平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か

― 「善悪」ではなく「信」に仏教の中心軸はある ―

質問:

「六道輪廻の迷信性」および「六道輪廻と浄土について」他を読ませて頂きました。

前世の悪業が現在の不幸の因縁である」という権力者に都合のいい理屈は、本来真っ先に批判されねばならないものです。

 その他、業道輪廻転生を否定する、これで回答者は仏法者なのかと驚くことを仰有るのでお尋ね致します。

○生まれながらにして、男女、貧富、健常者・障害者などの差別が歴然としてあるのは、どんな原因だと説明なさるのですか。
 そのことは思考停止せよというのが仏説なのでしょうか。

○「無我説は前世や死後を否定されたもの」と思っていなさるのでしょうか。

○なお、死んでからのことは死んでみなければわからないから、生きていることを考えようという、自己の思いや常識を無批判に受け入れた立場に立っていなさるようですが、それが仏説なのでしょうか。

返答

 よく勉強されている方からの質問のようですが、失礼ながら「有見」にとらわれてしまってみえる気がするのですが、私の誤解でしょうか。
 仏教経典を読む際は、<有無の邪見を退ける>という大原則があることはご存知と思います。またこれを発展的に解決するため龍樹菩薩が「空」という概念を持ち出された、ということも学ばれていると思います(詳しくは [空の概念と虚無の概念の違い] 参照)。
 先の返答は、無見にとらわれて述べたものではありません。<固定化された概念が人のいのちを蔑ろにしている>という「現実」において批判しているのです。

◆ 仏教の中心軸

 さて、仏教経典を読みますと、いわゆる業道輪廻転生を前提にして書かれてあるような部分もあります。また反面、死後の問題には答える必要がない、つまり形而上の問題を廃していかれた文面もあります。これらは一見矛盾しているように思われますが、如来の真意に気付けばこの矛盾は解消されるのです。

 ですから、それぞれの質問にお応えする前に、仏教において最も肝心なところはどこにあるのか。いわば「仏教の中心軸はどこにあるのか」ということを考えてみましょう。

 多くの宗教は中心軸に「善悪」を置いています。単純に言えば、善人は善なる世界(例えば天国)におもむき、悪人は悪なる世界(例えば地獄)におもむく、と。おもむいた先が「永遠の」となるのはおもに西洋の宗教であり、ここに輪廻を用いたのがバラモン教といえましょう。もちろんその過程においてはもっと複雑なのですが、多くの宗教は善悪の座標軸を中心に教学が練られています。

 仏教の要[かなめ]・中心軸はどこにあるのでしょう。善悪も確かに重要な判断基準ですが、それが要ではありません。なぜなら悪を断定し、断罪したり裁くことは、「如・一如」という視点を破ることになるからです。
 世界のあらゆるものはつながっている。私と関係ないものなど無い。「一つ、二つ」と数える次元を超えて世界は密につながっている、と。そして「如」より来たって、私にその「如」のあり様を知らせて下さる方を「如来」と呼び、また私も如来となっていくのが仏教徒の歩みであるはずです。

「親子の断絶」などという、おそろしい言葉が言われて久しい時を経たようです。このごろは「非行少年」のみならず「非行母親」とか、「非行老人」などという言葉も聞かれるありさまです。
 ところで、「断絶」という考え方は仏教にはないといわなければなりません。「縁起」の世界に断絶なし、というべきでありましょう。「同体の慈悲」といわれ、「一体感」といわれる考え方が一貫した仏教のこころであります。ですから、この考え方に親しんできたものにとっては「断絶」とか「関係ないよ」といった言葉を聞く時、背すじの寒い思いがすることであります。

中西智海 著『真宗法語のこころ』より

 如来の真意は、業道輪廻転生の概念を定着させることにはなく、様々な概念を一時的に利用して「如」の覚り(悟り)を展開することにあったのです。概念は固定化して用いると有見に偏ったり迷信が生じます。そしてまさに業道輪廻転生の概念が既成事実として用いられたために具体的に断絶が生まれました。

