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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 8

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【八】
  観彼世界相 勝過三界道

 これより以下は、これ第四の観察門なり。この門のなかを分ちて二の別となす。一には器世間荘厳成就を観察す。二には衆生世間荘厳成就を観察す。この句より以下「願生彼阿弥陀仏国」に至るまでは、これ器世間荘厳成就を観ずるなり。器世間を観ずるなかに、また分ちて十七の別となす。文に至りてまさに目くべし。この二句はすなはちこれ第一の事なり。名づけて観察荘厳清浄功徳成就となす。この清浄はこれ総相なり。仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすにこれ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、シャッ蠖 屈まり伸ぶる虫なり の循環するがごとく、蚕繭 蚕衣なり の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締 結びて解けず られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。「観」とは観察なり。「彼」とはかの安楽国なり。「世界相」とはかの安楽世界の清浄の相なり。その相、別に下にあり。「勝過三界道」の「道」とは通なり。かくのごとき因をもつて、かくのごとき果を得。かくのごとき果をもつて、かくのごとき因に酬ゆ。因に通じて果に至る。果に通じて因に酬ゆ。ゆゑに名づけて道となす。「三界」とは、一にはこれ欲界、いはゆる六欲天・四天下の人・畜生・餓鬼・地獄等これなり。二にはこれ色界、いはゆる初禅・二禅・三禅・四禅の天等これなり。三にはこれ無色界、いはゆる空処・識処・無所有処・非想非非想処の天等これなり。この三界はけだしこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり。また苦楽小しき殊なり、修短しばらく異なりといへども、統べてこれを観ずるに有漏にあらざるはなし。倚伏あひ乗じ、循環無際なり。雑生触受し、四倒長く拘はる。かつは因、かつは果、虚偽あひ襲ふ。安楽はこれ菩薩(法蔵)の慈悲・正観の由生、如来(阿弥陀仏)の神力本願の所建なり。胎・卵・湿の生、これによりて高く揖め、業繋の長き維、これより永く断つ。続括の権、勧めを待たずして弓を彎く。労謙善譲、普賢に斉しくして徳を同じくす。「勝過三界」とはそもそもこれ近言なり。

聖典意訳

 彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり
 これより以下は、第四の観察門である。この門の中を分けて二とする。一つには、器世間(浄土)荘厳成就を観察する。二つには、衆生世間(如来および聖衆)荘厳成就を観察する。この功徳より後、「かの阿弥陀仏国に生ぜんと願ず」までは、器世間荘厳成就を観察する。器世間を観察する中を、また分けて十七とする。その一一は文に至って名づける。
 今この二句は、すなわち最初のものである。それを名づけて荘厳清浄功徳成就とする。この清浄功徳は荘厳のすべてにわたる徳である。仏が因位の時に、清浄功徳を荘厳しようという願を起こされたわけは、三界をみれば、虚偽の相であり、流転の相であり、はてしない相であり、シャッ[シャクトリムシ]がまるいものをめぐるが如く、蚕の繭が自分をしばるが如くである。あわれなことには、衆生はこの三界にとじられて顛倒・不浄である。これらの衆生を虚偽でない処、輪廻無窮でない処に置いて、この上ない安楽の清浄なさとりを得させたいと思召すのである。こういうわけで、この清浄荘厳功徳を起こされたのである。
「成就」という意味は、浄土の清浄は破壊することができず、けがすことができないもので、この三界がけがれた相であり、また破壊の相であるようなものではないことをいう。
「観ずる」というのは、観察することである。
「彼の」とは、かの安楽浄土である。
「世界の相」とは、かの安楽世界の真如にかなった清浄の相である。その相のいろいろな徳は下に出ている。
「三界の道に勝過せり」といわれる「道」とは通ずるということである。こういう因でこう いう結果を得、こういう結果がこういう因に酬う。因と果の間が通じているから「道」と名づける。
「三界」とは、一つには欲界、いわゆる六欲天・四天下の人・畜生・餓鬼・地獄などである。二つには色界、いわゆる初禅・二禅・三禅・四禅天などである。三つには無色界、いわゆる空処・識処・無所有処・非想非非処天などである。この三界は、迷いの凡夫が流転する暗黒の所であって、苦と楽とが少しばかり異なり、寿命の長短も多少ちがっているけれども、総じてこれを見ると有漏でないものはない。禍と福とが互いに相依って起こり、それが循環してはてしがない。雑多の生を受けて、いろいろの苦にふれ、これを受ける。誤った常楽我浄というものに長くかかわり、因も果も虚偽が互いに続く。
安楽国は、法蔵菩薩の慈悲・智慧によって生じ、阿弥陀如来の不思議な本願力によって建立されたものである。胎生・卵生・湿生などはこれによって遠く離れ、迷いの業繋の長い綱がこれによって長く断ちきられる。弓を射るのに括を続けて下に落ちない名人の術の如く、菩薩が七地の位において諸仏の勧めを待つようなことなく、自在に迷いの世界に現れて衆生済度をすることが、普賢の位の菩薩とその徳を同じうする。そこで「三界に勝過せり」とあるのも、ただ近い言葉を使っただけで、三界の衆生に対するからこういうのである。

