先に掲載した『大パリニッバーナ経/涅槃経』は、部派・アビダルマ仏教の立場で編纂された経典であり、こちらは大乗経典の『大般涅槃経』すから、同じ釈尊の入滅をテーマに、アビダルマ仏教に対する大乗仏教の優越性が説かれています。
◆ 大乗経典『大般涅槃経』(南本)36巻25品の大まかな構成
集まった大衆、神々、魔王、菩薩らは各々最後の供養を申し出ますが、釈尊はお受けになられません。しかし、あらゆる世界から集った衆生たちは、その誰もが悪念を捨て、慈心を生じ、互いに父母兄弟姉妹のようで、ただ一闡提だけが例外でした。そのとき、三千大千世界はあたかも無量寿仏の極楽浄土のようでした。
そして釈尊の口から出た光は、大衆を照らした後、また口に還ってきます。それを見ていよいよ入滅の間近に迫ったことを知り、人々は嘆き悲しみます。
純陀はなお、如来の存在は生滅変化するものではなく常住不変であるのになぜ百年に満たない寿命なのかを問い、この世にとどまることを哀願します。
釈尊は、純陀が大乗の教えが解っていることを褒め、なお「お前たち全てををあわれむからこそ、今日入滅しようと思うのだ」と、入滅が一切衆生のための慈悲の方便であることが示されます。
純陀は、衆生すべてが彼岸に渡れるように、泣く泣く稽首(けいしゅ)し、仏足を右に遶(めぐ)り、焼香、散華して世尊を礼拝し、文殊師利たちにも礼拝し供養の品を用意すべく家に還ります。
すると釈尊は、それはよいことだ、とほめます。しかしまた、それだけでは十分でないとも言われます。
楽でないものを楽と思い、常でないものを常と思い、自我でないものを自我と思い、清浄でないものを清浄と思っているので、修行者は、苦相・無常相・無我相・不浄相を修するが、しかしまた、常なるものを無常と思い、我なるものを無我と思い、清浄なるものを不浄と思い、楽を苦と思っている間違いを指摘します。
ここでは有為の四顛倒と無為の四顛倒が語られ、常楽我浄の四顛倒は消極面では否定しますが、積極面ではそれを肯定します。現象の世界は、無常・苦・無我・不浄ですが、永遠の世界では、常・楽・我・浄であるということです。
そして「無我とは生死のことであり、我とは如来のことである。無常とは声聞・縁覚のことであり、常とは如来の法身である。苦とはすべての外道のことであり、楽とは涅槃のことである。不浄とはこの世界の在り方であり、浄とは仏菩薩の正法である」と不顛倒の境地を現します。
これによって釈尊入滅も現象面では諸行無常を示しますが、そのこと自体に如来法身が常住であることが示されているのです。
また、乳薬には毒もあれば甘露もあることを比喩に、我(アートマン)の存在を諭します。 「(如来は)大医王としてこの世に出現し、外教の邪医を調伏すべく、無我と教えたが、条件の調ったところで、また我(アートマン)が有ると教えるのだ。それは拇指(おやゆび)の大きさだったり、芥子粒ほどであったりするのではない。そのような我は存在しないから、如来は諸法無我を教えたのだ。しかし、真実には我がないわけではない。では何が真実の我であるのか。それは真実なるもの、常住・不変で衆生たちの主であり、依りどころたるものをさすのである」
ここにきて大乗仏教の積極姿勢が徐々に明らかにされてゆきます。
「@ 如来はどうして長寿、金剛不壊の身を得られたのでしょうか。
A この経典の甚深義をいかに受持すべきでしょうか。
B 菩薩が衆生を教化する方法はどのようなものでしょうか。
C 真実に依拠(いきょ)すべきところは何でしょうか。
D 魔説と如来の教えをどのように区別すべきでしょうか。
E 四聖諦の真実の義(いみ)をどのように知るべきでようか。
F 四顛倒の相をいかに了知すべきでしょうか。
G 菩薩はいかに難見な如来の性(仏性)を見るべきでしょうか。
H 半字(語根)の意味をどのように暁了すべきでしょうか。
I 如来の説かれる(無常・苦・無我などの)諸法は、雁や鶴の如しとはどんな意味ですか。
J 如来(の出現・隠没)は、日月や星宿の如しとはどんな意味ですか。
K 総じて菩薩はいかにあるべきでしょうか。
右の条々、願わくは決定説をお説き下さい――。このような無量の甚深義を知るべくここに敢えて質問いたしますのをおゆるし下さい」
