平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

ロン毛で茶髪の青年僧について

― 仏法の体現者としての姿勢が問われている ―

質問:

先日仕事で真宗・他宗派の僧侶の方達と会食することがあったのですが、他宗の方達は食前に数珠袈裟を取っていたのですが、真宗の方はそれらを取らずに飲酒して、酔っ払ってました。いくら真宗義なるものが戒律がないといっても、モラル・清浄である袈裟は取るべきではないでしょうか?
最近の真宗僧侶の方達の行動は目に余るものがあります。お盆参りでも、20そこそこくらいのロン毛で茶髪の小汚い青年僧が参ってきます。それはあんまりだからやめて欲しいと言っても、真宗は自由なのでいいんです、としか答えてくれません。真宗義で説くところの僧侶とは愚者を体現する反面教師なのですか?

返答

 まさに仰る通り。憤懣やるかたないお気持ちはよく分ります。私も同じようにいつも憤慨しております。こうした問題については、私どもは強制する立場にはありませんが、経験上、苦言を呈さなくてはならないでしょう。
 ですから、頂いたご質問は、私が常々懸念している内容を発表する良い機会と受け止め、感謝させていただきます。

 信心の社会性の問題

 個々の問題に答える前に、全体の問題を問わなければならないでしょう。それは「信心の社会性」の問題です。
 現代の教学の問題点の一つに、「浄土真宗の信心には社会性がないのではないか」という懸念があります。これは正依の経典(『仏説無量寿経』はじめ浄土三部経)に問題があるのではなく、法の解釈・教学に問題があるのです。またその実践にも問題があります。

 如来の本願は常に一切衆生・社会との関係を問題とし、第一願から「国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」とあるように、国土の悪道打破の問題と自分の正覚を同時に願ってみえます。また第十六願には「不善の名」さえ無い、つまり「周囲の人が喜んで順うてくれる」ということが信の証しとして願われています。
 常々こうした仏願を読み、「真実の経は大無量寿経」と知らされていながら、いざ信心の問題となると、他人や社会との関係をどう結んでいくのかが明確に述べられないことが不思議で仕方ありません。

 大経に説かれる信心は、自分だけの問題で済まされるものではなく、常に人間関係の中で立場や責任を持ちながら、その場が菩薩の座に転じて開かれるものです。機と法は常に一体です。「それはあんまりだからやめて欲しい」と言われたら、言い訳するのではなく、その声のまごころを拝むところに信心があるのです。聖典から学ぶだけが仏道ではありません。人から学び、社会から学ぶ、ということが大乗仏教の精神であるはずです。「自分以外は全て先生」なのですから。

 荘厳や装束は信心の内容を形にしたものです。形に表れた仏の功徳に学びつつ人生を輝かせ、世に法が展開するのです。袈裟をつけたまま酔っ払ったり、ロン毛・茶髪にすることによって、仏縁の薄かった人に正しく法が弘まる機会を得る、ということであれば一時的には良いかも知れません。しかし、世間から「愚者を体現する反面教師」としてしか受けとられないようであれば、よくよく考えてみるべきでしょう。
 これは、世の価値観に迎合するということではなく、仏教は衆生の生きる場に試されつつ展開する、ということを問題にするのです。つまり、互いに尊敬しあう関係になっていくことが大切なのです。

 ただ、食前に数珠(念珠)や袈裟を取るという作法はなく、むしろ「取らない方が良い」という勧めもあります。

これによりて袈裟はこれ三世の諸仏〔の〕解脱幢相の霊服なり、これを着用しながらかれを食せば、袈裟の徳用をもつて済生利物の願念をやはたすと存じて、これを着しながらかれを食するものなり。

『口伝鈔』8より

 つまり、「肉食妻帯を認めたからこそ感謝の心を持って敢えて外さない、食事それ自体が“飯食”という行である」と習いますので、その僧侶は袈裟を外さなかったのかも知れません。
 しかし、こうした伝鈔があるからといって、言葉に寄りかかるのではなく、最後は自らの判断において行動すべきでしょう。一般的には、袈裟が汚れるので食事の際は取る場合が多く、飲酒の席ではやはり取って飲む方が良いでしょう。

 なお浄土真宗のみならず、他宗旨においても、正式には食事の時に袈裟を外す作法はありません({食前・食後の言葉について}参照)。例えば、とある臨済宗の僧侶に聞きましたら――
「修行中は食事も修行ですから袈裟を外すことはありません。また、食する種類によって袈裟を外さなければならない、という作法はありません。ただ、修行を終えた後の一般の会食では、袈裟が汚れますから大抵外します。しかしこれは、作法として外しているのではありません」と教えていただきました。

 在家仏教は大人の宗教

「真宗は自由なのでいいんです、としか答えてくれません」という箇所については、浄土真宗に戒律がないことを言うのでしょうが、本人の自由と考えるのは全くのお門違いです。

 浄土真宗に戒律の条文がないのは、「戒律を守ることができない愚者の宗教だから」という認識が一般的です。しかしこれは、当てはまる人や時代もあるでしょうが、大経の本質ではありません。
 浄土真宗の法は世俗の場においてはたらきます。出家者は世俗を捨てて修行しますが、在家者は社会の動向の中にありながら、そこに法の実践者として生きるのです。ここに絶対に破ることのできない戒律を定めれば、人間として生きる現場を無視することになり、在家生活に支障をきたします。国を豊かにし、民衆を平穏に導き、世界に平和をもたらそうとする在家仏教にとっては、変更不可能な戒律は有害となる場合が多々あるのです。