 今まさに悪を為そうとしている人に対しては、この概念は有効でしょう。自業自得は悪を抑える方便としてよく用いられます。方便といっても軽々しいものではなく、部分的には正しく、環境によってはそれが真実の指標となります。
 しかし、今、現実にその概念に苦しんでいる人たちがみえるのです。真摯に生きようと励む人たちに対し、その足元をすくって倒そうという、いわれ無き差別を定着させようとする力が加えられているのです。方便である概念を固定化すると、時として人を傷つける武器になってしまいます。

 ここにおいて問われるのは「如」の視点、仏心への「信・疑」でありましょう。信とはいわば「心を開く」こと、疑とは「心を閉ざす」こと。如という視点に心開いた時、あらゆる人や物事に心を開く準備ができます。そしてそれが大きな意味での善であり、覚り(悟り)でありましょう。ただし、「大きな意味での善」は私の基準を離れています。
「疑」に凍りついた相手をも「わが一人子」のように思い、<どんなに誤解されても救いとる>という心が満ち、<たとえ自分は苦難の毒に沈んでもなし遂げる>という、仏心の回向によりはたらく大善でしょう。ここにはあらゆる断絶の入る余地を残しません。疑いも仏縁に転じ、死さえも見開かれ、過去一切の人々の業を受容できるのです。

 私たちはつい他人を善悪の基準で裁き、時として争い、戦争まで起こします。そこまでいかなくても、他人の問題になると「自業自得だ」と、つい突き放した見方をしてしまいます。そのくせ自分のこととなると被害者ぶったり、助けを求めたりします。
 そうした身勝手な生き方を変え、あらゆるものに心開く時、裁きの恐怖や恫喝から自由になれるのではないでしょうか。

◆ 説明ではなく事実から出発する

○生まれながらにして、男女、貧富、健常者・障害者などの差別が歴然としてあるのは、どんな原因だと説明なさるのですか。
 そのことは思考停止せよというのが仏説なのでしょうか。

 差別に苦しんでいる人がいたら、あなたはその人のところに行って「前世の業が原因です」と説明されるのでしょうか? 仏教は問題説明の宗教ではなく、問題解決の宗教です。ですから、仏教徒ならば、その人に寄り添い、苦しみの声や叫びを聞いて、差別を無くすため私に何ができるかを考え、行動してほしいと思います。苦難を同感したところにのみ言葉は意味を持ち、覚りへの導きとなります。
 これは多くの宗旨でも同様の言がありまして、以前 [「日日是好日」という書をよく見ますが、どういう意味ですか? ] にも紹介しましたが、「空生巌畔 [くうしょうがんばん] 、花狼藉 [ろうぜき] 」とは厳しい言葉です。 仏教がいかにダイナミックな教えであるか知る一端となるでしょう。

 そして行動した結果は、多くの場合、自分自身の中に「差別を助長し、目の前の人を苦しめていた原因」を見出すことになるでしょう。言い訳ばかりしてきた自分。利益に絡まなければ歪んだ現実を正そうともせず傍観してきた自分。隣人が声無き悲鳴をあげているのに気付かず、いや、気付いていないふりをしてきた自分・・・。本当の慚愧は身体中から血が噴き出すといいますが、そんな慚愧もできないところに、私の変わらねばならない現実と、法の導きがあります。

「歴然としてある」という差別の現実を無批判に前提とすれば、結局は差別を上塗りすることになりますし、実際、そうした説明によって多くの人々が傷つき、命さえ奪ってきました。そんな無責任な説明などせず、今、目の前にある悲痛な声に心を開いて、「歴然としてある」不当な差別を打破していく熱意・智慧を持ち続けてこそ、本来の仏教教学が成り立つのです。「前世の悪業のせいだ」と突き放したところに一切の教学は虚しく朽ち果て、仏教の用語でさえ断絶を生み、人を殺す武器にさえなってしまいます。

