[index]    [top]

「自然法爾」とは

求道の必然的な帰結

【十界モニター】
自然法爾[じねんほうに]」とはどういう意味ですか?


 先日縁ある方から、<ジネンの話で「しからしむ」と然を読んでいますが、しからしむということばは日常は使いません。どのような意味なのでしょうか>との質問を受けました。
<ジネンの話>というのは、「自然法爾[ジネンホウニ]」を指すと思われますが、確かに親鸞聖人の説かれた中には「自然法爾」の教えがあり、「然」を「しからしむ」と訓じてみえます。そしてそれは日常的には使いませんし、漢字本来の意(=「しかり」「しかれども」「しかし」「しかるに」「もえる」)を尋ねても、「しからしむ」とまで積極的な解釈はできないようです。
 では、このように訓じられた親鸞聖人の胸の内にはどのような思いがあったのでしょうか。またその胸の内は一般的な意味の自然法爾≠ニ同様の内容なのでしょうか、多少の差異も含んでいるのでしょうか。
 実はここには様々な問題が山積しておりまして、一筋縄では解けないものがあります。しかし一字一句気を配って検証すれば自ずと道は示されるものと信じて解釈を進めてみたいと思います。

 自然法爾はもと道教の思想

 「自然法爾じねんほうに」を検証する際、まず第一に気をつけねばならいことは、自然法爾は本来「道教の教え」だということです。これは{往生論註 1}でも指摘しましたように、道教を焼き捨てられた曇鸞大師どんらんだいし(焚焼仙経帰楽邦)といえども、無為自然を尊ぶ中国独自の思想が影を落としていて、特に道教の大成者である陶弘景とうこうけいから直接指導を受け奥義書まで授かったがゆえ、この曇鸞大師を経由して親鸞聖人にも影響を与えた懸念はあるのです。島田幸昭師もこの点を重要視されてみえました。

 ただ、私なりに様々検証を進めてみますと、やはり親鸞聖人の性根を通した叫びは、ここにおいても懸念を打ち破って見事に純粋な仏法の華を咲かせてみえると味わうことができます。
 このことを念頭に置いて、一つずつ読み進めてみましょう。
 なお、自然法爾についての聖人の詳説は『親鸞聖人御消息』と『正像末和讃』(参照:資料1 )の中にありますが、今回は御消息の方を素にさせていただきます。

自然法爾の事。
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
      正嘉二年十二月十四日
愚禿親鸞[八十六歳]

『親鸞聖人御消息』14

▼意訳(日本の名著6『親鸞』/中央公論社 より)
 自然法爾[ジネンホウニ]ということ。
 自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。

 阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはかわらないことを自然というのである、と聞いています。
 如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。

 この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。
      正嘉二年十二月十四日

愚禿親鸞[八十六歳]

 まず読んで気づくことは、文中、親鸞聖人みずから深く領解された部分と、「ききて候ふ」「ききならひて候ふ」と学んだ内容をそのまま挙げてみえる箇所があります。そして、先の深く領解された箇所は生命力に溢れ実に力強く心に響きますが、後者の箇所は残念ながら読者の心に響きません。はっきり言って生命力のない聞き書きの文章です。
 ここで推測されるのは、聖人はどうも、学んだだけの部分は書きながらも懸念を感じてみえたのではないでしょうか。そしてこの懸念こそ、仏教の純粋精神が発した警告だったのでしょう。こうした息づかいが感じられるのも聖人の文章の魅力であります。

 本質が顕現し純粋仏教として展開

 もう一度引き直します。

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

▼意訳
 自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。然とはそのようにさせるという言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせるということをそのまま法爾というのであります。また法爾である如来のお誓いの徳につつまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせるといいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから義の捨てられていることが義である、と知らねばならないといわれます。言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせるという言葉であります。

