ご本願を味わう 第十一願

必至滅度の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々が正定聚に入り、必ずさとりを得ることがないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、大いなる心の平安(パリニルヴァーナ)に至るまでの間、いつかは正しく目ざめ(仏となる)るに決まっている状態にいないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、人びとがもう二度とこの世の見せかけの幸不幸に振りまわされる姿はなくなる。そして必ず明るい生き生きとした人生を全うし、完全燃焼するであろう。もしそうでなかったら誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

(参照:仏教青年 Q & A 『現世での救い十種』『現象利益を説かなければ新興宗教に負ける?』

 諸師がたの味わい

これは大乗仏教も後期の人が設定したもので、菩薩の位を信、住、行、廻向、地と、五つの位に分け、各々の位を十段づつにして、最後の第十地の位を満位を一段開いて、五十一段にしているのです。その中の第四十一段の地の位から上を、正定聚といい、四十段までを不定聚、邪定聚といっています。それは地位に入れば必ず五十二段の仏になれるという自信がつくからです。またこの位に入れば、再び迷うことがない。あと戻りしないということで、不退転ともいうのです。それに対して、四十段以下は退転の菩薩と呼んでいます。正定聚は上の仏に対し、不退転は下の迷いに対してつけられた名です。
<中略>
 それでは何ぜ正定聚が憧れの的であったか。それは十地の位に入って、「歓喜地」を得られるからです。どんな歓喜か。その内容を龍樹菩薩は、ご自分の体験から、百ほど数えあげています。親鸞聖人は『行の巻』に、その中からあらあらしたものを選んで挙げておられますが、要するに一つは不退転地を得たこと、一つは諸仏の家に生まれたことのようです。この利益は心の眼が開けたことによるのです。心の眼とは、仏の智慧のことです。信心決定した人は、正定聚に住すといわれるのは、仏の智慧が開けるからです。親鸞聖人も「無上の妙果成じ難きにあらず。真実の信楽まことに獲ること難し」といっておられます。仏智が開ければ、何が見えるのか。仏智の内容がさきの六神通ですが、それは身に開けた徳ですが、それが外に向っては、人生が解り自己が解る。存在するものは皆矛盾であることが解るのです。「無慚無愧の宿業のこの身」の中に、「不可称不可説不可思議の功徳は、行者の身に満て」ることが見え、「シャバの世界というも、ここのこと。極楽の世界も、ここのこと。これは目の幕切りをいう」(才市同行)。これを天親菩薩は「大会衆の数に入る」、浄土の菩薩になったと感激しておられます。これは自己の上に浄土の花が開く位です。
 ところが今日でも真宗の学者は、正定聚を「必ず浄土に生まれる身に定まったこと」と説いています。その浄土は死後にあるものとして。これはお経を読み誤って、勝手にそう受けとっているので、今申しましたように、正定聚は浄土に生まれた人のことで、浄土の土徳によって、必ず仏に成る自信がついた、初地以上の菩薩のことです。したがって親鸞聖人も、異訳の経によって、「等覚を成り、大涅槃を証することは、必至滅度の願の成就なり」と、正定聚の菩薩お最高の、等正覚を成就できるといっておられるでしょう。等正覚とは五十一段の弥勒のさとりのことです。これでも真宗の学者たちは、親鸞聖人が「補処の弥勒に同じ」とか、「如来とひとし」といわれていることを、この世でそういう人格になるのではない。信心決定しても、日暮らしは浅ましい凡夫のままであるが、この一生終ったら、浄土に生まれて仏にさせて頂く、それを「弥勒に同じ」といわれたのであると、解釈しているのです。この人たちの説く浄土も仏も、皆空想の産物ではないんでしょうか。浄土もこの世であり、五十二段の仏も、この肉体を有っている人間の理想の人格をいうているのです。
<中略>