 何をどう観察するのか

  観彼世界相 勝過三界道

 これより以下は、これ第四の観察門なり。この門のなかを分ちて二の別となす。一には器世間荘厳成就を観察す。二には衆生世間荘厳成就を観察す。この句より以下「願生彼阿弥陀仏国」に至るまでは、これ器世間荘厳成就を観ずるなり。器世間を観ずるなかに、また分ちて十七の別となす。文に至りてまさに目くべし。

「礼拝門・讃嘆門・作願門」が終わって、第四の「観察門[かんざつもん]」が始まります。ここからいよいよ浄土の内容を実際に観察する段階に入るのです。浄土論もこの論註も「観察門」に一番長く頁を割いていますので、ここからが本番というところでしょう。

<この門のなかを分ちて二の別となす。一には器世間荘厳成就を観察す。二には衆生世間荘厳成就を観察す>
「観察門」は大きく二つに分かれていますが、その前に具体的に何を観察するのか ということを明らかにしなくてはいけません。実はこの視点が長年の仏教史の中で狂ってしまい、日本に伝承された頃の「浄土を観察する修行」は、ひたすら「浄土のイメージトレーニング」に留まっていました。これでは夢幻のファンタジー世界になってしまいます。この誤解が浄土経典を理解できなくしてしまったのです。平安時代までの浄土教が、ややもすると貴族の逃避的信仰に陥りがちであったのはこのためです。
 本当の観察門は、「今この現実の深みと展開を観察する」ことに他なりません。「浄土」といえど「娑婆」といえど、別の場所や時間に存在するのではありません、私の眼の前の現実社会に「浄土」という世界も「娑婆」という世界も矛盾的に相照らしあって存在しているのです。丁度「大人の世界」も「子どもの世界」も「虫や植物の世界」も、また「経済の世界」も「科学の世界」も、存在するのは現実しかありませんが、認識し展開する世界が違うのです。
 つまり現実の中に浄土と娑婆があるのに、漫然と現実を眺めているからその峻別ができないのです。本当の観察門は、浄土と娑婆が相照らしあって新たな世界を創造している実相が見えることを目指します。深い浄土が見えれば浅い娑婆が見える。浅はかな娑婆を浅はかである≠ニ見れば、それは深い浄土が働いている証拠でもあるのです(参照:{地獄・極楽の食事風景「#極楽はどこにあるのか?」})。つまり浄土と娑婆の関係性が見えることが一番大切なのであり、どちらか一方だけでは意味がありません。この論註はそうした視点に立って注釈を深めているのです。
 曇鸞大師の丁寧な導きには本当に頭が下がります。

