平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

名号のはたらきと勅命

― 如来に見出された聞法精神 ―

質問:

>仏の名さえ知らない者にもそのはたらきは及んでいる
というくだりがあるのですが、

阿弥陀仏のそのはたらきはいつから及んでいるのですか?
10劫前から阿弥陀仏の名前さえ知らない人にも、阿弥陀仏を感じてない人にも、全人類に名号は届いているということですか?

それと、勅命に関してなのですが、勅命というかたちで救済するのに、命令型宗教にはならないのですか?
「阿弥陀仏に南無しろ」と命令されて「はい」ではだめなのですか?

わたしはあまりむずかしいことはわからないので、簡単に教えていただけるとありがたいです。

返答

「わたしはあまりむずかしいことはわからない」、とのことですが、質問自体は結構難しく、「勅命」についてもご存知ですから、かなり勉強されてみえる方だとは思いますが、なるべく簡潔にお応えさせていただこうと思います。

 全人類に名号は届いている?

 最初のご質問は、{死んで浄土へ往生できる人とできない人}に書きました――

 しかしそうした流転の中からも、南無阿弥陀仏の名号は十方世界に超え渡り、苦悩の衆生を救済せずにはおれない、という誓願を保ち続けています。雑多な縁の中に仏縁を結ばせ、迷いの生に目覚めの機会を与えるのが如来のはたらきです。自力の信にとらわれた者にも、信の無い念仏を称える者にも、まだ仏の名さえ知らない者にもそのはたらきは及んでいます。
についてですね。

 まず先にお断りしておきますが、流転の問題も往生の問題も、「生きる」という問題においてであり、「今・ここで・私が」という三点を外して答えは無い、ということだけは基本として腹に入れておいて下さい。

 問いとして――

〉 10劫前から阿弥陀仏の名前さえ知らない人にも、阿弥陀仏を感じてない人にも、全人類に名号は届いているということですか?

とありますが、一応は「その通りです」とお答えさせていただきます。ただし厳密にいいますと、<阿弥陀仏を感じてない人にも>という箇所は<阿弥陀仏を自覚していない人にも>という意味であり、実際には阿弥陀仏を感じてない人などなく、感じ方の深浅と教学理解に違いがあるのです。
 これは実際に言葉が届いているのではなく、『涅槃経』でいう「一切衆生悉有仏性」のことで、衆生はまだ仏性に目覚めていなくても、阿弥陀仏の側が衆生の仏性の種である聞法精神を見出した({声聞無量の願} 参照)ということであり、衆生に宿って芽を出そうとしている「至心」を見出した、生きとし生けるもの全ての存在の底に眠る尊い宝を見出した、ということです。どんな凶悪な行動をとる人間にも、心の奥底には自身の行動を見つめ歎き悲しむ性があるのでしょう。また誰の心にも「真実を知りたい」と願う心が存在するので、嘘で誤魔化して利益を得ても、心の底からは喜べないのです。これが道を尋ねる種となります。

弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはんひとはみな
広大会を帰命せよ

『浄土和讃』16 讃弥陀偈讃

 こうして如来に見出された至心・聞法精神は、持ち主の衆生に知らしめなければなりませんが、これを「回向」といい、{至心信楽の願} に述べられています。
 このように、如来の先手で見出されたが故に本願力は他力であるというのです。

 なお、阿弥陀仏(無量寿仏)とは何かについては{寿命無量の願} を、名号とは何かについては{諸仏称名の願} を参照して下さい。
 簡単に説明しますと、「阿弥陀仏」は、真実そのものが歴史となって限りない求道精神(智慧と功徳)を具体化する創造主体であり、この阿弥陀仏と私が血の通った関係であることを覚らせて頂くのが「南無」で、これを「南無阿弥陀仏」といいます。私という存在の頭の先から爪先まで全てが「限りないいのち」そのものを宿す尊い存在である、と覚った時、人類の奥底に宿されていた尊いいのちが「南無阿弥陀仏」と現われ出てきたのです。 ({「いのち」を「命」と表記しない理由} 参照)
 この「名号」は、阿弥陀仏が真の阿弥陀仏となるための「なのり」であり「さけび」で、名は名詞であり号は動詞。名前がそのままはたらきを含んでいることを表します。(「雨」が名詞でありながら動的な状態をいうのと同じ)
 そして、「阿弥陀仏」とか「無量寿仏」という尊い名を名のるからには、名に恥じない活動をし、建てた願いを現実に成就し続けなければなりません。名は単なる名称にとどまらず、重大な願いと無数の責任を宿している(これを「深総持」とか「陀羅尼」といいます)ので、阿弥陀仏の側から言えば常に菩提心の発露(求道活動・創造活動し続けること)を誓うのであり、私の側からすれば、時々であっても恒に阿弥陀仏の智慧と功徳を名号を通して褒め称える(念仏)ことで、生活全体が如来回向の名号にかなった念仏そのものになってゆくのです。 {※資料1▼ 参照}