涅槃への道は、これがなければ、これがないと、すべてを空じてゆく還滅の道で、その究極の目的は「灰身滅智」であると、「十二縁起」は説いているのです。しかし大乗仏教では、そういうさとりは個人的であり、完全な人間の救いにはならない。人間は人と人との関係の中に生きているものである。その人間としての人格を完成することこそ大切なことであると、自らの人格を高め、人生を創造するその人を正定聚といい、その理想的人間像を、五十二段の仏としたのです。
<中略>
涅槃は小乗の理想であり、正定聚は大乗の理想であって、この二つは全く逆の方向であると思われます。一つは存在を迷いとして、自己を滅し、生死を離れてゆく、自己を脱却し、世間を出てゆく方向ですが、一つは存在の中にこそ真実があると、この五尺の体の上に、人間としての人格を完成し、社会を浄め、歴史を創造してゆく方向だと思います・・・<中略>滅度は自己を否定し、歴史を否定するものであり、正定聚は人生を肯定し、歴史を創るものです。
<中略>
「正定聚」は、これから仏になってゆく菩薩のことといわれていますが、それは大乗仏教のいう正定聚です。浄土教でいう正定聚は、親鸞聖人がいっておられるように、「浄土の菩提心」の働く人のことであって、これから仏になるという往相の菩薩のまま、浄土の徳を身につけて、これを現実に具体化してゆく還相の菩薩のことです。還相の菩薩とは、これから出てきますが、死後のことではなく、人生創造の行者のことです。仏とは菩薩の内面の徳であって、表は菩薩、内は仏です。これを第二十二願には、「諸仏の行、現前する」といっています。それで正定聚に住することが、一切なのです。その外に私たちが考えているような、死んで仏になるということが別にあるのではありません。内にある徳が身につくことを成仏というのです。それで曇鸞大師が「正定聚に住するが故に」と、正定聚に千貫の重みを置かれていられるのでしょう。「必ず滅度に至る」とあるから、滅度というものがあって、そこに行くように思いますが、涅槃に入ると同じように、死に切る、死んでも悔いがないとさとることです。経にはそれを「善逝」と説いて、仏の十の徳の一つに数えています。善逝とは善く逝くということで、思い残しなく死ぬことができるということです。
<中略>
 この第一願から第十一願までは、願いという形で現わしていますが、すべて成就した浄土の徳であります。浄土は常にその徳を現わすために、願いという形をとるのです。それで天親菩薩は浄土のことを「願土」といっておられます。親鸞聖人も、安楽浄土の土徳であるといっておられるのです。それも「法は独り弘まらず、必ず人を待って弘まる」。浄土は必ず正定聚不退転の菩薩を産み出し、その菩薩を通して、浄土はその徳を現実のものにするのです。第十八願に「我が国に生まれんと欲え」とある「我が国」とは、この第一願から第十一願までの徳が与えられるのです。親鸞聖人はこの第十一願を、また「往相証果の願」と呼んでおられますが、これは第一願から第十一願のすべてを、ひっくるめて仰しやったのかも知れません。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 私たちは、いつ崩されるかわからないものをふまえ、いつ消えさるかわからないものをかかえて日暮らししています。そして、このような現実が私たちの毎日の中でときどき顔をだします。私たちはその度ごとに不安にかられ、背すじを冷やしますが、すぐにこの現実から目をそらせて生きています。目をそらしても、不安が全くなくなるわけではありません。不安は潜在化し、心の底に生きつづけます。そのようなことで、全力を出しきる生き方ができません。常に中途半端な生き方になります。
<中略>
 最近、来迎については、あまりとやかくいう人はいないようですが、親鸞聖人当時は、来迎が大問題であったようです。そのような時代にあっても、親鸞聖人は「臨終のあり方、来迎の有無は一切問題ではない」といいきられているのです。これだけのことをいいきられる根拠は、「信心定まるとき往生また定まる」というところにあります。
<中略>
 仏法をよく聞いたはずの同行の中にも、知らず知らずのうちに世の中の間違った常識が身につき、「あれだけ素晴らしいお話をしてくださった先生だから、臨終も普通の人とは違って、どれほど苦しくても、じっと我慢して、念仏申しながら息をひきとられるだろう」という思いがあり、その思いが「一声でいいからお念仏を」という哀願になったのでしょう。その心を見抜いて、真田先生は、