 つまり、条文化された戒律というのは、本質的には出家という特殊な環境において必要とされるものなのです。例えば波羅提木叉(パーリ戒経)を読めば、衣食住にわたる細々とした戒律であることがわかるでしょう。歩き方や食べ方まで強制しなければならないのは、言わば「特殊な宗教」だからです。
 その点、在家仏教は大人の宗教です。家庭において人間としてのしつけが行われ、一人前の社会人と成った、もしくは成ろうとしている人に向かって説かれた教えなのです。ですから、あらためて戒律を設ける必要はないのです。しかしそれは、家庭や職場が教育の場として機能することを信用しているからで、いわば同朋として敬っているのです。在家仏教者は、文字化された戒律ではなく、如来よりたまわる信を受け入れ、如来のまごころに随って生きてゆくことが戒律となるのです。つまり、文字になっていない戒律がちゃんとあるのです。

 これは法蔵菩薩の行として経典に顕わされていますが、誰もこれを自分の課題として読まないことが問題なのです。念仏の行者は、文字になっていない戒律を背に持って生きているのです。さらにいえば、信心の内容の中に六波羅蜜も全て含まれているのです。六波羅蜜を自力と断定して否定してしまえば、その信心には阿弥陀如来の誓願は含まれないことになってしまいます。

 僧侶であれば、社会の良識をわきまえた上で、目の前の場において仏法がスムーズに展開するよう勤める責任があります。「ロン毛で茶髪」が世間一般の風俗になったり、世代を超えてそうした姿の僧侶が支持される時代になれば問題はありませんが、不必要にご門徒さんに不快な思いをさせるのであれば、変更した方が良いでしょう。

 結論的に言いますと、「本願のはたらきが社会生活の場に無碍の活動を展開するところから姿形が決定される」ということが浄土真宗の装束であり荘厳の基本なのです。

 姿形が大切

 大乗仏教、特に浄土経典の勝れている点の一つに、姿形の大切さを明らかにしたことが挙げられます。例えば『仏説無量寿経』には、阿難が釈尊を称える部分で――

そのときに世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍巍とまします。尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなはち座より起ちて、ひとへに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して、仏にまうしてまうさく、「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍巍とましますこと、明浄なる鏡の影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。・・・」

『仏説無量寿経』 巻上 序分 発起序 出世本懐 【三】より

意訳▼(現代語版 より)
そのとき釈尊は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられた。そこで阿難は釈尊のお心を受けて座から立ち、衣の右肩を脱いで地にひざまずき、うやうやしく合掌して釈尊にお尋ねした。
「世尊、今日は喜びに満ちあふれ、お姿も清らかで、そして輝かしいお顔がひときわ気高く見受けられます。まるでくもりのない鏡に映る姿が透きとおっているかのようでございます。 そして、その神々しいお姿がこの上なく超えすぐれて輝いておいでになります。 わたしは今日までこのような尊いお姿を見たてまつったことがございません。・・・」

とあり、姿色や顔がたたえられています。
 また同経典の「讃仏偈」には、法蔵菩薩が世自在王仏をたたえる最初に――

光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明、ともに等しきものなし。
日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし。
如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈 【五】より

意訳▼(現代語版 より)
世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、
太陽や月の光も宝玉の輝きも、
その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、
さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。

と、やはり姿形から仏をほめてみえるのです。これが仏の功徳の総体なのです。
 さらに、{悉皆金色の願}では念仏者にまごころの輝きを願い、{無有好醜の願}では個性の輝きを願っています。そして信心の功徳として、{具足諸相の願}では三十二大人相の成満を願われ、{国土清浄の願}では自らの世界が数限りない尊い世界を映し出す鏡のようであることを願われ、これら全てが念仏者の姿として成就しているのです。願というのは、枯葉を燃やす木箸のように、実際には成就していなくても、願う中に成就があるのです。

 出家者は、世俗の生活を捨てていますので、どのようなボロをまとっても、世間からの評判が悪くてもかまいませんが、在家の仏教者は、姿形がまず問われるのです。本人の信心領解が本物であるかどうかは、最終的には姿形によって明らかになるのです。
 ただし、ここで言う姿形は、目鼻立ちが整っているかどうかではありません。信心の輝きが自然に姿形をとって生活に現われていることを言うのです。顔の造作がどうあれ、背格好がどうあれ、真の仏教者は、生れ持った容姿を下地に内面から輝きを見せるのです。
 そうなっていけば、僧侶は「愚者を体現する反面教師」ではなく、仏法を体現する教師となることができるでしょう。そして浄土真宗の僧侶・門徒全てが光顔巍巍とした姿になってこそ「一宗の繁昌」した意味もあると言えるのです。

 また、姿形に現われた輝きが他の人を仏門に導く面もあります。私自身、浄土真宗を誤解して魅力を感じていない時代もありましたが、本山にお参りした際、長年聞法に励んでみえたらしき老人の顔が余りにも素晴らしく、驚き、それ以来熱心に法を聞くようになりました。

 ただしこれは、信心の功徳が行者の身に満ちて成就することですから、「20そこそこくらい」では、まだ形に現われていないのかも知れません。信心領解は一瞬にして開けることもありますが、こうした体解・功徳成就には時間がかかります。

 ですから、今の段階では、心の中の領解は見た目だけでは分かりません。一度その青年僧の信心領解の内容を尋ね、法を聞き開き、ともども一人前の念仏者に育っていかれて下さい。


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