秋から冬にかけてのこの時期、「喪中はがき」が届く季節となります。仏教的・浄土真宗的には、この風習をどう理解し、実際にどう行動すれば良いのでしょうか。当方にも毎年こうした質問が送られてきますので、以下、具体的に考えてみたいと思います。
宗教用語というのは、時代とともに変化することが多々ありますが、変化が「迷い」によって起こるものと、「覚り」によって純化・発展するものがある、という別には注意が必要となります。
世間一般では上記の原因のうち「迷い」の比重が高く、「喪」もその例に漏れません。
辞書で「喪」を引いてみると――
[広辞苑]より
[新明解国語辞典]より
[百科事典 マイペディア]より
[白川静 常用字解]より
[学研漢和大辞典]より
とあり、「喪中」は「喪に服している期間」となっています。
さらに、「喪」は「忌」と並行して語られています。
「忌」は――
[広辞苑]より
[新明解国語辞典]より
[白川静 常用字解]より
[学研漢和大辞典]より
これは「中有」(死の瞬間から次の生を受けるまでの中間の時期)の思想と相まってより強固な儀礼となりました。ちなみにこれは正統な仏教思想ではなく、むしろカースト制度や外道思想を批判した中で引用されているのですが、後の人たちが批判精神を受け継がず、霊の概念を固定化・実体化し、霊魂として既成事実のように受けとってしまったために起こった誤りで、今もその悪影響が払拭されていません。(※参照: {魂という概念} {六道輪廻と浄土について} {六道輪廻の迷信性} {業道輪廻転生を否定する、これで仏法者か})
なお「忌」と「喪」の違いについては――
喪中や忌中が、上記の誤った思想に基いて行われたとき、果たして遺族は本当に心慰められ、生きる力を回復し、心豊かになれるのでしょうか。また周りの人たちは、この儀礼を通じて、遺族と新たな関係を築くことができるのでしょうか。
現実問題として言えば、ある一定の効果は認めなければならないでしょう。親しい人の死を経験した親族などにとっては常日頃と同じ心境で居られるわけはなく、煩わしい世間の慣習等から一定期間解放されることができるので、その効果を無視することはできないからです。
ただしこうした儀礼も、形ばかりが固定化し、生活を窮屈にしている面も否めません。さらに、儀礼の軸となる人生観や世界観が迷信に偏っていたり、周囲の人たちが消極的な姿勢で臨んだのでは、喪が「冷淡な遠慮」となる懸念があります。「死者を出した家人は一定期間、悩み悲しんでいなくてはいけない」という、ステレオタイプなレッテルを貼れば、その悲観的レッテルに遺族が支配され、周囲も悩みの解決に関して積極的になれない要因となってしまいます。
これは、迷信と不勉強が招いた結果といえるでしょう。現状打破のためには、人々を縛る迷信を排除し、遺族の身心や日常生活の回復に周囲が積極的になる必要があります。さらに、死別の厳しい縁を仏縁の徳に転じ、求道の起点となるよう努力することが求められます。
浄土真宗は、親鸞聖人の姿勢に見習い、迷信排除の方向を示していて、これは他宗の追随を許さぬほど峻烈です。
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
『正像末和讃』100,101 悲歎述懐
そこで、友引の葬式を避ける等の日柄を選ぶような習俗や、茶碗を割ったり清め塩を用いる習慣や、道理に外れた占いなどを信じる等、様々な迷信・俗信を批判してきました。
なぜなら、「自灯明・法灯明」という尊い主体や普遍的道理を、迷信は蔑ろにし、生きる方向を見失わせてしまうからです。迷信の打破ということは、一朝一夕に成せるものではありませんが、普段の活動の積み重ねによって社会に広めていくことが大切なのでしょう。
そうすると、「喪中」についてはどのように考えればよいのでしょう。喪中であっても年賀状を出してもいいのか、積極的に出すべきなのか、逆に世間一般に習って喪中葉書を出す方が良いのでしょうか。
実は、喪中といいますのは、本来(元来ではない)、如来の本願を通して、ご逝去された方と新たな出会いを果たす期間であり、そのために、世間の慣習等を破っても大目に見ていただける期間であり、遺族に対する周りの優しさをあらわすものでした。いわば、宗教的継承期間と位置づけることができるでしょう。
