平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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昨秋還暦で父が逝ってしまいました。
お浄土では阿弥陀様の弟子に
ならせていただけるそうですが
日々の暮らしの詳細が気になります。
教えて下さいませ。
この他、「お浄土にいらっしゃるお弟子さん方は、地上界での思い出や記憶は有るのでしょうか???」・「父の50回忌を行う為に長生きをしたいという思いが生まれました。でも・・・本当は、残された者の使命は何なのでしょうか?」等の質問を追加して書いていただきました。
仏縁に遇われてからまだ日が浅いことのようですので、色々お話したいことはあるのですが、まずは『仏説無量寿経』という経典の一部をそのままご紹介いたします。このお経は、親鸞聖人が「真実の経」と称えられたことをはじめ多くの諸師が依りどころとされている経典です。なお、ここでは意訳された『浄土三部教(現代語版)』を先に掲載し、『浄土真宗聖典(註釈版)』{※資料1}を後に載せます。
【十三】 釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏がさとりを開かれて、最初の説法の座に集まった声聞たちの数は、数え尽すことができない。菩薩たちの数もまた同様である。目連のように神通力のすぐれたものが数限りなく集まり、はかり知れない長い時をかけて、命が尽きるまで力をあわせて数えても、その数を知り尽くすことはできない。それはたとえば、限りなく深く広い大海の水に対して、人が、一本の毛を百ほどに細かく裂き、その裂いた一すじの毛で一滴の水をひたし取るようなものである。そなたは、その一滴の水と大海の水とをくらべてどちらが多いと思うか」
阿難がお答えする。
「その一滴の水と大海の水とをくらべようにも、量の多い少ないの違いは、測量や計算や説明や比喩などでは、とうていはかり知ることができません」
釈尊が阿難に仰せになる。
「目連のようなものたちが、はかり知れない長い時をかけて、その最初の説法の座に集まった声聞や菩薩たちの数を数えても、知ることができるのはわずか一滴の水ほどであり、知ることができないのは実に大海の水ほどもあるのである。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 聖衆無量
【十五】 また、無量寿仏の国の菩提樹[ぼだいじゅ]は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬[ゆじゅん]{※註1}であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼[がっこうまに]{※註2}や持海輪宝[じかいりんぽう]{※註3}で飾られている。枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。
そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。その声を聞くものは、無生法忍[むしょうぽうにん]を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍[おんこうにん]・柔順忍[にゅうじゅんにん]・無生法忍[むしょうぽうにん]が得られる。それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願・明了願[みょうりょうがん]・堅固願[けんごがん]・究竟願[くっきょうがん]と呼ばれる本願の力とによるのである」
続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王[てんりんじょうおう]の聞く音楽から他化自在天[たけじざいてん]までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。それは清く冴えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 道樹楽音荘厳
【十六】 また、その国の講堂・精舎[しょうじゃ]・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼[がっこうまに]のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬[ゆじゅん]から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水の実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露{※註4}のような味をしている。金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。水晶の池には底に瑠璃の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。珊瑚の池には底に琥珀の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。蝦蛄の池には底に瑪瑙の砂があり、瑪瑙の池には底に蝦蛄の砂がある。白玉の池には底に紫金の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。池の岸には栴檀[せんだん]の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。
あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静[じゃくじょう]の声{※註5}、空・無我の声{※註6}、大慈悲の声、波羅蜜[はらみつ]の声{※註7}、あるいは十力[じゅうりき]・無畏[むい]・不共法[ふぐほう]の声{※註8}、さまざまな神通智慧[じんずうちえ]の声{※註9}、無所作[むしょさ]の声{※註10}、不起滅[ふきめつ]の声{※註11}、さらに無生法忍[むしょうぽうにん]の声{※註12}から甘露灌頂[かんろかんじょう]の声{※註13}というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。つまりそれらの声を聞けば、清浄・離欲{※註14}・寂滅{※註15}・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳{※註16}にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳
【十七】 阿難よ、無量寿仏の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天のようにおのずから得ることができるのである。
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。その金・銀・瑠璃[るり]・シャコ・瑪瑙[めのう]・珊瑚[さんご]・琥珀[こはく]・明月真珠[みょうがつしんじゅ]などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのすから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃のさとりに至るのである。その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳
