平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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【仏教QandA】

後生の一大事について

― 真実信心に導く因 ―

質問:

後生の一大事について

現在の本願寺では、蓮如上人の言われた後生の一大事ということをほとんど言われなくなってしまっていると思うのですが、後生の一大事を心にかけることが大切ではないでしょうか。

返答

 後生の問題につきましては多くの方々から質問を受けるのですが、この問題は本来個人個人の境涯に即してお応えする事柄でありますから、掲載して返答をすることは避けておりました。しかし掲示板に質問が書き込まれたことも大切なご縁ですから、今まで個人宛てに返信しておりました様々な内容を取捨選択し、総括する形で以下お応えさせていただきます。

 「後生の一大事」は入門の縁

「後生の一大事を心にかける」ということは、仏法を全く知らない人や、興味はあっても仏法を自分の問題として味わったことの無い人にとっては確かに大切なことです。
 人としての寿命は限りがあり、私たちは明日にも知れぬいのちをかかえています。この世の義理を果たしつつ悠々と毎日を楽しむつもりでいたのに、突然病に倒れ絶望の淵に落とされることもあります。さらには、後の世の人びとに憎悪・瞋恚を残して亡くなる場合もあります。
 死を忘れた人生は浮草のように漂うばかりで、そうした浮いた価値観は我が身に死の迫ることを知れば脆くも崩れてしまいます。「諸行無常」の道理を他人事のように思えば、我執・欲望に閉じた人生になりがちで、これでは生命はただ空しく朽ちてゆくだけです。死によっても絶望しない道、生死を超える道を早くから求めることが人生の成就には必須となります。

 生死を超える道は、大きく分けて二つの方向から探ることができます。
 一つは、死の問題と真向かいになって、その虚無感を解決することによって生の問題を解決する方向です。「死ぬ気になって働けば何でもできる」とか「死の問題が解決すればもう何も怖くない。生きる一刻一刻は感謝の日々になる」というような境涯を得ることです。こうした境涯の真価が問われるのは臨終においてであり、死にざまによってその真偽が問われます。
 もう一つは、生の問題を解決することによって死の問題も同時に解決する方向です。充実した一日一日を生き切り完全燃焼することが即ち臨終においては死に切ることである、という境涯を得ることです。こうした境涯の真価が問われるのは平生・日常であり、死に際の様子に関わらず人生の成就は決定しています。

 結論から先に申しますと、真に偉大な宗教者は前者ではなく後者の境地を得てみえます。なぜなら、死の問題を解決しても生の問題は解決しないからです。生の問題は複雑で一朝一夕には解決しない問題ばかりでしょう。嫉妬・虐待・名誉・性欲・激情・暴力・倦怠などの身の回りの問題や、支配・権力・戦争・平和・教育などの社会的な問題は、死の問題が解決しても何も解決しません。こうした難しい生の現実問題を解決していこうとする姿勢を保ち続けるところに、限りなく奥深い心に触れる機会があり、結果として死の問題もおのずと解決がつくのです。

 たとえば『大パリニッバーナ経』には、釈尊最後の直弟子スバッタに以下のような教説を授けたと記されています。

スバッダよ。わたくしは二十九才で、何かしら善を求めて出家した。
スバッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には『道の人』なるものも存在しない。

{ブッダ最後の旅5#スバッダの帰依} 参照

「正理と法の領域のみを歩んで来た」と語られる 釈尊の人生は充実した日々の連続であり、生の問題を解決された豊かな境地は臨終においても微動だにせず、残り少ない時間を弟子の導きに当てられます。
 曇鸞大師は『往生論註』(巻下126)において、「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至りて、もろもろの回伏の難なし」と仰られてみえますが、「正定聚に住するがゆゑに」ということが肝心かなめの原因であり、結果として「必ず滅度に至る」、つまり死に切ることができるのです。「必ず滅度に至る」ことが原因で「正定聚に住する」結果をうむということでは(本来は)ありません。