「この世で手も足も無いなんてことは、あんたに何かたたっているんじゃぜなァー、たたりだから『業』だと思ってあきらめるんじゃぜな、あきらめんさいなァー」物心つく頃から今日までにこうした言葉は耳にたこのできるほど、あらゆる人たちから聞かせられました。山間僻地の人たちの言葉は、取るにたらぬものと片づけることもできますが、何々教団の、しかも宗教者として立派な堂々たる肩書、地位を有しておられるある布教師が、身体障害者連中へ御講話の中に例の前世の業が現われて――云々などというのを聞くと情けなくなります。
 その中の一人が私に、仏教とは親しみ難いもの、と言われたことがあります。
(中略)
 六十年を手足無くして過ごした私ですが、決してあきらめ切っているのではございません。あきらめ切れぬ自分の宿業の深さを、慈光に照らして頂き、お念仏によってどうにもならぬ“自分”をみせて頂くのです。
 過去における仏教、すべてのことを善処して行くことでなく、ただ頭から、因縁だから業だから、あきらめねばとの一方的なこの観念が、仏教を知ると知らざるによらず、社会の人々に沁みこんだことは悲しいかな、“死物”にひとしい今日の仏教に追い込んでしまったゆえんと申し上げたら過言でございましょうか。
(中略)
 肉体的に、精神的に不幸な人たちがたくさんおられることは、いつの時代にも変わりないことと思います。それ故にこそ、大乗仏教のみ教えをもっと身近に教化して頂きたい――と願うのは無理なことでございましょうか。

中村久子『こころの手足』 より

 足らなければ分け合う。手が無ければ手助けする。差別があれば撤廃する。人を見下さない――等々、共に行動したり、思いやりを持つことで、互いに拝みあう環境ができ、豊かな社会が実現するのではないでしょうか。
 以前、[『いのちの尊さ』――尊厳が損なわれている事実から出発する] というテーマで伯水永雄先生にお話を伺いましたが、「観念や理念があって、このことを考えましょう、というのではなく、問題があってその解決を図ることで始まり、大きな流れになっていきます」と聞かせていただきました。こうした、現実の問題に心を開くことこそ仏教のはじまりです。そして実際にはじめてみれば分かるのですが、これが仏教の全てなのです。滅度も涅槃も智慧も浄土もここに尽きます。

 仏教の歴史はまさに如来の心の展開の歴史でありました。あらゆる衆生を救う(済度して捨てない)という如来の誓願が根本にあり、その実現こそが仏教徒の悲願であります。この心を中心としてあらゆる教法が展開され説かれていますが、様々に言葉や理論で説かれた法は全て方便です。方便とは方法であり、臨機応変に用いてこそ生きてきます。

 例えば「自業自得」も、それが直接のように当てはまる場合もあれば、そうでない場合もあります。戦争で傷ついた子どもたちに対し「自業自得だ」と誰が断罪できるでしょう。しかし、得てしてこういう地域に住む子どもたちは「自分が悪い子だったから親が死んだんだ」と自分を責める傾向にあり、立ち上がる力を失わせている、と聞きます。おそらく周りの人や環境がそう導いているのでしょう。これは二重の悲劇です。
 こうした人たちに出会った時は、「あなたたちは決して悪くないよ」、「だからいっしょに立ち上がろう」と声をかけてあげたいと思います。そして、憎しみの心を持つことも受け入れながら、「悪いのは武器を使用した大人たちだけど、この憎しみを優しさに転じ、一緒に幸せになる道を探しましょう」と、心を開いてゆくことが大切なのです。

○「無我説は前世や死後を否定されたもの」と思っていなさるのでしょうか。

○なお、死んでからのことは死んでみなければわからないから、生きていることを考えようという、自己の思いや常識を無批判に受け入れた立場に立っていなさるようですが、それが仏説なのでしょうか。

 仏教では、過去の問題は「宿命」とか「宿業」という視点で「過去的な一切のものを背負う」とか「引き受ける」ことをします。ここにおいて現在の私が立ち上がるのです。しかしそれは、「前世の業によって現世が決る」という狭く閉じた業とは違います。