 ここは親鸞聖人みずからの本音が語られている箇所です。ご自身のことは極力語られなかった聖人ですが、この内容に相当する何らかの自力・他力の経験がおありになって、さらに教学の裏づけを得てこのような逞しい語りになってみえるのでしょう。
 仏法は、自身の経験が全く無いことを観念論のみで語ってはなりません。なぜなら、法は現実を離れては存在しませんので、現実の経験や歴史を踏まえてのみ語ることが許されるのです。そして、自身の体験や領解が無い場合は引用のみに留めるか聞いた話≠ニして紹介しなければなりません。本来これを犯すと「妄説得上人法戒(大妄語戒)」の大罪に問われることになります(参照:{戒律について})が、他人の領解を横取りしている人も案外多いことは実に嘆かわしいことです。
 なおこの文章を書いている私としては、自身の体験と領解を下地に述べさせていただいているつもりですが、まことに浅ましいものでありますから、皆さま方には、この文章を踏み台とし、さらに大きく飛躍して頂くことを願っております。

 さて、ここで鍵となるのが――
「行者のはからひ(人の側のはからい)」と表現された所謂いわゆる「自力」と、
「おのずから・しからしむ(そのようにさせる)」「如来のちかひ(如来のお誓い)・法の徳(如来のお誓いの徳)」と表現された所謂「他力」
の相違点と関係性です。

「行者のはからひ・自力」とは、要約して言えば、迷っている私が現前に意識された身口意の業で、自分の都合や先入観や狭量性から離れない業です。いわば頭の表層での思考(理性)や我執のからんだ感情のことで、常に変節・崩壊・裏切りの危険がありますので、人生の依りどころとはならないのです。

「おのずから・しからしむ・他力」とは、要約していえば、人間存在の歴史的バックボーンとして貫かれている浄らかな業で、この本来的なもの(如)が顕現しようと間断なき力で働き出てくる(来)のです。『仏説無量寿経』の要旨でいえば、本来持っていた願いが充実して現実に展開してくることを言います。
 このように「如来」は人間の深きのそのまた深き根源よりこみ上がり、意識的な迷いや、自分の都合や先入観や狭量性の表層を打ち破って具体的・歴史的に展開してきますので、変節・崩壊・裏切りの危険がありません。
 この変節・崩壊・裏切りの危険の無い人間本来の性根が具体的に働くと、現在の変節・崩壊・裏切りの危険をはらんだ性根なしの我が見え、性根の据わった本当の人間にならねばならん≠ニの願いが懺悔とともに沸き起こってきます。つまり自分の側からではなく、本来の側が現実の自分と一体と成ろうと働き出る(回向)のです。これこそ普遍の真実が我そのものと成り切った願いの姿でしょう。<我あり、我なし、我とならん>とのお諭しは実に趣深いものがあります。このことは、たとえば妙好人の浅原才市さんは――

あさましと念仏は
おない年の南無阿弥陀仏
と味わわれ、
また、ジャン・エラクル師は――
人の究極的真実への真摯な求道はその人を必然的に目的へと運んでゆくのです。
『十字架から芬陀利華へ』より
と見抜かれておられます。
<人の究極的真実への真摯な求道>は結局、目的地からの招喚の声に他なりませんので、必然的に目的へと導くことが適うのです。

 しかし、このような他力の浄業を待たず、自らの計らいや理論だけで自己変革を図ると、当初は良いとしても長続きせず、結果として無理がたたり途中で力尽きてしまいます。根無し草は早く枯れ実を残さぬのと同じです。
 このことは凡夫であろうと菩薩であろうと、また仏であろうと同じで、<行者のはからひ>によって浄土を覚る者は一人も居ないのです。

願力成就の報土には 自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり
『高僧和讃』72

 ですから、信心を得た後には自力は他力の船の中で安住できますが、そうでなければ断絶があると言わざるを得ません。もちろん完全な断絶などあり得ませんが、心と言葉が裏腹になるのと似た状態で断絶ができてしまいます。

