ご本願を味わう 第三十一願

国土清浄の願

【浄土真宗の教え】
漢文
設我得仏国土清浄皆悉照見十方一切無量無数不可思議諸仏世界猶如明鏡覩其面像若不爾者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見すること、なほ明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もししからずは、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、国土は清らかであり、ちょうどくもりのない鏡に顔を映すように、すべての数限りない仏がたの世界を照らし出して見ることができるでしょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、かの仏国土が、たとえばよく磨かれて清らかな円鏡の中に映った顔面のように、その中であまねく無量・無数・不可思議・無比・無限の諸仏国土が見られ得るような、輝かしい光あるものとならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に得ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

 私の目覚めた眼の世界では、この世界はすべて清らかに澄みわたり、数限りない目ざめた人の世界が映し出されるであろう。それはちょうど、曇りのない鏡に自分の顔がはっきりと映し出されるのと同じである。もしそうならなければ、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 この前の第二十一願から第三十願までの十願は、浄土に生まれた人に対しての願いでしたが、この第三十一願と次の第三十二願の二つの願は、国土に対する願です。前の十願は、第十九の人間完成の願の内容を明らかにしたものでしょうが、この二願は、第二十の世界形成の願に答えて、それではどんな世界を造るのか、その内容を明らかにしたものだと思います。
 今日までは、この二つの願を共に、弥陀の浄土のこととしているのですが、もちろんそれもあるでしょうが、それだけでなく、弥陀の浄土に生まれた念仏者の一人ひとりの浄土が、弥陀の浄土と同じように、こうあって欲しいということです。これは四十八願の前に法蔵菩薩が、「我まさに修行して仏国を摂取し、清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあった、あの「無量の妙土」です。それでなければ、この願がここに誓われた必然性がないことになります。きのうも申しましたように、ひとりの人には一つの国がある。その一人ひとりの国は、未だかつて一度も鎌を入れたこともなければ、鍬を打ちこんだこともない。荒れるがままに委かせた原始林です。それどころか私は、今日までの宗教家の中で、一人として自分の国を見つけたという人を、大乗経典の著者の外には知りません。皆さんの中に、自分の国を浄めねばならんと説いた人を、見たり聞いたりしたことがありますか。私は経典を読む前に、二十二の年に、自分の国を見つけたのです。私だけではない、亀田さんには亀田さんの、橋場さんには橋場さんの、どなたにも自分の国があるのです。自分の国が浄まらなかったら、自分は助かりません。その自分じぶんの国に対する願いです。一人ひとりの自分の国とはどういうことか。きのう申しましたから、今は略します。解り難くかったら、国という言葉をとりあえず、家庭とか教団とか、村とか国家と置き換えて頂けば、理解ができるでしょう。
<中略>
国土の何かを、また地上を清浄にするのではなく、国土そのものが、清浄であるようにということです。
 それは何のためかといえば、「十方の一切の無量無数の諸仏の世界が見えるように」ということです。とかく私たちは一つ自分のものができると、すぐそれに堅く閉じ篭りたがる。たとえば立志伝に載るような、世のいわゆる成功者は、わしの若い時はこうじゃった。今頃の若い者はと、時代遅れ古くさい城の中に閉じこもりがちです。 <中略> そういう人の世界を辺地懈慢とか、疑城胎宮ときらっています。そういうことのないように、先ず自分の心の我執を離れ、さらに進んで、絶えず周囲の人から、他の世界から学んで行くようにということでしょう。
 金子先生が広島の文理大で講師をしておいでた時、平野町のお宅で、月一回、夜でしたが、学生が寄って、仏典の講義をして頂いていました。その時私もその中へ加えてもらっていました。道元禅師の『正法眼蔵』のお話の時でしたが、「後世に名を残す人は、皆自分の専門の学問以外に、他の何かを、ある一定の域を抜いた人である。何ぜかといえば、それが自分の行く道を、照らす合わせ鏡になるから」といわれました。
<中略>
 私は今まで先人が言わなかった、新しいことをたくさん発見していますが、その中の半数は、碁からヒントを得たものです。たとえば碁には段級があります。この問題が十分間で解ければ、一級の力がある。こちらの問題が十分間で解ければ、三段の力がある。それと同じように人間にもあろう。この嫁と姑の問題が解けたら、初段の力がある。この社会問題が解ければ、高段者の力がある。 <中略> それなら宗教の世界にもあるに違いない。キリストは何段だろうか。法然上人は何段だろうか。親鸞聖人は、蓮如さんは? お釈迦さんは何段だろうか。『阿含経』は?『般若経』は?『法華経』は何段の人が書いたのだろうかと、疑問が出て来ました。そこで菩薩と大師の違いが解り、小乗仏教と大乗仏教の次元の相違が解って来たのです。その他いろんな問題を碁から教えられました。私に文学や音楽が解れば、まだまだ未知の世界が開かれて来るに違いないでしょう。
 こういうことを「十方の一切の諸仏の世界」が、自分の国に映って、まるで「鏡の中に自分の顔形を見るように」見えるといわれたのではないでしょうか。自分の国そのものが鏡です。自分の国に十方の世界の相が映っている。それも「借りもの」ではない。自分の顔形を見るように映っているというのです。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