 観察の第一には、<器世間(浄土)荘厳成就を観察する>、つまり「阿弥陀仏国土」の「荘厳成就」を観察することです。論註は以下しばらく器世間荘厳成就の観察に勢力を傾けます。
「器世間」は現代語で言えば環境≠フことで、本来は「浄土」や「仏国土」の意味だけではなく三界の娑婆も器世間の範疇に入りますが、ここでは浄土の環境≠ニか仏性が働いて展開した自然や社会環境≠ニいう意味の「器世間」に限定していますので注意が必要です。
「荘厳成就」は、「荘厳」とは一般には飾る≠ニいう意味ですが、虚飾≠ネどと峻別するためには創造性を発揮する≠ニいうイメージでとらえた方が良いでしょう。「成就」は文字通りの意味でかまいません。
 ですから、<器世間荘厳成就を観察す>とは、浄土というのは、真心が永年に渡って環境に働き展開した自然や社会であり、その内容は、法蔵菩薩の願いによって創造性が発揮されて成就した世界であることを観察するという意味になります。しかもこれを眼の前の現実において観察するのです。ただし、固定化実体化した形に執着しては浄土は観察できません。形を観ながらも形に執われず、真心の因縁果報が社会に及んでいる内容を観察するのです。
 また<器世間荘厳成就>の何を明らかにするかというと、<国土荘厳の体>(浄土の総合的な品質と体裁)と、浄土が自利利他の大願を成就していることと、浄土が法性の流れをしっかりと汲んだ上で果報を得て世界を創造していることを観察します。
 なぜ<国土荘厳の体>を観察するかというと、一つには、浄土は<不可思議力>を成就しているから、二つには摩尼如意宝[まににょいほう]の性質に似ていることを譬えています。この成就を観察することによって私たちは浄土の土徳を褒めることができ、正しく往生を願うことができ、往相還相[おうそうげんそう]の二種の回向[えこう]が適うのです。
 一つ目の<不可思議力>は一般に五種あり、「衆生多少」(生命が次々生まれ死ぬこと)、「業力」、「龍力」(雨が降ること)、「禅定力」、「仏法力」の不可思議があります。そのうち『浄土論』では「業力」と「仏法力」に限って言及しています。「業力」は、法蔵菩薩が建立された四十八願の業力が成就していることであり、「仏法力」は、阿弥陀如来が永く善をとどめ保って摂めてゆく力が成就していることをいいます。これは阿弥陀如来の胸の内には常に法蔵菩薩の四十八願が宿っていることを顕しています。如来も初心忘るべからず≠ネのでしょう。
 二つ目の、摩尼如意宝の性質に似ていることを譬えているのは、浄土が転輪聖王[てんりんじょうおう]の持つ摩尼如意宝珠が衆生の願いを全て叶えることができることに似ているからです。似ているというのは同じということではなく、浄土の住人は浄土の性質自体に満足しているので福を求める必要がなく、ただ無上菩提心を求めていてそれが適うことをいいます。また摩尼如意宝珠は一世の願いを満足させますが、浄土は無量万世の時代に渡って一切の身を満足させるので、如意宝と浄土は似ているが全く同じではなく、浄土の方が格段に勝れているのです。
 なお器世間の観察は、『浄土論』では総説分(参照:総説分と解義分)の「観彼世界相 勝過三界道」から「故我願生彼 阿弥陀仏国」の内容です。

 二つには、<衆生世間(如来および聖衆)荘厳成就を観察する>、つまり如来や菩薩などの浄土の住民について観察することです。「衆生世間」という語はそのまま用いますと「三界の娑婆」の意味にもなりますが、ここでは「浄土の衆生・如来世間」という意味で「衆生世間」を用いているようですから注意が必要です。
 よって<衆生世間荘厳成就を観察す>とは、浄土の住人たちは、真心が永年に渡って人々に働き展開した結果報いた阿弥陀如来や菩薩や声聞たちであり、その内容は、法蔵菩薩の願いによって創造性が発揮されて成就した人々であることを観察するという意味になります。これを眼の前の人々や先祖において観察するのです。ただし、衆生そのものが如来や浄土の住人なのではありません。衆生の一面においては浄土の歴史を被っている、ということです。これも人間を観ながらも人間に執われず、真心の因縁果報が人々に及んでいる内容を観察するのです。
 衆生世間の観察は、『浄土論』では総説分の「無量大宝王 微妙浄華台」から「我願皆往生 示仏法如仏」の内容です。

<器世間を観察する中を、また分けて十七とする。その一一は文に至って名づける>
 浄土を観察するについては、ただ漫然と見ているだけでは自然や社会の真の姿は見えてきませんから、まずは十七の特徴をとらえて集中して見ていこうとしています。
<その一一は文に至って名づける>とは、浄土論総説分の文字解釈の際に具体的に名をつけていく、という意味です。
 しかしせっかくですから、その十七の名を挙げると――
「荘厳清浄功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳形相功徳成就」、「荘厳種々事功徳成就」、「荘厳妙色功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳虚空功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳光明功徳成就」、「荘厳妙声功徳成就」、「荘厳功徳成就」、「荘厳眷属功徳成就」、「荘厳需用功徳成就」、「荘厳無諸難功徳成就」、「荘厳大義門功徳成就」、「荘厳一切諸求満足功徳成就」となっています。数えてみますと十九ありますが、「水」「地」「虚空」は同類で「荘厳三種功徳成就」にまとめられますので十七種となっています。