【二十】 釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏の国の天人や人々が用いる衣服・食べものや飲みもの・香り高い花・宝玉の飾り・天蓋[てんがい]・幡[はた]や、美しい音楽や、その身をおく家屋・宮殿・楼閣[ろうかく]などは、すべて天人や人々の姿かたちに応じて高さや大きさがほどよくととのう。それらは、望みに応じて一つの宝や二つの宝、あるいは数限りない宝でできており、思いのままにすぐ現れる。また多くの宝でできた美しい布がひろく大地に敷かれていて、天人や人々はみなその上を歩むのである。その国には数限りない宝の網がおおいめぐらされており、それらはみな、金の糸や真珠や、その他、実にさまざまな美しく珍しい宝で飾られている。その網はあたり一面にめぐり、宝の鈴を垂れており、それがまばゆく光り輝くようすはこの上なくうるわしい。そして、すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない。それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる。その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧[めつじんざんまい]{※註17}に入ったようにとても心地よくなるのである。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳
【二一】 また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す、それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。このようにして、昼夜六時{※註18}のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。
またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏
『浄土三部経(現代語版)』 より
いかがでしょうか。一見夢物語のように思われるかも知れませんが、これは衆生を済度する根本精神が言葉となって現われ出たものですから、単なる浄土の表現ではありません。読むことによって、無限の過去から呼び続けられていた心に光が当って解るようになる、実に巧みな方法なのです。これは如来のいのちそのものでありましょう。
すると浄土は幻どころか明々白々たる歴史的事実であるということが理解できると思います。疑うことなくこの仏心のはたらきを受け止めていくことが大切なのです。そしてさらに重要なのは、浄土は生死を越えたはたらきですから、今この場において私の心を浄土にうち建てることが可能である、ということです。
ですから、「地上界での思い出や記憶は有るのでしょうか?」という懸念は必要ありません。浄土に育てられた深い心によって、今、先人たちとも心を遇わせることができるのです。悲しければその悲しみの中で、寂しければその寂しさの中で、縁ある人々と出遇うことができます。深い本当の出遇いは決して別れを経験しないのです。
逆に言えば、たとえ身体が出あっても、心が通いあうことがなければ、本当に出遇ったことにはなりません。
というご質問について――「父の50回忌を行う為に長生きをしたいという思いが生まれました。でも・・・本当は、残された者の使命は何なのでしょうか?」
「父の50回忌を行う為に長生きをしたい」という思いは、それ自身はまだ浅い心ですが、既に仏心のはたらきを受けておられるように推察します。「長生きをしたい」というだけなら欲望ですが、欲望の中に大切な心も一緒により添っています。仏教ではこのことを「煩悩即菩提」と言います。
なぜ50年生きたいと願われるのでしょう。「50回忌法要をしてあげないとお父様が可哀相」と思われてみえるのかも知れませんね。何か決着をつけてあげないと、心が痛むような気持ちでしょうか。しかし法要の真意は、往生された方に何かをしてあげるのではなく、往生された方に成長した自分の姿を見ていただきたい、と願って勤めさせていただくことにあります。これはまだご自身では意識されていなくても、心の底では既にこの真意が動き始めているのかも知れません。
先人たちのご苦労・ご活躍を思いますと、法要までに自分がしっかりとまことの道を求め続け、苦しくても悪道に陥ったり自堕落に過ごすことの無いように心がけ、正直に生き続けていきます、と願わずにはおられないのではないでしょうか。まだ意識にまで上ってこない深い心ですが、そうした心のもよおしが、人や社会を支え続けているのです。
もう少し経典にうかがってみます。
【二二】 釈尊が阿難に仰せになった。
「さて、無量寿仏の国に生れようとする人々はみなこの世で正定聚{※註19}に入る。なぜなら、その国に邪定聚や不定聚のものが生れることはないからである。すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべての人々は、その仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは無量寿仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、無量寿仏の国に生れたいと願うたちどころに往生する身に定まり、不退転{※註20}の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれる。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就
【二〇】 以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。また自分の目が開くのを想い描くがよい。そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである」
『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 普観
【一二】 舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜこれを<すべての仏がたがお護りくださる経> と名づけつのだろうか。
舎利弗よ、もし善良なものたちが、このように仏がたがお説きになる阿弥陀仏の名とこの経の名を聞くなら、これらのものはみな、すべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くことのない位に至ることができる。だから舎利弗よ、そなたたちはみな、わたしの説くこの教えと、仏がたのお説きになることを深く信じて心にとどめるがよい。
舎利弗よ、もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひともその国に生れたいと願うべきである。
『仏説阿弥陀経』 正宗分 証誠段
『浄土三部経(現代語版)』 より『仏説観無量寿経』にある普観想は、想念の修行として行なうと「雑行」といいまして正しく覚る道にはなりませんが、如来の願意をたずねる導きとして学ぶならば、その過程において必ず肯くことのできる境涯を得ることができます。
如来回向の信心は願作仏心(自利)・度衆生心(利他)の徳をもつ他力の大菩提心である、と親鸞聖人はあらわされました。願作仏心とは、どこまでも真実の私のあり方を求めて道を歩むことです。度衆生心とは、全てのいのちを尊び敬い供養して歩むことです。この心が如来のいのちであり、信心として私に至り届けられるのです。そしてそれは、南無阿弥陀仏のはたらきであり、如来の本願を学ぶことの中において自ずと成就してくるのです。
如来の心を我が心とし、如来の願いを我が願いにして、共に人としての道を歩み続けていきましょう。
【一三】仏、阿難に語りたまはく、「かの仏の初会の声聞衆の数、称計すべからず。菩薩もまたしかなり。いまの大目ケン連のごとき、百千万億無量無数にして、阿僧祇那由他劫において、乃至滅度までことごとくともに計校すとも、多少の数を究了することあたはじ。たとへば大海の深広にして無量なるを、たとひ人ありて、その一毛を析きてもつて百分となして、一分の毛をもつて一タイを沾取せんがごとし。意においていかん、そのシタタるところのものは、かの大海においていづれをか多しとする」と。阿難、仏にまうさく、「かのシタタるところの水を大海に比するに、多少の量、巧暦・算数・言辞・譬類のよく知るところにあらざるなり」と。仏、阿難に語りたまはく、「目連等のごとき、百千万億那由他劫において、かの初会の声聞・菩薩を計へて、知らんところの数はなほ一タイのごとし。その知らざるところは大海の水のごとし。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 聖衆無量