第一の質問に関連して、迦葉は「如来は一切衆生を見ること我が子のようであり、またそのように修するものは長寿を得る、とおっしゃいましたが、ではなぜ釈迦自身はこのように短命(八十歳)なのですか?」と問います。
これに対し釈尊は「如来の寿命は、河が大海に注がれる如く無量であるが、現実の身は変化身で、衆生を済度するためにあらわしている」と説かれます。長寿を獲得するためには、平等心という一切衆生を我が子のように愛する菩薩行を勧め、その長寿とは相対的なものではなく、無限の生命であることを述べています。
釈尊は、この金剛身は正法を護持することで得られ、そして戒律を守っている比丘のため刀剣を持って護持する人は、たとえ五戒を守らなくても護法の人であると語り、自衛のための武器や部隊を認めました。ただし、すすんで殺生する事は禁じます。
殺生戒は守りながら、暴力や権力の乱用にはしっかりと抵抗する、という大乗仏教の積極姿勢がここに見られます。
また、清浄なサンガとは「魔神たちによって乱されることのない、本性として清浄な菩薩たちのサンガをさすのである。菩薩たちは、衆生を教化するためには時節をえらばず、衆生たちの住処に入り、ときには敢えて寡婦や売春婦の家にでも入っていく。しかも何が重い戒になり、何が軽いかをよくわきまえている。そして戒律に随って心に歓喜を生じ、仏の教えを熟知してこれを解脱することができる。これが真の律師(持律師)である」として、形だけの戒律を否定してゆきます。
「善男子よ、経名中<大>というのは、常住という意味である。たとえば八大河がすべて海に帰するように、この経典はすべての煩悩や魔性を克服し、その後に、大般涅槃に際して身命を放捨する」等。
自正とは、菩薩が自ら如来常住の法を信受し守ること。たとえ火のかたまりを胸に抱かされても、決して仏・法・僧は無常だとはいわない。これらは我々の思慮をこえている。
正他とは、如来常住の法を他に教えて正しく導くこと。ここでは赤ん坊には消化しにくい食べ物は与えられない、という比喩で、大乗仏教の深い教えは菩薩によってのみ理解できるとされます。そして衆生の煩悩を素材として、智慧の火を点じ、燃焼させていくところにさとりの境地がひらかれると説きます。ここに煩悩即涅槃、生死即涅槃、無住処涅槃という考え方の芽が生じてきます。
能随問答については、相手の問いに随って答えることの具体例として、酒肉を断ずる者に酒肉を施すこと、そして比丘に肉食を禁じることが書かれてあります。ただ肉食が比丘に許されているのは三種の浄肉で、見・聞・疑の三つをはなれた肉、つまり――自分の目の前で殺した肉・自分のために殺したと聞いた肉・そうした疑いのある肉、それ以外の肉が浄肉となりますし、それも病気の時くらいで、自分から求めてはなりませんでした。結局、比丘には一切の肉食を禁じます。これは、後に仏教教団が戒律を破る形ばかりの比丘があらわれ諸々の悪事をなすことを慮ってのこと、と述べられます。
善解因縁には、戒律は比丘たちが法を犯したので、それに対処して戒を制定し、法を願う衆生は教えに随って修行する。これが善く因縁の意味を理解するということである、と説きます。
次に迦葉は、「如来は無限の昔から煩悩を断じた身であるとおっしゃたが、それならばなぜ結婚して子をもうけたのか」と質問します。迦葉は、絶対的な境地に立てば相対的な世界と絶縁しなければならない、という考えにとらわれています。 釈尊は相対的な世界と対立する絶対的世界などありえないことを示し、「わたしは無量劫にわたって阿羅漢果を得ている。ただ諸々の衆生たちを済度せんがために、道場にあって菩提樹の下に坐し、降魔を示現したのである」等と答えます。
身密・意密について迦葉の質問、「秘密の教えがあるとのことですが、如来には蔵(かく)された意味をもつ言葉はあっても、秘密にして人に語られないことはないと存じます」
それに対して釈尊は、漸次教えを説く中でこの大乗経典を説くのである、と質問を褒めます。
四相品の最後は、真の解脱について大乗仏教の立場を明らかにしています。つまり解脱は自分ひとりの安住の境地ではなく、如来の涅槃の世界であり、すべての人々を迷いから脱却せしむものであると説きます。 「衆生は(仏法僧への)三帰依によって安楽を得られる。安楽を受けるのが本当の解脱である。本当の解脱は如来である。如来はそのまま無尽であり、無尽はそのまま仏性である。仏性はそのまま決定であり、決定はそのままさとりなのである」等。