 荘厳清浄功徳成就を観察する

この二句はすなはちこれ第一の事なり。名づけて観察荘厳清浄功徳成就となす。この清浄はこれ総相なり。仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすにこれ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、シャッ蠖 屈まり伸ぶる虫なり の循環するがごとく、蚕繭 蚕衣なり の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締 結びて解けず られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。このゆゑにこの清浄荘厳功徳を起したまへり。
「成就」とは、いふこころは、この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず。三界の、これ汚染の相、これ破壊の相なるがごときにはあらず。
「観」とは観察なり。「彼」とはかの安楽国なり。「世界相」とはかの安楽世界の清浄の相なり。その相、別に下にあり。

<観彼世界相 勝過三界道>の二句は、器世間観察十七種の第一で「荘厳清浄功徳成就」と名がつけられます。「清浄」の功徳は荘厳のすべてにわたってはたらく「総相」の徳です。浄土の土徳は一言で言えばこの「荘厳・清浄」に尽きるでしょう。
 具体的な本願を言えば{国土清浄の願}であり、<世界形成の願に答えて、それではどんな世界を造るのか、その内容を明らかにしたもの>であり、<荒れるがままに委かせた原始林>である一人ひとりの国を、清浄な国にせねば申し訳ない、という願いが起こされ、永劫の歴史に報いて願いが成就した世界が浄土なのです。
 なお「清浄」というのは、「清」は山の上の空のように青い澄み切った水の譬えで真如法性に適うこと、「浄」は衆生の煩悩に汚れた水を溜めずに流し、積極的な生き方によって腐らせず綺麗にすることをいいます。つまり、浄土は元々清らかであると同時に、浄める[はたら]きを持っているということです。
 阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩となってこの「清浄功徳」を荘厳しようと願いを起こされた理由は、「三界」が一刻一秒として清浄であった事が無い≠ニいう「不浄なるありさま」を人類の真心の主体我が観察したからです。
 これは別の言い方をすれば、現実の「顛倒・不浄なるありさま」を観察したということが、即ち「荘厳清浄功徳」が成就したことの証拠に他ならないのです。
 このことを親鸞聖人は――

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本)21 三一問答・法義釈・至心釈 より

と清浄と穢悪汚染の三界の関係を示され、浄土と娑婆が互いに照らしあって存在していることを明らかにしています。ここを見ても、平安時代までの山上におけるイメージトレーニングのような修行が、方法として間違っていることが解るでしょう。現実社会のどろどろした宿業世界に飛び込んで、娑婆と浄土の関係を観察しなければ、本当の浄土が解るはずはありません。

 三界が虚偽の相であると解ることが、即ち浄土が真実の相・虚偽でない処の相である証拠なのです。三界が流転の相であると解ることが、即ち浄土が涅槃の相・輪廻の無い処の相である証拠なのです。三界の流転が無窮の(はてしない)相であり、尺取虫が丸いものを巡るように、[かいこ][まゆ]が自分を縛るような流転であることが、即ち浄土が不無窮・昇道無窮・仏力無窮の処であり、<畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす>証拠なのです。
 このように三界と浄土の関係を観察することによって、浄土が清浄荘厳功徳を起こされた訳が解るのです。
「荘厳清浄功徳成就」の「成就」の真意は<この清浄は破壊すべからず、汚染すべからず>で、これは破壊することができない%凾フ意味ですが、破壊するべきではない≠ニいう意味も含まれています。
 浄土が何かが解れば、確かに浄土の清浄は破壊できるものではなく、汚染することができないことも解ります。しかし私たちが、浄土とは何かを解らず、闇雲に煩悩を起こして浄土の清浄功徳成就に甘えるとしたら、現実において浄土の名が汚れ、浄土を観察する人が減り、仏法が誤解されてしまいます。破壊できない宝も、宝の持ち腐れになれば[はたら]きは発揮できません。人々は三界に留まって虚しく偽りの人生を歩み、果てしない苦しみを受け続けていかねばなりません。実際、現実の社会はそうした有様で、子が親を殺し、親が子を殺し、国も個人も互いに相手を否定して罵倒しあうばかりです。
仏教徒よ立ち上がれ! 念仏者よ立ち上がれ! 浄土の功徳を見て説き述べよ!≠ニいう如来の直説が、なぜ仏教徒でさえ聞こえないのでしょう。仏法は人を待って広まるのです。これは浄土の功徳も同じです。

