平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

「十宝」とは

― 往生論註にある観察門の註釈 ―

質問:

浄土真宗の経典の中に「十宝」という言葉があると耳にしたのですが、十宝とはどういう意味なのでしょうか?
どうしてもその意味を知りたくて、辞書などで調べたのですが、やはり分かりませんでした。

返答


 普通の辞書や仏教辞典にはおそらく「十宝」は載っていないと思います。この表現は余りにも頻度が少ないからです(多分2箇所のみ)。ですから、返答の内容が質問の意図と異なるかも知れませんので、その際はもう一度メールして下さい。

 浄土の荘厳功徳を観察

「十宝」という言葉は、浄土真宗では『往生論註』にのみあります。

【六四】 荘厳種々事功徳成就とは、偈に「備諸珍宝性 具足妙荘厳」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。かの種々の事、あるいは一宝・十宝・百千種宝、心に随ひ意に称ひて具足せざるはなし。もしなからしめんと欲すれば、シュク焉として化没す。心に自在を得ること神通に踰えたることあり。いづくんぞ思議すべきや。

【六九】 荘厳地功徳成就とは、偈に「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色宝欄遍囲繞」といへるがゆゑなり。
 これいかんが不思議なる。かの種々の事、あるいは一宝・十宝・百宝・無量宝、心に随ひ意に称ひて荘厳具足せり。この荘厳の事は、浄明鏡のごとく、十方国土の浄穢の諸相、善悪の業縁、一切ことごとく現ず。かしこのなかの人天、この事を見るがゆゑに探湯不及の情自然に成就す。またもろもろの大菩薩、法性等を照らす宝をもつて冠となせば、この宝冠のなかにみな諸仏を見たてまつり、また一切諸法の性を了達するがごとし。また仏、『法華経』を説きたまひし時、眉間の光を放ちて東方万八千土を照らすにみな金色のごとく、阿鼻獄より上は有頂に至るまで、もろもろの世界のなかの六道の衆生の生死の趣くところ、善悪の業縁、受報の好醜、ここにことごとく見るがごとし。けだしこの類なり。この影、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。

曇鸞大師 著『往生論註』巻下 解義分 観察体相章 器世間 より

意訳▼(『聖典意訳 七祖聖教 上』 より)

【六四】 荘厳種種事功徳成就[しょうごんしゅしゅじくどくじょうじゅ]とは、偈に「諸[もろもろ]の珍宝性[ちんぽうしょう]を備えて 妙荘厳[みょうしょうごん]を具足[ぐそく]せり」
 と言える故[ことがら]なり。
 これがどうして不思議であるかというと、かのいろいろの事相[じそう]は、あるいは一宝・十宝・百千の宝をもって造ろうと思えば、その人の思いのままになって具わぬことはない。もし無いようにしようと思えば、たちまち下に没する。心の自在を得ることが神通よりこえすぐれている。どうして思いはかることができようか。

【六九】荘厳地功徳成就[しょうごんじくどくじょうじゅ]とは、偈に「宮殿楼閣[くうでんしょろうかく]にして 十方を観ること無碍なり 雑樹[ぞうじゅ]に異[い]の光色[こうしき]あり 宝欄遍[ほうらんあまね]く囲繞[いにょう]せり」と言える故[ことがら]なり。
 これがどうして不思議であるかというと、かの宮殿などのいろいろなものは、あるいは一宝・十宝・百宝・無量の宝で、いずれも思いのままに意にかなって荘厳が具足する。この荘厳のものがらは、浄く明らかな鏡のように、十方世界の浄穢のいろいろなすがたや善悪業の因縁のすべてが悉[ことごと]く現れてくる。かの国の人天はこのことを見るから、悪は廃し善は修するという情[こころ]が自然に成就する。また大菩薩たちが真如法性[しんにょほっしょう]などを照らす宝をもって冠[かんむり]とし、この冠の中に一切諸仏を見たてまつり、また一切諸法の本性[ほんしょう]に通達[つうだつ]するようなものである。
 また仏が《法華経》を説かれる時、眉間の光を放って東方の一万八千の国土を照らされると、みな金色のように輝いた。安鼻[あび](無間)地獄から上は有頂天(非想非非想処)に至るまで、すべての世界の六道の衆生が生まれたり死んだりしてゆくところや、その善悪業の因縁や、受ける果報のよしあしが、この光の中に悉く見えたようである。いまもこのたぐいである。浄土の宮殿などの荘厳の中に映る影が衆生利益のはたらきをする。どうして思いはかることができようか

 このように、浄土の宝は金銭で買う宝ではなく、如来の覚りのはたらきの素晴らしさを「宝」としてあらわすもので、浄土を観察することによって浄土に往生する助けとなり、阿弥陀仏を見たてまつることができるのです。「あるいは一宝・十宝・百千種宝」とありますから、十という数字にこだわることはありませんが、時として十は満数を表すことがありますので、「充分に具わった宝」という意がある可能性もあります。
 なお、「もし無いようにしようと思えば、たちまち下に没する」というのは、如来回向の功徳は、行者が「為した」ということに執着することがないので、行為に嫌味がともなうことなく、「してやった」という思い上がりがないのです。また時に応じて用いるので、時が去れば同時になくなることをいいます。これは、過去にあらわれた功徳の形に執着しないことをいいます。形に執着があると、功徳も後にあだとなることがあるからで、実際にこれは既成宗教の問題点となっていますので、そのことを避ける意味があるようです。