 このように、<10劫前から阿弥陀仏の名前さえ知らない人にも、阿弥陀仏を感じてない(自覚できていない)人にも、全人類に名号は届いている>のですが、この「名号」(名とはたらき)を知らしめて「称名念仏」となるには、『仏説無量寿経』が編纂され、教えが人々の元に届くまで待たなければなりません。
 逆に言えば、経典が編纂され論釋が整うことにより、名号のはたらきと功徳が完全に明らかになったのですが、明らかになるはるか昔から、それに相当する智慧と功徳の活動内容はあったのです。

 勅命とは何か

〉 勅命というかたちで救済するのに、命令型宗教にはならないのですか?
〉 「阿弥陀仏に南無しろ」と命令されて「はい」ではだめなのですか?

 もしも、私の外側の超越的な存在に命令されて「はい」ということなら、これはもう洗脳であり、明かに仏教ではありません。「自灯明・法灯明」は、仏教の原則である以上に、人間としての尊厳を貫く鉄則なのです。命令は、行動においては便宜的に用いることもありますが、「南無」という生きる依りどころまで他者の命令に従わせるのは、奴隷根性を是認するようなものでしょう。こうした奴隷根性を仏教では畜生と呼び、三悪道に加え、解決すべき社会悪の一つとしています。

 では「勅命」とは何か―― このご質問に簡単にお応えするのは容易ではありません。「三一問答」を明かにしてこそお応えできる問題なのですが、これこそ宗教的天才である親鸞聖人が全精力を傾けて解かれた難題で、聖人の出世本懐の解答とも言うべき歴史的問答なのです。私自身この箇所はある程度理解できた部分と未解読の箇所がありますので、領解の範囲でお応えさせていただきます。

 まず「勅命」に関する聖人の記述では、「帰命は本願招喚の勅命なり」(『顕浄土真実教行証文類 行文類二 大行釈 六字釈 34/{※資料2▼ 参照}) と、「欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり」(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 三一問答 法義釈 欲生釈 39/{本願の三心} の「欲生」参照)の二箇所が重要なのですが、後者の「至心」「信楽」「欲生」のつながりを明らかにする中でお応えさせていただきます。

 前章でも述べました「至心」はいわば「聞法精神」でありますが、これは「真実誠種の心」であり、仏性の種(引出仏性)です。つまり、尊い存在としての可能性が阿弥陀如来に見出された「なのり・さけび」・「名号」が「至心の体」(至心の本質)なのです。
 この「至心」が衆生にふり向けられ(回向)、「信楽」に脱皮します。信楽の本質が至心であることを、聖人は「利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり」と述べられました。信楽は「菩提心」であり、仏のいのち(寿)でありますが、聖人は「真実誠満の心」と釋されました。この「信楽」も衆生にふり向けられる(回向)のですが、至心が仏性の「種」であったのに比べ、信楽は仏性の「満」であり仏性の華(了因仏性)で、「信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」と、真実信心は信楽に収まる意を述べられます。
 これは『高僧和讃』(結讃118)に「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」と述べられている通り、回向された信楽は、我が身に満ちている如来の無量の功徳を覚ることができますので、これが私の領解となり、正定聚・不退転の菩薩と成らせていただく要となります。

 しかし信心が開けて領解が済んだらそれで終わりではありません。無量の功徳は自覚に留まっていては宝の持ち腐れで、蔵の扉を開いて宝を使い切らなくてはなりません。『華厳経』賢首品に「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す・・・」とあり、親鸞聖人もこれを引用されてみえるように、信心獲得はあくまでスタート地点であります。しかし真実信心こそがさとりのもとであり、功徳を生む母であり、すべての善を養い育て、驕り高ぶりの心を除き、敬いの心をおこさせます。