<「観」とは観察なり。「彼」とはかの安楽国なり。「世界相」とはかの安楽世界の清浄の相なり>はそのままの意味で、詳しくは既に述べました。 <その相、別に下にあり>は、清浄の相の色々な徳は以下に述べる≠ニいう意味です。「下」とはこの章だけではく、器世間観察十七種の全て、そして如来と聖衆全てに渡る内容です。なぜなら<清浄はこれ総相>だからです。

 三界の道に勝過せり

「勝過三界道」の「道」とは通なり。かくのごとき因をもつて、かくのごとき果を得。かくのごとき果をもつて、かくのごとき因に酬ゆ。因に通じて果に至る。果に通じて因に酬ゆ。ゆゑに名づけて道となす。「三界」とは、一にはこれ欲界、いはゆる六欲天・四天下の人・畜生・餓鬼・地獄等これなり。二にはこれ色界、いはゆる初禅・二禅・三禅・四禅の天等これなり。三にはこれ無色界、いはゆる空処・識処・無所有処・非想非非想処の天等これなり。この三界はけだしこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり。また苦楽小しき殊なり、修短しばらく異なりといへども、統べてこれを観ずるに有漏にあらざるはなし。倚伏あひ乗じ、循環無際なり。雑生触受し、四倒長く拘はる。かつは因、かつは果、虚偽あひ襲ふ。

 ここでは「三界の道に勝過せり」の意味を深めていきます。
 まず「道」とは、原因の内容と結果の内容が通じていることをいいます。仏教は因縁果報に随って無上菩提心を勧める宗教であり、これはヴェーダの固定化実体化した輪廻や、六師外道を批判するところから生まれた基本姿勢です。
(参照:{六師外道の思想について}{六師外道}
「三界」は、「欲界」「色界」「無色界」の迷いの世界をいいます。
「欲界」は「地獄」「餓鬼」「畜生」の三悪道(参照:{無三悪趣の願})と「修羅」「人」の界、そして「天」の一部(六欲天)が欲界にあたります。具体的には、我執(餓鬼)と無明(畜生)によって社会悪(地獄)が造られ、自分勝手な正義に固執(修羅)し、正しい法を聞くことなく道を求めず(人)、六欲天の福に満足している人(天)、総じて言えば、金や名誉など外側から与えられる欲望を中心的価値として生活している人々が「欲界」の住民です。
「色界」は、初禅・二禅・三禅・四禅天の天人などをいいます。与えられる欲望に執われず、みずからすすんで価値あるものを生み出す天人を指します。
「無色界」は空処・識処・無所有処・非想非非処天などの境涯を得た人などをいいます。外側から与えられる欲望や形あるものに執わず、瞑想などによって宇宙と一体となった執われのない境涯に住む天人を指します。ただし、自分の獲得した境涯に安住してしまい、苦悩の現場に打って出て積極的に自らを変革する境地は得られていません。
 通常は芸術の世界が色界であり、哲学の世界が無色界である≠ニいう説が支持されるようですが、この説は充分ではありません。芸術の世界の中にも「欲界」「色界」「無色界」の三界全てがあります。
 たとえば、画を描いたり音楽を奏でることで金儲けや褒章を望むのであれば、その芸術家は「欲界」の住人です。また、好きな画を描くことで満足し、奏でた音楽を愛でるのであれば、その芸術家は「色界」の住人です。さらに画を描いたり音を奏でる境涯そのものに集中し、画の出来具合に惑わず、音に執着しない芸術家は「無色界」の住人です。同様に哲学の世界にも三界の全てがあります。そして三界六道を越える四道(声聞、縁覚、菩薩、仏)も、あらゆる分野に存在していることが解らねばなりません。