『仏説阿弥陀経』の中に、諸仏が釈尊を、

 釈迦牟尼仏は、世にもまれなむつかしいことをなしとげ、この娑婆世界の劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁という五濁に満ちた悪世界の中にありながら、よく無上のさとりを開いて、多くの人人のために、あらゆる世に超えすぐれた難信の法を説かれたことである

と、ほめたたえられる一段があります。
 この一段においてあきらかにされていることは、この世が五濁の世であり、この五濁を越える道として、釈尊は難信の法を説いてくださったということです。
<中略>
物の生命を粗末にすることによって、国と国が争うことによって、環境を汚染し、自然を破壊し(劫濁)、自分さえよければよいというものの見方、考え方がはびこって、自らの世界を住みにくいものにし(見濁)、名利を求める心にふり回され、欲望をつのり、怒りをぶちまけて、自らも苦しみ、他をも苦しめ(煩悩濁)、世の中の風紀を乱し、心身ともに自らの資質を下げて、自らの首をしめ(衆生濁)、外のいろいろなものや、内なる煩悩に引きずり回されて、自らの生命を、自らが本当に生きるということを自らちぢめている(命濁)世界です。
 こんな五濁の世にありながら、この五濁の世をつきぬけて、浄らかな世界にむかって生きていく道、難信の法を説いてくださったのが釈尊であります。
<中略>
五濁の世であることを知らされれば知らされるほど、国土を浄らかにすることの重要さが身にしみますし、私たち一人ひとりの心が濁り、お互いの世界が理解できなくなっていることを知らされれば知らされるほど、明鏡のごとく澄んだ心の回復が願われます。そしてさらにお互いの世界を照らしあうことの大切さがこの身に受けとれます。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

 これを国土清浄の願と名づけてあります。この成就の文は、

かの仏国土は清浄安穏、微妙快楽なり。無為泥オンの道にちかし。(三六)

という御文であります。要するにこの願文は、如来の御国が清浄でありたい、あらしめねばおかんという御文であります。もし我が仏になったならば、わしの国は清らかでこの宇宙にたくさんの世界がある。そのあらゆる十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を皆悉く照らし見ることができるという願であります。それはたとえて言うと、ここの明らかにきれいな鏡がある。その鏡に映った自分の顔を見るように、あらゆる世界が、如来の御国が清浄であるからそこへみんな映ってくるようなものであります。
<中略>
こちらが貪慾に閉ざされておると、人の心も見えないのでありますが、自分が如来の清浄光にあわされて、そういう生活をし出すというとあらゆる人々の心の世界が自分に見えるようになってくる、こういうことじゃなかろうかと思うのです。これが親鸞聖人や蓮如上人のお徳となって現われておるのでないかと思うのであります。親鸞聖人は自分が清浄になったとは申されませんが、如来の清浄なるお徳を喜ぶという世界に入ると、あらゆる人々の心の世界というものが自分の内にもあるとわかってくるようになる。人々の心がわかるから人々を済度したくもなり、またよく済度することがたやすくなるのだと昔の人が言っておられますが、ただ自分が幸せになるのみならず、他の人をも幸せにすることができるというのです。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

(※注 三六=浄土真宗聖典註釈版 P37 『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳)

 わが国が鏡のようになって、そこへ十方世界のことがすっかりわかる。私はこの第三十一の願と第三十二の願とをもって教団の理想と見るのであります。
<中略>
あらゆる思想界のなりゆき、あらゆる社会の移りゆきがみなすっかりわかる。それがつまり道場といい教団というものの理想ではないでしょうか。象牙の塔の中へ閉じこもってしまって、その窓の所で、社会へ通じないようなひとりよがりをいっている。それでは浄土は荘厳されていないのであります。世間のことは知らないと、鉄の扉をして、自分だけ都合のよいことをいっている教団がありますが、そういうのは国土清浄ではないのであります。それは菩薩の徳がなく、普賢道がおこなわれないからである。普賢道がおこなわれ、菩薩の徳が成就するならば、そこの道場、狭くいえば道場、広くいえば教団、宗門というものは、つまり国土清浄であって、十方のことがみなそこにいながらにわかってくる。社会の移りゆき、社会の変遷、人心の動き方が、手に取るようにわかっていくというところに、一つの道場すなわち教団の理想があるのです。それは外のことを内に摂める徳であります。それに対して「宝香合成の願」というのは内なるものを外に現わす徳であります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

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