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七高僧の教えを味わう

往生論註を味わう 10

【浄土真宗の教え】

観察門 器世間「荘厳性功徳成就」

『往生論註』巻上

浄土真宗聖典 七祖篇(注釈版)
【一〇】
 正道大慈悲 出世善根生

 この二句は荘厳性功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、愛欲をもつてのゆゑにすなはち欲界あり。攀厭禅定をもつてのゆゑにすなはち色・無色界あり。この三界はみなこれ有漏なり。邪道の所生なり。長く大夢に寝ねて出でんとネガふを知ることなし。このゆゑに大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、無上の正見道をもつて清浄の土を起して三界を出さん」と。「性」はこれ本の義なり。いふこころは、この浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩、諸波羅蜜を集めて積習して成ずるところを指す。また「性」といふは、これ聖種性なり。序め法蔵菩薩、世自在王仏の所において、無生法忍を悟りたまへり。その時の位を聖種性と名づく。この性のなかにおいて四十八の大願を発してこの土を修起せり。すなはち安楽浄土といふ。これかの因の所得なり。果のなかに因を説く。ゆゑに名づけて性となす。またいふこころは、「性」はこれ必然の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし。また人の身の性は不浄なるがゆゑに、種々の妙好の色・香・美味、身に入ればみな不浄となるがごとし。安楽浄土はもろもろの往生するもの、不浄の色なく、不浄の心なし。畢竟じてみな清浄平等無為法身を得ることは、安楽国土清浄の性、成就せるをもつてのゆゑなり。「正道大慈悲 出世善根生」とは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道となす所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに「正道大慈悲」といへり。慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはち出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根となす。ゆゑに「出世善根生」といへり。

聖典意訳

 正道の大慈悲・出世の善根より生ず
   この二句を、荘厳功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの性功徳を荘厳しようという願を起こされたのかというと、ある国土をみれば、愛欲を因とするからして欲界があり、下位を厭い上位を願う有漏の観法によって色界と無色界がある。この三界は、みな有漏のまちがった行によってあらわれるところであり、長い迷いの夢を見ておって、出離を願うということを知らない。こういうわけであるから、仏は大悲の心をおこされて「わたしは仏となって、最上のさとりをもって、清らかな国土を成就し、三界を出させよう」と願われた。
 まず「性」とは、諸法の根本の義である。その意味は、この浄土が根本である真如の性にかない、これにそむかない。その事は《華厳経》の宝王如来性起品に説かれてある義と同例である。またつぎに「性」というのは、因位の行の功徳によって成就するという意味である。法蔵因位の時、多くの行を積み重ねて成就せられたのをいうのである。またつぎに「性」というのは、聖種性である。法蔵菩薩が因位の時、世自在王仏のみもとにおられて無生法忍を悟られ、その時の位を聖種性という。この聖種性の位において四十八の大願をおこし、この国土を成就されたのであって、これを安楽浄土という。この浄土は、かの聖種性の位でおこされた願によって得られたのである。いまは成就した結果の上で必ず同化せしめるいわれであり、不改の義すなわち自身の体は変わらぬという意味である。あたかも海水の性質が鹹味[かんみ]一つであって、そこに流れ込む水を必ず潮の一味とし、海水の鹹味は流れ込む水によってさらに変わらぬごとくである。また人間の身体の性は不浄であるから、さまざまのよき色や香やおいしいものが人間の身体に入ったならば、みな不浄になるようなものである。安楽浄土はそこに往生するすべての人に、不浄の身や不浄の心がなく、ついにみな法性真如にかなった、けがれなき無為法身を得させる。それは安楽国土に清浄なる性質が成就さられるからである。
 「正道の大慈悲、出世の善根より生ず」というのは、この正道とは平等の大道である。平等の道を名づけて正道とするのは、平等とは諸法の本体のありさまである。諸法の本体は平等であるから、法蔵菩薩のおこされた願心も平等である。願心が平等であるから、智慧も平等である。智慧が平等であるから、大慈悲も平等である。この大慈悲がすなわち仏果の正因である。ゆえに「正道の大慈悲」等といわれたのである。慈悲をおこすに三縁がある。一つには衆生の実体ありと見ておこす慈悲、これは小悲である。二つには、五蘊の法と見ておこす慈悲、これは中悲である。三つには、空無我を知っておこす慈悲、これが大悲である。大悲は出世の善根すなわち無漏の善である。ゆえに「出世の善根より生ず」といわれるのである。

