平成アーカイブス  【仏教Q&A】

以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します

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仏教 Q & A

仏陀の入滅前後


質問:

 趣味で仏陀の入滅前後のことを調べてるんですが、

  1. .仏陀の葬儀(葬法)はどのように執り行われたのか?
  2. .また、仏陀の遺体をマッラ族はどのようにしたのか? どのように供養したのか?
  3. .仏陀はアーナンダに死の直前どのように説法したのか?
を、知りたいのでよろしくお願いします。



返答

 趣味で調べてみえるくらいですから、基本的なことは既に知ってみえるとは思いますが、仏陀の入滅前後についての資料を以下にまとめてみました。
 質問の順番は仏陀の葬儀からとなっておりますが、やはり時間順に追ってみたいと思います。
 なお、このお応えを掲載するにあたり参考にした資料は、 『釋尊伝 ゴータマ・ブッダ』(中村元著/法蔵館)、『原始仏典』(筑摩書房)、『原始仏典一 ブッダの生涯』(講談社)、『現代語仏教聖典』(日本仏教文化協会)です。

錯綜する9種の異本

 仏陀の入滅前後を伝える仏典は、『パーリ本』、『遊行経』、『白法祖本』、『失譯本』、『法顕本』、『有部本』、『梵本(サンスクリット本)』、『チベット本』、(以上略号)と、「ギルギット地方発見梵本」があります。各仏典は共通部分も多いのですが、異なる部分も少なくはありません。ただ、後代の加筆と思われる部分も、古くからの伝承を重ねた可能性も否めず、資料から歴史的事実のみを厳密に抽出することは不可能です。
 ただ、謎の多い釈尊の伝承の中では、比較的伝承が詳細であるのは、釈尊入滅前後について、特に皆が関心を持っていたためと思われます。何しろこうして現在でも趣味で調べてみえる方があるくらいですから。

鷲の峰にて

 釈尊の晩年を語る最初は、マガダ国アジャータサットウ(阿闍世)王がヴァッジ族を根絶する相談を釈尊にしに行くところから始まります。使者のヴァッサカーラ大臣に対し、釈尊はまず弟子のアーナンダに次の7箇条が事実かどうか尋ねます。

  1. ヴァッジ人は、しばしば会議を開き、会議には多数の人が参集する。
  2. ヴァッジ人は、共同して集合し、共同して行動し、共同してヴァッジ族としてなすべきことをなす。、
  3. ヴァッジ人は、未だ定められてことを定めず、すでに定められたことを破らず、往昔に定められたヴァッジ人の法に従って行動しようとする。
  4. ヴァッジ人は、ヴァッジ族のうちのヴァッジ古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきとものと思う。
  5. ヴァッジ人は、宗族の婦女・童女をば暴力もて連れ出し拘え留めることを為さない。
  6. ヴァッジ人は、[都市の]内外のヴァッジ人のヴァッジ霊地を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない。
  7. ヴァッジ人が真人(尊敬されるべき修行者)(阿羅漢)たちに、正当の保護と防禦と支持とを与えてよく備え、未だ来らざる真人たちが、この領土に入るであろうことを、またすでに来た真人たちが、この領土のうちに安らかに住まうであろうことをねがう。

 アーナンダは、いずれもヴァッジ人は守っていることを師に伝えます。
 釈尊は、この教えは「ヴァッジ人に衰亡を来さざるための法として説いた」のであり「この七つをまもっているのが見られる限りは、ヴァッジ人に繁栄が期待せられ、衰亡はないであろう」と応えます。
 ヴァッサカーラ大臣は納得し早々に引き上げます。
 その後、この「衰亡を来さない七種の法」は教団にも当てはまると、様々に形を変えて説かれた、と記されていますが、この部分は後世の加筆の可能性もあるということです。

(最後の)旅に出る

 その後、釈尊は、鷲の峰を出て、王舎城のアンバラッティカー園にある王の家に赴き、比丘たちに数々の法話をされます。それからナーランダーに行って、パーヴァーリカーというマンゴ樹の園にとどまりますが、ここでサーリプッタの信仰句告白があったとされます。
 それからパータリ村に行きますが、ここでは村の信者がこぞって集まり、釈尊は在家信者の休息所に招かれ法話を始めます。なお、その際の随行比丘は何人であったのか分かっていません。多数説、少数説がありますが、どうも少数であったと今では考えられています。
 ここでは在家信者たちに戒を守る大切さを説きます。

