還浄された御門徒様の学び跡 |
親鸞聖人は、念仏と諸善を対比して、念仏の勝れた面を明らかにされた。
しかるに教について念仏諸善比キョウ対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。
また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賎対、明闇対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。
『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 一乗海釈 二教二機対
▼以下意訳(現代語版)
ところで、教えについて念仏と諸善とを比較して論じると、次のようである。
難易対: 念仏は行じやすく、諸善は行じがたい。
頓漸対: 念仏は速やかにさとりを開き、諸善は長い時を費やしてさとりを開く。
横竪対: 念仏はただちに迷いを離れ、諸善は次第に迷いを出る。
超渉対: 念仏は迷いを飛び越え、諸善は歩いて渡るかのようである。
順逆対: 念仏は本願に順じ、諸善はこれに背く。
大小対: 念仏は功徳が大きく、諸善は小さい。
多少対: 念仏は功徳が多く、諸善は少ない。
勝劣対: 念仏はすぐれた法であり、諸善は劣った法である。
親疎対: 念仏は阿弥陀仏に親しく、諸善は阿弥陀仏に疎遠である。
近遠対: 念仏は阿弥陀仏に近く、諸善は阿弥陀仏に遠い。
深浅対: 念仏は深い法であり、諸善は浅い法である。
強弱対: 念仏は強い法であり、諸善は弱い法である。
重軽対: 念仏は重い法であり、諸善は軽い法である。
広狭対: 念仏は利益するところが広く、諸善は狭い。
純雑対: 念仏は純一な往生の行であり、諸善は他にも通じる行である。
径迂対: 念仏はさとりを得る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対: 念仏ははやくさとりに至る法であり、諸善はおそい法である。
通別対: 念仏は特別の法であり、諸善は普通の法である。
不退退対: 念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対: 念仏はまさしく往生の行として説かれ、諸善はこれにそえて明かされた法である。
名号定散対: 念仏は他力回向の名号に即した行であり、諸善は自力の定善・散善の行である。
理尽非理尽対: 念仏は道理を尽くしており、諸善はそうではない。
勧無勧対: 念仏は仏がたが勧めておられ、諸善は勧めておられない。
無間間対: 念仏は間断のない法であり、諸善は間断がある。
断不断対: 念仏は断絶せず、諸善は断絶する。
相続不続対: 念仏は相続し、諸善は相続しない。
無上有上対: 念仏の利益には限りがなく、諸善の利益には限りがある。
上上下下対: 念仏はもっともすぐれた法であり、諸善はそうではない。
思不思議対: 念仏は衆生の思いが及ばない尊い法であり、諸善はそうではない。
因行果徳対: 念仏は阿弥陀仏の果位の徳が収まり、諸善はまだ仏になっていなものの行である。
自説他説対: 念仏は仏が自ら説かれた往生の法であり、諸善は衆生に応じて説かれた法である。
回不回向対: 念仏は仏から回向された法であり、諸善は衆生が回向する法である。
護不護対: 念仏は仏に護られる法であり、諸善はそうではない。
証不証対: 念仏は仏がたが証明され、諸善はそうではない。
讃不讃対: 念仏はほとけがたにほめたたえられ、諸善はそうではない。
付属不属対: 念仏は後の世に伝えよと託された法であり、諸善はそうではない。
了不了教対: 念仏は仏の真意が完全に説き明かされた教えであり、諸善はそうではない。
機堪不堪対: 念仏は衆生にふさわしい法であり、諸善はそうではない。
選不選対: 念仏は弥陀が選び取られた法であり、諸善はそうではない。
真仮対: 念仏は真実の法であり、諸善は方便の法である。
仏滅不滅対: 念仏は浄土で不滅の仏を見、諸善は入滅する仏を見る。
法滅利不利対: 念仏は法滅の時代にも利益があり、諸善は利益がない。
自力他力対: 念仏は他力の行であり、諸善は自力の行である。
有願無願対: 念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対: 念仏は阿弥陀仏に摂め取られ、諸善はそうではない。
入定聚不入対: 念仏は正定聚に入る法であり、諸善はそうではない。
報化対: 念仏は真実報土に生れる法であり、諸善は化土にとどまる法である。
教えについて、念仏と諸善とは、このように比較することができる。以上のようなことから、本願一乗海である念仏の教えを考えてみると、その教えは、すべての功徳が満足し、何ものにもさまたげられず速やかに利益を与えてくださる。絶対不二のものである。
また、行を修めるものについて比較して論じると、次のようである。
信疑対: 念仏の人は仏の智慧を信じ、諸善の人はこれを疑う。
善悪対: 念仏の人は本願を信じるから善であり、諸善の人はこれを疑うから悪である。
正邪対: 念仏の人は本願を信じるから正であり、諸善の人はこれを疑うから邪である。
是非対: 念仏の人は本願を信じるから是であり、諸善の人はこれを疑うから非である。
実虚対: 念仏の人は他力の真実を得、諸善の人は自力の虚仮である。
真偽対: 念仏の人は他力の真実を得、諸善の人は自力お邪偽である。
浄穢対: 念仏の人は他力清浄の法を得、諸善の人は自力雑穢である。
利鈍対: 念仏の人は仏の智慧を信じるから智慧がすぐれ、諸善の人はこれを疑うから智慧が劣る。
奢促対: 念仏の人は速やかにさとりに至り、諸善の人はおそい。
豪賎対: 念仏の人は名号の徳を得るから豊かであり、諸善の人は貧しい。
明闇対: 念仏の人は仏の光明に照らされているから明るく、諸善の人はこれをさえぎっているから暗い。
行を修めるものについて、念仏と諸善とは、このように比較することができる。以上のようなことから、本願一乗海である念仏の行を修めるものを考えてみると、そのものは、金剛の信心を得た絶対不二のものである。よく知るがよい。
他力というは如来の本願力なり(『顕浄土真実教行証文類』 行文類二 他力釈)
五種正行: 「讀誦」「観察」「礼拝」「称名」「讃嘆供養」の五正行。称名正行を正定業とし他は助業とする。
『顕浄土真実教行証文類』行文類二 偈前序説 には――
そもそも誓願の内容には真実の行信がある。
真実の行を誓われた願は、第十七願『諸仏称名の願』である。
その真実の信を誓われた願は、第十八願『至心信楽の願』である。
これが選択本願の行信である。
その救いの対象は、善人や悪人、大乗や小乗の教えに遇うもの、これらすべての凡夫である。
その往生は難思議往生である。
その仏と国土は報仏・報土である。
これがすなはち衆生のはからいを超え、真如にかなった唯一真実の本願海であって、『無量寿経』に説かれた法のかなめであり、他力真宗の教えの本意である。
と、真実の行信についてのべてある。
*難思議往生: 第十八願の弘願念仏による真実報土への往生をいう
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