年賀状についていえば、「宗教的に重要な日々だから、年頭の挨拶を出すことができなくても仕方ない」と、周りから大目に見ていただける期間であるわけです。ですから、「喪中葉書を出す元気があるのなら、年賀状を出しても構わない」とも言えるでしょう。
しかし仏教は、一理にかたよって全体を忘れてはならないことも教えます。理論と現実が遊離しては徳を得ることはできません。喪中の期間を有効に使い、ご逝去された方の遺徳を偲び、導かれ、如来の本願をより一層深く領解・体解させていただくというのは、とても重要な経験であるわけです。
また、「普段の年と同じように年賀状を出す」ということは、如来と私の関係においては問題ありませんが、親戚や友人との関係においても同様かは、その人の普段の生き方や徳、つまり実績が問われていきます。つまり、「教義上問題ない」ということと、「現実に問題がない」ということは、関係はあっても、関係性の種類が違ってきます。専門用語で言いますと、「理事無礙法界」と「事事無礙法界」にあたり、ここで問われるのは「事事無礙法界」についてであり、親戚や友人の胸に私の姿がどう映っているか、ということを離れて答えを出すことはできません。喪中でも年賀状を出す状況にまで成っているのか、ということを鑑みる必要があるでしょう。
そうすると「年賀状を出すか出さないか」に問題があるのではない、と分ります。出す意味はどこにあるのか、出さない意味はどこにあるのか、と問い、周りとの関係性の上に自分が育てられる事実をしっかり見極めて日日を重ねていく、ということが肝要なのでしょう。
以上、基本的な姿勢を述べてみましたが、もし喪中葉書を出すとすれば、どのような形にすれば良いでしょう。
一般的な喪中葉書の場合、たとえば――
喪中につき年頭の
ご挨拶ご遠慮申し上げます
○月○日に父○○が永眠いたしました
茲に賜わりましたご芳情を厚くお礼申し上げますと共に
明年も変らぬご交諠のほどお願い申し上げます
というような文面になっていますが、これでは、習俗に従って挨拶を遠慮すると言いつつ、実際には、年頭にする挨拶を今年中に済ませておく、という慌しい挨拶になってしまっています。また、「永眠」という言葉からは、先に挙げました<喪が「冷淡な遠慮」となる懸念>を抱かせます。
本当は、仏縁を通して故人と新たな出会いが展開する、というように、喪中を有意義な期間として理解したいわけです。こうした気持ちを表そうとすれば、たとえば以下のような文面はいかがでしょう。
喪中につき年頭の等を基本に、故人の人となりや、思い出のひとつでも記されれば良いかと思います。
ご挨拶ご遠慮申し上げます
如来の本願を胸に
本年往生(還浄)致しました母○○の遺徳を偲び
深く信心領解させていただきたいと願っております
茲に賜わりましたご芳情を厚くお礼申し上げますと共に
明年も変らぬご交諠のほどお願い申し上げます年 月 日
拝啓、慈光照護のもと貴台益々ご清祥のことと存じます。
さて、本年○月○日に、夫○○ が
私たちに愛別離苦、諸行無常の教えを伝えお浄土に往生致しました。
ここに、貴殿よりいただきましたご厚情に深謝致しますとともに
明年も変らぬご交誼を賜りますようお願い申し上げます。年 月 日
皆さまにお世話になりました妻○○が、本年○月に還浄いたしました。
いまだ寂しさは去りませんが、ともにお念仏喜ぶ日々が思い出され、
苦難の人生を通してこその真実報土であると、
今ひしひしと領解させていただいております。
ここに賜わりましたご芳情を厚くお礼申し上げますと共に
明年も変らぬご交諠のほどお願い申し上げます年 月 日
また、もし年賀状を出されるのでしたら、相手によっては「喪中ではありますが」等、何か一言添える必要はあるでしょう。
死別が家族にとって重大事であることに宗旨の別はなく、この痛みを受け入れつつ年頭の挨拶をするのですから、文面は各自の信心領解が表れる場となるわけです。
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