平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:
煩悩を調べていますと、「我欲」「我執」という言葉がよく出てまいり
ます。この「我欲」等の目的を達するための心作用により、人は苦楽に
沈み束縛される、ともあります。
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これはとても大切な問いなので、詳しく述べてみたいと思います。
この境目は一言で言うと「欲が本来的なものかどうか」にかかってきます。
一般的に仏教は「欲を断っていく教えだ」というイメージが定着していますが、
これは一つの手段であって、仏教者が目ざすのは「覚り」であり、
それは「自己改革」「自己創造」によって、
「完全燃焼の人生」という結果をもたらすものです。
◆ 欲をコントロールする
「欲」は生きる力ですから、欲を断ってしまっては生きてゆけません、
仏教が教えるのは、この欲の方向性であり、調御(コントロール)なのです。
つまり「欲」は本来「自己を生かす力」なのですが、
その力がかえって自己を悩ますはたらきに変質したり、
「自己実現」の妨げになる、という矛盾を含んでいます。
たとえば食欲を考えてみればわかるでしょう。
必要ですが欲が多すぎたり味覚が偏ると体調を悪くします。
そこでそうした不純な部分を「煩悩」と呼び排除し、
純粋に自己を生かす欲を「願」とか「菩提心」と呼び、
その助長に励んできたのです。
「欲」が「煩悩」になってしまう原因はどこにあるのかといいますと、 ご質問にありますように、主に「我欲」「我執」と「誤った見識・人生観」 にあると示されています。
参照: [百八煩悩]
【煩悩】: [クレーシャ、惑とも訳] 身体や心を悩ませ,かき乱し,煩わせ,惑わし汚す精神作用の総称。
仏教では人間が苦楽の世界に沈み常に束縛されるのは,意識無意識のうちに営む我欲・我執の目的を達するための心的作用によるとして,悟りという仏教の最高目的を標準としてその実現を妨げる精神作用のすべてを指す。[新・佛教辞典/誠信書房]
仏教にはこうした不純な「煩悩」を排除して覚りを得る方法と、 「覚り」の側から発せられる純粋な「願い」「菩提心」を受け入れてゆく道があり、 大まかに言いますと、部派仏教は前者、大乗仏教では後者が主軸になっています。
参照: [煩悩即菩提について]
◆ 本来的な欲
さて、前置きが長くなりましたが、 ご質問のように「我欲」と「我欲でない望み」の境目、線引きは確かに難しいですね。 出家者のように常に修行に励み、助言が与えられる環境に居れば良いのですが、 世俗の生活では、欲と煩悩はほとんど一体化しています。 社会も物質的欲望の拡大を基盤に経済を回転させていますが、 その反動によって様々な歪みができ、逆に社会の基盤を危うくさせています。 宗教に求めるものも「無いものねだり」であったり、 「他人より自分が恵まれますように」という我執が混じりがちです。
ですから、本当の仏教(宗教)では、欲を野放しにはしません。 常に真実の法に照らされ、わが身をふり返るところから欲を発動させるのです。 すると、野放しの欲とは違った方向性が得られてゆきます。
例えば、自分が学生であったとしましょう、すると、
「自分を学びの場に立たせてくれる様々な縁に感謝し、出来る限り学んでゆこう、
恩に報いてゆこう」という本来的な欲に純化されます。
すると、友達が単に点数上のライバルではなく、共に学ぶ仲間となります。
また、親になったら、「本当の親になりたい」
「親としての本来のあり方を求め、家庭をしっかり支えてゆこう」
という欲が生まれてきます。
ところが本来的な欲から外れ
「わが身さえよければ、他人に迷惑をかけてもいい」
それも「見つからなければ自分に不利益がこないからいい」
という我欲にとらわれていては、本当は自分の利益にもならないのです。
こうしたことは様々な職業でもまた政治の分野でも同じでしょう。
組織の利益や体裁ばかりつくろって、社会に貢献してゆく本来の欲が無くなれば、
組織も煩悩まみれになってしまいます。
◆ 人が人になってゆく
そうした意味で言うと、仏教は「人が人になってゆく道」とも言えるでしょう。
「人間に生まれてきたけれど、その甲斐がある生き方ができているか」
「人間としての尊さを実現できているのか」
が問われているのだと思います。
本当の人間に成ってゆく(成仏)ため、人間としての花を咲かせるため、
どうしても我執を離れ、正しい人生観を身につけ、努力してゆく必要があります。
そうすると欲が純化され、他人にもその徳が及ぶようになります。
その心が「菩提心」であり、
それを仏の願い(本願)として聞き開いてゆくのが他力・浄土の道です。
それは個人の中途半端な善にとどまらず、
時代や国を超えてはたらく普遍的な力であり、
「限りない光・寿(いのち)」と顕れされたものです。
しかし、そうした縁をないがしろにする人は、
欲が煩悩として固まってしまいますので、
「都合の悪い事柄から逃げたい」という、ひ弱な人生観から脱せられなくなります。
本当は「苦を飲み込んで生きていく」のが人間であり、
それは死をも超えてゆく道を求めることでかなってゆくのです。