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【映画・書籍等の紹介、評論】

2001年宇宙の旅

2001: a space odyssey

― SF映画の最高傑作 ―

[1968年製作/監督:スタンリー・キューブリック/原作:アーサーC.クラーク/出演:キア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ダクラス・レイン 他]

SFの時代がついにやって来た


◆ 本物より現実感がある映像

 現在では、宇宙からの映像は頻繁にお茶の間に届けられ高解像度で見ることが可能となった。それは確かに美しいし、これは紛れも無く正真正銘ホントの宇宙の映像である。
 しかし、どうしても「これが宇宙だ」という実感が乏しい。私たち人類が宇宙に対して抱き続けてきたイメージは、もっと深遠で厳しいものであったはずだ。そしてそのイメージに最も近く、最も本物らしいウソの映像がこの映画『2001年宇宙の旅』にはある。

 山にしろ海にしろ、仰ぎ見ているうちは神秘的だが、身近になると飽きて、しまいにはごみ捨て場と化す。宇宙も頻繁に出かけていくうちに自分たちの領域と思い込み、偵察衛星を打ち上げたり、戦争や商売の世界と化してきた。この映画は1968年に公開されたのだが、当時まだ人類は月に立ってはいない。近代科学が数字に表した宇宙観はそれ以前とは比べるべくもなく現在に近いが、皆、まだ宇宙は神秘の世界として受け止めていた。作った映像の方が実の映像より深みを感じるのは、こうした宇宙を畏怖する気持ちが反映されているからではないだろうか。

 そしてその気持ちを超越者の使わしたモノリス(太陽と惑星が一線に並んだ時に反応する漆黒の板)で表し、この謎の物体に人類と宇宙の関係を位置づけてゆく象徴の役割を担わせている。

◆ 様々な解釈が可能

 この映画がまず意表をつくのは導入部で、「宇宙の旅」のはずが猿(に似た人類の祖)の喧嘩シーンを見せられる。やがてモノリスが登場し、それに触れた種族が武器を用いる人類に進化する。このモノリスは契約書(石版)的な解釈もできるが「触れた(契約した)から武器を許された」のか、「やがて武器を持つはずの種族に先手を打って契約した」のか。これはどちらかというと前者の解釈の方が妥当だろう。

 ここからは歴史に残る名シーン続出である。特に、武器で勝利した猿(=最初の人類)が骨を放り上げて、突如宇宙船に早変わりする場面は映画史上最も有名で、様々な解釈も可能である。例えば―― [人類の文明が暴力にまみれた連続であることの暗示] [この後起こる出来事の不吉性] 等である。その後、観客はJ.シュウトラウス,Jr君のワルツにのせて無重力を疑似体験できる。
 やがて宇宙ステーション(衛星ヒルトン)に到着する場面、月面基地の屋根が開き着陸するシーンは見る者をくぎ付けにする。ストーリーの展開がほとんど無いので、観客は視覚の快感にたっぷり酔える(もしくは眠気を催す)のだ。ここで再度人類はモノリスに触ることになるのだが、観光客のように記念写真を撮ろうとした瞬間、黒い板は強烈な電磁波を発する。その信号を追って政府は木星探査船ディスカバリー号を派遣する。

 ディスカバリー号内で起こる事件は一見単純であるが、心理面も考えると実に複雑で謎も多い。

 まず最初に「誰がこの事件全体を仕組んだのか」であるが、背景に第3のモノリスの存在がある。武器を最初に持った人類がモノリスとの関係であったことを考えると、黒幕はモノリス、つまり「家主」ということになるだろう。
 その他の謎として――

 このように様々な謎を含んでいながら、このミステリーは『2010年』でもほとんど回答を与えていない。単に要因の一つとして「政府の秘密指令がHALに矛盾した思考を強要したため混乱をもたらした」ということだけである。

 こうした多く謎については、公開当時から様々な解釈が持ち上がっているし、現在も新たな説が展開される程である。例えば「ボウマン犯行説」や「HAL予言者説」「HAL悪魔説」「モノリスの影響でHALが狂った説」等である。その一つ一つを述べる事は差し控えるが、とにかく何度も見ないと謎は解明できない、というより未解明。どの説も部分的な解明に留まっていて完全に納得できる解釈はない。まさに歴史を超えたミステリーである。

 またプール殺害の場面や冬眠中の科学者が静かに殺される場面は、どんな暴力映画よりも恐ろしく背筋が凍る。「バトルで血しぶきが飛ばなければ暴力が描けない」と思っている昨今の映画界に、もう一度本物の恐怖を描く感性を持って欲しいと願わずにはいられない。

