処世術は卑怯な学問か
処世の名を冠した仏も存在する
【十界モニター】
処世術は卑怯な学問でしょうか?
◆ 先人たちの失敗から学ぶ
「処世術」というと一般的に、権謀術数に長けた世渡り術≠ニか、本音と建前を使い分け、表面を取り繕う方法≠ニいうイメージを持たれていて、総じて余り良い印象は無いようです。特に宗教に関わる人たちからは目の敵[にされる場合が多く、処世術は奸智[・悪知恵に過ぎぬ=A修行を疎[かにした小手先のテクニック%凾ニ手厳しく批判される有様です。
確かに処世術にはそうしたテクニックに偏った面があります。このため一定の宗教的境地を目指す人間にとっては不要で邪魔な存在≠ニ見られ、それどころか邪悪である≠ニ弾じられることさえあります。いわば世を汚す悪道の一つ、正覚を得るためには避けるべき道である、との評価です。
こうした処世術に対する認識について、私はいくつかの例を用いて誤解を解きたいと思います。
- まず第一に、「正覚を得る前に処世術を身につける必要性は仏教経典においても確認できる」ということ。
- これは『仏説無量寿経』(巻上・正宗分・法蔵発願・五十三仏)の最後に「処世」の名を持つ仏が登場することからもその重要性が解ります。五十三仏は<悠久の大自然を背景として、幾山河を越えて来た、永い人生の一足一足の道みちに教えられ育てられてきた、これは命の叫び、血の記憶、その回想>と島田幸昭師は仰られてみえますが、人間の聞法史・精神史を仏の名において象徴しているのであり、最後の「処世」を経て「世自在王仏」という理想仏が見出されたのですから、法蔵菩薩にとっても、そして全ての人々にとっても、処世に学ぶことは人生成就には必須となります。(参照:{『仏説無量寿経』4})
宇宙や地球環境の成り立ちには法則があり、その法則を理解せねば個々の問題を解決できないのと同様、人生の問題も、歴史に示された人生処世の法則を学ばねば解決することは難しいのです。
- 第二に、「まだ正覚を得ていない人にとっては、特別の環境を得ないまま、処世術を用いないでこの五濁悪世を渡ることは余りにも危険だ」ということ。
- 私が見ていて一番恐ろしく心配な人は、宗教に関わり始めて間もない頃、過去の人生観を翻[し歩み始めた人です。この段階の人は往々にして当初の回心に満足し、体験した宗教的感激に自信を得、木を見て森を見ない状態のまま気が大きくなっていますので、相手が見えず社会が見えず、後で悔いの残る無防備な行動を取ったり、逆に頑なな態度で周囲と衝突しがちなのです。
こうした人でも「特別の環境」を得ていれば危険は避けられ、少しずつ客観性と社会性を再構築していけるのですが、現代の五濁悪世の環境でいきなり未成熟な信念を振り回せば、隠れていた魔種[が現れ、自他の身の破滅を招きます。かつての日本のように、各地域で講や道場が充実し「宗教的環境」が保たれていた時代であれば「処世術など不要」と言えるのですが、現代ではそうはいきません。一応の処世術を身に着けておかなければ、正覚を得る前に身ぐるみはがれ、他人に迷惑をかけ、精神的苦痛も避けらず、絶望的な状態に陥らないとも限らないのです。(参照:{自己探究は危険?})
- 第三に、「大向[うの賛同を得ている処世術は、古今東西、思想や民族を超えて共通する箇所が見受けられるので、普遍的な内容も多く含んでいる」ということ。
- 古今東西の思想を比較すると、宗教や民族の違いによる隔たりは余りにも大きく、共通の場において冷静に論じられる箇所は案外少ないのです。これでは本当の世界平和を実現するのは難しい≠ニ思わざるを得ません。ほんの小さな解釈の違いさえ絶対的な違いとし、互いを異端と決め付け虐殺しあってきたのが世界の宗教の歴史です。しかし処世術を見れば世界的に共通点が多く、ここを鍵にすれば相互理解の扉も開けるのではないでしょうか。
もちろん処世術には老獪[で姑息[な面も多々ありますので、基本的には宗教が生活の軸にならなければ末通った生き甲斐を得ることはできませんが、その生き甲斐を活かすためには処世術の助力も必要となるでしょう。宗教対立を避けつつ互いの宗教性を活かす智慧は、ほとんどの宗教において補足程度にしか述べられていないからです。宗教の本質において他宗教との真の語らいが無い。他を批判し見下すか、妥協程度の導きしかない。これこそ人類の悲劇のもとではないかと思われます。
- 第四に、「処世術は机上の空論ではなく、血みどろの、一つ間違えれば絶望に突き落とされるような現実から、地を這うような苦労の果てに得た智慧の集積である」ということ。
- 宗教は、まず「聖者に学ぶ」という形で、基本的に「私はこのような境地を得た」とか「このような導きを受けた」という内容を共有し発展させてゆくものです。こうした先人たちへの尊崇の念は大切なのですが、本当は同時に「私はこのような失敗をした」とか、「このような導きで痛い目にあった」という内容も共有すべきなのです。しかし多くの宗教団体は、前者のいわば精神の純粋培養≠フみを良しとし、後者の「失敗の共有」には余り積極的ではなかった節が見受けられます。本当は、宗教の導きの裏には先人たちの血みどろの葛藤があり、苦労し絶望と対峙したからこそ見えた戒めが山ほどあるのです。しかしこのマイナス部分は戒律として残っているのみで、積極的に人生論として纏[める作業が疎[かになっています。