これは、上座部仏教が解脱を<煩悩をおこす心身を離脱して、全くの無に帰すること>と、消極的にとらえていて、これでは釈尊の真意に反する、との批判が大乗仏教の側にあったためと思われます。
これに対し迦葉は『依法不依人』(法に依って人に依らず)の教えから、「悪魔の化身かもしれない」として、これら四種の人に依存することをためらいます。
釈尊は「これは大乗の菩薩を言っているので、悪魔など問題にならない」と答えます。ここでは四つの種類を言っていますが、四つの段階を問題にはしていません。このあたりが大乗の菩薩としての意味が見出せるところです。
また「正法が滅してからもこれら四種の人のうち一人があらわれ、世に正法を現すだろう」と、釈尊は述べます。「この時の人は、破戒者と交わることがあるが、それは破戒行為ではない」とも付け加えられます。小さな形式にとらわれていては宗教的実践の妨げになると、この経の編者は考えられていたのではないでしょうか。
ただし、その後<釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。これからは欲望のおもむくままにしよう>と、暴言を吐く悪い比丘がいるが、それは大乗経典を誹謗する者だとして非難されています。これはいわゆる『原始仏典』の『大般涅槃経』にも登場するスバッダ(最後の直弟子とは別人)の事を言っているのですが、過度の自由は法の実践を妨げると警戒しています。
また迦葉は重ねて質問します。 「世尊は依るべきもの四つ(四依)をさきにお説きになっておられます。そなわち『法に依って人に依らざれ、義に依って語に依らざれ、智に依って識にらざれ、了義経に依って未了義経に依らざれ』ということでありました。どうしていまは四種の人に依れとおっしゃるのでしょうか」 これに対し釈尊はこたえます。 「『人に依らざれ』と言うときの『人』は“如来は無常で変易する”と考える声聞の弟子たちのことで、『四種の人に依れ』と言うときの『人』は、大乗の法を護持する者であるから、依りどころとなる。
次に『義に依る』と言うときの『義』は、悟りの内容、つまり“如来は常住であり、法は常住であり、サンガは常住である”ということで、こうした言葉は信ずるべきであるが、飾り立てた諸論の文辞に依ってはならない。 『智に依って識にらず』の『智』とは如来のことで、如来は法を身体(法身)とし、その真智に依るべきである。如来を『五陰よりなる身、食物によって養われる身(方便身)』だとする声聞の弟子たちの識知には依るべきでない。 『了義経に依って未了義経に依らず』というと言うときの『未了義』とは声聞乗であり、『了義』とは大乗の菩薩の所説である。『如来は涅槃に入って滅すること、薪が尽きて消えるごとくである』と説くのは『未了義経』であり、『如来は法性に入る』と説くのは『了義』である」
このようにして、声聞と大乗の菩薩のちがいを、子どもに文字だけを教える段階と、さらに衆生を救済すべく方便力をもって大乗の了義を説かれた段階にたとえ、この故に大乗に依るべきであると説かれます。
釈尊は次のようにこたえます。 「わたしが般涅槃して七百年後、魔王波旬は比丘や比丘尼(出家者の男女)、ないし優婆塞、優婆夷(信者の男女)に身をかえて、こういうであろう。『菩薩は昔兜卒天から降りて浄飯王の王宮に入り、夫婦和合によってこの世に生れた。もし人の中に生れて世間から敬愛されたという者があるとすれば、そのような道理はない』あるいは『往昔種々に苦行し、身・命・財産・妻子を布施したおかげで、いま仏道を成じた。それ故、神々や人間たちに敬愛されるのだ』こういうとすれば、これは明らかに魔の所説である。
これに対し、「如来は久遠の昔に成覚している。いま諸々の衆生が彼岸に渡れるように、方便をもって父母の愛欲和合によって生れ、現世で成道したことを示現する』と説くものがあれば、これはまさしく如来の所説である。魔の所説に随うものは魔の眷族である。仏説の経と律に随うものは菩薩である」
