平成アーカイブス  <旧コラムや本・映画の感想など>

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【本・映画等の紹介、評論】

オニババ化する女たち

女性の身体性を取り戻す

三砂ちづる 著/光文社新書

多数の女性必読の書

 柳沢厚生労働相の「女性は子どもを産む機械」発言が物議をかもし出している昨今(※平成19年当時)であるが、発言した大臣の品格はともかく、子どもを産み育てやすい環境を整備する施策は急がねばなるまい。また女性の性や生殖を取りまく環境の変化が社会全体に影響を及ぼす事態にも目を向けねばならないだろう。

 女性であることの喜びを

『オニババ化する女たち』の著者三砂ちづるさんは、本の中で、長く母子保健に関わって得られた経験をもとに、現代女性を取り巻く状況に一石を投じている。特に<女性のからだの声が、忘れ去られている>状態には警告を発している。

そこで感じたのは、女性として生まれてきたからには、自分の性、つまり月経や、性経験、出産といった自らの女性性に向き合うことが大切にされないと、ある時期に人としてとてもつらいことになるのではないか、ということです。
<中略>
女性の身体性に根ざした知恵を大切なものとして伝承できなくなると、「お互いをあるがままに受け入れられない」ことになるのではないか、とこの世代間の葛藤を見て感じるようになりました。
 現代をのびのびと生きているように見える、二十代、三十代の女性たちにも、この女性のからだへの軽視がしっかりと根づいています。「別にしたくなければ結婚しなくていいよ」「仕事があれば子どもがいなくてもいいよ」という上の世代からのメッセージは、若い女性に一見自由な選択を与えているようですが、そこに、「女としてのからだを大切にしない」という大きな落とし穴があることに、あまり気付かれていません。
 このままほうっておけば、女性の性と生殖に関わるエネルギーは行き場を失い、日本は何年かあとに「総オニババ化」するのではないか、と思われるふしがあります。

[はじめに オニババ化とは何か]より

 著者によれば、女性は本来子どもを産む可能性を秘めている分身体的能力が高く、古来より伝承されてきた女性特有の文化(身体知)によってこの能力を開花させてきたのであるが、戦前戦後の価値観の断絶によって継承が断たれ、現代では女性性を否定的に見る悪癖がはびこっている。結果、子どもを産み育てることに希望を持てなくなり、仕事ができなくなるため子どもを産みたくない≠ニか出産はつらくて痛い≠ニいうマイナス面ばかりが強調されてしまっている、という。そして総じて<女性がそもそも女性であることに、喜びも希望も持てなくなっている>という<深いところにある>問題を提示し、このままでは本来有益なはずの女性性がオニババ化してしまう、と警告している。

 確かに、具体的な伝承がほぼ絶えつつある現状は何とか改善しなければならないだろう。そうした例として、日本においてもかつてはあった<肌と肌を合わせて抱っこする>という経験や<月経血をコントロール>する身体的所作、ポリネシアのように<排卵を的確に知って生殖をコントロールする>という方法、ブラジルインディオに伝わる<14歳になったら1年間かけて徹底的に母親から女性性と文化を学ぶ>という知恵の伝承方法など、現代の常識からすれば驚くような事例を挙げて身体知伝承の有効性を紹介している。

 そして、幸運な偶然が重なって<日本の助産所は、世界の中でも珍しい、身体性に基づいたお産が近代社会に残っている場所>であることを評価。お産の至高体験を経て身体性の根を確立し、驚くほどの社会性を得た女性たちが紹介されている。

 結婚を強制しない悲喜劇

 こうした女性性や身体知について語るためには、どうしても結婚の問題を考えねばならない。著者はここでも明確に晩婚化の傾向を批判している。

 何が何でも結婚しなさい、というのもたいへん強圧的でもちろん女性にとってもつらいことでしたでしょう。フェミニズムはそれを指摘してきたわけで、それによって得たことも本当にたくさんあります。ところが、よく考えてみたら、少し昔の、「ある程度まできたらお見合いして結婚しなさい」と言っていた人たちは、おせっかいなことであったかもしれませんが、少なくとも「女として生きろ」というメッセージは出していたわけです。
<中略>
 それでもそこからはみだしていく、という人は昔からいて、そういう人は誰がどう止めようが、どうせはみだしていくんだから放っておくしかない。エネルギーがあるんだから、まあいいだろう、ということだったと思います。ところが今では、ふつうの人がふつうに女としてのオプションを生きる、ということを、誰もサポートしなくなっている。親のほうも、こういう言い方をすると本当に失礼なんですけれども、大した才能もない娘に、「仕事して自分の食い扶持さえ稼げればいいんだよ」とか、「いい人がいなければ結婚しなくてもいいんだ」というようなメッセージを出してしまうことは、その子にとってものすごい悲劇の始まりではないかと思うのです。