 環境と我が身

 ここでまず問題なのは、「正道の大慈悲・出世の善根より生ず」の「生ず」が何に係るっていのるかという点です。つまり主語は何か≠はっきり特定しなければなりません。
 それというのも、この箇所を「正道の大慈悲は、出世の善根より生ず」と読んでいるのではないか、と疑わざるを得ない解釈が多々あるからです。

 しかし『浄土論』本来の流れから言えば――
かの世界(阿弥陀仏の浄土)の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。(清浄功徳)
(阿弥陀仏の浄土は) 究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし。(量功徳)
(阿弥陀仏の浄土は) 正道の大慈悲、出世の善根より生ず。(性功徳)
と読むのが自然で、丁寧に意訳すれば、「阿弥陀仏の浄土の荘厳性功徳成就を観察すれば、かの浄土の性は、正道の大慈悲と、出世の善根より生ず」となるはずでしょう。
 こうした問題点もあることをふまえた上で『論註』を読み解いてみましょう。まずは『往生論註』の「解義分」から見てみます。
 荘厳性功徳成就とは、偈に「正道大慈悲 出世善根生」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。たとへば迦羅求羅虫の、その形微小なれども、もし大風を得れば身は大山のごとし。風の大小に随ひておのが身相となすがごとし。安楽に生ずる衆生もまたかくのごとし。かの正道の世界に生ずれば、すなはち出世の善根を成就して正定聚に入ること、またかの風の、身にあらずして身なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや。

『往生論註』62(巻下 解義分 観察体相章 器世間)

▼意訳(意訳聖典より)
 荘厳功徳成就とは、偈に「正道の大慈悲 出世の善根より生ず」と言える故なり。
 これがどうして不思議であるかというと、たとえば迦羅求羅虫[からくらちゅう]はその形が小さいけれども、もし大風に当たれば、体が大きな山のようになり、すなわち風の大小に随って自分のからだをあらわすようなものである。安楽国に生まれる衆生もまたこの通り、かの無漏の善根の世界に生まれたならば無漏の善根を成就して正定聚に入る。また、かの風がからだでないのに虫のからだとなるがようである。どうして思いはかることができようか。

 迦羅求羅虫[からくらちゅう]とは「身は小さいが風を得ると大きくなり、すべてをのみこむという虫。『大智度論』に出る」(注釈版 脚注)ですが、信心を得て安楽国に生まれる衆生も、この虫のように、煩悩の断滅した無漏[むろ]の善根を成就して正定聚に入ることができる、と説きます。仏教は全ての衆生を正定聚に至らしめることを目的とした宗教ですから、このように長く正定聚が適うことが「仏道を達成している」事に他なりません。
 (参照:{必至滅度の願}{正定聚・不退転の菩薩について}
 私たちは、いくら努力して善を行おうとしても、有漏[うろ]の善、つまり煩悩との関わりが絶てない独善や偽善しか行えず、むしろ煩悩を増長させてしまう方向に向かいがちです。しかしこの事実に気づき、嘆くうちに、その嘆く側の源泉である浄土の土徳(環境のはたらき)を吸収することが適えば、卑小な身がそのまま大山のごとき身となることができるのです。そして煩悩を断滅した無漏の善根を成就し、念願の正定聚の位に至ることができるのです。
 浄土の土徳は私が作ったものでも私が育てたものでもありません。浄土と私は同一ではないのです。しかし、信心を得て我が身を振り返ってみると、あたかも浄土と一体であるかのような我が身の姿(不二)≠ノ驚くのです。
 こうした境地について親鸞聖人は、「(如来の本願は)なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに」(『顕浄土真実教行証文類』行文類二 100)と譬え、「なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに」(同)とも称えてみえます。

