平成アーカイブス


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【コラム】

平成13年10月7日

「シートプラスティネーション標本」を見て

― 樹脂に保存された人体 ―

「プラスティネーション(Plastination)」という技術をご存知だろうか。

 かつて、解剖学の資料や病理学教育用標本は、フォルマリン溶液やアルコール液に浸けて保存したのだが、これら固定液は刺激臭があり、通常は標本の観察はガラス瓶の外からしか適わなかった。ところが1977年、固定液を完全に樹脂に置き換える技術が開発され、標本を手にとって観察できるようになった。また薄くスライスした標本(シートプラスティネーション)にすると、そのまま筋組織や血管の構成を見ることができる。

 開発者はドイツ・ハイデルベルグ・プラスティネーション研究所のグンダー・フォン・ハーゲンス博士で、「人体の細胞から水分を抜き、そこに樹脂を染み込ませ固めて保存する」という方法を開発。日本でも1995年以来各地でこの新開発の人体の標本が公開されている。

――と、まあ、こういう標本があるとは知っていたが、先月、いきなり実物を目にした感想は、複雑なものとしか言いようがなかった。もし「あなたも標本になりませんか?」と聞かれたら、「謹んで遠慮します」と答えるだろう。

 唯物論的な空虚さ

 フォルマリンに浸した人体の「教育用標本」などは、医学の研究機関等でしか目にすることはできない。一般公開では余りにも生々しく、嫌悪感を抱く人も多いだろうからだ。
 ところが、この輪切り状に薄くスライスされた人体は、一見すると芸術作品のオブジェのように写り、それが遺体であることを全く感じさせない程である。事実、この特別展に来ていた子ども達はこれが何なのか理解できていないようだったし、大人でも説明文を読まない人は「よくできた模型だね」と感想をもらしていたが、こうした人体の見せ方については少し考えざるを得ないだろう。つまり、そこには遺体に対する嫌悪もない代わりに、死を余りにも軽く考える傾向を助長しはしないだろうか、という懸念があるのだ。

 フォン・ハーゲンス博士は、今年(2001年)の5月にベルリン東駅ビルで開催された『人体の不思議』展で、「通常、死を直視するのは愛する人を亡くした場合に限られるが、このショックは大きいものだ。それゆえ、死について考えることに心を閉ざしてしまう。ただただおびえているわけだ。今回の展示会をご覧になれば、楽しい気分で――お祭り気分でも――死にアプローチできるようになるだろう」と語っている。また「展覧会で私がしていることは、死体にプラスティネーション処理を施し、生きているときと同じような美しさでそれらを見せることによって、生と死の隔たりを狭めることだ」とも述べている。

 勿論、ただ怯えて「死について考えることに心を閉ざしてしまう」ことは、生の裏側にある死を忘れることであり、人生が浮ついたものになってしまう。また、生と死に隔たりを設けることは人生の行く末に光明を見出せない結果を招くだろう。今生きている者は、先に往かれた人々の声を聞き願いを受け入れて生活することで、人類の歴史に能動的に参画できるのである。

 しかし、この人体プラスティネーション標本を見る限り、そうした「生と死の隔たりを狭める」ことに寄与しているとは思えない。なぜなら、ここには生と死に関する本当のメッセージは含まれていないからだ。そしてそのメッセージ性の無さは、安易な「生と死の隔たりを狭める」ことにつながりはしないだろうか。

 どの時代にも存在するのだが、「唯物論」という考え方がある。全ての存在が物質的な尺度で説明できると考え、その上で価値観を想定していく思想である。これは「六師外道の思想について」 にも掲載したが、古代インドにおいてもあった伝統的な思想なのだ。しかしこの思想の欠点は、「善を求め努力する心を失わせ、道徳を蔑ろにする」と、仏教では考えた。つまり唯物論の真偽そのものではなく、「その思想は私の人生を善に導かない」という理由で廃したのである。人体プラスティネーション標本からは、ある意味そうした唯物論的な空虚さを読み取ることができる。

 仏法の光を当てると

 ただし、「生命を支える人体の、実に複雑な組成と美しさ」を見ることは可能である。ドイツでは教会の指導者などから、こうした展示を「神聖冒涜」と見なして憤慨する声も出ているらしいが、そこまでの非難は当てはまらないだろう。「生命の一側面を見る」という意味では価値を認めることもできる。
 ただしそれは、「生命の本質」というものが「自覚覚他、覚行円満」の活動にある、ということを知っていての話である。道の未だ定まらぬ者に樹脂に保存された人体を軽い気持ちで見せることは避けた方が良い。固定された人体は生命の名残りでしかないのに、そこに思考を執着させることになりかねないからだ。

 さらに私たちが考えなければならないのは、葬儀で遺体を埋葬する際に、どのようにお扱いすれば故人の思いが偲ばれるのか、という問題である。これはとりもなおさず、正しい法をいかに伝えてゆくか、という問題にもつながってゆくだろう。以前 [浄土真宗における墓の認識] にも書いたが、「某 親鸞 閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」(改邪鈔 16) のように喪葬を一大事としない諭しは、当時では画期的な主張であったが、巨大教団となった現在では、むしろ喪葬を整え、仏縁を深める機とすることが大切になってくる。

 地方によって事情が異なるだろうが、都会では遺体は最後の読経が終るのも待たず、途中で慌しく狭い釜に入れられ、まさに「処理」されてしまう。そのため遺族からは「もう少し時間をとって、ゆっくりとお別れしたかった」という声も上がる。私などは事情が許せば<野原か川原の広い場所で焼いてもらいたい>と望んでいるが、実現は難しいかも知れない。

 ただ、プラスティネーション標本を見るにしろ、釜で焼かれた骨をひろうにしろ、そこに長年にわたって生命を支え続けたものに対する敬意が払われなければ、単に生者が勝者として死者を見下したような形になってしまう。そしてそれは、今は生者である私たちの人生が実は暗鬱な方向に向っている、と表明しているようなものなのだ。
「真実はそうじゃない」と述べてみえるのが、万物の帰結する西方に「無量光明土」を建ててみえる如来の誓願だが、それを様々な形で表現していくことが、仏法を聞いた者の勤めであろう。

[Shinsui]

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