし。自力に衣食に申されずば、他人に助けられて申すべし。他人にたすけられて申されずば、自力の衣食にて申すべし。一人して申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居して申すべし。衣食住の三は念仏の助業也。「禅勝房伝説の詞」元亨版『和語灯録』巻五 より
と示されていて、この意を同性婚に当てはめれば、同性愛者が「独身で念仏を申せなければ、同性と結婚して申しなさい。結婚して念仏を申せなければ、独身で申しなさい」ということになるでしょう。親鸞聖人が僧侶としての結婚を決意されたのも、法然上人のこうした断固たる導きと信念があったからこそ成し遂げられた快挙であった訳で、当時の常識から考えれば、僧侶が結婚するという衝撃は、現在の同性愛者の結婚など比べものにならない程激しかっただろうと想像されます。
また仏教の場合、結婚について、所謂「うめよふやせよ」というような、子どもをもうけることを前提としてとらえたり、神の概念を盾に「自然な結婚形態」を強要するものではありません。その点、西洋で問題となっている「神の意向に反するかどうか」という不毛な論議はしなくて済み、自分達で判断し、問題点は改善していけばよいのです。ですからもし、オランダや米国バーモント州に浄土真宗の寺院があって、請われることがあれば、同性でも仏前結婚式をとり行なうことになります。
◆ 現実の問題
そうすると、世界のどの地域でも同性間の仏前結婚式を行うことができるのか、というと現実はそう簡単な話ではなくなります。法律が許していない結婚を仏式でとり行う訳ですから、仏法が法律(王法)を否定することになり、そのためには司婚者にそれ相当の覚悟が要求されるわけです。
勿論、式をとり行うことが法律違反になるわけではありませんが、現行法を否定することは、寺院という立場上個人的な思想の問題では済まされず、まして別院や本山が行なうとなれば、それは「教団を挙げて法律の改正を求める意思表示」となる訳です。そうした下準備もなしに司婚を引き受けることはおいそれとはできないでしょう。ただし一僧侶の立場なら自らの覚悟でできる、ということは確かです。
ちなみにこのように、教えの示す方向(真諦)と法律の示す方向(俗諦)において相違があった場合、どちらを優先するか、という議論は古くて新しい問題で、『真俗二諦』梯實圓 著/本願寺出版社(教学シリーズ No.2) でも触れられているように、「独自の俗諦をもたなかった従来の真宗学者、あるいは真宗教徒のあまりにも自主性のなさが問題」であり、「浄土真宗という教法、すなわち真諦は、人びとにどのような世界観を与え、どのような生命観をもたしめ、どのように生存の意義と方向性を規定していくのか」を問う作業があまりにも疎かにされていたことは、大いに反省しなくてはならないでしょう。
現在、浄土真宗が取り組んでいこうとしている課題は、部落差別や性差別の問題、新たな生命倫理確立等で、同性婚の問題は具体的には取り上げられていません。しかし、機会と要請があれば、そうした問題が議題にのぼり、一定の方向性が示されることになるかも知れません