[「女として生きろ」というオプションがない]より


 理想ばかり追いかけても、人生は思い通りになりません。人生なんでも思い通りになるのだとしたら、「死」や「次の世代への交替」を受け入れられません。特に、結婚とか、子どもを産むとか、誰かと一緒に住むというのは、全部「思い通りにならないこと」を学ぶことなのです。それを学ぶ一番よい機会が結婚とか、子育てでしょう。
 そんな大事な経験、自分の子宮を中心にした生活を、お金に換算して過ごしていくことで満足していてよいのか、もう一度考えてみた方がよいのではありませんか。

[娘の生殖年齢をスポイルする親たち]より

<大した才能もない娘に>とか、<ものすごい悲劇の始まり>、<自分の子宮を中心にした生活を、お金に換算して過ごしていくことで満足していてよいのか>など、もしこれが男性政治家の発言であれば間違いなく問題視されるであろう。いや政治家だけではない、ここまで言い切れる男が果たして今の日本に居るのかどうか。「子宮を空き家にしてはいけない」というアイヌの産婆さんの警告もインパクトがある。日本ではいつでも恋をしていないといけない£度が精々だが、本当はもっとストレートに表現すべきなのだろうか。

 ただし著者は女性は社会進出するな≠ニ言っているのではない。仕事量は0にせず社会性をキープした上での早婚を勧めている。

 じつは四十五歳ぐらいというのは、一番仕事ができる盛りの年齢です。そのころに仕事のことだけを考えて思いきり働けるというのは、近代産業社会にとっても、非常に貢献できることです。私もその年代ですが、今やっているのと同じようなレベルの仕事を、果たして二十年前にできたか、といえば、できませんでした。
 でも、その二十年前のまだ仕事があまりできなかったころというのは、からだとしてはもっとも子育てに向いているころのわけですから、そのころに、本当はもっと子育てをしていればよかったのです。二十歳ぐらいで子どもを産んで、若い間に子どもを育て終わってしまって、本当に仕事として戦力になるときにフルに復帰したらいいのです。

[早婚のすすめ]より

 また昨今の「負け犬」論争に対しては、余裕のあるエリート負け犬(仕事も恋も勝者である立場の独身女性)は結局は強者であり、本当に問題なのは<放っておいたら自分で相手も見つけられない>、<メスとして強くない>大多数の女性で、彼女たちを<単純労働に追いやったうえで、そこでもう、誰も周りは結婚のことは心配しない>ような「弱者切捨て」状態の社会や家族を問題視している。

 一番よい状態を知っておく

 では、早期に結婚して家庭を持ったらそれでいいのかというと、勿論これで全て解決できた訳ではない。特に日本の家族においては「セックスレス」が問題で、これについても忌憚[キタン]なく意見が述べられている。

 先ほど、家族というのは、セクシュアルな関係を核にした、知恵の伝承機構だと述べましたが、この「セクシュアルな関係」というのが今の家族から消えてしまっていることも、ひとつ問題だと思っています。お父さんとお母さんが、みんな「男と女」として生きていない、ということに、子どもが絶望を感じていくというようなところがあるように見えるのです。
<中略>
思春期を迎えて、女になっていくような子どもたちが、家の中で目にする母親の姿に憧れられない、ということは、すごい失望につながることなのでしょう。女として生きていくことが全然楽しそうじゃない、そんな母親の姿を見て、女としての自分の将来に希望を失っている。

[子育てにエロスが足りない]より

 また性的な関係の人数については、<特定の人との間で、相性のいいからだにお互いに時間をかけて作り上げていく>ことを推奨し、<わざわざとっかえひっかえして新しい人を探して>深い体験を逃す愚を諫めている。現在は世界各地でHIV感染等が広がりつつあり、日本にもその波は押し寄せているので、この点においても有効な提言かもしれない。