 私たちは、自分はどういう人間に成り得るか≠ニ真剣に問うて人生を歩むのですが、自分≠ニいう固定的実体があるのではなく、自分を取り巻く環境の影響を受け、環境のはたらきを吸い込みつつ暮らしているわけです。ですから環境に大いに徳があれば、その功徳があたかも自分自身であるかのような状態となるわけです。このことを<かの風の、身にあらずして身なるがごとし>と曇鸞大師は称えてみえます。阿弥陀仏の浄土は功徳が絶大であるゆえに、浄土に往生した行者はあたかも¥舶ァのような、昔からの覚りの世界の住人であるかのような日暮らしができるのです。
 ただし、<身にあらずして>ということは忘れてはなりません。浄土はあくまで環境の徳であり、不二ではありますが不一でもあります。とても自分と浄土は一体である≠ニは言えません。なぜなら、ひとたび浄土の環境を離れ五濁悪世に戻れば、旧の木阿弥となってしまう可能性が大いにあるからです。悪縁が整い、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に入れば、何をしでかすか分からない私です。浄土の風を受けなければ、卑小な器の小さい虫のような存在です。
 ですから私たちは、つねに浄土の願いを聞き開く浄土の声聞≠ニなり、皆ともに浄土往生を願う浄土の人天≠ニなり、浄土の名を背負って新たな環境と歴史を創造する願生の菩薩≠ニなってゆかねばならないのでしょう。最初の領解に留まって学びを止めた生悟りは最も避けねばならない態度です。

 正道大慈悲 出世善根生
 この二句は荘厳性功徳成就と名づく。仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる。ある国土を見そなはすに、愛欲をもつてのゆゑにすなはち欲界あり。攀厭禅定をもつてのゆゑにすなはち色・無色界あり。この三界はみなこれ有漏なり。邪道の所生なり。長く大夢に寝ねて出でんとネガふを知ることなし。このゆゑに大悲心を興したまへり。「願はくはわれ成仏せんに、無上の正見道をもつて清浄の土を起して三界を出さん」と。
▼意訳(意訳聖典より)
 正道の大慈悲・出世の善根より生ず
 この二句を、荘厳功徳成就と名づける。仏は因位の時に、どうしてこの性功徳を荘厳しようという願を起こされたのかというと、ある国土をみれば、愛欲を因とするからして欲界があり、下位を厭い上位を願う有漏の観法によって色界と無色界がある。この三界は、みな有漏のまちがった行によってあらわれるところであり、長い迷いの夢を見ておって、出離を願うということを知らない。こういうわけであるから、仏は大悲の心をおこされて「わたしは仏となって、最上のさとりをもって、清らかな国土を成就し、三界を出させよう」と願われた。

「三界」については、以前{荘厳清浄功徳成就#三界の道に勝過せり}に詳しく書きましたので参考にして下さい。簡単に申しますと、愛欲を因とする「欲界」と、流転の天上界を目指す「色界」と「無色界」に留まっていることが「三界」なのですが、この三界に居続けると、煩悩の毒が環境に漏れ続け、穢れた環境の影響で人々は虚しく流転し、永劫の苦を受ける人生となってしまいます。
 この穢れた三界を離れようと願うことが肝心なのですが、そのためには、三界の穢れを浄めた清浄の環境を整えて、その国土に生まれたいと人々に願わせねばなりません。阿弥陀仏が安楽国という浄土を完成されたのはそうした経緯があるからです。
 ちなみに阿弥陀仏とは、一切諸仏の智慧と徳の集合体であり、社会を背負い歴史を貫く仏性の柱であり、解りやすく言えば、現在・過去・未来、生きとし生けるもの全ての真心の叫びを寿[いのち]とした全体的な存在です。
(参照:{宗教を考える100の質問:49「#阿弥陀仏 」}