 なお、この箇所だけを見ていても何の為の宝か解らからないと思いますので、元となる『浄土論』についても触れておきましょう。

【九】いかんが観じ、いかんが信心を生ずる。もし善男子・善女人、五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。なんらか五念門。一には礼拝門、二には讃歎門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり。いかんが礼拝する。身業をもつて阿弥陀如来・応・正遍知を礼拝したてまつる。かの国に生ずる意をなすがゆゑなり。いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。いかんが観察する。智慧をもつて観察し、正念にかしこを観ず。如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり。かの観察に三種あり。なんらか三種。一にはかの仏国土の荘厳功徳を観察す。二には阿弥陀仏の荘厳功徳を観察す。三にはかの諸菩薩の功徳荘厳を観察す。いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。

【一〇】いかんがかの仏国土の荘厳功徳を観察する。かの仏国土の荘厳功徳は不可思議力を成就せるがゆゑなり。かの摩尼如意宝の性のごときに相似相対の法なるがゆゑなり。かの仏国土の荘厳功徳成就を観察すとは十七種あり、知るべし。なんらか十七。一には荘厳清浄功徳成就、二には荘厳無量功徳成就、三には荘厳性功徳成就、四には荘厳形相功徳成就、五には荘厳種々事功徳成就、六には荘厳妙色功徳成就、七には荘厳触功徳成就、八には荘厳三種功徳成就、九には荘厳雨功徳成就、十には荘厳光明功徳成就、十一には荘厳妙声功徳成就、十二には荘厳主功徳成就、十三には荘厳眷属功徳成就、十四には荘厳受用功徳成就、十五には荘厳無諸難功徳成就、十六には荘厳大義門功徳成就、十七には荘厳一切所求満足功徳成就なり。

天親菩薩 著『浄土論』解義分 観察体相 より

意訳▼(『聖典意訳 七祖聖教 上』 より)

【九】どのように観じ、どのように信心を起こすのかというと、もし仏法を求める男女の人たちが、五念門の行を修めてそれが成就すれば、ついに安楽浄土に往生して、かの阿弥陀如来を見たてまつることができる。
 五念門とは何何であるかというと、一つには礼拝門、二つには讃嘆門[さんだんもん]、三つには作願門、四つには観察門[かんざつもん]、五つには回向門である。
どのように礼拝するのか。身をもって無上のさとりを得ておられる阿弥陀如来を礼拝するのである。それはかの浄土に生まれるためである。
どのように讃嘆するのか。口をもってかの阿弥陀如来の名号を称えるのである。かの如来の智慧の相たる光明のいわれ、またかの名号のいわれをよく信じて、この法の実義に契[かな]って修行するのである。
どのように作願するのか。いつも一心に専[もっぱ]ら、ついに安楽浄土に往生しようと願って、如実に奢摩他[しゃまた](止)を修行しようと欲[おも]うのである。
どのように観察するのか。乱れぬ心をもって、正しくかの阿弥陀如来や浄土を観察する。如実に毘婆舎那[びばしゃな](観)を修行しようとするのである。かの観察に三種がある。何がその三種であるかというと、一つには浄土の荘厳功徳を観察する。二つには阿弥陀如来の荘厳功徳を観察する。三つにはかの土に往生した菩薩の荘厳功徳を観察する。
どのように回向するのか。すべての苦しみ悩む衆生を救うために、心にいつも願って、衆生に利益を施すことを第一として、大悲心を成就することを得るのである。

【一〇】どのようにかの浄土の荘厳功徳を観察するのか。かの安楽浄土の荘厳功徳には、不可思議な力を成就されているのである。あたかも、かの摩尼如意宝珠[まににょいほうしゅ]のごとくである。しかもこれはかの如意宝珠の一面の義をかってあらわすのであって、浄土の荘厳はさらにすぐれている。
 かの阿弥陀仏の浄土の荘厳功徳が成就されているのを観察するというのは、十七種あると知るべきである。十七種とは何何であるのか。一つには清浄功徳の成就、二つには量功徳の成就、三つには性功徳の成就、四つには形相功徳の成就、五つには種種事功徳の成就、六つには妙色功徳の成就、七つには触功徳の成就、八つには三種功徳の成就、九つには雨功徳の成就、十には光明功徳の成就、十一には妙声功徳の成就、十二には主功徳の成就、十三には眷属功徳の成就、十四には受用功徳の成就、十五には無諸難功徳の成就、十六には大義門功徳の成就、十七には一切所求満足功徳の成就である。

 この十七種のうち先に『往生論註』にありました「荘厳種々事功徳成就」は五つめで、「荘厳地功徳成就」は八つめの「三種功徳の成就」にある三種「水・地・虚空」のうちの二番目です。ともにこの『浄土論』において先の「備諸珍宝性 具足妙荘厳」と「宮殿諸楼閣 観十方無礙 雑樹異光色宝欄遍囲繞」の偈が出ています。
(参照:{#七高僧の教えを味わう}

 なお、「乱れぬ心をもって、正しくかの阿弥陀如来や浄土を観察する」という観察門ですが、精神統一した三昧の中で観察しようとするのが定善で、これは方便であり、化土にしか往生できません。正しくは、浄土を成就された如来の「いわれを聞き開く」という中での観察、つまり自分の人生や社会と照らし合わせて観察することが真実報土への往生をかなえる道である、と親鸞聖人は明らかにされました。ですから「仏教は聞法につきる」というのです。


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