米を作ろうとして米を作るのは「下の百姓」
米を作ろうとして田を作るのは「中の百姓」
米を作ろうとして人を作るのが「本当の百姓」
《篤農家の誡め》

 これは取りも直さず、仏教界にも三界・六道があることを意味します。
 たとえば、金儲けや名声を得るために仏教を利用するのであれば、その仏教徒は「欲界」の住人です。
 経律論釈の学習や仏教文化のみに興味があるのならば、その仏教徒は「色界」の住人です。
 仏道修行によって得た境涯・境地に留まるのであるならば、その修行者は「無色界」の住人です。
「野狐禅」や「本願ぼこり」は極端な例ですが、「空生巌畔、花狼藉」という言葉もあります(参照:{「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか?})ように、今ある領解に座り込まず、常に我を割り開いて道を求める姿勢がなければ真の仏道「菩薩道」とは言えません。

 なぜこの三界六道に留まることがいけないのかと言いますと、三界は――<迷いの凡夫が流転する暗黒の所であって、苦と楽とが少しばかり異なり、寿命の長短も多少ちがっているけれども、総じてこれを見ると有漏でないものはない>とあります。
「有漏」とは煩悩が漏れ出し排泄され続けることを言います。
 株の値に一喜一憂し、節操のない世論の動向に右往左往している日本の状況はまさに三界の中でも最低辺の「欲界」の姿でしょう。これは日本だけではなく世界的な状況ですから、世界中が際限なく苦を生む環境を造り上げている状態なのです。
 またこの三界は――<禍と福とが互いに相依って起こり、それが循環してはてしがない>とあります。「禍福[かふく][あざな]える縄の如し」という諺がありますが、災厄を避け幸福を求める姿勢のまま生きていくと、交互に禍福を受け続け、そのため苦は次第に大きく身を汚し、結局しっかりとした人生観は確立できません。これでは流れに身を任せつつ社会に寄生した生き方しかできなくなり、最期は私は一体何のために苦労して生きてきたんだろう……≠ニ嘆いて死んでいかねばなりません。
<雑多の生を受けて、いろいろの苦にふれ、これを受ける。誤った常楽我浄というものに長くかかわり、因も果も虚偽が互いに続く>というのは、<雑生触受し、四倒長く拘はる。かつは因、かつは果、虚偽あひ襲ふ。>の意訳ですが、要点は<四倒長く拘はる>という問題です。これは、迷信の根源が霊魂不滅の輪廻転生思想であることを述べています。いわゆる生まれ変わり死に変わり六道を巡る霊魂の存在≠ヘ批判しなくてはなりません。これはヴェーダ思想を批判した仏教の大原則なのですが、現在ではむしろ「輪廻転生」が仏教思想のように語られている事が情けないのです。仏教界全体で深く慙愧せねばならない事態でしょう。
(参照:{魂という概念}{業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か}
 しかし「常楽我浄」については、「有為の四顛倒」と「無為の四顛倒」があるということは知らねばなりません。有為の四顛倒は誤った常楽我浄ですが、無為の四顛倒は正しい常楽我浄です。
(参照:「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを

 さらにこの『往生論註』解義分で「三界の道に勝過せり」に相当する箇所を引くと――

 荘厳清浄功徳成就とは、偈に「観彼世界相 勝過三界道」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。凡夫人ありて煩悩成就するもまたかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』61(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典)
 荘厳清浄功徳成就とは、偈に「彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかとういうと、あらゆる煩悩をもっている凡夫も、またかの浄土に生まれることを得れば、三界の業の繋縛がついに引くことはできない。すなわちこれは煩悩を断ちきらずに往生して涅槃のさとりを得るのである。どうして思いはかることができようか。

というように、有名な「不断煩悩得涅槃分」という教えが示されています。これが大乗仏教の基本で、親鸞聖人も――

煩悩成就せる凡夫人、煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり。淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。
『入出二門偈』2 より
と、浄土の徳の基本を示してみえます。

 ただ、「卑湿の淤泥に蓮華を生ず」と言っても、煩悩の毒に染まり切ってしまってはいけません。「朱に交われば赤くなる」ようでは、煩悩の毒がそのまま自分の世界を荒らしてしまいます。

たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。

と、鳩摩羅什も述べてみえますように、煩悩の泥を養分としながらも、煩悩の泥に染まらぬ美しい人生の華を咲かせることが浄土の本意なのです。

 七地の位を超える正定聚の菩薩

安楽はこれ菩薩(法蔵)の慈悲・正観の由生、如来(阿弥陀仏)の神力本願の所建なり。胎・卵・湿の生、これによりて高く揖め、業繋の長き維、これより永く断つ。続括の権、勧めを待たずして弓を彎く。労謙善譲、普賢に斉しくして徳を同じくす。「勝過三界」とはそもそもこれ近言なり。