 さらに著者は、こういった自分の性的・生殖的な体験の中で<一番よい状態を知っておく>ことが大切であるいう。この「豊かな性」を中心とした生活を営む中で、ある種の宗教的なさとり(本人は「悟り」という言葉に違和感を感じているようだが)に似た境地まで見出しているようだ。

 私たちは本当はもう、もともと受けとめられているのです。生まれてきたということだけで十分に受けとめられている存在なのです。ですから、親に受けとめられなかったとか、配偶者に受けとめられなかったとか、上司に受けとめられなかったとかいうことは、じつは大したことではないのです。私たちはそれこそ、自然や大いなるものの存在に受けとめられていて、みんなあるがままでいいよと言われているはずなのですから、自分のことをわっと言わなくてもいいのです。言うべきことはその役割がきたときに、出ていくものなのです。
 でもそこで、自分が受けとめられている意識がない人は、ついいろいろ言ってしまうのです。そして人を管理しようとさえしてしまう。
<中略>
いくつになっても自分の欲しか見えない。自分はもういいから、次の世代の人たちに世の中を渡していこう、と、すっと気持ちよく老いていくことができないように思えます。

[いつも自分のことばかりに関心がある世代]より

 また宗教的なことで言えば、今流行りの「スピリチュアル系」に対しては辛辣な批判をしている。

スピリチュアル系、とか呼ばれているのですが、からだのことを忘れてしまって、精神世界のほうにばっかりいってしまう人もたまにいますが、はっきり言えば、そんなからだが無くてもできるようなことは、からだを持っているときにしなくてもいいのではないですか。精神世界のことは、それこそ精神世界にいる間にすればいいので、からだを持っているときには、からだに集中することが大事なのです。
<中略>
 どうせ今の自分は生まれ変わるんだからとか、「前世」や「輪廻転生」のことばかり気にしてしまったりするような人もいます。そういうことは知ったからこそ今ここに集中できる、というのなら、それはいいのですが、だいたいみんなそっちにいかない。どんどんどんどん向こうに引きずられていって、現実感が希薄になっていきます。でもそれは結局知っていようが知っていまいが同じですから。

[女性はからだに向き合うしかない]より

 ちなみに仏教では、「前世」や「輪廻転生」を「有る」とも「無い」とも断定せず、てき面する今を生きよ、と勧めている。
(参照:{魂という概念}{「唯だ一たびのこの命」という厳粛さを}{今、私が、ここにおいて」の具体的な内容は?}

 さて、私は読書をする際必ずどんなに賛同できると思われる本でも必ず欠点も含まれている≠アとは忘れない。また長所はそのまま欠点であり、欠点はそのまま長所となり得る≠ニいう言葉を座右の銘としているので、この本についても懸念は示しておこう。
 まずは、やはり<大した才能もない娘に>という点。
 男でも女でも、自分に才能があるのかどうかなど最初から察知することは困難である。また、自分に合ったジャンル、自分の才能が伸びやすい仕事は必ずあるものだが、出会うまでに時間がかかることもある。さらに、若い頃から継続してこそ才能が開花する仕事も多い。先の言葉はどうしても実もふたも無い表現≠ニ感じるがいかがだろう。
 もう一つ、愛や性の裏面を(意図的に?)見落としていること。
 先日(2月5日)起こったNASAの女性宇宙飛行士(女性に「士」はおかしいのだが……)による殺人未遂事件を見るまでもなく、人間の性的エネルギーはしばしば暴走するものだ。愛情が執着心や嫉妬心に変ると誰もが自身をコントロールする術を失ってしまうし、この愛情の変質はごく日常的に起こるものである。愛は「善」としてのみ扱うことはできないのだ。勿論、一冊の本でそうしたもの全てが語られることは期待できないが、愛には裏面もあることは心得て読まねばならないだろう。
 ちなみに仏教では、愛が菩提心に随順する内容で語られる場合は、梵語で「プレーマ」という語が多く用いられ、「愛」が欲望や執着・貪り・煩悩などに向いた場合は主に「トゥリシュナー」と表現される。
(参照:{真宗では「愛」をどうみるか}

 このように問題点を含んだ内容ではあるが、現代人必読の書であることは確かだろう。

[Shinsui]


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