聖者の生れなる者の
住居を定める地方には
そこに、戒しめをたもち自ら制する清浄行者を守って
そこに(都の)神がいるならば
かれらに供物を捧げよ。
かれらは敬われてかれを敬い
崇敬されて、かれを崇敬する。
かくてかれを愛護すること、
あたかも母がみずからの子を愛護するようなものである。
神の冥々の保護を受けている人は、つねに幸福を見る。

 ついで釈尊はガンジス河を渡りますが、その際、人々が川を行き来する様子を見られ、次の詩句をひとりつぶやいた、とされています。

「深所を棄てて橋をつくって、海や沼を渡る人々もある。
浮嚢を結びつけて筏をつくって渡る人々もあり。
渡りあわった人々は、賢者である」と。

 釈尊は河を渡った後、比丘たちを連れてコーティー村、ナーディカ村(ヴァッジ族の地方)の煉瓦堂、商業都市ヴェーサーリーへ赴きます。

一生の回顧

 ヴェーサーリーの竹林村で雨期の定住に入りますが、ここで釈尊は『恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起った』のですが、禅定に入って苦痛を堪え忍び、病を癒します。
 ここでアーナンダは釈尊に最後の説法を懇請しますが、それに応えて説かれたのが、有名な「自灯明 法灯明」の教えです。

「アーナンダよ、修行僧らはわたしに何を待望するのであるか? わたくしは内外の区別なしに(ことごとく)法を説いた。完き人の教法には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は『わたくしは修行僧のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。アーナンダよ、わたしはもう朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達して、わが齢は八十となった。アーナンダよ。譬えば古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いて行くように、わたしの車体も皮紐のたすけによってもっているのだ。しかし、アーナンダよ、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一々の感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全なのである。
 それ故に、アーナンダよ、この世で自らを島(灯明)とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島(灯明)とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」

 このように、釈尊は一般で考えられているような師弟の関係を否定します。
 次に日中の休息をとるため、ヴェーサーリー郊外のチャーパーラ霊樹のもとに赴きます。ここで、釈尊はヴェーサーリーについて、また世界についての感嘆の言葉を述べられたと記されています。

「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹は楽しい。ゴータマカ霊樹は楽しい。サッタンバカ霊樹は楽しい。バフプッタ霊樹は楽しい。サーランダダ霊樹は楽しい。チャーパーラ霊樹は楽しい」(パーリ本、失譯本、梵本、チベット本)
「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」(梵本)

 次に悪魔が来て釈尊に「今や世尊の清浄行は成就され、(修行者は解脱し、在家信者は正しい実践をなし)、栄え、ひろがり、多くの人々に知られ、ゆきわたり、すなわち人々のために説き明されています。今こそ世尊はニルヴァーナにお入り下さい」と、入滅をすすめます。アーナンダの懇請が無かったことで、三ヵ月後の入滅を言い渡し、留寿行(寿命を永劫に延ばす行)を放棄されます。この時、恐ろしい身の毛もよだつ大地震が起った、と記されていますが、留寿行以下のことは後代に行われた釈尊の神格化によるものと考えられます。
 さて、臨終が迫ってきた釈尊の心境をあらわす詩句があります。

「わが齢は熟した。
わが餘命はいくばくもない。
汝らを捨てて、わたしは行くであろう。
私は自己に帰依することをした。
修行僧らよ、汝らは精励にして正しく気をつけ、
よく戒しめをたもってあれ。
思惟によって良く心を統一し、
おのが心をまもれよ。
この法と律とに精励するであろう者は、
生の流転をすてて、苦しみの終末をもたらすであろう」

鍛冶工チュンダ

 その後釈尊は、バンダ村、ハッティ村、アンバ村、ジャンブ村、ボーガ市を通りパーヴァ村へ赴きます。
 パーヴァ村では鍛冶工の子チュンダのマンゴー林にとどまっていたので、チュンダは噂を聞いて駆けつけ、教えを請います。