【一五】また、無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。条のあひだに周ソウして、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網、その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至、第六天上の伎楽の音声、展転してあひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 道樹楽音荘厳
【一六】また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広・深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝・乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。かの諸菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頚に至らしめんと欲へば、水すなはち頚に至る。身に潅がしめんと欲へば、自然に身に潅ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和するに、自然に意に随ふ。〔水浴せば〕神を開き、体を悦ばしめて、心垢を蕩除す。〔水は〕清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙、映徹して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流してうたたあひ潅注す。安詳としてやうやく逝きて、遅からず、疾からず。波揚がりて無量なり。自然の妙声、その所応に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声を聞き、あるいは法声を聞き、あるいは僧声を聞く。あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、もろもろの通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、甘露潅頂、もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順し、通慧・菩薩と声聞の所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳
【一七】阿難、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。もし食せんと欲ふときは、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至る。百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ色を見、香を聞ぐに、意に食をなすと以へり。自然に飽足して身心柔軟なり。味着するところなし。事已れば化して去り、時至ればまた現ず。かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥Eの道に次し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天人の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳
【二〇】仏、阿難に告げたまはく、「無量寿国の、そのもろもろの天人の衣服・飲食・華香・瓔珞・ゾウ蓋・幢幡、微妙の音声、所居の舎宅・宮殿・楼閣は、その形色に称ひて高下大小あり。あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随ひて、念に応じてすなはち至る。また衆宝の妙衣をもつてあまねくその地に布けり。一切の天人これを践みて行く。無量の宝網、仏土に弥覆せり。みな金縷・真珠の百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳校飾せり。四面に周ソウして、垂るるに宝鈴をもつてす。光色晃耀にして、ことごとく厳麗を極む。自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず、暑からず。温涼柔軟にして、遅からず、疾からず。もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。それ聞ぐことあるものは、塵労垢習、自然に起らず。風、その身に触るるに、みな快楽を得。たとへば比丘の滅尽三昧を得るがごとし。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳
【二一】また風吹きて、華を散らして、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして馨香芬烈なり。足その上を履むに、陥み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復することもとのごとし。華、用ゐることすでに訖れば、地すなはち開き裂け、次いでをもつて化没す。清浄にして遺りなし。その時節に随ひて、風吹いて、華を散らす。かくのごとく六返す。また衆宝の蓮華、世界に周満せり。一々の宝華に百千億の葉あり。その華の光明に無量種の色あり。青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。イ曄煥爛として日月よりも明曜なり。一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。身色紫金にして相好殊特なり。一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏
『浄土真宗聖典(註釈版)』 より【二二】仏、阿難に告げたまはく、「それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く」と。
『仏説無量寿経』 巻下 正宗分 衆生往生因 十一・十七・十八願成就
【二〇】この事を見るとき、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開く想をなすべし。蓮華の開くとき、五百色の光あり。来りて身を照らし、〔心の〕眼目開くと想へ。仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ〔と想へ〕。十二部経と合して、出定のとき〔想を〕憶持して失はざれ。この事を見をはるを無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至す」と。『仏説観無量寿経』 正宗分 定善 普観
【一二】舎利弗、なんぢが意においていかん。なんのゆゑぞ名づけて一切諸仏に護念せらるる経とするや。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。このゆゑに舎利弗、なんぢらみなまさにわが語および諸仏の所説を信受すべし。舎利弗、もし人ありて、すでに発願し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生ぜんと欲はんものは、このもろもろの人等、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生れ、もしはいま生れ、もしはまさに生れん。このゆゑに舎利弗、もろもろの善男子・善女人、もし信あらんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。『仏説阿弥陀経』 正宗分 証誠段
『浄土真宗聖典(註釈版)』 より