信心定まるとき往生また定まる。最後のお念仏の有無が問題ではない、臨終が問題ではない。往生の定、不定はとうに済んでおる。苦しみの中で、苦しみをこらえてお念仏しなければ往生できない、というようなたよりない如来の本願ではない。信心定まった時、もうすべてが済んでいるのだ。
といわれたのです。
「そんなことは、もうとうに済んでおる」と、いいきれるような確かな人生、それが「正定聚の位に住す」るものの人生です。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

御本典の『教行信証』の四法といいまして、教は『大無量寿経』全体を言うのですが、行は十七願、信は十八願、証は十一願、即ち経によって教行信証が出て来るのですが、助かりたいという願いには、何か行が具わらなければならないものです。どういう行動で助かるのか、ということを示されまして、それは、南無阿弥陀仏という仏名を称えることによって助かるのだという、浄土の行を示されました。それは十七願のおこころであります。信は第十八願でありまして、行だけで助かるように思うが、その行に信がぬけておってはいけない、信というものが最も大事である、というので、第十八願が即ち信の願であります。それから行信ともに揃えば、それは助かる原因であって、助かるという結果、これを証果といいます。証は証果の略であります。行信によってどうなるのか、助かるということはどうなることか、こういうことを示されたのが「証の巻」一巻でありまして、それが第十一願であります。
<中略>
即ち信心を獲た者は、その時から正定聚の身の上となさしめられるということであり、それが証果であります。正定聚というのは、正しく定まるあつまりですから、そういう階級ということです。そういうものにならしめるだけではなくして、それはそのまま必ず滅度に至らしめる、即ち「正定聚に住し必ず滅度に至ら」しめねばおかんという御本願であります。これを必至滅度の願というのは、最後の一番大事な涅槃にまで必ず至らしめんという御本願であるからです。私どもが、本当に助かるということは、言い換えれば涅槃に達するということだからして、仏は必ず滅度、涅槃にあるけれども、その結果よりも原因の正定聚ということが一番大事であると仰せられるのです。そいして親鸞聖人は、これを正定聚ともいい、不退転ともいい、即得往生ともいうとおっしゃってあります。証果はまず正定聚に住せしむるということが大事なんでありますが、正定聚に住せしめて滅度に至らしめねばおかんというのが御本願であります。
<中略>
真宗は行信の結果、言い換えれば信心の結果どうなるかといえば、生きておる間に正定聚にさしていただくということである。一生の間正定聚でずっと進んで行って、死んでからとも、死にぎわともおっしゃらず、とにかく滅度に至らしめて下さるのだと。こういう原因をことに重く知らして下さったことが親鸞聖人の卓見と申しますが、お経を読んで読んで考えて考えて、しかも正依の『三部経』だけでなしに、異訳の『如来会』という御本も精読なされて、そうしてどうしてもこれは此の世、現世において正定聚にならしめねばおかんという御本願であると感得され、そうしてその必然の結果として滅度に至らしめて下さるのだ、だから現生正定聚にして下さったのが全く聖人のお陰であります。
<中略>
現生に正定聚にして下さるということだから、国中人天ということも死んでからのことではない、信心を獲た者が即ち如来の光明の国に生まれたものを国中人天と称されるものである、こういうように教えて下さるわけであります。したがって、第二願から第十願まで国中人天とありましたことも信心の上に得させられる幸せである、ということも自然にうかがわれるわけであります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

この国中人天というのは、さきほど申しましたように、他の翻訳では、「わが国に来生するものは」と書いてある。どうして来生するかというと、念仏で来生するのであります。ですから国中人天ということは念仏者の果相である。だから国中人天というのは、彼岸の世界の人にちがいありませんけれども、彼岸の世界の人ということは、どういうことであるかというと、直接には念仏行者ということである。だからいいかえれば、念仏行者の上にこの十一の徳が与えられる。いかに与えられるかというと、念仏行者は如来の願心において、この十一の徳を内観していくのである。
<中略>
如来の願心に帰るとき、そこには地獄もなければ餓鬼も畜生もないのである。如来の大悲の胸へ帰るとき、そこにはふたたび三悪道へ更るということはないのである。そこではすべれのものがみな金色にかがやき、形色不同もなければ好醜差別もないのである。われわれは如来の大悲の本願に帰るとき、本当に自分の宿世の運命を知り、天眼・天耳を得て、他心・神足ということがそこに現われてくるのであります。
<中略>
 必至滅度はさきほど申しましたように、生もなく死もない所である。必至滅度は涙もなければ笑いもない所である。めそめそ泣くようなこともなければ、またからから笑うようなことも超えた所である。そうして非常に落ちついたところである。この涅槃寂静の天地を経験したものは、世を憎むこともなければ世を呪うこともない。憎むとか呪うとかいうようなことを超えているところの一つの天地であります。涅槃は無尽なり、尽きない所である。涅槃は一如なり、涅槃は真実なり、ほんとうの所である。何でもほんとうの所である。眠るというえばほんとうに眠る所である。醒めるといえばほんとうに醒めるところである。死ぬといえばほんとうに死ぬところである。生きるといえばほんとうに生きる所であります。
<中略>
ほんとうに諸仏の国を照らさずんば正覚を取らじという光明無量の智慧は、涅槃寂静の天地から出てくるのであります。だから「光明寿命の誓願を、大悲の本としたまえり」、仏というのは光寿無量が一番本だといいます。けれども光寿無量のもう一つ本がある。それは滅度である。涅槃界である。それでなければ光明があっても、その光明に限量があるのであります。それでなければ寿命があっても、寿命に限量があるのであります。だから必至滅度まで本願が高められ、必死滅度まで純化されたところで、本願は一転して「光明無量の願」、「寿命無量の願」へ出なければならないのである。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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