 なお、「義」とは<かどめが正しい>意であり、<長い経験によって、社会的によいと公認されているすじ道>であり<利欲に引かれず、すじ道をたてる心>を表しています(『漢字源』より)。これは一般的には理性的で折り目正しい行動を意味しますが、前述しましたようにこれでは根無し草であり、変節・崩壊・裏切りの危険があります。
 そこで、<もとよりしからしむる>という「自然」、それも世捨て人の好む「無為自然」ではなく、永年の社会的現実・歴史的現実に貫かれた「如来の願力自然」を人生の依りどころとするのです。しかもそれは、様々な理論や思想を詰め込んだ<行者のはからひ>ではなく、もっと深い血の通った真心、人間そのものから生え抜かれた智慧や<法の徳>を依りどころとするのです。これは努力で獲得するものではなく、努力の果てに、努力した側とは別の次元から湧き出る働きであり、背後から突き当たってくる岩盤のような力なのです。

 当時の学問の問題点

 さて、ここからは<ききならひて候ふ>とありますから、親鸞聖人が当時学んでいた学問がそのまま記されています。ここに多くの問題点がありますので、注意して見てみましょう。

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。

▼意訳
 阿弥陀仏のお誓いはもともと、人がはからいを離れて南無阿弥陀仏と、仏をたのみたてまつるとき、これを迎えいれようとおはからいになったのですから、人がみずからのはからいを捨てて、善いとも悪いともはかわらないことを自然というのである、と聞いています。
 如来のお誓いのかなめは念仏の人をこの上ない仏にさせようとお誓いになったことであります。この上ない仏といいますのは形もおありになりません。形もおありにならないから自然というのであります。形がおありになるように示すときには、如来のさとりをこの上ないものとはいいません。形もおありにならないわけを知らせようとして、とくに阿弥陀仏と申しあげる、と聞き習っています。阿弥陀仏というのは自然ということを知らせようとする手だてであります。

 まず善悪の問題から見てみましょう。
<行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申す>とあります。確かに、自分の都合や先入観や狭量性から離れずに善悪を判断すれば、一時的に周りの賛同を得たり自己満足に浸ることはできても、やがてこの判断が覆されたり、善悪によって道に迷う結果になりかねません。時代や地域的な限定のある善悪は、時として人間を踏みつけ、菩提心を妨げる要因にもなるのです。
 しかし実際の問題として、本当に善悪を捨ててしまっては道心を得ることなど適うはずはなく、自分の人生を創りだしてゆくこともできません。極端な話、殺人や戦争を煽るような圧力に対し「私は善悪を知らぬ」では、一体何のための仏法か、と疑問を持たざるを得ません。しかしこの問題点は、後に<義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし>と批判がありますので、最後に触れてみることにします。

 次に<無上仏と申すは、かたちもなくまします>とある問題点です。
念仏の行者を無上仏にさせよう≠ニいうことが如来の願いであることは確かなのですが、無上仏は本当に形がないのでしょうか
 確かに、表面に執われ体裁ばかり繕っている人に対しては、「大事なのは形ではない」との指導も為されるでしょう。また、「お陰様で」という挨拶があるように、見えないところにまで心が至ってこそ本質を領解できるのです。
 しかし、「形は大事ではない」と断定してしまうとまた問題が発生します。と言いますのも、無上仏の内容は、最後には形をとった「相」として現れなければ仏意は成就しないからです。
 たとえば『仏説無量寿経』序分2においては――

「われまさに世において無上尊となるべし」

と、聴衆の誕生において願われています。<無上尊>が<無上仏>であり、これが<世において>の願いの成就ですから、形の無い仏などあり得ません。みな形をとった個性ある人間であるはずです。
 さらにはっきり宣言されているのは、同経典の{具足諸相の願}です。