 鍛冶工のチュンダは言った。
「大いなる智慧ある聖者、仏、法主、愛着を離れた人、人類の最上者。優れた御者に、わたしはおたずねします。――世間にはどれだけの道の人(沙門、修行者)がいますか? どうぞお示し下さい」
 世尊は言われた。
「チュンダよ。四種の道の人があり、第五の者はありません。現に問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。――<道による勝者>と<道を説く者>と<道に生きる者>と及び<道を汚す者>とです」
 鍛冶工のチュンダは言った。
「もろもろの覚れる人は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を思う者>はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、<道によって生きる者>ということを説いて下さい。また<道を汚す者>をわたくしに明かして下さい」
(釈尊いわく)
「疑いを超え、苦悩を離れ、安らぎを楽しみ、貪欲を除き、神々を含む世界を導く人、――かかる人を<道による勝者>であるともろもろの覚れる人は説く。
この世で最上のものを最上のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを断ち不動なる聖者を、修行者どものうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ。
 良く説かれた法句なる道に生き、みずから制し、念いあり、とがのないことばを奉じている人を、修行者どものうちで、第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
 善く警戒を守っている者のふりをして、押しづよくして、家門を汚し、傲慢で、いつわりあり、自制心なく、おしゃべりで、しかも殊勝らしく行う者、――かれは<道を汚す者>である。
 学識あり聡明な在家の聖なる信徒は<かれら(四種の修行者)はすべてかくのごとくである>と知って、かれらを洞察し、このように見ても、かれの信はなくならない。かれはどうして、汚れたものと汚れていないものと、浄い者と浄くない者を同一視することがあろうか」

 チュンダは教えを聞き、喜んで、釈尊を食事に招待します。ここで釈尊はきのこ料理(一説には豚肉、もしくはトリュフのように豚が探すきのこ)を食べ、その毒にあたり、激しい下痢を起こします。ここでも釈尊は禅定に入って苦痛を堪え忍びますが、病はいよいよ重くなります。
 ただここで釈尊は、チュンダに非難が集まったり、供養を後悔することがあってはならないとして、かつて成道の時スジャータから供養受けたが、その功徳と等しく大きい、とチュンダに伝えます。

臨終

 カクター河で沐浴してから、ヒラニャヴァティー河の彼岸にあるクシナーラーのマッラ族のウパヴァッタナに赴き、サーラの双樹の間に頭を北に向け、『右脇で足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた』。
 アーナンダがその様子に涙を流して泣いていると、釈尊は次のように教えます。

「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたくしはかつてこのように説いたではないか、――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。かかることわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。務めはげむことを行なえ。速やかに汚れのないものとなるだろう」

 そこへマッラ族の人々が集まったため、アーナンダは、尊師に敬礼せしめます。そのとき、クシナーラーに住んでいるスバッダという遍歴者が面会を求めに来ました。アーナンダは何度も断わりますが、釈尊は問いを受けます。

「ゴータマよ。この諸のみちの人やバラモンたち、つどいをもち徒衆をもち徒衆の師で、知られ、名声あり、開祖として大衆に崇敬されている人々、例えば、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ベーラッティプッタ、ニガンタ・ナータプッタ――かれらはすべては己が智を以って知ったのですか? 或いはすべて知っていないのですか? その或るものは知っていて、或るものは知らないのですか?」
 これに対して世尊は言われた。
「やめよ、スバッダよ。そのようなことがわかったとて、何の利益があるというのか。そのようなことよりももっと大切な真理があるのだ。
 スバッダよ。いかなる教えと戒律においてでも、聖なる八支よりなる道(八正道)が認められないところには(第一の)道の人は認められないし、そこには第二の道の人は認められないし、そこには第三の道の人は認められないし、そこには第四の道の人は認められない。しかしいかなる教えと戒律においてでも、聖なる八支よりなる道(八正道)が認められるところには、第一の道の人が認められし、そこには第二の道の人は認められ、そこには第三の道の人は認められ、そこには第四の道の人は認められる。この(わが)教えと戒律とにおいては聖なる八支よりなる道が認められる、ここに第一の道の人がいるし、ここに第二の道の人がいるし、ここに第三の道の人がいるし、ここに第四の道の人がいる。他のもろもろの論議は道の人にとっては空虚である。スバッダよ。修行僧はここに正しく住しなさい。尊敬さるべき人々にとってはこの世間は空虚ではない。
  スバッダよ、わたくしは二十九才で善を求めて出家した。
  スバッダよ、わたしは出家してから五十年余となった。
  正理と法の領域のみを歩んで来た。
  これ以外には<道の人>なるものも存在しない」
 かくしてスバッダは釈尊最後の直弟子となった。

(しばらくしてスバッダは尊敬される人(阿羅漢)の一人となったと伝えられます)