 こうした視点をもって、まずは蓮如上人の『御文章』を味わってみましょう。

 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

『御文章』 二帖 7 易往無人章 より

意訳▼(蓮如の手紙/国書刊行会 より)
 静かに思いめぐらしてみれば、そもそもこの人間界に生を享けたのは、まことに、在俗の仏教徒の持すべき五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を守ったはたらきによるものです。これはもう、たいへんに希有なことだといわなければなりません。
 ただしかし、人間界の生というものは、辛うじてしばしの間だけ水に浮かんでいる泡のようなものにすぎません。それに対して、後の世に浄土へ生れることは、永遠の命を得る、まことの楽の果報です。
 たとえまた、富と地位に誇り、誰もがうらやむばかりに栄えることがあっても、「盛者必衰 会者定離」(勢いの盛んな者はかならず衰え、出会った者はかならず別れる)」と決まっているこの世のなかですから、長くそんなままでいることはできません。ただ五十年、百年の間のことです。
 しかも、誰もがいつ死ぬやら知れぬ命であると聞けば、まことにたよりなく心細いものです。ですから、今の世の人びとは他力の信心をいただいて、浄土への往生をとげよう――と思うべきです。

 私たちは日常生活に追われているうち、ついつい永遠に生きていくつもりになってしまいます。「諸行無常」は理屈では知っていてもすべて他人事に思っています。しかし老少不定(誰もがいつ死ぬやら知れぬ命である)を我が身において受け入れれば、「ただ五十年・百年」の享楽は、泡のようにはかなく、栄耀栄華も空しく思われます。
 これと比較して「他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり」とのお勧めがあります。はかない夢を追うのではなく、浄土に生まれる願いを勧め、「後生は永生の楽果なり」(後の世に浄土へ生れることは、永遠の命を得る、まことの楽の果報です)と、夢まぼろしの浮世の享楽と対比してみえます。
 すると私たちは、「浄土に生まれる」ということの詳細を求めることになります。詳細を求めるとは「仏願の生起本末を聞く」ことですから、ここにおいて生の問題を解決する要[かなめ] が得られるのです。これこそは如来の側からの「はからい」であり、本願自然のはたらきなのです。
 また、存覚上人は――

稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。

『持名鈔』 末【9】 より

 と述べられてみえます。
 これは一見、先の「死の問題を解決することによって生の問題を解決する方向」を勧めてみえるようですが、「後世を願う」ことの詳細を如来の本願成就のいわれに聞けば、やがて正定聚の内容を深く味わうことになります。これは本願の内容が自然に念仏者をそのようにしむけるのです。
 死の問題の解決のみを望んだ前の境涯と、正定聚に住したところから滅度に至ろうとする後の境涯には、大きな違い(発展的な違い)があるのですが、これは聞法を重ねてみえる方々にはよくよく領解できるところなのです。
 さらに善導大師にお聞きしますと――

衆生の正見の根芽を損じ、悪業増長して、此世・後生に果実を収めざることを畏るればなり。

善導大師 著『観経疏』 序分義 発起序 化前序【05】 より

此世・後生、心に随ひて解脱す。

『観経疏』 定善義 日観【02】 より

此世および後生に、願はくは仏つねに摂受したまへ。

『往生礼讃偈』 より

 このように、願うのは「此世および後生」であり、本質的にここに別を見ることはできません。

 ところで、そもそも浄土経典には後生についてどのように述べてあるのでしょうか。調べてみますと、浄土三部経には「後生」という表現は見当たらず、「後世」という表記になっています。一例をあげますと――

