平成アーカイブス  【仏教Q&A】

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【仏教QandA】

鐘の意味や歴史

時を告げ法要の始まりを知らせる打物

質問:

今度修学旅行で京都と奈良に行きます。学習テーマとしてお寺の鐘を取り上げたのですがなかなか良い資料がありません。鐘の意味や歴史を教えていただけないでしょうか。


梵鐘各部の名称(参考:『仏教美術辞典』東京書籍)

返答

 ご存知の通り、京都や奈良は歴史ある寺院が多く、また各宗旨宗派の本山も多く集まっているところですから、日本の精神史を知る上では格好の勉強の場といえるでしょう。鐘についてのお尋ねですので、手元にある資料を示します。それぞれの寺院に行けば詳しい資料が揃っていると思いますので、それまでの参考にして下さい。

◆ 梵鐘・喚鐘についての資料

 鐘には、梵鐘[ぼんしょう]・喚鐘[かんしょう]の二種がありますが、梵鐘の方が大きく喚鐘は小さな鐘です。どちらも時を知らせるために撞[つ]きますが、喚鐘の方は法要の直前に撞きます。
 本願寺では法要等に先立って次のように撞いています。

梵鐘・喚鐘

 梵鐘は「集会鐘[しゅうえしょう]」ともいい、法要や儀式を開始するに先立って、大衆[たいしゅう]が参集[さんしゅう]する合図として三十分または一時間前に撞[つ]く。打数は十打とし、各間隔をゆっくりあけ、余韻がかすかになってから次を撞き、最後の二打は少し間隔を早めて撞く。梵鐘は、法要や儀式以外(朝夕の時報など)に撞く場合もある。

 喚鐘は「行事鐘[ぎょうじしょう]」ともいい、法要や儀式の開始を知らせる合図として打つ。打ち方は、適当な間隔(5〜8秒程度)で七打してから、打ち上げ(短く小さく→長く大きく)、打ち下ろし(長く大きく→短く小さく)、次に五打してから再び打ち上げ、打ち下し、最後に三打する(三打のうち第二打は小さく打つ)。


ぼんしょう〔梵鐘〕
寺院の鐘楼[しょうろう]に吊[つ]る青銅製の大きな鐘[かね]。撞木[しゅもく]でつき鳴らす。一般に大鐘[おおがね]・釣鐘[つりがね]・洪鐘[おおがね]ともいう。現在のような形はインドにはなく中国で作られたもので、「梵刹[ぼんせつ](寺院)において用いる鐘」とも、また「梵(神聖・清浄)なる鐘の意」ともいう。本派では、大衆[だいしゅう]の参集の合図として用いるので集会鐘[しゅうえしょう]ともいい、また朝夕の時報[じほう]としても用いられる。

かんしょう〔喚鐘〕
梵鐘の小型のもので小鐘[こがね]とも半鐘[はんしょう]ともいう。大衆し知らせ喚ぶところから喚鐘の名がある。本派では、法要の直前に僧侶への出仕[しゅっし]の合図に用いるため行事鐘[ぎょうじしょう]ともいい、丁字[ていじ]型の撞木で打つ。  『本願寺通紀』によれば、第十四代寂如[じゃくにょ]上人の元禄[げんろく]元年(1688)11月、「両御堂[みどう]間の長廊下に始めて小鐘(喚鐘)を掛[か]け、まず洪鐘(梵鐘)を撞いて衆を集め、次に小鐘を撃ちて道場を開いた」という記録がある。

『浄土真宗本願寺派 法式規範』本願寺派出版社 より

 ここでいう「打ち上げ」とは、初めは小さく細かく打ち、次第に大きくゆっくり打つことで、「打ち下し」はその逆に、初め大きくゆっくり打ち、次第に小さく細かく打つことです。

 以下、各辞典に掲載されているものをご紹介します。

かね 
梵鐘と喚鐘がある.梵鐘は大鐘,釣鐘[つりがね],鯨鐘などといい,銅に少量のヨウ(※註1)・亜鉛等を加えて鋳造し,概[おおむ]ね高さ150〜160cm,直径60〜90cmのものが多く,時を知らせたり大衆を召集するときに用いる.喚鐘は小型のもので,半鐘ともいい,普通高さ50〜60cm,直径30cm内外であり,堂内に吊って法会の開始等を知らせる.梵鐘を新調したときに行う法会を,俗に鐘供養という.

