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【十界モニター】

十劫秘事の問題点

― 自分自身を置き去りにしたことで異安心に ―

似て非なる安心と異安心

真実信心と異安心は似て非なるものである≠ニいうことは教団内ではよく知られていることですが、実際問題となると中々判断しづらいこともあります。
 たとえば、特定の指導者から信心を授けられる≠ニする「善知識だのみ」や、罪悪感を強調し異常経験をあたえる「地獄秘事」などは、指導者が神格化されたり恐怖心を底流に持つもので、常識的に見ても真実信心とは言い難いものですから判断はつくでしょう。しかし「十劫秘事じっこうひじ」については常識的には判断がつかず、中には言葉のはしばしにこの秘事に近いニュアンスで信心を語られるご同行もみえ、仏法を学ぶ途中での迷い道だなあ≠ニ常々警戒しているのですが、かく言う私も最初は判断がつきませんでしたので、自省も込めて十劫秘事の問題点を以下に述べさせていただきます。

 自分自身の一生と即すことによって

そのことばにいはく、「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる弥陀みだ御恩ごおんをわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚しょうがくりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。
『御文章』一帖13 より

現代語訳: その(異安心者の)言葉によれば、「阿弥陀仏がはるかなる昔にさとりを完成された、その最初のときから、すでにわれわれの浄土往生を定めていてくださっているが、その阿弥陀さまのご恩を忘れないのが信心である」といいます。これは大きなあやまりです。
 そもそも、阿弥陀如来がさとりを完成されたいわれを知ったといっても、わたくしどもが往生するには、如来からたまわった他力の信心が必要のいわれを知らなければ、何の役にも立ちません。

 さて、ここで言われる「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる弥陀みだ御恩ごおん」(最初のときから、すでにわれわれの浄土往生を定めていてくださっているが、その阿弥陀さまのご恩)と、「他力の信心といふいはれ」(如来からたまわった他力の信心が必要のいわれ)の違いが解りますでしょか。案外、他力の信心というのは、どんな者をも捨てずに救う阿弥陀如来を信じることだ≠ニ勘違いされてみえる方も大勢みえるのではないでしょうか。特にインテリ学者にはこの勘違いが多いので注意が必要です。

 確かに、「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる」こと……阿弥陀仏が一切衆生を済度される願いを建て、これをすでに成就されてみえる≠アとは確かです。
 しかし、これだけでは単なる一般論にすぎません。[花咲じいさん]に出てくる意地悪爺いじわるじいさんと同じで、阿弥陀仏の原理面しか見ておらず、肝心な自分自身が抜けてしまっているので、阿弥陀仏の救いを論じる意味がありません。自分自身の人生と阿弥陀仏の願成就の経緯が一体となって初めて信心が意味を持つのです。自分が抜けたら宗教は原理主義に陥ってしまい、そこには窒息した宗教の抜けがらしかありません。抜けがらを論じるから宗教が怪しげな思想≠ノ変質してしまうのです。

 如来の願成就が本当に意味を持つのは、ただこの自分自身の一生と即すことによってのみ可能なのです。特に[至心信楽の願]は、衆生が普遍的に被る人生の肝要であり、これが言葉になっていただき私にまで届いて頂けたことは、感謝してもしきれないものがあります。迷い迷う人生の中で本願三心に出遭えば、「たしかにそうです。確かに頂いておりました」と頭が下がりますので、これによって初めて「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる弥陀みだ御恩ごおん」が意味を持ち、念仏となってこの口より出てくださるのです。

経験は数千年前からなされてきたが、その跡をたどっても無駄である。他人が自己のために経験したことは、そのまま諸君に通用しない。諸君は己れ自身のために経験し直さなければならない。
(リュッケルト)

 総合的に言えば、「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる弥陀みだ御恩ごおん」は阿弥陀仏の願成就のいわれ≠ナあり、『仏説無量寿経』でいえば上巻に当たる内容です。そして「われらが往生すべき他力の信心といふいはれ」は下巻の内容に当たります。
 また後者は衆生の機であり「南無」、前者は阿弥陀の法であり「阿弥陀仏」、この機と法が一体(渾然一体ではない)となって機法一体の「南無阿弥陀仏」が成就するのです。機は法があってはじめて救われるのであり、法は機があってはじめて意味をなすのですが、南無の中に阿弥陀仏が宿ることが何より肝心なのです。