<安楽国は、法蔵菩薩の慈悲・智慧によって生じ、阿弥陀如来の不思議な本願力によって建立されたものである>
 ここは別段思案の必要なところではありません。先ほど阿弥陀如来の胸の内には常に法蔵菩薩の四十八願が宿っていることを顕しています≠ニ申しました通り、阿弥陀仏の浄土である「安楽国」は常に法蔵菩薩の四十八願力(業力)によって生じたのであり、同時に阿弥陀如来が永く善をとどめ保って摂めてゆく「仏法力」が成就していることで国土が成り立っていることをいいます。
<胎生・卵生・湿生などはこれによって遠く離れ、迷いの業繋の長い綱がこれによって長く断ちきられる>とは――
「胎生・卵生・湿生」は、不定聚・邪定聚の「退転の菩薩」をいいます。浄土往生を願っていても、信心が不純で、無上菩提心を発さず、ただ安楽を貪るために往生を願うのであれば、真の往生は遂げられないのです。真の往生を遂げなければ、如来を見ることなく、経法は聞こえず、菩薩・声聞の聖衆とも出会えず、諸仏供養もできません(『仏説無量寿経』43)。
 このような事にならないよう、同33には、<かの辺地の七宝の宮殿に生れて、五百歳のうちにもろもろの厄を受くることを得ることなかれ>と注意が促されています。
 つまり修行に優劣があっても、往生を真に適えるためには、必ず無上菩提の心を発さなければならないのです。この「無上菩提心」とは「願作仏心」(覚って仏に成ろうとひたすら願い行い続ける心)であり、それは同時に「度衆生心」(皆共に覚りを得ようと同朋を敬い呼びかけあってゆく心)を発こすことでもあります。これらはすべてこの論註の巻下に述べてみえます。
 またこの菩提心は「横(他力)の大菩提心」であり「横超の金剛心」であると親鸞聖人は丁寧に解き明かして下さっています。
(参照:{浄土真宗にとって「菩提心」・「浄土」とは?}

<続括の権、勧めを待たずして弓を彎く>(弓を射るのに括を続けて下に落ちない名人の術の如く、菩薩が七地の位において諸仏の勧めを待つようなことなく)とは――
 ここで問題となってくるのが「七地の位」です。
「七地の位」とは正定聚・不退転の位を得てから七段目の位である「遠行地」を指します。本来ここは不退転の菩薩の位ですから、試行錯誤や迷いの行を離れ、浄土に往生することを願い続けている菩薩です。したがって停滞など無いはずですが、ここまでくると心の余裕ができ、来た道を振り返り、「思えば遠くへ来たもんだ」と腰を下ろしてしまう。そこで「諸仏の勧めを」を待ってようやく重い腰を上げて歩み出す、というのです。このことについて、龍樹菩薩が「遠行地」は「七地沈空の難」がであると述べてみえるので、それを言ったのではないか、と島田幸昭師は言われてみえます。活動的な龍樹菩薩ですから、こうした停滞した姿勢には大批判を加えられたわけですが、「遠行地」の解釈が間違っているのではないか≠ニいう疑問が島田幸昭師にはありまして――


 第七地は「遠行地」です。今までの解釈は、これまで一大アソーギ劫、二大アソーギ劫と、永い修行に耐えて、ようやくここまで来たものであると、ほっと一息ついた境地であるというのです。しかしそれでは遠来地といわねばならぬでしょう。私はこういう受け取り方を龍樹菩薩が「七地沈空の難」といって、「菩薩の死と名づく。地獄に落ちたよりももっと悪い」といっているのではないか<中略> 「この五十二段を最初に説かれた人は、将来に向かって、目指す目的の仏までやるぞという、希望的に説かれていたものを、後から出てきた菩薩方は、そこまで信が深くなかったから、こんな解釈をしたのでしょうか」と申しましたら、「そうかも知れん」といわれましたが、これは仏教徒にとって重大な問題だと思います。
『仏教開眼 四十八願』 より