さらに釈尊は、比丘たるのものの心得として、種々の贅沢品や召使い、家屋などを一切受けてはならない。また世事にかまけることもとがめ、「呪術、占術、占相等の技を施し、香水等で身を飾り、世人と談合し、あるいは国王、大臣、女人に親近し、多語・妄説し、あるいは酒家・遊里・博奕の場所に出入りしてはならない」とし、これが如来の所説であると説きます。逆にそうした律を破り『仏が大慈によって、衆生を憐憫する故にゆるしたもうたのである』というのは魔の所説である、と厳しくいさめます。
また、『九部の法(九部経=最初期に編纂された九部の経)以外の経は如来の所説にない』と説く者は私(如来)の弟子ではなく、『如来は九部経を超えて方等の経典(大乗経典)がある』と理解し、『如来は衆生を度(すく)うために方等経をとくのだ』という者があれば、「これは私の弟子である」と述べられます。
また、『如来は無常で変易する空なる存在で、ひたすらに無我を説く』という者があればこれは魔の所説である。もし『如来の正覚は思議できない。無量無数の功徳を具足している故に常住であって変易なし』と説くならば、これは如来の所説である。
また次のような例もある。『阿羅漢は得ていないから』と拒む比丘に、国王が『大師は実に阿羅漢を得ていること仏と異ならないでしょう』と言って、国中のひとに供養をさせた場合、この比丘はまことに梵行清浄の人であって婆羅夷を犯していない。もしこの人をして『罪を犯した』というならば、これは魔の所説である。
次に釈尊は、いよいよ仏性の問題について語られます。 「私は経典の中でこのように説いた。『四つの追放罪や微細な罪をおかす者がいたら、正さなければならない。人びとがもし禁制や戒律を守らなければ、どうして仏性を見いだすことができようか。一切の衆生は仏性を有するといっても、戒律を守ることによってはじめて見いだすのだ。仏性を見いだすことによって菩提を成ずることができる。九部の経典の中には大乗の方等経はふくまれていない。だからそこでは仏性があると説かないのだ。経典に説かれていなくても、本当は仏性はあるのだ』と。もしこういう説を言う人があるならば、この人は私の弟子なのだ」
ただし、これについての注意点も重ねて述べられます。 「『私はもうさとりを成就した。なぜなら私には仏性があるからだ。仏性のある者は、必ずさとりを成就することができる。だから私はさとりを成就することができたのだ』と言う者があったら、この人は追放罪を犯している。なぜなら、仏性があっても、まだよい方法で修行をしていないから、見いだしてはいない。だからさとりを成就することはできない。善男子よ、こういうわけだから、仏の教えは極めて深いものであり、かんたんに思いはかってはならない」
これを聞いて迦葉は、
「世尊よ、いまはじめて魔説と仏説、邪説と正説の差異がわかりました。このおかげで、仏法の甚深な意味に悟入することができましょう」と申し上げると、世尊もそれを褒め称えられます。
釈尊は言われます、 「一般に言う苦を苦聖諦とは言わない。(中略)善男子よ、もし人があって、如来の深い境地の常住不変の法身を知らず。『これは相対の身で、法身ではない』と言い、如来のすぐれた徳や威力を知らないならば、これが苦である。なぜなら、不知であるからだ。この人は法を法でないと見、法でないものを法と見ている。この人は地獄におち、生死界を流転し、多くの迷いを増し、苦悩を受けるであろう。もし如来は常住で変化のないことを知り、あるいは『常住』という二字の音声を一度でも耳に聞いたら、天上に生れるであろう。そして後に解脱を得る時、本当に如来は常住で変易のないことをさとるのである。(中略)このように知るなら、本当に苦を修したことになり、利益を得ることが多い。これを苦を知るといい、苦聖諦と言うのである」と。
このように大乗仏教では、苦悩を克服してこそ「人生は苦である」と見とおすことができる、と積極的に苦諦を理解します。
また『集諦』についても、「非法を正法とみなすことが苦を集める因であると知ること」 『滅諦』は「如来蔵があるのを見ることができなくても、煩悩を滅せばそこに入ることができる」 道諦については「仏法僧の三宝も解脱も常住であり変易することはないと知ることである」 と説きます。