 これを体験的に申しますと――阿弥陀仏に包まれている私≠ニいう感覚は間違いではありませんが、これだけを論じれば十劫秘事に陥るのであり、真実信心は――阿弥陀仏の全功徳が私一人の信心となってこの身に満ちる≠ニいう体験を通してはじめて得られるものなのです。

[Shinsui]

 資料

 そもそも、ちかごろは、この方念仏者ほうねんぶつしゃのなかにおいて、不思議の名言みょうごんをつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは当流とうりゅうの信心をよく知り顔のてい心中しんちゅうにこころえおきたり。そのことばにいはく、「十劫正覚じっこうしょうがくのはじめより、われらが往生おうじょうさだめたまへる弥陀みだ御恩ごおんをわすれぬが信心ぞ」といへり。これおほきなるあやまりなり。そも弥陀如来の正覚しょうがくりたまへるいはれをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、いたづらごとなり。しかれば、向後きょうこうにおいては、まづ当流とうりゅうの真実信心といふことをよくよく存知ぞんじすべきなり。その信心といふは、『大経だいきょう』には三信さんしんと説き、『観経かんぎょう』には三心さんしんといひ、『阿弥陀経あみだきょう』には一心いっしんとあらはせり。三経さんぎょうともにその名かはりたりといへども、そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、まづもろもろの雑行ぞうぎょうをさしおきて、一向いっこうに弥陀如来をたのみたてまつりて、自余じよの一切の諸神しょじん諸仏等しょぶつとうにもこころをかけず、一心にもつぱら弥陀に帰命きみょうせば、如来は光明をもつてその身を摂取せっしゅして捨てたまふべからず。これすなはちわれらが一念いちねん信心決定しんじんけつじょうしたるすがたなり。かくのごとくこころえてののちは、弥陀如来の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩をほうじたてまつる念仏なりとこころうべし。これをもつて信心決定したる念仏の行者とは申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
 [文明第五、九月下旬のころこれを書く云々。]
『御文章』一帖13

 さて、最近は、当地の念仏者のなかで、あやしげな言葉を使って、これこそが信心をいただいた姿だといい、しかも自分は浄土真宗の信心をよくわかっているかのように、心中に思いこんでいる者がいます。
 その言葉によれば、「阿弥陀仏がはるかなる昔にさとりを完成された、その最初のときから、すでにわれわれの浄土往生を定めていてくださっているが、その阿弥陀さまのご恩を忘れないのが信心である」といいます。これは大きなあやまりです。
 そもそも、阿弥陀如来がさとりを完成されたいわれを知ったといっても、わたくしどもが往生するには、如来からたまわった他力の信心が必要のいわれを知らなければ、何の役にも立ちません。
 そこで今よりのちには、まず、わが浄土真宗でいう「真実の信心」をよく承知すべきです。
 その信心とは、『大無量寿経』には「三信(至心・信楽・欲生=まことに疑いなく往生できると思う心)」と説き、『仏説観無量寿経』には「三心(至誠心・深心・回向発願心=真実心・深く信ずる心・浄土を願生する心)」といい、『仏説阿弥陀経』には「一心(疑いをまじえない心)」と表わされています。三経それぞれにその名は異なっていますが、要をいえば、ただ阿弥陀如来からたまわった他力の信心を表しています。
 さて、それではその信心のすがたはどんなものかといえば、まず、もろもろの雑行を捨て去り、ただひたすらに阿弥陀如来におまかせして、そのほかの一切の神々や仏などに救いを求めようとせず、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、如来は光明をもってその者の身をおさめ取って、お捨てになりません。これがとりもなおさず、わたくしどもが疑いなく如来に従う信心を決定したすがたです。
 このように心得たうえは、阿弥陀如来が他力の信心をわたくしどもに与えてくださった、そのご恩にお応えするお念仏である――と心得てください。これをもって、「信心の決定したお念仏の行者」と申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。
 文明五年九月下旬のころに、これを書きました。

現代語訳:『蓮如の手紙』(国書刊行会)

[Shinsui]

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