物語としては実に単純。
妻に先立たれ認知症を患ったしげき≠ニ、子どもに先立たれ心を閉ざした介護福祉士真千子≠フ二人が、それぞれの体験の中で死者との最後の別れ≠果たしていく物語である。
台詞らしい台詞はなく、まるで記録映画のように話が進むので、身近な人との悲劇的死別を経験していない人にとっては退屈極まりない映画だろう。私自身はそうした体験があるので、心につかえていた過去の何かが疼く≠ニいう感覚があったが、それでも映画としてはかなり緩い。冗長と言える展開だったが、唯一はっとさせられる場面があった。
それは、山中でそれぞれが殯の体験をしている中、ヘリコプターのエンジン音が森に響く場面である。これは捜索ヘリなのだから、二人にとって本来は救助のための音なのだが、押し付けられたような響きでいかにもけたたましい。急にこの「殯の森」が矮小化された舞台に見えてしまうのだ。これは現代社会が殯[もがり]という大切な期間を失っていることの象徴だろうか。
なおこの殯とは、一説には「喪[も]あがり」という意味で、今で言えば喪中[モチュウ]から忌明けに相当する。古代日本では、遺体は棺に収め、本葬までの間は別れを惜しむ仮の小屋(喪屋)に安置されていたのだが、これは貴人の葬儀儀式の一環だったようだ。記録によると殯の期間は一定ではなく、この差は死に至る経緯が関係すると言われている。
ちなみに喪[モ]と忌[キ]の違いについては、単純に言えば、「喪」は自発的・自然的な慎みで、「忌」は規則的・強制的な慎みである。確かに現代社会には「忌」はあっても「喪」が欠けていると言えよう。
(参照:{喪中と喪中葉書について})
すると現代人は、亡くなった人とどのように最後の時を果たせば良いのだろう。
殯という習俗は現代に復活させることは可能なのだろうか。
こう問うてみると、少々難問であることが解る。
現代日本の葬儀は極めて定型化・セレモニー化してしまっている。遺族は、悲しみの感情が未成熟なまま死者を見送り、「ただ白骨のみぞのこれり」の後には、長く孤独な虚無感を味わうことになる。それこそ映画の冒頭で問われていた「生きている実感」が獲得できないまま生きるのが現代人なのかも知れない。それに比べると殯という風習は、遺族にとってはとても温かく優しい習俗なのだろう。蛇足ながらこの「生きている実感」というのは、仏教では「信位」において獲得してゆく境地である。
(参照:{正定聚・不退転の菩薩について})
もちろんこうした風習には迷信が入る余地が沢山あり、殯の習俗そのものを真受けすることはできない。しかし、「前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ」と『安楽集』にあるように、死別がそのまま断絶とならぬよう、感謝をもって大切な真心を継承すべきだろう。そして周囲も温かい気持ちで遺族と接し、殯に代わる優しい別れの期間を設けていきたいところだ。