 そこで世尊は尊者アーナンダに告げられた、
「アーナンダよ。あるいは後に汝らはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。われの説いた教えとわれの制した戒律とが、わたしの死後に汝らの師となるである」
 さらに世尊は修行僧らに告げられた、
「では修行僧らよ。汝らに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成させなさい』と」
 これが如来の最後の言葉であった。

 この後、世尊は精神統一をして“最初の禅定”(初禅)に入られ、そこから第二、第三、第四の禅定に入り、“虚空の果てしがない処”(空無辺処定)、“意識の果てしがない処”(識無辺処定)、“一切の所有のない処”(無所有処定)、“意識もなく意識しないこともない処”(非想非非想処定)、“意識も感覚も滅尽した処”(滅想受定)の境地に入られます。

 そのとき尊者アーナンダは尊者アヌルッダにこう言った、
「尊いかた、アヌルッダよ。世尊はニルヴァーナに入られました」
「友アーナンダよ。世尊はニルヴァーナに入られたのではありません。滅想受定に入られたのです」

 その後、滅想受定から逆順に初禅に入られ、また第二、第三、第四の禅定に入られ、そこから起って、世尊はただちに完きニルヴァーナ(無余依涅槃)に入られました。

 釈尊入滅とともに大地震が起り、天鼓は鳴り響きます。時に二月十五日の夜半のことでした。

死を悼む

 釈尊が涅槃に入られると、貪りのまだ離れていない比丘らはなげき悲しみ、貪りを離れた比丘たちは正しく思念し悲しみを耐え忍びます。
 ところが悲報を聞いた中に一人、スバッダ(最後の直弟子とは別人)という修行僧がいて、「釈尊入滅によって我々は解放されたのだ。これからは欲望のおもむくままにしよう」と、暴言を吐きます。これにはマハーカッサパも驚き、心を痛め、正しい教法と戒律を定める必要を感じます。そこで後にマハーカッサパは経典結集の中心となり、またこのスバッダも前非を悔い正道に立ち帰ったということです。

 以下は諸本に記された葬儀の様子をまとめてみました。表現に神話的記述があるようですが、あえてそうした部分も多少残して引用してみました。

 人々はアーナンダに「尊者よ、願わくば、親しく仏陀を拝するを許したまえ」と。アーナンダは「婦人で世尊の座下に詣ったものは、必ずしも多くはない。今こそ彼等に仏陀を拝せしめなければならぬ」と、思い、婦人達に、進んで仏陀を拝することを許した。彼女たちは、泣く泣く香花をささげた。アヌルッダはじめ諸弟子は、左右に侍して、道を語りつつ、夜を明した。
 アヌルッダはアーナンダに「クシナーラーの町へ行って、マッラの人々に入滅を告げてきてくれ」と。アーナンダは城中に入って、これを伝えた。

 そこでクシナーラーのマッラ族は人々に命じた、「それではマッラ族の真新しい麻布を集めなさい、と言いなさい」と。
 そのときクシナーラーのマッラ族は世尊の体を新しい布で包んだ。新しい布で包んでから、ときほごした綿で包んだ。ときほごした綿で包んでから、新しい布でもって包んだ。こういう方法で五百重に世尊の体を包んで、鉄の油槽に入れ、他の鉄の油槽をもって覆い、すべての香料の薪をつくって、世尊の体を薪の上にのせた。
 マッラ族の4人の指導者が、頭に水を注いで身を清め、新しい衣服を身にまとって用意を整えると、「さあ、火葬の薪に火をつけよう」と言って、火葬の薪に火をつけようとしたが、どういうわけか一向に火をつけることができなかった。そこでマハーカッサパ尊者の到着を待つことにした。
 そうこうしているうちにマハーカッサパ尊者が五百人の大きな比丘の集いとともにクシナーラに到着した。到着するとまっすぐにマッラ族のマクタ・バンダナ霊地にやってきた。そして世尊の遺骸を安置してある火葬の薪のところまで来ると、衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、世尊のみ足を頭にいただいて礼拝した。五百人の比丘たちも、同じように衣を左肩だけにかけ直し、合掌して、火葬の薪に三度右回りの礼をしてから、世尊のみ足を頭にいただいて礼拝した。
 こうしてマハーカッサパ尊者と五百人の比丘たちがみな世尊の遺骸に礼拝し終わると、世尊の遺骸をのせた火葬の薪は自然に火を発して燃え上がった。
 世尊の遺骸が、骨だけを残してみな燃え尽きると、天からは雨が降り注ぎ、また地面からは水か噴き上がって注ぎかかって、世尊の遺骸をのせた火葬の薪の火を消した。また、クシナーラのマッラ族も、さまざまな香水をふりかけて、消化を助けた。
 こうして荼毘が終わると、クシナーラーのマッラ族は世尊の遺骨を集会所に移してその周囲を槍を組んだ矢来で囲み、さらに弓の柵をはりめぐらした。こうしておいて、クシナーラーのマッラ族は世尊の遺骨を七日の間、歌舞音曲や花環やお香などによって、敬い、尊び、崇め、供養し続けたのであった。