 水は必然的に大海に入る

「性」はこれ本の義なり。いふこころは、この浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩、諸波羅蜜を集めて積習して成ずるところを指す。また「性」といふは、これ聖種性なり。序め法蔵菩薩、世自在王仏の所において、無生法忍を悟りたまへり。その時の位を聖種性と名づく。この性のなかにおいて四十八の大願を発してこの土を修起せり。すなはち安楽浄土といふ。これかの因の所得なり。果のなかに因を説く。ゆゑに名づけて性となす。またいふこころは、「性」はこれ必然の義なり、不改の義なり。海の性の一味にして、衆流入ればかならず一味となりて海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとし。また人の身の性は不浄なるがゆゑに、種々の妙好の色・香・美味、身に入ればみな不浄となるがごとし。安楽浄土はもろもろの往生するもの、不浄の色なく、不浄の心なし。畢竟じてみな清浄平等無為法身を得ることは、安楽国土清浄の性、成就せるをもつてのゆゑなり。
▼意訳(意訳聖典より)
 まず「性」とは、諸法の根本の義である。その意味は、この浄土が根本である真如の性にかない、これにそむかない。その事は《華厳経》の宝王如来性起品に説かれてある義と同例である。またつぎに「性」というのは、因位の行の功徳によって成就するという意味である。法蔵因位の時、多くの行を積み重ねて成就せられたのをいうのである。またつぎに「性」というのは、聖種性である。法蔵菩薩が因位の時、世自在王仏のみもとにおられて無生法忍を悟られ、その時の位を聖種性という。この聖種性の位において四十八の大願をおこし、この国土を成就されたのであって、これを安楽浄土という。この浄土は、かの聖種性の位でおこされた願によって得られたのである。いまは成就した結果の上で必ず同化せしめるいわれであり、不改の義すなわち自身の体は変わらぬという意味である。あたかも海水の性質が鹹味[かんみ]一つであって、そこに流れ込む水を必ず潮の一味とし、海水の鹹味は流れ込む水によってさらに変わらぬごとくである。また人間の身体の性は不浄であるから、さまざまのよき色や香やおいしいものが人間の身体に入ったならば、みな不浄になるようなものである。安楽浄土はそこに往生するすべての人に、不浄の身や不浄の心がなく、ついにみな法性真如にかなった、けがれなき無為法身を得させる。それは安楽国土に清浄なる性質が成就さられるからである。

<「性」はこれ本の義なり>とありますが、浄土は最初から存在している世界ではなく、新たに創造された世界・環境をいいます。弱肉強食の原野に生きてきた衆生が、荒れ果てた荒野を開拓し、皆と朋に暮らせる温かな環境を創造してきたように、自分の世界(国)の環境の性質を問題とし、開拓することによって浄土が成就します。如来は最初から浄土を持っているわけではありません。荒れ果てた穢土を摂取して自らの国と定め、環境を浄化し荘厳して浄土を成就するのです。そしてこのようにして造り上げた阿弥陀仏の浄土が<諸法の根本の義>にそむかない浄土であることがここに説かれています。
「性」は『涅槃経』では「一切衆生悉有仏性」と示されますが、あらゆる生命の根本は仏性であり、かつ生命(五蘊)を離れて仏性は存在しません。もし五蘊を離れて仏性が存在する≠ニ云えばそれは外道のバラモンの教えであり、正統な法とは認められません。仏性は如来でありますから、阿弥陀仏はじめ一切の如来も生命を離れては存在していません。ですから、生命を離れた宇宙空間や無生物は如来ではないのです。ただ、仏性が投影されて宇宙や無生物を如来と拝むことがあるだけです。仏法はあくまで生命の法、人生を問題とするのです。
 そして『華厳経』宝王如来性起品でも、あらゆる生命は本来仏性をそなえていて、美しい花園を自らの内に秘めている、と説きます。
 この生命本来の清浄の流れに添った因縁が積み重なることにより清浄荘厳の果報が得られて完成した国が阿弥陀仏の浄土です。
 ちなみに法蔵菩薩とは「一切衆生悉有仏性」とも「宝王如来性起」とも言われる内容に名をつけて人格化した存在であり、如来蔵の真実顕現でありますから、<法性に随順して法本に[そむ]か>ないことは当然であり、新たに創造された国であっても、浄土は無味乾燥な規律や、権力や、単なる利便性に従って造られたのではありません。生命本来の性質である聖種性の位でおこされた願いを永劫に保ち積み重ね続けて成就した国なのです。

