ハードSFの御大であるアーサー・C・クラークが1997年に放った『3001年終局への旅』は、現代科学の延長を基本に壮大な未来を提示している。この当時も今も社会的に頭痛のタネといえば、コンピューターウィルスにテロや不景気だが、これらは1000年後にも大きく影響を与えることになるらしい。
ご存知『2001年宇宙の旅』に始まる<オデッセイ>4部作の最後を飾る小説がこの『3001年終局への旅』である。第一作が1968年で最終が1997年だから29年間、もっというと『前哨』は1948年だから49年間、宇宙開発が爆発的に発展する時期と平行して書かれたシリーズゆえに、4作品の整合性には矛盾点が生じつつも、主題は統一して書き進められている。そしてその主題を象徴しているのが黒いモノリスであろう。
さて、その「モノリスとは何か?」というSFファンなら必ず発する問いに、この小説ではあっさり「プロローグ 魁種族」で答えを出している。それによると、<純粋エネルギーにまで進化した銀河系覇者の召使い>であり、<生物の進化(時として破滅)実験を操る道具>であった。
この召使いが21世紀初頭に発信したレポートにより、1000年後の人類に危機が訪れるのだが、その両時代を体験するのがフランク・プール。そう、2001年にコンピュータHALによって宇宙に放り出され殺されたはずのプール君である。
彼は1000年の間宇宙空間を漂っていたのだが、偶然、スペースガードのレーダーに発見され、海王星の軌道外で活動していたチャンドラー船長に救出され、「地球のすぐ近く」で処置を受け蘇生する。やがて事実を受け入れたプールは、<とうの立ったゲイシャ・ガール>風の歴史学者インドラ・ウォーレスの助けを借り、その時代(未来)を宇宙飛行士ならではの興味をもって観察しまくる。
まず彼の度肝を抜いたのが、赤道上空36,000キロにおよぶ超高層タワー(つまり約10,000,000階の摩天楼)で、次に2010年から光を発している木星(ルシファー)、また頭脳に直接情報を取り入れるためのブレインキャップ(容量はペタバイトつまり10の15乗が基本)、恐竜の庭師(ベビーシッターとしても優秀)等である。
また、世界中がグリニッジ標準時(恒星時を採用)に従って正確に12カ月30日ずつのカレンダーになっていたり、アングリッシュ(白系英語)が世界言語になっていたり、旧宗教はみんな威信を失いすべて理神論者か有神論者になっている、狂牛病が他の食用動物に飛び火して合成食品が一般的になる、等の変化を受け入れていく。
やがてプールは、現地での目標を失い、彼を救出したチャンドラー船長とともに木星(ルシファー)に向けて旅立った。目的地は衛星ガニメデだったが、独断で禁断の地エウロパ(生物の進化を見守るためにモノリスがガードしている)へも立ち寄り、かつての同僚ボーマンとコンピューターHAL(ともにモノリスのメモリ空間に存在)に再会する。彼らは多少の自律性を保ちつつモノリスに取り込まれていたのだ。
さて、その後プールは地球に帰還し、30年たった。その間、チャンドラー船長は彗星の爆発で死亡。プールはインドラ・ウォーレスと結婚し2人の子どもに恵まれていた。また彼はエウロパ委員会の終身メンバーとなり様々な相談に応じていたが、ある日突然ハルマン(HALとボーマンの結合体)から連絡が入った。地球に危機が訪れようとしている、というのだ。
21世紀初頭、<召使い>であるモノリスは、人類の様子を450光年から500光年彼方にある<純粋エネルギーにまで進化した銀河系覇者>へ最終レポートを送ったが、この時期は「人類の歴史のなかでも最悪の時期のすぐあと」であり、レポートを受けた上司は、どうやら地球を滅ぼす方針らしい。そしてその指令が往復1000年かけてモノリスに届いた。ハルマンは1000年間に得た内部情報から判断して、この人類抹殺計画に気付き、プールに警告してきたのだ。
木星を太陽化したり、蠍座の惑星を一瞬に破壊する威力からすると、とても武器では対抗できない。そこで月の地底1キロメートルに埋められた保管庫(ここには“殺人教団も使用した”という毒ガスや、細菌、化学兵器、生物兵器、そしてコンピューター・ウィルス等が収められていた)から、最も破壊的なプログラムを20種類選びモノリスに感染させる、という「トロイの木馬」作戦を決行することになった。ハルマンは、モノリスの製造者よりはるかに高度な存在まで匂わせ、「想像していたよりはるかに自由は少ないのかもしれない」という絶望的な予測を立てるのだが・・・