 この信心が清浄の手となってあらゆる行を受けるのですが、これを「欲生」といいます。つまり「欲生」の本質は「信楽」でありますが、「欲生」は、至心や信楽を経た心によって、新たな人間関係や社会環境を創造することが課題となってきます。このことを親鸞聖人は、「すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり」と仰ってみえます。智慧の問題からいよいよ功徳の問題になってくるのです。智慧は見えることであり覚ることですが、功徳は信楽(如来回向の菩提心・浄土の菩提心)が現実の行動を通して展開され身についてくるものであり、これらの智慧と功徳が成就してこそ成仏が適うわけです。そこで「欲生」が「生因仏性」であると言われるのでしょう。「生」とは「成る」ということです。

 このように「欲生」は、真実信心を母胎とした行が社会に展開されるとともに、それが浄土に根の生えた自己実現となり、自分の世界を清浄・荘厳ならしめて実現することをいいます。島田幸昭師はこれを「蓮台が人を育てる」とか「場所的自覚」と明かされますが、決して外側から強制された救済ではありませんし、命令型宗教になるべきではないでしょう。浄土のはたらきによって、今ある場所や名や人間関係・家庭的責任・社会的責任が私を育てる蓮台となる、と成仏への道程が明らかになるのです。
 家庭や社会は無常なる夢・幻のごとき存在とはいえ、そこに夢・幻ではない国を建設する、『往覲偈』に――「一切の法は、なほ夢・幻・響きのごとしと覚了すれども/もろもろの妙なる願を満足して、かならずかくのごときの刹を成ぜん」とある通りです。阿弥陀仏の師が「世自在王仏」であり、「世(時代)において自ずから在る(尊き)王」と名のられてみえる通り、理想仏・理想教師は、現実のこの場この時を離れては存在しないことを象徴的に表しているのでしょう。師からの学びが、どれほど遠くへ行く力となるかは、あらゆる道で経験することでしょう。

 以上をまとめてみますと、仏が仏に成る道ゆきが名号のはたらきであり、これが「至心・信楽・欲生」と衆生に回向され、本来の仏が現実に仏に成るということを顕わしています。本来の仏が可能性としての仏(仏性)を聞法精神として見出し、種(至心)が華と開き身に満ち(信楽)、人間関係や社会環境の中で実となり仏と成る(欲生)のです。

 このように、「救済」ということも、真実の道理が因縁果を通ってもたらされるのであり、内容を問わずに手放しでありがたがる態度は真の宗教者の姿勢とは言えません。また、救済が救済で終わっては「お育て」がありませんので、信心が信仰に堕して固まり、朽ちて法執となり、悪臭を放つ結果になってしまいます。あくまで自覚と成り、社会に新たな足跡を残し、信頼を得つつも成果に執着しない、という証しを受け継ぐことが大切なのです。

 また「欲生」が「利他」とか「大悲」・「勅命」と聞くと、他人に信心を得させようと使命感を帯びて活動することになり勝ちですが、欲生は諸仏供養({供養諸仏の願} 参照)につながるものであり、自らと自らの国を成就する道程として、あらためて相手を敬い社会を尊び学ぶことが出発点となってきます。

 聖典等資料

※資料1

仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。

『唯信鈔文意』4 より

意訳▼(現代語版 より)
仏性はすなはち如来である。
 この如来は、数限りない世界のすみずみまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり、仏性はすなわち法性であり、法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵比丘と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされたのである。
このようにしてあらわれてくださったおすがたのことを、世親菩薩は「尽十方無碍光如来」とお名づけになったのである。この如来を報身といい、誓願という因に報い如来となられたのであるから、報身如来と申しあげるのである。「報」というのは、因が結果としてあらわれるということである。

※資料2

 しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説なり、説の字は、悦の音なり。また帰説なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 六字釈 34 より

意訳▼(現代語版 より)
 そこで、「南無」という言葉は帰命ということである。「帰」の字は至るという意味である。また、帰説という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。この場合、説の字は悦と読む。また、帰説という熟語の意味で「よりかかる」ということである。この場合、説の字は税と読む。説の字は、悦と税との二つの読み方があるが、説といえば、告げる、述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思召しを述べられるという意味である。「命」の字は、阿弥陀仏のはたらきという意味であり、阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、阿弥陀仏が私を使うという意味であり、阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、本願のはたらきの大いなる道という意味であり、阿弥陀仏の救いのまこと、または阿弥陀仏がわたしに知らせてくださるという信の意味であり、阿弥陀仏のお計らいという意味であり、阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。このようなわけで、「帰命」とは、わたしを招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである。



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