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、ことごとく三十二大人相を成満せずは、正覚を取らじ。
▼意訳 (現代語版より)
わたしが仏になるとき、わたしの国の天人や人々がすべて、仏の身にそなわる三十二種類のすぐれた特徴を欠けることなくそなえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。

とあります。
 有機的に建てられた四十八願の成就が如来の願いですから、<かたちもなくまします>と断定すれば総合的にはどこかで破綻してしまうでしょう。{ロン毛で茶髪の青年僧について}にも書きましたが、信心領解の内容は、最終的・総合的には姿形にまで至ることが道理であり、実際に本願は個性ある姿形を生み出しつつ働きが継続されているのです。そして浄土真宗の僧侶・門徒全てが光顔巍巍とした姿になってこそ「一宗の繁昌」した意味もあると言えるのです。
 残念ながらこの重大事が無視されたのは、聖人在世当時の学問の歪み、つまり現実社会や国家や個性の尊さを無視した程度の低い学問の影響なのでしょう。形ある有限のものなど捨て、形のない永遠の真理を求めよ≠ニ勧めた当時の学問の常識が、浄土経典を読む眼を狂わせ、仏意を領解し損ねているのです。
 実は、形あるものには二種の性格が宿っているのです。一つは無常性、一つは常住性です。無常性とは、たとえば<朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり>とも「諸行無常」とも言い習わされている仏教の基本で、これについては説明する必要はないでしょう。
 しかし重要なのはもうひとつ、常住性です。常住性とは、諸行無常を前提としながら、その無常なるものの道程・道行きに法則が見出されることを言います。形そのものは無常ですが、形に表れ出た法則は常住なのです。この法則こそ<仏願の生起本末>であり、これを学ぶことを「聞法」というのです。
 つまり、形ある有限のものの中にこそ形を超えた永遠・普遍の性質が宿っている。有限と無限は別々に存在しているのではありません。今ある有限の形は崩されつつも、生命の本質は法則に随って無限に新たな形を創造し続けてゆくのです。同様に、現実社会の中にこそ現実社会を超えた永遠普遍の真実が報いられていて、その本質が願いとなって日々刻々と働き出、実を結ぼうと辛苦しているのです。私たちはこの願いを聞き開いて現実に人生を展開する、これこそが真の宗教と言えるでしょう。

 最後は阿弥陀仏の本質についての問題です。
<弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり>とありますが、阿弥陀仏は料(手だて)なのでしょうか。私たちは手だてに手を合わすのでしょうか。ここは皆でじっくり思惟し話し合ってみるべきでしょう。
 人はあくまで依りどころとなる本体・本質に手を合わせたいと願っています。それなのに、阿弥陀仏に手を合わせたら「それは料だ」などと言われ、疑問を抱かないものでしょうか。「料」とは現代で言えば「パシリ」でしょう。人は使い走りには感謝はすれど、依りどころ(帰依)とはしません。しかも、この疑問を学者にぶつけてみれば、「お前たちのような凡夫が直接本体・本質に手が合わせられるものか!」などと馬鹿者扱いされる場合さえあります。まるで愚民政策の片棒を担ぐありさまは、当時の封建社会と変っていません。そろそろこの箇所の間違いは「間違いである」と訂正しなければならないのではないでしょうか。
 確かに、法身である真如には直接手が合わせられません。しかし、報身の阿弥陀仏には直接手が合わさります。しかも、真実報身こそが重大であり尊いのです。無上仏も報身でなくてはならんでしょう。

 真実は{法身と報身の違い}にも書きましたが、阿弥陀仏こそ本体なのです。料(手だて)などでは決してありません。阿弥陀仏は人間本来の歴史が報いた「創造的根本主体」です。仏法で言う「願力自然」は「天然自然」とは違います。そして今居る人間は全て、阿弥陀仏なくしては存在さえしていない、ということにも気づかねばなりません。しかも死といえど人間は天然の範疇にはありません。生も死も私たちは阿弥陀仏の手の内であり、同時に阿弥陀仏は今現に活動している「創造的前衛主体」である自分の身に満ち、一体となって新たな道程を創造しつつあるのです。阿弥陀仏は、自分自身の血のように、余りにも身近であるため逆に意識されにくいのですが、長い歴史を通って出現した今の人間にとっては本仏は全て阿弥陀仏なのです。それが真実報身の意味するところです。

