『往生論註』巻上
この二句は荘厳形相功徳成就と名づく。仏本この荘厳功徳を起したまへる所以は、日の四域に行くを見そなはすに、光三方にあまねからず。庭燎、宅にあるにあきらかなること十仞に満たず。これをもつてのゆゑに浄光明を満たさんと願を起したまへり。日月光輪の、自体に満足せるがごとく、かの安楽浄土もまた広大にして辺なしといへども、清浄の光明、充塞せざることなからん。ゆゑに「浄光明満足 如鏡日月輪」といへり。
- 聖典意訳
浄光明の満足せること 鏡や日月輪の如し
この二句を、荘厳形相功徳成就と名づける。仏が因位の時に、この功徳を荘厳しようという願をおこされたわけは、日輪が須弥山の四方をめぐるのに、その光が一方は照らすが外の三方には行き渡らない。庭のかがり火が屋敷内にあっても、その明るさは十仭(仭は一説に七尺という)にも及ばない。こういうわけだから、浄らかな光明を満足せしめようという願をおこされたのである。日輪や月の光がそれ自体明るいように、かの安楽国土は、広大無辺際であるけれども清らかな光明の充ちわたらぬ所はない。こういうわけで「浄光明の満足せること 鏡や日月輪の如し」といわれたのである。
浄土の観察も、「荘厳清浄功徳成就」、「荘厳量功徳成就」、「荘厳性功徳成就」と進み、今回は「荘厳形相功徳成就」の内容を学びます。
「観察」ということについては以前、荘厳清浄功徳成就でも申しましたように、イメージトレーニングをするのではなく、眼の前の娑婆の現実と背後に控える浄土の両方を観察することを目指すのです。また「浄土」と「娑婆」は別の場所や時間に存在するものではありません。現実社会に「浄土」と「娑婆」が矛盾的に存在し、相照らしあって新たな歴史世界を創造し続けているのです。この実相を観察することが観察門の本意ですから、実際に現実社会の一つ一つに、娑婆と浄土の両方の相を観ていくことにしましょう。
浄光明満足 如鏡日月輪 (浄光明の満足せること 鏡や日月輪の如し)
<浄土の光明(はたらき)が、鏡や日月輪のようである>とは具体的にはどういう内容なのでしょう。また、どうしてこれが浄土の徳が成就した「形相」なのでしょうか。
まずは「解義分」を踏まえてから読み解いてみましょう。
『往生論註』63(巻下 解義分 観察体相章 器世間)
▼意訳(意訳聖典より)
荘厳形相功徳成就とは、偈に「浄光明の満足せること 鏡と日月輪との如し」
と言える故なり。
これがどうして不思議であるかというと、そもそも忍辱 すなわち辱 めを忍ぶという行は端正なすがたを得る。それはわが心のあらわれである。一たび浄土に生まれることができると、[ 瞋恚 と忍辱とによる果報の別というようなことがなく、生まれた人のすがたはみな平等ですぐれている。これは浄土の自体にそなわれる清らかな光明のはたらきによる。かの光明は心のはたらきでないのに心のはたらきをする。どうして思いはかることができようか。[
仏教では忍辱を尊び、逆に瞋恚は最も戒めるべき「心のはたらき」とされています。理由は様々ありますが、ここでは形相として<忍辱は端正を得>る≠アとが挙げられています。比較して瞋恚は覚りの妨げとなり、形相としても醜い姿をさらすことになり、自他への影響は最悪です。
しかし忍辱も瞋恚も自らの「心のはたらき」ですから、人は、ある時は堪え忍ぶことができても、別の機会には逆鱗に触れて瞋恚の炎をたぎらせてしまうことになりかねません。人間個人の忍辱には限界があるのです。この有限の力をたよりにすることを自力といいます。
しかし真に浄土往生を果たせば、忍辱や瞋恚といった自らの「心のはたらき」の別に関わらず、全てが平等で妙絶の形相を得ることができます。なぜなら、浄土には怨親平等の功徳が具わっていて、この浄土の智慧と土徳(清浄な環境に蓄積された功徳)の
怨親平等を具体的に言えば―― 人間の心行には常に毒がついて回りますので、忍辱といえども裏側には瞋恚が宿り、誰一人として清浄なる心行を為しえません。衆生は罪悪深重の醜悪な姿をさらしています。しかし真実信心を通せば、一切衆生の心行には生命の歴史始まって以来の宿業が宿っていますので、相手の立場に立ってみれば全ては止むを得ない事情から起こっていることが解ります。この広大会の場に立てば、相手を許すこともでき、また私も許されてこの場に居るのだということも見えてきます。
このように、広大会の浄土からふり向けられた力を他力といいます。
このように浄土は人間個々の心のはたらきの別を越えてはたらくのですが、決して宇宙の法則≠竍純粋論理≠ニいうような、人の心を無視して作用する無情な原理や法則ではありません。浄土のはたらきは、人間個々の心のはたらきの別を越えつつも、人間の心のはたらきをするものなのです。これは人類の歴史に底流する無上菩提心が展開し報いた場の形相を言うのでしょう。
(参照:{自然と社会と仏教の関係})
浄光明満足 如鏡日月輪
この二句は荘厳形相功徳成就と名づく。仏本この荘厳功徳を起したまへる所以は、日の四域に行くを見そなはすに、光三方にあまねからず。庭燎、宅にあるにあきらかなること十仞に満たず。これをもつてのゆゑに浄光明を満たさんと願を起したまへり。
▼意訳(意訳聖典より)
浄光明の満足せること 鏡や日月輪の如し
この二句を、荘厳形相功徳成就と名づける。仏が因位の時に、この功徳を荘厳しようという願をおこされたわけは、日輪が須弥山の四方をめぐるのに、その光が一方は照らすが外の三方には行き渡らない。庭のかがり火が屋敷内にあっても、その明るさは十仭(仭は一説に七尺という)にも及ばない。こういうわけだから、浄らかな光明を満足せしめようという願をおこされたのである。