どんな聖者も決して完璧ではありません。古今東西、誰一人、完璧な人間は存在しませんでしたし、今後もあり得ないのです。そんな完璧でない人間に、完璧な人間像を押し付けることが偶像崇拝の誤りなのです。功績の偉大さはさておき、偉大な立場だからこそ浮かび上がる欠点や、欠点を持つからこそ戒めるべき具体例を皆に公開すべきなのですが、宗教活動の中でそうした導きは余り高級なものとは見なされてこなかったのではないでしょうか。おそらくこの欠如した課題解決のために処世術という変則的な導きが生まれたのでしょう。変則的であっても長く処世術が残っているは、そうした必要性があるからなのです。ギリシャ演劇おいても、偉大な人物は悲劇に見舞われ、愚かな人々の言動は喜劇となります。
- 第五に、日本人の交渉能力の低さ、特に外交において、「要職に就いている人が基本的な処世術を身につけていない為、国民の真摯な努力と技術が水泡に帰してしまっている」という事実。
- 客観的に見て、日本人の精神性や技術力は他国と比べて決して劣っているわけではありません。それなのに、外交はじめ交渉能力の低さは目を覆うばかりです。これは、先に述べてきた理由で必要であったはずの処世術が皆に伝わっていないからではないでしょうか。特に、先人たちが経験した失敗を明らかにし後輩に伝える作業が滞っているのです。これは親子はじめ世代間の断絶が原因なのですが、このまま断絶が続けば文化は皮相的になり、重大事態に対処する能力は失われてしまいます。
処世術の最も重要な点は、知らないでいると何世代にもわたって同じ過ちを繰り返すことを、ほんの少しの心がけや手順を変えるだけで改善されることにあります。もちろん、根本的・本質的な改善や長年にわたる努力が必要なこともありますが、そうした長期の修養に取り組むにしても、目の前の一歩をどこに踏み出すか、という問題と無関係ではありません。大きく膨らんだ風船は、金槌より針の一刺しによって破壊されてしまいます。国や文明が亡びる原因も案外、不用意な一手や一言から起こるものです。そして文明再生も同様に、時宜[と場を得た一手や一言から始まるものなのです。先人たちから何も学ばず、心の準備もせず、ただその日その日を惰性で暮らしているのでは、せっかく得ていた宝も持ち腐れとなり、文化・文明も輝きを失ってしまいます。
なお、本来の処世術は文字化すべきものではなく、体験を通して、手から手へ、胸から胸へ、その都度伝えてゆくものです。ですからこれを読まれた方は、ぜひ周囲の方たち、特に年配者に直[に承[ってもらいたいのです。私も、肝心な智慧は明治生まれの方たちから教えて頂きました。年長者が常に智慧者だとは限りませんが、経験を通した智慧は何にもまして得がたく、また現代と隔たりがある分、むしろその内容が活用できるか否かの判断もつきやすいのです。碁や将棋でも、序盤のつまずきが最後までひびく、ということがあります。年を経て、人生全体を見渡して仰る言葉には皆一度は耳を傾けるべきでしょう。
ただしこうした智慧は身近に接してこそ最大限引き受けられるのであり、文字で伝えられる内容はごく一部となりますが、<人生再出発のために>というテーマの章でありますから、このサイトで伝達可能な分だけは掲載しておきたい思います。
◆ 社会に生きる作法として
どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
『ウダーナヴァルガ』25-11
まず、よき友を得ること。これは何にもまして得がたき宝であり、「人生成就の大半に関わる」とさえ言えます。どのような処世術でも、よき友を得ることの大切さを挙げないものはありません。しかし、もし自分はよき友に恵まれてない≠ニ思うのであれば、それは周囲のせいではなく、周囲からよき友として見られていない、もしくは、よき友として選ばれていない、ということに他なりません。これは誰しも、直感的に友人の影響の大きさを知っているからであり、その影響によって皆から嫌われた≠ニいうことなのです。これは社会的に余程の先入観や偏見でもない限り事実であり、周囲は冷静に自分を見ている≠ニいうことを忘れてはなりません。
大抵の人はこの事実を直視することができず、周囲の者どもには自分の真の偉大さが理解できないのだ≠ニ尊大な態度で誤魔化すのですが、この認識は全く的はずれなものです。身も蓋[もない言い方かも知れませんが、これが事実なのですから、自分はよき友に恵まれていない≠ニ思うのであれば、自分には何らかの欠点がある≠ニ認識しなくてはなりません。
さて、それではどうしたら良いか、ということですが、「よき友となる作法を覚えておく」ことが重要となります。心ではなく作法です。心と作法は究極的には一つになりますが、自己実現の過程ではまず別に考えて、よくよく「よき友となる作法」を身につけておくべきなのです。この作法を身につけておけば、よき友を得ることが適い、そのよき友の影響で自分の中身も充実してきます。よく「友は自分の鏡である」とか「友の中に自分が映し出されている」と聞きますが、全くその通りです。それゆえ次回から、「よき友となる作法」を具体的に述べてみたいと思います。
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