モノリス対人類の対決は、結果的に映画『インディペンデンス・デイ』と同じ武器を用いることになってしまっている。モノリスや上司の存在はフィクションであり、その存在は謎のままの方が楽しめたから、以下クラーク氏の描く人類の未来像をもう少し覗いてみよう。
「・・・あなたに識票(アイデント)をわたさなければ。そうしないと、あなたは――用語は何ていったかしら?――無国籍者のようなものだから。それがなければ、ほとんどどこへも行くことはできないし、何もすることはできません。どんな入力装置もあなたの存在を認めないんです」
[3 リハビリテーション]
こうした管理社会についての賛否は、やがて日本の国会においても議題に上る日が来るだろうと思う。識票は管理する側にとっては便利だろうが、もし本気で考えるのであれば、マイノリティーの人権が確立されて、差別のない社会が実現してからにしてほしい。また、個人情報の保護が完全に確立するまでは危険といえるだろう。
アングリッシュ(白系英語)がいま世界言語であるのはその点ありがたかったが、フランス語、ロシア語、中国語もまだ勢力を保っていた。
[9 天空の楽園]
――ということは、それ以外の言語はすたれてしまうのだろうか。日本語は? ドイツ語は? イタリア語は? アイスランド語は? リブ語は?・・・ それに、「まだ勢力を保っていた」というのは「そのうち淘汰される」という意味だろうか。
未来の予測というのは、まず言語地図から詳細に検討しないと立てられない。現在(21世紀初頭)は世界中で1万以上の言語と約400の文字体系があるが、上記のような有様になっては、とても豊かな未来とはいえまい。クラーク氏の言語に対する見識はちょっと傲慢でお粗末である。
「・・・友人のなかに“宇宙駆動”を無想している連中がいた。ロケットに取って代わるエネルギー場で、加速を感じないで飛行できるやつだ。ぼくは気が狂っていると思っていたんだが、どうやら彼らのほうが正しかったようだね!」
[9 天空の楽園]
「ところが、最後に笑ったのは昔の画家たちだ。教えてやれないのが残念だよ。ゴライアス号はわれわれがケープから打ち上げていた空飛ぶ燃料タンクより、彼らが無想した宇宙船の方にずっと近い」
[14 地球よ、さらば]
夢は大きければ大きいほど、遠い未来を想像し、そして創造できる、ということだろうか。
「では、なぜぼくのいた時代に興味を持ったんだ?」
「なぜかといえば、あの時代が野蛮から文明への移行期にあたるからよ」
「わかったよ。ありがとう。じゃ、ぼくをコナンと呼んでくれ」
[13 異時代の客]
クラーク流の楽観論で、今後人類は野蛮性を排除できると読んでいる。まあ、そう願いたいような、願いたくないような・・・。ちなみにここでいうコナンは、イギリスの作家ではなく、アメリカのコメディアンでも日本の名探偵少年でも未来少年でもなく、マッチョなキンメリア人である。
五万キロ離れると、スター・シティの全景が、地球をめぐる扁平な楕円となって見わたせるようになった。遠い側は星空を背景に一筋の細い線となってかろうじて見える程度だが、人類がとうとう天空にこんなしるしをかけわたしたかと思うと、鳥肌が立つような思いだった。
[14 地球よ、さらば]
地球上に4つの超巨大タワー(3万6千キロ)が建ち、それらをつないでスター・シティーが土星の輪のように広がっている、という地球の未来図だ。もちろん<テロなど無くなっている>ということが前提だろう。ちなみに、この小説の発表は米中枢同時多発テロの4年前である。
「運よくいけば――それに、例の太陽スクリーンをうまく同期軌道に乗せることができたら――恒久的な海が遠からずできるはずだ。そうしたら、珊瑚礁を置いて石灰を作り、大気中からよけいな炭酸ガスを除去できる・・・生きていてそれを見たいものだな!」
[15 金星面通過]
金星の地球化を計る未来人。彗星を拾い集めて金星に落とすことを繰り返す、という計画だが、気の長い話である。もしあなたなら、暖かい金星に住みたい? それとも涼しい火星? 私は地球、それも地表に住みたいと思うけど、やっぱり、古ーい人間でござんしょうかね?(ホントに古い)
あなたたちの解決法――刑務所。国家がスポンサーになった堕落の温床―― 一家族の平均収入の十倍もかけてひとりの収監者を養っていた!<中略> だけど公平に見たとして――電子モニター方式と制御法が完成するまでは、ほかに代わるものはなかった――歓喜する群衆が、刑務所の壁を打ち破っている情景を見るといいわ――それより五十年まえのベルリン以来の壮観よ!