あるときは心諍ひて恚怒するところあり。今世の恨みの意は微しくあひ憎嫉すれども、後世にはうたた劇しくして大きなる怨となるに至る。ゆゑはいかんとなれば、世間の事たがひにあひ患害す。即時に急にあひ破すべからずといへども、しかも毒を含み怒りを畜へて憤りを精神に結び、自然に剋識してあひ離るることを得ず。みなまさに対生してたがひにあひ報復すべし。
人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。
<中略>
みなまさに過ぎ去るべく、つねに保つべからず。〔道理を〕教語し開導すれどもこれを信ずるものは少なし。ここをもつて生死流転し、休止することあることなし。
かくのごときの人、矇冥抵突して経法を信ぜず、心に遠き慮りなくして、おのおの意を快くせんと欲へり。愛欲に痴惑せられて道徳を達らず、瞋怒に迷没し財・色を貪狼す。これによつて道を得ず、まさに悪趣の苦に更り、生死窮まりやむことなかるべし。哀れなるかな、はなはだ傷むべし。

『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 釈迦指勧 浄穢欣厭 【31】 より

意訳▼(現代語版 より)
 争いを起して怒りの心を生じることがあれば、この世ではわずかの憎しみやねたみであっても、後の世にはしだいにそれが激しくなり、ついには大きな恨みとなるのである。なぜならこの世では、人が互いに傷つけあうと、たとえその場ではすぐ大事に至らないにしても、悪意をいだき怒りをたくわえ、その憤りがおのずから心の中に刻みつけられて恨みを離れることができず、後にはまたともに同じ世界に生れて対立し、かわるがわる報復しあうことになるからである。
 人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生れていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代わってくれるものはない。
<中略>
すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかリである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぼることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。

 仏教の基本は「諸行無常・諸法無我」であり、輪廻転生の思想をそのまま肯定することはありません。輪廻を連想するような表記は多くの経論釈に見受けられますが、正しい経典を正しく理解すれば、特定の個人が輪廻を実体験するというのは迷妄の意味で使われていることが分ります。つまり真実ではないのです。「生死流転」は、現在経験している深い闇の正体を表現するために用いられているのであり、また今の私の業が「因」となって子孫や後世に生まれた衆生に「果」として届く「因果」を述べたもので、固定的・実体的な意味で用いているのではありません。

 前念と後念の関係

「後生」は後の生のことを言います。いわゆるこの世の生が終って、後の世の生のことです。
 仏教では霊魂不滅の思想は批判されているのに、どうして「後生」のことを語る必要があるかといえば、死の問題に目を向けることが出発点となって、やがて真実信心に導かれるからです。この信心獲得の果を得ている人にとっては、後生はもはや一大事ではありません。即生・正定聚の菩薩としての領解を深めることが一大事となります。

 親鸞聖人は「後生」という言葉は用いてみえませんし、前に述べたように浄土三部経にもこの言葉は見当たりません。七高僧では、善導大師が「後生」という言葉を用いられ、日本では 存覚上人以後、特に 蓮如上人はよく用いられています。
 蓮如上人は、布教伝道に尽した人で、信心獲得していない一般大衆にさかんに法を説かれてみえました。そこで、どうしても「後生の一大事」を因として開発する必要があったのでしょう。

 しかし 親鸞聖人は、往生は死後に願う問題ではなく、今現在の問題であると盛んに述べてみえます。

 『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

親鸞聖人 著『唯信鈔文意』2 より

意訳▼
 『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生れようと願えというのである。「即得往生」は、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

 死後の往生を願うのは信心を得ていない人の念であり、往生が即生であると受けとるのは信心獲得の人の領解です。如来回向の真実信心を信受すれば、疑念を抱いていた前念の命が終わり、ただちに正定聚・不退転の菩薩の命(後念)に生まれ変わるのです。

本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」(論註・ 上意)と。文
即得往生は、後念即生なり。「即のとき必定に入る」(易行品)と。文 また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文