 決断の連続こそが人生

 以上のように批判しました現実社会をないがしろにした学問≠ナすが、親鸞聖人も、学んだところを披露しつつ、身体中から疑問が沸々と湧いてみえたのではないでしょうか。それが最後の箇所に発揮されています。

この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
▼意訳
 この道理がわかれば、この自然のことを常にとやかくいう必要はありません。いつも自然ということをとやかくいうならば、義の捨てられていることが義であるということさえが、なおはからいとなるでしょう。これは如来の智慧が人の智慧のとどかないものであることを示すものです。

 これこそ親鸞聖人の身体を通って出た智慧の言葉でしょう。はからいを捨てる≠アとばかり繰り返し気にしていれば、はからい捨てることそのものが計らいとなってしまいます。これは自他の人生経験で解かることでしょう。またこれは現代人の抱える大きな矛盾でもあります。計らいを捨てただけの人生に待っているのは、単なる世捨て人の自己満足に過ぎません。実際このように、自分の人生を放棄し社会性を放棄した者の何と多いことか。それは結果として、生きる意味を失い、生きる地盤を失うことであり、現象としては精神的漂流者の激増となって現れています。何と痛ましいことでしょう。先祖代々大切にしてきた文化・文明をないがしろにし、失ってなお何が大切であったのか解らぬような根無し草が現代人の有様です。

たとえば臭泥の中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥を取ることなかれ。
(鳩摩羅什)

 目前にある物事、気持ち、考え方の中で、捨ててよいものと大切にすべき宝が皆さんには見分けがつきますか? 「平等」とばかり聞き、平等に執われてしまう人が宗教者には案外多いので気になります。
 はっきり言いますが、全てが平等≠ニ見て満足していては単なる玉石混交に過ぎず、これは結局宝を失う行為です。臭泥と蓮華の関係をきちんと見計らい、取捨選択をしなければ、せっかくの宝がゴミ同然に捨てられてしまいます。人間は、目前に訪れる問題に次々と決断を下していかねばなりません。決断の連続こそが人生と言えるでしょう。ここに自らの確固たる意思がなければ、それは自分の人生とは言えません。何が惨めといって、自分の人生を歩めない事ほど悲惨な話があるでしょうか。
 ただ、この確固たる意志をもった決断≠ェ、表層の理論や感情に執われることを「行者のはからひ」と批判しているのです。実際、近代になって人類を襲った悲劇の大半は、特定の思想に執われたかたくなな行動と、卑下と高慢がい交ぜとなった感情の狂乱によって起こっています。いわば理性と感情の暴走が問題で、これを防ぐためにも人間生活の本質の深きより沸き上がってきたものを尊び、永遠の生命の重みをもった一人ひとりの人生を実際に成就し続けることが大切なのです。

 ですから私たちは、「天然自然」などという甘言に騙されず、「本来ある」ものを「実際に成る」よう願い、努力し続けなければなりません。ただ「努力」といっても、<願いの中に成就あり>と言われるように、普遍的に宿る本性が願いとなって身に直結し、いつの間にか生活に湧き上がってくるものなのです。これを回向とも他力とも言います。

 もう少し譬えを言えば、<もともと特別なOnly one>と歌う歌があるでしょう。一人一人違う種を持っているのだから<NO.1にならなくてもいい>と歌うのです。しかし、本当にOnly oneに成るためには何をすればいいのか。これが解らないから人間は悩むんです。歌では<その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい>だけですが、これでは何をどう一生懸命になればいいのか解らない。<もともと特別なOnly one>が「現実のOnly one」となるためには、<もともと>に込められている本性が、願いとなって私の根源より叫び続けている、その声を聞かねばなりません。この生活の場にまで押し寄せてきた根源より一環して貫き続けている響き≠背中で感じるのです。