[15 金星面通過]
かつてプールの従者だったダニルも、元犯罪者で電子制御を受けていた、と、これで分かる。彼は[32 悠々閑々]にあるように、後に社会復帰するが、制御中のことは覚えていない。本当に刑務所より電子制御の方が良いのだろうか? それに安全性はどのように確保されるのだろう。この装置を悪用すれば洗脳もできるはずである。
「ああ、熱地獄ね。だが、あれはかたづいた」
「最後はね。地球の半分を反射膜でおおって、ようやく太陽熱を宇宙に返したんだ。でなければ、いまごろは金星並みに茹だってる」
[16 船長のテーブル]
「こんな大それたことをしないと止められないほど地球温暖化は際限がない」という警告だろうか。それとも、「そういう方法があるから温暖化を懸念する必要はない」と言いたいのだろうか。おそらく「こんな方法もあるよ」程度の話だろう。
「旧宗教はみんな威信をなくしたと、きみはいったね。では、いまの時代、人びとは何を信じているんだ?」
「信じるにしても最小限という路線ね。わたしたちはみんな理神論か有神論よ」
「さっぱりわからない。定義をお願いしたいね」
「あなたの時代にもすこし違いはあったけど、最新版はこういうこと。有神論は神はひとつ以上は不要だという派。理神論は神はひとつ以下では困るという派<中略>・・・一番有名な理神論者はアメリカ人よ――ワシントン、フランクリン、ジェファーソン」
[9 天空の楽園]
「いくら眉唾に思えても、神がかつて存在したという確証は持てないんだ。存在したが、いまは無限のかなた、誰も手のとどかないところへ飛んでいってしまったとか・・・ゴータマ・ブッダとおなじように、この問題にはわたしは中立だ。わたしの専門は、宗教という名の精神病理だよ<中略>・・・九十九パーセント重なりあう場合でも、残りの一パーセントがちがえば、外部の者にはちんぷんかんぷんの細かい教義のずれをめぐって、殺しあいや拷問までしてしまう。<中略> この問題の一番困ってしまうところは、明らかな狂人たちが、いつの時代にも、神のことばを受けとったと――それも自分だけ!――公言してはばからなかったことだ」
[19 人類の狂気]
知ってるでしょう、ソビエト帝国の大統領ミハイル・ゴルバチョフ、二十世紀の末に国家的犯罪と行き過ぎ行為をあばいて体制を解体したこと。
教皇はそこまではやらなかった――改革を望んだだけだけど、もうそれも無理ね。ピウス二十世がおなじ考えを持っていたかどうかは、もうわからない。異端審問をおおやけにして世界を震撼させたあと、ひとりの狂った枢機卿に暗殺されてしまったから・・・」
[20 背教者]
クラークの宗教観は、旧来の、つまり現在までの宗教、特に西欧の宗教に否定的(ケチョン ケチョン)である。ただ、これらは神を崇める宗教だから仏教が入っているとは思えない。もしここまで踏み込んで述べてあれば、もっとコメントを書かせてもらったのだが、ちょっと残念。
なお、[13 異時代の客]にあるように、かつてのHALプロジェクトのリーダーのチャンドラ博士はヒンズー教徒だった。
長年わたしは、HAL(ハル)の名前が、IBMのアルファベットを一字ずらしただけだという――まったく根拠のない――噂に悩まされてきた。このコンピューター時代の神話を払拭しようと、『2010年宇宙の旅』ではハルの発明者チャンドラ博士に、わざわざこれを否定させもした。ところが最近聞いた話では、この連想に迷惑するどころか、ビッグ・ブルー(IBMのニックネーム。社名のロゴの色から)は、いまやこのことを自慢しているくらいだとか。というわけで、間違いを正そうとする試みは今後放棄する。
[謝辞]