 それにしても、この「ほんの些細なミスも犯さない」というコンピューター『HAL9000』は、いかにも60年代の想像の産物である。現実世界に存在するコンピューターに「完全無欠」を要求する人はいない。おそらく当時は、コンピューターがこれほど不完全なまま、しかも個人向けに出回るようになる、などと想像できる人はいなかっただろう。ましてノートパソコンや携帯電話からのインターネットへのアクセス、などは現実の方がフィクションより進んでいる感がある。

 さて、闘いに勝ち、HALを“デイジー”の歌とともにフリーズさせたボウマンは、その直後、ビデオから流れる政府の秘密指令を見る。その指令を受けてポッドに乗り込んだ彼がそこで見たものは――宇宙の誕生から銀河や星の生成、見知らぬ惑星上空の飛行等、余りにも雄大な無限の世界であった。そして突如、美しくも生活感がまるでない部屋に閉じ込められ、食べて寝るだけの生活を強いられる。これは仏教流に言えば「七宝の監獄」であろうか。そして老いさらばえたボウマンの前に再びモノリスが出現し、彼はスター・チャイルドになる。それは巨大モノリスに飲み込まれた人類の永遠の営みであり、新たな進化の兆しであった。

◆ 音と視覚の効果

 先に「作った映像の方が実の映像より深みを感じる」と書いたが、これには効果的に訴える音のせいでもある。後に作られた『2010年』等の映画と比べてみると分かるが、『2001年』は実に静かである。台詞もごく限られていて無駄が無い。スタンリー・キューブリック監督の製作姿勢ははっきりしている。宇宙に饒舌は似合わないのだ。ちなみに映画としての『2010年』は『2001年』の続編とは認め難い。なぜならキューブリック監督の作品ではないからである。この映画において原作の果たす役割は10%にも満たない。映像の示す感覚的なメッセージこそが主役なのである。

 また音楽の用い方も秀逸で、それぞれの曲が思想的な領域にまで踏み込んでいる。

 まずオープニングでリヒャルト・シュトラウス作曲の『ツァラトゥストラはかく語りき』の冒頭部分が奏でられるが、これはニーチェの超人思想を意識しているのは明らかである。つまりこの映画はキリスト教的な世界観を否定し、他の宗教の影響を受けながらも独自の神秘的世界を展開する暗示となっているのだ。なおこの曲はエンディングのスターチャイルドが宇宙に漂う場面でも用いられている。

 またモノリスのテーマ曲ともなったジョルジ・リゲッティ作曲『ソプラノ・メゾソプラノ・二つの混声合唱と 管弦楽のためのレクィエム』は、人類の進化が決して明るいものではなく死へ通じていることを匂わせている。

 そしてやたら哲学的なテーマにうんざりしてきた観客は、骨と宇宙船の早変わりからJ,シュトラウス二世,Jr作曲の『美しく青きドナウ』で一息つくことになる。もしここでも不安を煽るような曲が使われていたら、SFおたくはさておき、一般の観客はたまりかねて「ハヤク 進入口を開けろ!」と怒鳴って映画館を出て行ったことだろう。

 その他、月面を飛ぶムーンバスの場面ではジョルジ・リゲッティ作曲『永遠の光を』。宇宙船ディスカバリー号の飛行場面ではアラム・ハチャトリアン作曲『ガイーヌ』中のアダージョ。どちらも先の展開と好対照であるが、それが逆に心にしみてくる。

  そして特筆すべきは船外活動における空気音で、耳について不快になってきた頃、飛行士プールが殺される場面でそれが途絶える。すると「あの音が命をつなぐ音だった」と再認識させられるのである。またヘルメット内の狭い息づかいは、宇宙という無限の広がりの中で小さな檻に閉じ込められている人間を映し出している。

 最近の映画はCGの発達でどんな場面も作れるようになった。そのためこうした「観客の想像力を刺激して広がりを持たせる」という手法は影を潜めてしまった感がある。映像も「説明」が多いし、台詞は「主張」ばかり。物や言葉は多すぎるとろくなことはない。最小限度に留めるべきであろう。

 

触ってみるかね?

Vo¥oV
フォフォフォ

話はまだ 『2001年宇宙の旅』についての新たな考察 に続くよ。

ついでに 『3001年終局への旅』 も読んでね。

[Shinsui]


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