『愚禿鈔』45 より

 こうした境地は 聖人に限らず、妙好人の浅原才市さんも歌に詠まれてみえます。

往生は今のこと
南無阿弥陀仏にて往生すること
南無阿弥陀仏


目が変わる 世が変わる
ここが極楽になる
うれしや 南無阿弥陀仏


極楽に往くのじゃのうて
わしの心に極楽がいた
南無阿弥陀仏


娑婆で楽しむ極楽世界
ここが浄土になるぞ
うれしや 南無阿弥陀仏


今ここで国替えをさせて下さる慈悲が
南無阿弥陀仏

 このことは、曇鸞大師の註釈に聞いてみればより明らかになります。

 問ひていはく、大乗経論のなかに、処々に「衆生は畢竟無生にして虚空のごとし」と説けり。 いかんが天親菩薩「願生」といふや。
答へていはく、「衆生は無生にして虚空のごとし」と説くに二種あり。一には、凡夫の謂ふところのごとき実の衆生、凡夫の見るところのごとき実の生死は、この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛のごとく、虚空のごとし。二には、いはく、諸法は因縁生のゆゑにすなはちこれ不生なり。所有なきこと虚空のごとし。天親菩薩の願ずるところの生は、これ因縁の義なり。因縁の義のゆゑに仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。
 問ひていはく、なんの義によりてか往生と説く。
答へていはく、この間の仮名人のなかにおいて五念門を修するに、前念は後念のために因となる。穢土の仮名人と浄土の仮名人と、決定して一なるを得ず、決定して異なるを得ず。前心後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに。もし一ならばすなはち因果なく、もし異ならばすなはち相続にあらざればなり。

『往生論註』巻上 総説分 作願門 願生問答 【06】より
(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 【19】 に引用)

意訳▼
 問うていう。大乗の経典や論釈の中には処処に「衆生は畢竟無生で虚空のようである」と説かれている。それなのにどうして天親菩薩は「生まれることを願う」といわれたのであるか。
答えていう。「衆生は無生で虚空のようである」というについては、二種類がある。一つには、凡夫の思うような固定した衆生があって、凡夫の考えるように、それが実にここに死んでかしこに生まれるというようなこと、そういうことは本来ないので、ちょうど亀に毛のないようにその体がなく、虚空のように空無である。二つには、あらゆるものは因縁によって生ずるのであるから、そのままが本来不生であって、固定した体のないことは、あたかも虚空のようである。いま天親菩薩が「生まれることを願う」といわれるのはこの因縁生の上でいわれる。因縁生の義であるから仮に「生」というのであって、凡夫の考える固定した衆生があって、実に生まれたり死んだりするということではない。
 問うていう。どういう意義によって往生と説くのであるか。
答えていう。この世にある人が五念門を修める場合、その人の修める前念の心は後念の心のために因となる。この迷いの世界の人と浄土の人とは、きまって一ともいわれず、きまって異ともいわれない。前心と後心との関係もまたこのとおりである。なぜかといえば、もし同一なら因果の別がないことになり、また異なるものとすれば同一のものの相続でないことになる。

 世間に伝わっているような霊魂の輪廻転生は「亀毛のごとく、虚空のごとし」とありますから、「見間違いである」とはっきり断言されています。しかし見間違いを断じ切って前念(自力の行者の心)を否定してしまうのではなく、迷いを因として後念(真実信心)に導いていくわけです。この具体的な方法が、本願成就の経緯を聞き開くことであり、五念門であり、総じていえば浄土のはたらきの現われなのです。
 つまり真の往生とは、「阿弥陀如来の清浄本願の無生の生」であり迷いの世界を離れることを意味し、私たちが虚妄執着の念で願う往生ではないのです。
{往生論註の「願生」について}{往生論註「願生」について 2} 参照)

他宗旨では、たとえば白隠慧鶴は――

何れも死後を待ちて利益に預からんとうち延ばしたもうは、不覚油断の至り、おぼつかなきものぞかし。

『遠羅天釜』巻下 より

と述べていますし、道元も――

人の死ぬるのち、さらに生とならず、しかあるを生の死になるといわざるは、仏法のさだまれるならいなり、このゆえに不生という。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆえに不滅という。生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり。たとえば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもわず、春の夏となるといわぬなり。