「宿命」とは、「前世から定まっている運命」ということが、今日の社会通念となっていますが、仏教ではそういう考えを、「宿作外道」といって嫌っています。仏教でいう「宿命」とは、現在自己に与えられておる運命や、その時降りかかった運命を、何ぜこんなことになったんだろうと、自分の運命を恨んだり呪うたりしていた心が翻って、ああそうか、こうならねばならぬ自分であったか、こういう運命を生きねばならぬ自分であったかと、「さとる」ことをいうのです。宿作外道とよく似ていますが、どこが違うか、違い目が解りますか。宿作外道は、前世というものがあって、すでに自分がこの世に生れた時から、ちゃんとこうなるように決っているのだと、頭で考えて、自分に言い聞かせているので、それは前世の借金払いという考えですが、あきらめるための「窮余の一策」でしょう。その前世とはどこのことでしょう。その前世とはどこのことですか。どんな悪いことをしましたかと、突っ込んで聞いて見れば、何んにも解ってはいません。ただそうだろうという感じがするだけです。私の母はいつも「だろう根性」を捨てよと誡めていました。仏教の言葉は、この宿命に限らず、すべてさとった人の胸から出たまごころの言葉です。自覚の内容となっている言葉ですから、まだ自覚しておらない人が、その言葉だけ聞けば、言葉が抜け殻となって死んでしまいます。仏教でいう「宿命」とは、前世があるかないか、そういうことは一切関係なしに、頭で考えるのではない。まごころの智慧をもって、現在只今の事実をさとるのです。あきらめるのではない。引き受けるのです。いやじゃいやじゃと、逃げたい心一ぱいであったが、ああそうか。こういう運命を生きねばならぬ自分であったか。受けなければならぬ運命は受けていこう。このまま生きていきましょうと、与えられた過去的な一切のものを背負うて、それに執われず、さあ用意ができた。今までの一切は、今の自分を産み出す用意であった。これからどう生きるかと、明るい自由な立場に立って、新たに自分の運命を切り開いてゆく、前向きの態度のことをいうのです。外道の宿命は、ぶきみな暗さや影がつきまといますが、仏教には現実の厳しさを踏まえて、常に明るさ、さっきの「不断の智的快活」があります。
<中略>
 真宗の人は、宿命と宿業をごっちゃに使って、皆宿業といっています。ついでですから、いっておきましょう。「宿業」も前世の業といわれていますが、これも宿作外道の考えです。そういう考えの根底にあるものは、「輪廻転生」とか、「霊魂不滅」ということですが、仏教は「無我説」の上に立っていますから、お釈迦さまが一番排斥された思想なのです。日本の仏教には、いろんな迷信が雑りこんでいて、どこまでが迷信か、どこまでが仏教、正法真宗か解らなくなっていて、素人ではない、プロの仏教学者でさえ見分けがつかなくなっている人がたくさんいるのです。今東西両本願寺が、しきりに迷信打破の運動を展開していますが、一番根深い迷信は霊魂不滅の考えだと思っています。この考えが正しい人生観を根本から狂わせている。根本無明の一面です。私はこれが人間の最も深い所に巣くうている魔王の「我執」の側近にひかえている悪魔の大将だと思っています。
<中略>
 この願は、もちろん自分の宿命が解ることには違いありませんが、ことさらに「百千億ナユタ」と、全人類の数を以て、過去の時間の長さを現わしているのは、自分一人の運命は自分一人のものではなく、人類の歴史的宿命であることを言おうとしているのではないかと思います。ここにも大乗仏教の一即一切、一切即一の人生観がでれいるのでしょう。ひとりの人の一挙手一投足が、全世界を動かすとか、三千大千世界が、わずか芥子粒の中に宿っているといっています。

島田幸昭 著『仏教開眼四十八願』第五 得宿命智の願 より

 過去一切の宿命を引き受け、我が為す行為が未来一切に影響を与えると目覚めた時、現在の一瞬は永遠の重みを持って生きる一瞬になるのです。そして「一隅を照らす、此れ則ち国の宝なり」と伝教大師最澄も古人の言を引かれているように、実際にはそうした真摯なる生き方は、各人の一隅を照らす活動となって世界に広がっていくのです。
 死後ということも未来の問題ではなく、今現在の問題にほかなりません。今現在の問題が解決すれば、死後の問題もついでに解決されるのです。