 そうすると、たとえば朝起きて青空を見る。すると、ああ、生きとし生けるもの皆、あの空を見上げ、「今日も清々しく精一杯働くぞ」と叫んだに違いない=Bこうした思いが湧き上がってきます。これは取りも直さず、先人たちの求め続けた清々しさが、自分の中に宿っていることに他なりません。そしてこの事実に気づいたことが重大事となり自分が変革されてくるのです。
 また、雨に打たれれば、雨を喜ぶ農家の顔が浮ぶ。道を歩けば道を整えてくれた先祖を想う。灯りを点ければ灯りに込められた先人たちの想いや、不便な中で励まれた人々のご苦労が私を後押しして下さる。さらに、自分の身体一つひとつの存在や働きにさえ当たり前の事柄は一つも無い≠ニ気づかされます。そうなれば、目につくもの聞くもの全て、災厄でさえも私を育む糧となります。全ては外ではなく、自分の内に宿っているのです。自らの中に世界全体が収まっていて、その収まっている全体が私を突き動かすのです。

 これを仏教の言葉を用いてあらわせば――
「天上天下唯我独尊」や「一切衆生悉有仏性」は生命普遍の本来性なのですが、本来性が現実に実現できないから人間は悩むのです。そこで、本来性が本当に実現されるためには「われまさに世において無上尊となるべし」(『仏説無量寿経』2)との願いが起きなければなりません。本来そう「ある」という性質が、現実に「成る」という実を結ぶ。この結果としての道理は腹に入れておいて、本当に心がけねばならないことは、「ある」から「成る」過程において成ろうと願う心の具体的な展開(菩提心の展開)に目を向けることです。すると、この本来の展開を妨げるものの正体が見えてくる。自分を裏切るものが自分の内に潜んでいるのです。ここに「無慚無愧」の我が懺悔されてくるのです。
 ですから聖人は<この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり>と仰る。結果的なことや道理にばかりに執われるな、現実に願いを起こし、決断して生きよ、と仰るのです。

 さらに拡大して言えば、人類が求め続け育み続けた妙味溢れる文化・文明を、現代人は先の「理性と感情の暴走」で悉く破壊しようとしている、これが現代の悲劇なのです。狭量な感情により人々は深く思惟する時間を無くし、底の浅い理論に流れ、短絡的に物事を納得しようとしています。これによって生み出されるのは、無秩序で非情な競争社会です。これを仏教では娑婆世界と言うのですが、この界では、正直で清浄なるもの、心優しきもの、尊いものは真っ先に抹殺され、その反対の性質のもの、特に狡猾な者が力を得てしまうのです。
 このように自由の美名のもとで大切な宝が次々と捨てられてゆく有様は、「むしろ宝が見えない方がよかった」とまで思わせるほどですが、それでも人に心ある限り、どのような過酷な環境の中でも、大切な宝も次々と生み出されていきます。これが生命の逞しさ、仏性の逞しさでありましょう。

 人類は早くこの有様に気づき、一人ひとりが人間本来の願いを願いとし、互いに努力しながら、結果として差ができた時も、強者が驕らず、弱者が卑屈になる必要のない社会を創造していかねばならないでしょう。なぜなら、社会とは人類全体の血であり肉であるからです。そしてこの実行は、取りも直さず、深い願いに突き動かされた一人ひとりの確固たる意志をもった決断の連続に依る他はないのです。

人はよく法を弘む、法は人によって弘まる。
聖徳太子 著『勝鬘経義疏』巻一 より

 聖典等資料

※資料1

親鸞八十八歳御筆

 「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。
 「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
 ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。

『正像末和讃』自然法爾章 より


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)