『正法眼蔵』現成公按 より

意訳▼(仏教名言集 より)
 人は死んで後に、また再び生じてくることはない。そうであるから生が死になるのだと言わないのは、仏法(普遍の真実)においては決まりきった道理なのである。この事実を絶対の生(不生)と言う。また死においても、死が生になることがないのは、仏法の道理においては決まりきったこととして仏が説き示されているところである。この事実を絶対の滅(不滅)と言う。すなわち生の時は(死に対することなく)全体が[しょう]きり、死の時も全体が死きりとしてそれぞれがそれぞれの位を尽くし切っているのである。これを時の様相である四季にたとえて言うならば、それは冬と春との時節のようなものである。春は、冬が春になったものと思わないし(冬はどこまでも冬であり、春は冬に対せずどこまでも春そのものである)、同様に夏は春が夏になったものと言わぬのと同じである。

と述べてみえますが、禅僧は本願の導きを仰ぎませんから、前念を因とする訳にはいかないのです。
 また、モンテーニュも「私たちは死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している」と言われるように、生死に迷うことを戒める言葉は古今東西に溢れています。

 こうしたことは、浄土往生は即成仏と同義語でしょうかや、五十二位と、親鸞聖人・蓮如上人の教学の違い#体失往生と即得往生} 等にも詳細を載せていますので、一度ご確認ください。

 このように、往生とは、不定聚・邪定聚の衆生が正定聚の菩薩になることをいいますが、私ひとり往生して浄土に安住することを目ざすのではなく、大慈悲がはたらくゆえに迷界に出て一切衆生の済度をはかり涅槃の境地にとどまらない、という如来の願いに依って、私たちも浄土に座を置いて迷いの世界に還ってくるのです。これを「願生」とも「不体失往生」ともいい、完全に往生するのは命終の滅度であるというのです。

この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふと。

法照 著 阿弥陀経による偈 より
(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 大行釈 引文 【35】 に引用)

意訳▼(現代語版 より)
 この世界で一人の人が仏の名号を称えると、浄土に一つの蓮の花が生じる。生涯、信心を失うことなく念仏を相続するなら、その蓮の花がこの世界に来たってその人を迎えてくださるのである。

 この座によって私達は菩薩としてお育てにあずかるのです。極論すれば、正定聚・不退転の位に住するということが仏道のすべてである、と言えるでしょう。もちろん、この成就は如来のはたらきに依ることはもちろんで、覚りのはたらきが我が身に至って私に成り切ってみえるからこそ、我が身の懺悔が喜びとなり、仏願がこの場に報いて展開し、正定聚の菩薩としての人生を荘厳してゆくのです。

 さらに信心獲得の人の死は「即得往生が円成した」という意味を持ちますので、その死を「滅度に至る」と祝うのです。 {必至滅度の願} には――

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。
とあり、信心の人の人生は、滅度に至る人生であると示されています。

 滅度とはどういうことかといいますと、例えば 親鸞聖人は――

真実信心うるひとは
すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ

『浄土和讃』 大経讃59

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

『高僧和讃』 天親讃13

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

『浄土三経往生文類』1

等と味わわれてみえますが、本願喜ぶ人生は、煩悩の中にありながら日々充実した人生を送ることになり、生きて生き切る人生、死んで死に切る人生になる、ということです。「完全燃焼の人生の成就」ということが「滅度」という意味になり、これを「無余涅槃」ともいいます。