HALの名前についての逸話は既に定着していて、今さら訂正できないほど神話化している。神話というのは大概こうしたものだが、事実よりも作り話の方が面白いし、まことしやかに伝わる。IBM関係者以外の人間にはどっちでもいい事だが、酒のつまみにはなる話であろう。
一般論として、いわゆる先進国の人間、中でも成功者は世界の標準化を好む傾向にある。これは現在までの歴史と、そこに生れる利益の配分量から見て、どうしても彼らは標準が確立されたところに落ちつきたがるのだ。また、科学は標準が確立されていないと不便なので、いきおい先進国の科学者は最も標準化に乗り気である。アーサー・C・クラークももちろん例外ではない。この小説の前提になっている世界は、地球全体が標準化を受け入れ、野蛮性を排除した文明である。
しかし言語の淘汰や標準時の採用は、言語や時間を生活の場から切り離し、地球規模の情報網を基本とする数値に置き換えることに他ならない。また人類の総識票化は、管理社会を全人類が肯定したところでしか存続できない。
文明や人間を数値化した世界が本当に理想郷なのだろうか。無数の価値観や視点が独立して並走し、互いに絡み合う世界の方が豊かだと思うし、科学の進歩にとっても、平坦な無機質化を脱せられるように思う。
また、標準化は自由競争を促し公平な競争を約束するようにその推進者は標榜しているが、元々格差のあるところに自由競争を持ち込めば、勝者はより利益を生み、敗者はより不利益を被る。テクノロジーの発達が精神の安定をもたらす、というのは現代の神話でしかない。
実際、人類の歴史は、そうした格差との闘いに多くを費やしてきたし、今後もそうした動きを封じ込めることは不可能だろう。人は富の絶対量より相対的な格差の方に眼が向くものだ。そしてその数値が絶望的に開いた時、絶対量を破産させても格差の破壊に暴走する。これを人類の野蛮性として排除するにはあまりにも俯瞰的な視野でしかないし、その俯瞰も勝者の視点でしかない。小さな声をいかに聞き分けるか、ということにこれからの社会は進んでいくべきで、そうでなければ未来は地獄である。
また、特に言語の淘汰はできる限り引き留めるよう警鐘を鳴らすべきである。多様な価値観は言語の多様性から生み出されるからだ。西欧の宗教に、かつて<全地は同じ言語を持ち、同じ言葉を話していた>とする思想がある(バベルの塔の物語)のは知っているが、まさかクラークがその信者とも思えないので、ここはぜひ一考してほしかった。
さらに、<純粋エネルギーにまで進化した銀河系の覇者>という設定はこのシリーズの隠れたテーマだが、残念ながらこの設定に現実味はない。おそらく<魁種族>が機械化した段階で、種族の多様性は失われ、進化は直線化し、いずれ挫折するだろう。どれほど多くの情報を得ても、それを判断し生かす側の多様性がなければ、単に情報の寄せ集めで、種族の進化を伴いはしない。まして<純粋エネルギーの生物>になった途端、それは情報の渦でしかなくなる。情報の渦は星の渦と出会っても創造の機会はない。創造がなければ、それは種族の退化を意味する。
さらに言うと、多様性は存在の危機を元としていて、そうした懸念の無い存在からは創造力は生れないのだ。
以上、私が抱いた疑問の一旦を披露した。もしこれらの疑問が1000年後に<野蛮人の戯言にすぎなかった>と判断される状況であるとすれば、せめてスター・シティにテロを敢行する輩が未来永劫現われないことをささやかに願うのみである。
銀河系の覇者は私だ Vo¥oV |
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