還浄された御門徒様の学び跡


聞法ノート 第二集 29

正信念仏偈

【浄土真宗の教え】
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 101 偈前序説/『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 12 大行釈 称名破満 等

 正信念仏偈

 親鸞聖人は教行信証行文類を閉じるにあたり、

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 101 偈前序説

と偈前の文に続いて私たちが日頃読誦している正信偈六十行百二十句をつくられた。

 このことについて早島鏡正先生は、

普通、行巻は《南無阿弥陀仏》と念仏を称える称名を説いていると受けとられています。しかし、ただ意味がなく《南無阿弥陀仏》と称えても、信心が根底になければ意味を成しません。そこで次の信巻が説かれているのだと一般の人は思うようです。しかし私が申し上げたいのは、この念仏に対して、念仏を称える人、念仏申す人のあり方を信巻で明らかにしている。念仏もうす人とはつまり信心の人です。前の巻(行巻)では念仏そのものを明かし、次の巻(信巻)では念仏の人を明らかにしている。その間に正信偈がおかれているということは、模範とすべき念仏の人びとをここにはっきり打ち出しているのです。念仏のいわれを説いて、その後に、そういう念仏を称える模範とすべき人はどういう人々であるかを、六十行・百二十句の詩であらわしているのです。
とその著書「正信偈を読む」(NHK出版)の中で言われている。

 正信念仏偈については、別のノートで学びたいと願っているが、念仏のおいわれを行文類で逐条聴聞しながら、万行の徳をそなえる名号の不思議さをいただくことのできるありがたさは身に沁みるものがある。まことわが身にあまる幸せであり、ありがたさである。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 12 大行釈 称名破満

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[釈勝榮/門徒推進委員]


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