 なお、経典に「寿終之後」(寿終りてののちに)とあるのは、「せめて死ぬまでには」という願いの深さを表しています。

ここに「寿終って後」とあるのは、第三者が頭で、死んだら男になれますか、と受けとるから経典の言葉が死んでしまうのです。これは女自身のまごころから出る、深い懺悔の言葉です。現在只今、りっぱな女になりたい、賢い母になりたいと願っているのですが、女性本能にひきずられて、菩提心をわすれがちである。その涙がせめて「寿終って後」になりとでも、りっぱな女になりたいと、現に今心の深い所に動いているまごころの菩提心が、重い宿業の底を潜って出てきた、涙の言葉です。現在の心の深みにある願いが真実であれば、真実であるほど、こういう形をとって現われてくるのです。こういう筆法は経典の至る所に出ています。精神的な問題は、即座に解決できますが、感情的、行為的な問題は、その場で即決というわけには行きません。論にも「見道は石を割るが如く、修道は蓮糸を切るが如し」といっています。
{第三十五願} 参照)

 浄土のはたらきによって衆生は正定聚の菩薩となり、正定聚の菩薩の身の上において浄土は功徳を現わすことができるのです。その初心は『仏説無量寿経』の「讃仏偈」に、「たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない」{※資料1▼ 参照} 等と法蔵菩薩の初心が述べられている通りです。

 こうした仏心は、例えば五逆の罪を犯した阿闍世[あじゃせ]王の心にさえ「もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄[むけんじごく]にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません」という大乗の菩提心を起こさしめ、衆生の悪心を破り{※資料2▼ 参照} 、幽閉されていた母の韋提希も無生法忍の覚りを得、女官たち五百人も菩提心を発こしていきます{※資料3▼ 参照}

 ですから、「後生の一大事」といっても、永遠の安楽を求める心にとどまっている人は仏の本意に背いていますから往生できず、皆とともに道を求める人こそが真に安楽に至るのです。これは、「自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う」{※資料4▼ 参照} と『浄土論』に述べられている通りです。
 ただ、「後生の一大事」とだけ述べると、前念にとどまる言葉のように誤解を受けますので、後念への導きを忘れないため最近は使用頻度が少なくなっているのでしょう。

 聖典等資料

※資料1

光顔巍々として、威神極まりなし。かくのごときの焔明、ともに等しきものなし。
日月・摩尼珠光の焔耀も、みなことごとく隠蔽せられて、なほ聚墨のごとし。
如来の容顔は、世に超えて倫なし。正覚の大音、響き十方に流る。
戒と聞と精進と三昧と智慧との威徳は、侶なくして、殊勝にして希有なり。
深くあきらかに、よく諸仏の法海を念じて、深きを窮め奥を尽して、その涯底を究む。
無明と欲と怒りとは、世尊に永くましまさず。人雄獅子にして神徳無量なり。
功勲広大にして、智慧深妙なり。光明の威相は、大千を震動す。
願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。
われ誓ふ、仏を得たらんに、あまねくこの願を行じて、一切の恐懼〔の衆生〕に、ために大安をなさん。
たとひ仏ましまして、百千億万の無量の大聖、数恒沙のごとくならんに、
一切のこれらの諸仏を供養せんよりは、道を求めて、堅正にして却かざらんにはしかじ。
たとへば恒沙のごときの諸仏の世界、また計ふべからざる無数の刹土あら
んに、光明ことごとく照らして、このもろもろの国に遍じ、かくのごとく
精進にして、威神量りがたからん。
われ仏とならんに、国土をして第一ならしめん。その衆、奇妙にして道場超絶ならん。
国泥オンのごとくして、しかも等しく双ぶものなからしめん。われまさに哀愍して、一切を度脱すべし。
十方より来生せんもの、心悦清浄にして、すでにわが国に到らば快楽安穏ならん。
幸はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。願を発して、かしこにして所欲を力精せん。
十方の世尊、智慧無碍にまします。つねにこの尊をして、わが心行を知らしめん。
たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ。