 実際には世尊の遺骸をのせた薪に点火したのはマハーカッサパ尊者であろうと思われます。また、遺骨をマッラ族の人々は黄金のかめに収め、『舎利殿を造って、これを安置し香花をささげて厚く供養した』と書かれた本もあります。

遺骨の分配

 その後、釈尊の遺骨をめぐって争いが起ります。

 釈尊がクシナーラーで亡くなったということを聞いて、マガダ王アジャータサットゥ、ヴェーサーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァットゥのシャカ族、アッラカッパのブリ族、ラーマ村のコーリャ族、ヴェータディーパの或るバラモン、パーヴァーのマッラ族の七者はそれぞれクシナーラーのマッラ族のもとに使者を遣わして、「世尊もクシャトリヤ族であり、われら(われ)もまたクシャトリヤ族である。われらもまた世尊の遺骨の一部分を受けるに値する。われら(われ)もまた世尊の遺骨を納めるストゥーパをつくって、祭りを行おう」と言った。
(ただしシャカ族が遺骨を請求した主張の理由は「世尊はわれらの種族の最もすぐれた人である」ということであり、ヴェータディーパのバラモンは「世尊はクシャトリアであり、われはバラモンである」であるということであったが、その他の点は他の種族の人々と同じであった)
 このように言われたときに、クシナーラーのマッラ族はかの集まった人々にこのように言った。
「世尊はわれらの村の野でお亡くなりになったのである。われらは世尊の遺骨の一部分も与えないであろう」と。
 このようにクシナーラのマッラ族が各国の使者の申し入れを拒否したため、あたりは険悪な空気に包まれてきた。そこでその気配を察知したドーナというバラモンが、一同をとりなそうとして、次のように言った。
  「きみらよ。聞け、わが一言を。
  われらのブッダは堪え忍ぶことを説かれた方でした。
  最上の人の遺骨の分配に、
  争いが起るというのは、善くありません。
  きみらよ。われらはすべて協力し、仲よくし、
  喜び合いながら、八の部分に分配しましょう。
  ひろく彼方にストゥーパあれかし。
  世の凡夫は眼ある人(仏)を信奉しています」と

 人々はドーナの提案を受け入れ、彼の手により遺骨は均等に八つに分配されます。残った瓶はドーナ自身が受け取りました。その後ピッパラーヤナというバラモン学生(モーリヤ族?)も遺骨の引渡しを申し入れてきますが、分配された後だったので、荼毘を行った時に残った灰のみを受け取ります。
 これにより最初の八つの部族はそれぞれ仏舎利塔をつくり、ドーナは瓶塔、ピッパラーヤナは灰塔をつくって供養を営んだとされています。
 ただ、『大パリニッバーナ経』諸本最後には次の詩があり、以上の記述とは異なっています。

  眼ある人の遺骨は八斛ある。
  七斛はインドで供養される。
  最上の人の他の一斛は、
  ラーマ村で、諸王に供養される。
  一つの歯はトウ利天(三十三天)で供養され、
  また一つの歯はガンダーラ市で供養される。
  また一つの歯はカーリング王が得た。
  また一つの歯を諸王が供養している。
  その威光によってこの大地は
  最上の供養物によって飾られているのである。
  かくのごとくこの眼ある人の遺骨は、
  よく崇敬され、いともよく崇敬されている。
  天王・諸王・人王に供養され、人間の最上者によってここに供養されている。
  合掌してかれを礼拝せよ。
  げに仏は百劫にも遭うこと難し。

 埋葬された遺骨をのちにアショーカ王が掘り出し、八万四千のストゥーパに分け納めて安置した、という伝説が残っています。
 また1898年にピプラーワーにおいて釈尊の遺骨が発見されますが、これは仏教国のタイに譲り渡され、その一部は日本に分与。現在は名古屋市千種区の日泰寺に納められています。

● 後日【アジアの仏教】 のコーナーに、『ブッダ最後の旅』の詳細を掲載しました。


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