 第七地は遠行地という。たとえ道は遠く果てしなくとも、永遠に道を行じ、歩々に真実を現してゆこうとすることであろうか。<中略>三昧に浸っていようとする自己をさらに引き破って、限りない新たな求道の旅に立たしめる。
 今までは何についても、「しなければならない」という絶え間のない無意識の努力があった。それ故、心は常に緊張して、言うことすることに全て堅さがあった。その裏には微かではあるが、したことについては「した」という安堵感と誇りが伴っていた。その最後の我執をとり、肩張りをほぐしてゆかねばならない。人はその長所によって互いに結ばれることもあるが、また一面その長所に伴う緊張感と優越感が、却って人の和を破るようである。全ての人と打ち解けて一緒になれるのは、むしろ互いの欠点や失敗によって人間性に触れ合うことではないであろうか。<中略>
 ところが、昔から遠行地のことを「七地沈空の難」といって、この地には大きな落とし穴があり、地獄に落ちるよりもまだ悪いといわれているのは、「遠行」を、無始以来の流転から脱して「ここまではるばる遠く来つるものかな」、という心境と受けとったからではないであろうか。

『仏教の人間像 五十二段の仏(下)』 より

(参照:{還相廻向の願}{「#菩薩の具体的内容を五十二位で明かす」}
等と述べてみえます。

 曇鸞大師はもと四論の大家であり、龍樹菩薩の教えを集中して学んでみえましたから、このことが頭に浮んだのでしょう。しかし「遠行地」と「遠来地」の違いは確かに注意せねばなりません

<労謙善譲、普賢に斉しくして徳を同じくす>(自在に迷いの世界に現れて衆生済度をすることが、普賢の位の菩薩とその徳を同じうする)とは――
「労謙善譲」は<功労があってもみずから誇らず、へりくだること>(注釈版注釈)です。
<普賢に斉しくして徳を同じくす>とは、やはり{還相廻向の願}に「普賢の徳を修習する」とあり、これは「諸地の行現前す」ですから、如来の還相回向の徳や初地・歓喜地の四十一位から法雲地・等正覚の第五十一位までの徳が、<念仏の中に自然に与えられる>ことをいいます。

<「勝過三界」とはそもそもこれ近言なり>(そこで「三界に勝過せり」とあるのも、ただ近い言葉を使っただけで、三界の衆生に対するからこういうのである)というのは――
 ちょうど{優婆提舎と言う訳}でもありましたように、本来は以上に述べた内容が全て込められているが、大雑把には「三界に勝過せり」と明かし、詳説と総論の違いを丁寧に明かしています。こう述べねばならぬ曇鸞大師の胸の内には、如来の真意をひたすら探る行程の中で、大雑把な解釈で満足している人々に対する批判がおありになられたのではないでしょうか。

 資料

観察門 器世間「荘厳清浄功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【八】
 観彼世界相 勝過三界道
此已下是第四観察門此門中分為二別一者観察器世間荘厳成就二者観察衆生世間荘厳成就此句已下至願生彼阿弥陀仏国是観器世間荘厳成就観器世間中復分為十七別至文当目此二句即是第一事名為観察荘厳清浄功徳成就此清浄是総相仏本所以起此荘厳清浄功徳者見三界是虚偽相是輪転相是無窮相如&M032846;{尺音}蠖{屈申虫一郭反}循環如蚕{才含反}繭{蚕衣公殄反}自縛哀哉衆生締{結不解帝音}此三界顛倒不浄欲置衆生於不虚偽処於不輪転処於不無窮処得畢竟安楽大清浄処是故起此清浄荘厳功徳也成就者言此清浄不可破壊不可汚染非如三界是汚染相是破壊相也観者観察也彼者彼安楽国也世界相者彼安楽世界清浄相也其相別在下勝過三界道道者通也以如此因得如此果以如此果酬如此因通因至果通果酬因故名為道三界者一是欲界所謂六欲天四天下人畜生餓鬼地獄等是也二是色界所謂初禅二禅三禅四禅天等是也三是無色界所謂空処識処無所有処非想非非想処天等是也此三界蓋是生死凡夫流転之闇宅雖復苦楽小殊修短暫異統而観之莫非有漏倚伏相乗循環無際雑生触受四倒長&M019980;且因且果虚偽相襲安楽是菩薩慈悲正観之由生如来神力本願之所建胎卵湿生縁茲高揖業繋長維従此永断続括之権不待勧而彎弓労謙善譲斉普賢而同徳勝過三界抑是近言
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