『真宗新辞典』法蔵館 より

  [編集註 ※註1:「金」偏に「易」]

しょう[]
時を知らせるために打つ《かね》。インドでは僧団の集会などに木製のノ稚[かんち](ガンター)を用いたが,中国ではその代わりに銅鐘を用いるようになったが,木製のものも板[ばん]と称して同様に用いる。
 鐘には梵鐘[ぼんしょう]と喚鐘[かんしょう]があり,梵鐘は大鐘・釣鐘[つりかね]・鯨鐘[げいしょう]などと称し,銅と少量のヨウ・亜鉛等で鋳造[ちゅぞう]され,通常高さ150〜200cm・直径60〜90cmほどものもが多く,鐘楼[しゅろう]に吊り大衆を召集するとき朝夕の時を知らせるとき用いる。その形状は上部に龍の頭をかたどった龍頭[りゅうず]と称する釣り手があり,下部には相対して蓮華状の2個の撞座[つきざ]があって,吊した撞木[しゅもく]でここを叩き,上部に乳房状の小突起(乳の町)が周らされる。
喚鐘は梵鐘の小型のもので,半鐘[はんしょう]ともいい,高さ50〜60cm,直径30cm内外のものが多く,仏堂内に吊り法会や坐禅の開始等に用いる。

『新・佛教辞典』誠信書房/中村元 監修 より

梵鐘 ぼんしょう
寺院の鐘楼[しゅろう]に懸吊[けんちょう]され、撞木[しゅもく]で打ち鳴らされる仏具。銅鋳製がほとんどであるが、まれに鉄製もある。一般的には釣鐘[つりがね]で通っており、洪鐘[こうしょう]、蒲牢[ほろう]、鯨鐘[げいしょう]、巨鯨[きょげい]、華鯨[かげい]などとも呼ばれている。鯨にたとえられるのはその大きさからである。また蒲牢は竜の子で、これが鯨に追われて大きな声で鳴くとあって、これを懸吊部にかたどることで、大きな音が出るようにしたという。
梵鐘は寺院において色々な行事を行なうときの合図に、また朝夕には時を伝えるとともに、衆生[しゅじょう]の愚かしい考えや悪行を引きとどめることを目的として打ち鳴らされる。さらに、その音色を聞くことによって、地獄の苦しみから逃れ、極楽に往生できるとされている。
日本に鐘が伝わったのは、『日本書紀』の562(欽名天皇23)年に、銅縷鐘[どうりょうしょう]三口を大伴狭手彦[おおとものさでひこ]が高句麗[こうくり]から持ち帰ったとあるのが記録としては最も古いが、これが寺院で使われた梵鐘であったかは分からない。現存する作品では、戊戌(698)年の銘文を記した京都・妙心寺の梵鐘(国宝)が最古である。
梵鐘は中国、朝鮮半島でも作られているが、日本の梵鐘は、中国の梵鐘の影響を受けて作られており、各部に共通点が多く見られる。陳の太建七(575)年銘の梵鐘(奈良国立博物館保存、重文)をみると、鋳造法[ちゅぞうほう]は縦割りの鋳型[いがた]を使うほかは、日本の梵鐘と形状が酷似している。

 梵鐘の構造は、頂部に二頭の竜を背中合わせに配した竜頭[りゅうず]を取り付け、その空間で鐘楼の鉤[こう]をかけて懸吊する。その下は穏やかな傾斜をもつ笠形から鐘身へと至る。鐘身は上下に凸線の帯をめぐらして上帯[じょうたい]、下帯[かたい]を作り、ここに唐草[からくさ]などの文様を表す。そして上帯、下帯の間はさらに二段に分け、また縦に縦帯[じゅうたい]と呼ぶ四条の帯を凸線で作って四区に分け、上段は乳[ち]の間[ま]と称して各間20から25個の乳と呼ぶ小突起を付け、下段には銘文などを表わす池の間を備え、縦帯4本の内に方向の下方に撞座[つきざ]を設けるのが一般的である。
奈良時代の梵鐘は、撞座の位置が高いこと、竜頭の長軸線と直角の位置に撞座が設けられている(※註2)のが大きな特徴である。平安時代もこの傾向は続くが、後期には竜頭の長軸線上に撞座が設けられようになり、撞座も低い位置へと変化していき、この形式は現代に受け継がれている。

(原田一敏)