<これかの因の所得なり。果のなかに因を説く。ゆゑに名づけて性となす>とは、以上の事柄は浄土建立の原因である願に具わったものであり、浄土が成就している現在の結果から歴史を遡って原因を探り説いているのですから、<名づけて性となす>というのです。

<「性」はこれ必然の義なり>とは「願力自然」の内容を言うのでしょう。生命の本質は一切衆生に深く宿されていて、必ず特定の方向へ向かわせるはたらきを持っているのです。かつてジャン・エラクル師は十字架から芬陀利華へという本の中で、「人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです」と説かれましたが、一切衆生も同様に「究極的真実への真摯な求道」を宿していて「必然的に目的へと運んでゆく」ことが当来において適う(皆当往生)のです。

<不改の義なり>については、海水の味が不変であることを譬えています。様々な種類の水が海に流れ込んでも、海水の塩味は変らず、濁流も浄化され、皆同じ味になるように、どのような性質の人々であっても、浄土に往生すればみな浄土の土徳を受けて清浄平等の身となるのです。
 ただし、海は元々川の水に含まれるわずかな塩分が蓄積して塩辛くなったのであり、この道理と同様に、浄土の性質も元々は生命個々に含まれるわずかな真心の性質が永劫にわたって蓄積されて成立したのです。つまり、「一切衆生悉有仏性」とも「宝王如来性起」ともいわれる内容は、個々の衆生においては全くといっていいほど見出されなくとも、その方向性をわずかに宿しつつ永劫において蓄積されれば、海水の如き圧倒的な内容となることを経典やこの譬えは示しています。
 ところで、現在のように汚れた海では、とても「清浄」の譬えには出せませんが、千五百年前の曇鸞大師の時代の海は、おそらく川の汚れを浄化する力も頼もしく見え、「清浄」の象徴そのものだったでしょう。<海の味はひ(味わい)、かれに随ひて改まらざるがごとし>は、当時の綺麗な海を思い描いて理解しなくてはなりません。

<また人の身の性は不浄なるがゆゑに、種々の妙好の色・香・美味、身に入ればみな不浄となるがごとし>は、逆に穢悪なる人の身にいくら浄土の清浄の水を注いでも、すぐに不浄な性質を持ってしまうことをいいます。私たちが浄土を観察し、その清浄平等なる相を拝み、現実社会に浄土の性を持ち込もうとしても、五濁悪世の不浄に汚されて願いが適わないようなものでしょう。浄土がいくら清浄平等でも、その相を現実にごり押しすれば破綻を招きますので注意しなくてはなりません。
 浄土の土徳が現実にはたらきを見せるのは、むしろ穢土を穢土と見据えたところから出発します。穢土はそのまま変らないのですが、穢土を穢土と見抜くことによって、その見抜いた眼の尊さと、見抜かしめた浄土が背に現れることが尊いのです。穢土を穢土と映すのが浄土、浄土を浄土と映すのが穢土。穢土と浄土は合わせ鏡のようになっていて、たった一つの現実を無限に展開して味わわせてくれるのです。

