日本の歴史的宗教観でよく誤解されがちなのが「死んだ人はみな仏に成る」という安易な成仏論である。これをあたかも日本仏教界全体の宗教観であるかのように喧伝し、外交問題が起こった時もこの論を持ち出して説明する似非文化人や議員がいる。外交や政治問題はここでは略すが、情けないのは、普段宗教を大切に思っていない人間が、説明等のため急ごしらえで入門書などを聞きかじり、それであたかも自分は日本の宗教観を体得しているかの如く振る舞い、結局日本の文化全体の程度を貶めてしまっている現状である。
「死んだ人はみな仏に成る」などということは、どの経典にも書いていない。もしそう書いてあれば、信心も六波羅蜜も如来の願いも経典さえ不必要ということになる。これが要らなければ、仏教そのものが要らなくなるではないか。本当は、真実の求道(菩提心)なくして仏に成れるはずはないのだ。
仏とは最終的に「智慧と徳」が成就した人である。「自覚覚他 覚行円満」という結果が出てこそ仏に成ったといえる。つまり世の真実が解かり、領解した真心の智慧が行動となり、功徳(実績と信頼)が世に響き渡る人が仏なのである。これは、生きている時に「正定聚の菩薩」({正定聚・不退転の菩薩について} 参照)であった人、もしくは臨終において特別の引導があった人に限られる。
このことは以前、{地獄・極楽の分かれ目と麻原が救われる可能性} に詳説したが、慚愧と無上菩提心を起こさぬ限り、成仏はもちろん、浄土の功徳を受けることさえ望めない。この基本だけは知っておいてほしい。
たとえば経典には、父王を殺害し母を幽閉した罪深き<阿闍世王>が登場するが、仏陀の教説にあい、「人々の悪心を破ることができれば私自身は無間地獄に落ちても悔いはない」と自らの言動を深く慚愧し、多くの人々に無上菩提心をおこさせたことで罪が軽くなったことが書かれている。大乗仏教では、罪は自ら恥じ広く人々に申し出てこそ生かされる。「悪を転じて徳となす」ことで人類全体の利益となるのだ。
具体的にいえば、もし戦争等において罪を犯してしまったのなら、自らと人類の歴史に真摯な態度で向かい合い、罪を慚愧し真実の生き方を広く述べ伝えていくことが求められる。どんな人間も罪を作らぬ者はない。我が人生におけるあらゆる罪を深く自覚し他に述べ伝えることが仏と成るには必須なのだ。そして慚愧も為せぬほど深くして底のない悪業も、仏の願いとともに人類広大会の集い場においてこそ許しあってゆける。この場こそ三世(現在・過去・未来)一切の諸仏と「今・私が・ここで」出遇う「浄土」である。
死ねばみな仏となる前提にはこうした因縁果の道理がある。仏になる可能性は一切衆生に本質として宿っているが、実際の成仏は「死ねばみな仏」などと安易に語るべきではなかろう。
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