◆ 信楽と名号の展開

 以上は仏教の基本的な視点ですが、仏教の主軸である仏心を「信楽」と見抜かれた親鸞聖人の仏教史観をご紹介しましょう。この中で「輪廻」という言葉が使用されていますが、まさに上記の意味で慚愧されていることが確認できると思います。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。

親鸞聖人 著『顕浄土真実教行証文類』総序 より

▼意訳(現代語版より)
 私なりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
 ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆裟羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。
 よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。


次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

『顕浄土真実教行証文類』信文類三(本) 三一問答 法義釈 信楽釈 より

▼意訳(現代語版より)
 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじわることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことに信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

 また梯實圓師は、「万物は一如であるとさとる」というところから「人々の悩みや悲しみを、わがこととして共感する」心が阿弥陀如来の本願となって私どもをよびさましているいわれを説かれています。

 罪とは罪悪のことであって、なしてはならない悪行のことであり、福とは福徳をもたらすような善行のことである。すなわち善もしくは悪行をなせば、それに応じて楽もしくは苦なる果報をまねくという善悪業報の因果の道理をまことと信ずることを「信罪福心(罪福を信ずる心)」というのである。それは悪を廃して善を修すという仏道修行の原動力になる信心であった。それゆえ善悪業報の因果を否定するというような見解は、因果撥無の邪見として厳しくいましめてきたのである。
 浄土教といえどもそれを一概に否定することは許されない。念仏者の倫理として重要な意味を持っているからである。ただ問題は、善悪業報の因果観にのみとらわれて、善悪を平等に救いたまう本願の世界のあることを信受しないことを自力疑心として誡められているのである。
 「仏智不思議」とは、私どもの分別思議を超えた阿弥陀如来の本願をさした言葉である。人間は虚妄なる分別思議をもって自己を中心としたそれぞれの世界を描き出していく。自分と他人を区別し、生と死を矛盾としてとらえ、愛と憎しみの葛藤を生み出し、善悪、賢愚のへだてを造りあげているのである。仏陀はこうした一切の差別を超えて、万物は一如であるとさとることによって、一切のとらわれを離れ、すべての束縛から解脱していかれたのであった。その智慧を無分別智という。しかし万物一如のさとりに達するということは、人々の悩みや悲しみを、わがこととして共感することであった。それは、人々を苦悩の渕から救い、清らかな平安を与えようと願わずにおれない大悲者となることでもあった。それを無分別智のはたらきとしての平等の大悲という。その大智大悲が万人平等の救いの言葉となって、私どもをよびさましているのが阿弥陀如来の本願であり、救いの名のりとしての名号である。
<中略>
 善悪業報の因果の考えをもって、阿弥陀如来の本願の救いをはかれば、当然善業をつめば浄土に近づき、悪業を犯せば如来から遠ざかるに違いないという自力の因果を信ずる信仰になっていく。そして善人・賢者にならねば如来の救いにあずかれないとして、大悲の正機である煩悩具足の凡夫の救いの道を閉ざしてしまうことになるのである。そのような人を「仏智不思議をうたがひて、罪福信ずる有情」といわれたのであった。
 それにひきかえ「仏智不思議を信ずる」とは、わがはからいをまじえずに、如来の大悲智慧のみことばである本願の名号をそのおおせのとおりに受けいれることをいう。それによって如来の智慧がわが心に宿り、わが智慧となって私を呼び覚ましつづけ私に生きることの意味と方向を知らせていくのである。すなわち煩悩をもったままで如来に摂取されていることを信知し、臨終の一念には、妄念煩悩の寂滅した涅槃の浄土へ生まれしめられるという不思議を信知するのである。それを親鸞聖人は「信心の智慧」といわれた。

梯 實圓 著『教行信証の宗教構造』第六章・真実の信 より



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