「総説分」に戻ります。
浄土は、現実の問題点を踏まえ、その問題点の深さを探る中から背後に映し出されてくる願いの世界であります。
この「荘厳形相功徳成就」で問題とされているのは、現実社会では<光三方にあまねからず>というようにどんな光明(はたらき)も一方のみしか影響を及ぼさず、他の三方は照らせない≠ニいう点と、<十仞に満たず>というようにどんな光明(はたらき)にも限界がある≠ニいう点です。
先の「解義分」を通し、現実問題として読み解いてみると、<光三方にあまねからず>とは、いくら忍辱の力を発揮しても、はたらきの及ぶ面と及ばない面がある≠ニいうことでしょう。
人は忍辱の尊いことを知り、現実社会の様々な文化・文明を学び、人々と交流し、理解し、誤解があれば解くよう努めるのですが、残念ながら人は学んでいるところに執われ、別の面には想いが至らないものです。
例えば国際紛争においても、一方の側に立って解決を図っても、反対側の勢力からは憎悪を買う結果になりかねません。世界を善と悪に色分けし、善の側に立たなければ鉄槌を下す、というような政策がむしろ紛争を加速させている現実を見れば、<光三方にあまねからず>と指摘せざるを得ない問題点が見えてきます。
<十仞に満たず>については、人間個人の忍辱の力は有限であることをいいます。
芝居や映画などでは、主人公が様々な嫌がらせに耐えに耐え、最後には永年溜まっていた怨念が爆発し暴力に訴える、という場面をよく見ます。観客には鬱憤を晴らすシーンでしょうが、現実に発揮されてしまった暴力は周りの人たちを不幸のどん底に陥れます。最近ではすぐに切れる若者≠ェ問題視されていますが、どんな人にも忍辱には限界があるのです。そして限界を超えてしまった場合は、耐える以前より瞋恚の炎が燃え盛ってしまう結果となりかねません。
以上のような理由から、<浄光明を満たさんと願を起したまへり>と、因位の経緯を説いてみえるのです。
日月光輪の、自体に満足せるがごとく、かの安楽浄土もまた広大にして辺なしといへども、清浄の光明、充塞せざることなからん。ゆゑに「浄光明満足 如鏡日月輪」といへり。
▼意訳(意訳聖典より)
日輪や月の光がそれ自体明るいように、かの安楽国土は、広大無辺際であるけれども清らかな光明の充ちわたらぬ所はない。こういうわけで「浄光明の満足せること 鏡や日月輪の如し」といわれたのである。
人間の忍辱には偏向と限界があることを問題とし、因位の如来は<浄光明を満たさんと願を起したまへり>、と浄土の所信が明かされています。これを受けて『仏説無量清浄平等覚経』(『仏説無量寿経』の異訳)では、阿弥陀仏の浄土のことを「無量光明土」と訳し、親鸞聖人も<土はまたこれ無量光明土なり>(『顕浄土真実教行証文類』 真仏土文類五 1)等と、盛んにこの語を用いてみえます。
<かの安楽浄土もまた広大にして辺なし……>とは、「荘厳量功徳成就」で説かれているように、狭小な世界観を批判し止揚したところに成就した浄土の徳の一つですが、浄土がただ無量であるだけでは不十分で、内容として<清浄の光明、充塞せざることなからん/清らかな光明の充ちわたらぬ所はない>という願いも適っていなければ荘厳が成就したとは言えません。
ところでこれは具体的にはどういう内容を指すのでしょう。重要なことは、<日月光輪の、自体に満足せるがごとく/日輪や月の光がそれ自体明るいように>という点にあります。
阿弥陀仏の浄土は、本願が報いた真実の「報土」であり、この基本に間違いは無いのですが、一方で真実の「願土」という面も見逃してはなりません。
つまり、浄土が一切諸仏の無上菩提心が報いた世界≠ニいうだけでは過去の宝の集成に過ぎないのです。<かの光は心行にあらずして心行の事をなす>と先にありましたが、今を生きる衆生は心行において恒に新たな歴史を創造する必要があります。そうした我らの底力となるためには、浄土自体が生きて躍動する必要があるのです。いくら浄土の荘厳(創造)が成就したといっても、今現在、浄土自体に本願が脈打っていなければ、その浄土は抜け殻に過ぎません。抜け殻となった浄土には偏向と限界が現れ、人を縛り付ける醜くい面が
「願土」ということは、どこまでいっても成就しない≠ニいう意味を含みます。現実社会に問題点や未成熟な面がある限り、浄土は常に「願土」という面を発揮し、初心を忘れず、因位において建てた本願が叫びとなって私たちの背を押すのです。しかし一方、現実社会は未成熟でありながら、その未成熟性を自覚し歩む行者の姿勢と底深き環境そのものは完成している点は忘れてはなりません。これが阿弥陀仏の浄土は十劫の昔に完成している≠ニ言われる所以なのでしょう。『論註』では後に「木の火ばし」の譬えが登場しますが、現代では「未完成のままの完成」とも「願いの中に成就あり」とも表現されています。
(参照:{結局「阿弥陀如来」って誰なんですか? 「浄土」はどこにあるのですか?})
自画自賛になるかも知れませんが、平成元年に東海教区仏青の担当で催しました「全国真宗青年の集い」の大会テーマは「道の途中で」でしたが、浄土が「真実報土」という成就面だけではなく、それが「真実願土」という常なるはたらきの中にあることを示す良いテーマだったと思います。
観察門 器世間「荘厳形相功徳成就」(漢文)
『往生論註』巻上
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