『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 讃仏偈 より

意訳▼
世尊のお顔は気高く輝き、その神々しいお姿は何よりも尊い。
その光明には何ものも及ぶことなく、
太陽や月の光も宝玉の輝きも、
その前にすべて失われ、まるで墨のかたまりのようである。
まことにみ仏のお顔は、世に超えすぐれてくらべようもなく、
さとりの声は高らかに、すべての世界に響きわたる。
持戒と多聞と精進と禅定と智慧、
これらのお徳は並ぶものがなく、とりわけすぐれて世にまれである。
さまざまな仏がたの教えの海に深く明らかに思いをこらし、
その奥底を限りなく深くきわめ尽しておいでになる。
愚かさや貪りや怒りなど世尊にはまったくなく、
人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳をそなえておいでになる。
その功徳はとても広大であり、智慧もまた深くすぐれ、
輝く光のお力は、世界中を震わせる。
願わくは、わたしも仏となリ、この世自在王仏のように
迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。
布施と調意と持戒と忍辱と精進、
このような禅定と智慧を修めて、この上なくすぐれたものとしよう。
わたしは誓う、仏となるときは、必ずこの願を果しとげ、
生死の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。
たとえ多くの仏がたがおいでになり、
その数はガンジス河の砂のように数限りないとしても、
それらすべての仏がたを残らず供養したてまつるより、
固い決意でさとりを求め、ひるまずひたすら励む方が、功徳はさらにまさるであろう。
ガンジス河の砂の数ほどの仏たがの世界があり、
はかり知れないほどの数限りない国々があるとしても、
わたしの光明はそのすべてを照らして、至らないところがないように、
おこたることなく努め励んで、すぐれた光明をそなえたい。
わたしが仏になるときは、国土をもっとも尊いものにしよう。
住む人々は徳が高く、さとりの場も超えすぐれて、
涅槃の世界そのもののように、並ぶものなくすぐれた国としよう。
わたしは哀れみの心をもって、すべての人々を救いたい。
さまざまな国からわたしの国に生れたいと思うものは、みな喜びに満ちた清らかな心となリ、
わたしの国に生れたなら、みな快く安らかにさせよう。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。
さまざまな仏がたはみな、完全な智慧をそなえておいでになる。
いつもこの仏がたに、わたしの志を心にとどめていただこう。
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、
さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。

※資料2

仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。
〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。
そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。

『涅槃経』梵行品 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(末) 逆謗摂取釈【116】 に引用)

意訳▼
 釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている>と。
 阿闍世[あじゃせ]が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄[むけんじごく]にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>と。
 そのとき、摩伽陀国[まかだこく]の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心をおこした。このような多くの人々が無上菩提心[むじょうぼだいしん]をおこしたので、阿闍世の重い罪も軽くなった。そして阿闍世とともに韋提希夫人や、妃や女官たちも、ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。
 そのとき、阿闍世が耆婆[ぎば]にいった。<耆婆よ、わたしは命終わることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである>と。

※資料3

 この語を説きたまふとき、韋提希、五百の侍女とともに仏の所説を聞く。時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり。

『仏説観無量寿経』 得益分【31】 より

意訳▼
 釈尊がこのようにお説きになると、韋提希は五百人の侍女とともにその教えを聞いて、たちまち極楽世界の広大なすぐれた光景を見たてまつった。さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。
 そして五百人の侍女も、それぞれこの上ないさとりを求める心を起して、その国に生れたいと願った。そこで釈尊はすべてのものに対して、みな往生することができ、その国に生れたなら諸仏現前三昧を得ると約束され、これを聞いた数限りない天人も、みなこの上ないさとりを求める心を起したのである。

※資料4

 王舎城所説の『無量寿経』(下)を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発さざるはなし。この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。このゆゑに、「自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに」といへり。「住持の楽」とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なし。おほよそ「回向」の名義を釈せば、いはく、おのが集むるところの一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり。

『往生論注』巻下 解義分 善巧摂化章 菩提心釈【43】 より
(『顕浄土真実教行証文類』 信文類三(本) 菩提心釈【53】 に引用)

意訳▼
 王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな、無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心はそのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を[おさ]め取って、阿弥陀仏の浄土に生まれさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生まれようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを[むさぼ]るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀如来の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。
 総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自から積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである。



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