<安楽浄土はもろもろの往生するもの、不浄の色なく、不浄の心なし。畢竟じてみな清浄平等無為法身を得ることは、安楽国土清浄の性、成就せるをもつてのゆゑなり>は今までのまとめですが、「無為」と「法身」は必ずしも同じ意味ではありません。「無為」は極めて中国的・道教的な癖がついていますので全肯はできないのです。ここは注意して理解しなくてはならないでしょう。

 三種の慈悲

「正道大慈悲 出世善根生」とは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道となす所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに「正道大慈悲」といへり。慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはち出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根となす。ゆゑに「出世善根生」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
「正道の大慈悲、出世の善根より生ず」というのは、この正道とは平等の大道である。平等の道を名づけて正道とするのは、平等とは諸法の本体のありさまである。諸法の本体は平等であるから、法蔵菩薩のおこされた願心も平等である。願心が平等であるから、智慧も平等である。智慧が平等であるから、大慈悲も平等である。この大慈悲がすなわち仏果の正因である。ゆえに「正道の大慈悲」等といわれたのである。慈悲をおこすに三縁がある。一つには衆生の実体ありと見ておこす慈悲、これは小悲である。二つには、五蘊の法と見ておこす慈悲、これは中悲である。三つには、空無我を知っておこす慈悲、これが大悲である。大悲は出世の善根すなわち無漏の善である。ゆえに「出世の善根より生ず」といわれるのである。

<平等はこれ諸法の体相なり>とありまして「平等」が重要な要素のように理解されていますが、実は浄土三部経全体を見回しても「平等」という言葉は一箇所しか使われていません。しかも『仏説無量寿経』2(巻上 序分 証信序 八相化儀)ですから、聴衆の徳を称えたものであり、法蔵菩薩や世自在王仏王仏の徳ではありません。
 ただ、阿弥陀如来の四十八願は一切衆生を内に抱いて念じた願いですから、曇鸞大師は全体的に見て「平等」を重要としたのでしょう。
 しかし、たとえば「果報」という言葉は、<果は共通の報いのことですが、報は個別的な報いのこと>(参照:{無有好醜の願})ですから、「因果」という面では平等ですが、個別的な報いの「報」の面もある、ということは念頭に置かねばならないでしょう。

<衆生縁>の慈悲は、世俗の立場に立った慈悲で、物品や友情・愛情を注ぐ慈悲(小悲)です。
<法縁>の慈悲は、因縁和合の道理を領解せしめ、物品や情に執われない慈悲(中悲)です。
<無縁>という言葉は、ここでは<対象の区別がないこと。理想としてはありとあらゆるものを平等と観じ、空を認めるがゆえに、絶対の慈悲は対象をもたない>(『佛教語大辞典』中村元著/東京書籍)という意味で使用されています。これは教えを理解させよう≠ニか覚らせよう≠ネどという押し付けもなく、相手の懐に飛び込み、相手の世界に遊んで、共に拝みあい歩んでいける慈悲(大悲)をいうのでしょう。
 ところで現代語訳に<空無我を知っておこす慈悲>を大悲と訳していますが、他の経典はいざ知らず、『仏説無量寿経』を背景に持っている場合は問題でしょう。
 たとえば『仏説無量寿経』27(巻下 正宗分 衆生往生因 往覲偈)には――

 如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
 二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
 たとひ一切の人、具足してみな道を得、
 浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、
 力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。
 仏慧は辺際なくして、かくのごとく清浄に致る。

▼意訳(現代語版より)
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、
清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、
力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、
仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。

と説かれているように、<本空>を覚ったとしても阿弥陀如来の智慧は知り尽くすことはできません。時々、出家して空を覚ることが本来だが、できない人たちのために浄土往生の道がある≠ネどという自虐的な説明をする人が居ますが、「これは全くの間違いである」と強く断言しておかねばなりません。
(参照:{浄土理解の相違点「#司馬遼太郎の理解と誤解」}

 <大悲はすなはち出世の善なり>については、<出世の善>は三界(欲界・色界・無色界)の煩悩を離れ覚りの境地に入って行われる善です。確かに世間的な有漏の(煩悩の漏れ出た)善であっては浄土は適いませんが、本当は<出世>ではなく<出出世>ではないか≠ニいう疑問は残ります。
 といいますのも、経には<一乗を究竟して〔衆生を〕彼岸に至らしむ>(『仏説無量寿経』30)とあり、『顕浄土真実教行証文類』教文類一7には<(大経は)一乗究竟の極説>とあり、同・行文類二77には<大利無上は一乗真実の利益なり>とありますように、浄土真宗は「本願一乗海」の道程でありましょう。『涅槃経』では確かに「世間畢竟」ではなく「出世畢竟」が一乗であると説かれますが、「一切衆生ことごとく一乗あり」とも説かれています。
「一乗」とは、道は違えど本質は変わらずあり、究極的には一つに帰してゆくことを言います。一度捨てたものをもう一度拾って活かさなければ「一乗」とは名のれません。すると、「出世」といって三界を離れても、そのまま三界を捨て去ってしまっては一乗の道は適わないのです。

「本願一乗海」となるには、もう一度三界に戻らなくてはならないでしょう。私たちは一方では三界を離れた浄土に足をつけながら、次の一歩では三界に足を向けねばなりません。一挙手一投足が常に往相還相の二回向の只中で行われていなければ一乗とはならないはずです。

 これは自力と他力も同じです。自力を捨てて他力に帰す、といっても自力を捨て去ってしまっては他力の意味もなくなります。私たちは他力に乗じながらも、現実の行動は自力を離れることはありません。しかしこの自力は全て他力の催しが為せる業でもあります。こうした他力でなければ本願一乗海とは言えないでしょう。他力だけを行じる≠ネどと頑張っても、そこは誰も入れぬ机上の場でしかありません。

 ここでもう一度<出世の善根>を味わうと、この観察門は往相についての導きであり、還相については特に言及しないのでしょう。往相面だけでいえば、浄土の性は「正道の大慈悲」と「出世の善根より生ず」との説明で充分です。

 資料

観察門 器世間「荘厳性功徳成就」(漢文)

『往生論註』巻上

漢文
 (総説分)
【一〇】
  正道大慈悲 出世善根生
此二句名荘厳性功徳成就仏本何故起此荘厳見有国土以愛欲故則有欲界以攀厭禅定故則有色無色界此三界皆是有漏邪道所生長寝大夢莫知 &M010661;出是故興大悲心願我成仏以無上正見道起清浄土出于三界性是本義言此浄土随順法性不乖法本事同花厳経宝王如来性起義又言積習成性指法蔵菩薩集諸波羅蜜積習所成亦言性者是聖種性序法蔵菩薩於世自在王仏所悟無生法忍爾時位名聖種性於是性中発四十八大願修起此土即曰安楽浄土是彼因所得果中説因故名為性又言性是必然義不改義如海性一味衆流入者必為一味海味不随彼改也又如人身性不浄故種種妙好色香美味入身皆為不浄安楽浄土諸往生者無不浄色無不浄心畢竟皆得清浄平等無為法身以安楽国土清浄性成就故正道大慈悲出世善根生者平等大道也平等道所以名為正道者平等是諸法体相以諸法平等故発心等発心等故道等道等故大慈悲等大慈悲是仏道正因故言正道大慈悲慈悲有三縁一者衆生縁是小悲二者法縁是中悲三者無縁是大悲大悲即出世善也安楽浄土従此大悲生故故謂此大悲為浄土之根故曰出世善根生

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浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)