朝鮮鐘 ちょうせんしょう
新羅[しらぎ]・高麗[こうらい]・朝鮮時代の鐘を総称して朝鮮鐘と呼ぶ。日本・中国にみられるような袈裟襷[けさだすき](縦帯や横帯)が鐘身になく、竜頭(竜形の釣り金具)の部分に音管の役割をする甬筒[ようとう]を備える特徴を持つ。三国時代の鐘が現存していないので、朝鮮鐘がいつ頃成立したかは定かではない。ただ、鐘の口径に対する撞座高の比率や装飾方法は、上院寺[じょういんじ]鐘(725)と奉徳寺[ほうとくじ]鐘(771)とほとんど同じであり、七世紀末の新羅鐘もこれに近い形態であったと推測されている。その他、日本・中国鐘では竜頭が二つの竜首と宝珠を組み合わせてできているが、朝鮮鐘では前足の爪で鐘をしっかりとらえた単頭の竜からなるなどの違いがある。新羅鐘では鐘身に二つある撞座はこの竜頭の方向にそって前後に配されているが、高麗鐘では四つに増え、前後左右に配されることが多い。
こうした撞座に加え、上・下帯や乳郭に奏楽飛天[ひてん]を配した朝鮮鐘の美しさに魅せられた日本人も多く、中世以降、数多くの朝鮮鐘が日本にもたらされている。その中には、今は失われた対馬(長崎県)国府八幡宮鐘のように上院寺に次ぐ745(天宝4)年に鋳成された新羅鐘をはじめ、天復4(904)年銘の大分・宇佐神神宮鐘(重文)など40数例が確認されている。やがて室町から江戸時代になると、北九州の芦屋鋳物師[あしやいもじ]などにより、朝鮮鐘をまねた和鐘さえ作られた。

(大西修也)

『仏教美術辞典』東京書籍/中村元・久野健 監修 より

[編集註 ※註2:この前後、辞典に誤りがありましたので、訂正して掲載しておきました]

 なお、京都・奈良の寺院にある有名な梵鐘について、資料をご紹介します。

[梵鐘(妙心寺、黄鐘調大鐘) ぼんしょう(みょうしんじ、おうじきじょうたいしょう)]
国宝 京都市右京区花園妙心寺町・妙心寺蔵。総高150.6、鐘身高119.0、口径86.0センチ。梵鐘の内側に「戊戌年四月十三日壬虎[みずのえとら]収糟屋造舂米連広国[かすやのみやつこつきしねのむらじひろくに]鐘」と銘文が記されている。この戊戌年は698(文武天皇2)年にあたる。これは梵鐘としては最古の年号であり、江戸時代から著名な鐘となっている。妙心寺は1337(建武4)年の創建であり、当然この鐘は他所から移されたものである。 銘文中にみえる糟屋造は現在の福岡県糟屋郡にあたる地であり、この地方で製作、この地の寺院に奉献[ほうけん]されたと考えられ、また舂米連広国については製作者である鋳物師[いもじ]の名、あるいは発願者とする説があるが、前者が有力である。
 全体の形は口径に比して高さが高く、すらりとしており、大きな特徴として撞座の位置が、鐘身の高さの41%に相当する高いところに設置されていること、さらに竜頭の長軸線と直角の位置に設けられていることが挙げられる。撞座の位置は日本梵鐘中最も高い位置にあり、時代が下がるにつれて位置が低くなっていく。この撞座が竜頭の長軸線と直角の位置に置かれるのは平安時代までで、以後は竜頭の長軸線と並行して配置されるようになる。こうした梵鐘の形式的な変遷を知る上で規準となる作品であり、資料的にも極めて重要な作品と評価される。 黄鐘調はその鐘の音の良さをいったものである。福岡・観世音寺の梵鐘と下帯の文様をやや異にするだけで、形式、寸法、撞座はほとんど同じであり、同一の規型を用いたと考えられている。

(原田一敏)

[梵鐘(東大寺) ぼんしょう(とうだいじ)]
国宝 奈良市雑司町・東大寺蔵。総高386.5、鐘身高、口径270.8、口厚23.7センチ。重量26.3トンにも達する巨大な梵鐘で、鐘楼[しゅろう]に懸[か]かる。平安時代末期に編纂[へんさん]された大江親道[おおえのちかみち]の『七大寺巡礼私記』によれば、750(天平勝宝2)年、正月から型を作り始めて12月に鋳造したが失敗し、751年正月改めて着手し、閏3月7日に完成し、4月8日大仏開眼[かいげん]供養の前日に孝謙天の行幸を仰いで鐘楼に懸けられた。 『東大寺要録』には鋳造した鋳物師として国公麿[くにのきみまろ]、高市真国[たけちのまくに]、高市真麿[たけちのまろ]、柿本男玉[かきのもとおたま]、猪名部百世[いなべのももせ]、誉田縄手[ほんだのなわて]の六人の名を挙げている。
全体の形は高さに比べて口径が大きく、乳の間と池の間との間に五条の紐帯をめぐらしているが、これは他の鐘には見られない特徴である。おそらく池の間の大きな空間を引き締めるために施されたものと解されている。また、笠形周縁近く六か所に口径が4.5センチほどの円孔のある圭状突起が設けてある。これは巨大なこの鐘の懸吊を維持するため、鉄鐶[てっかん]などを通して梁[はり]に吊り、竜頭のほかに懸吊の補助たしたものと考えられている。これも、近世この鐘を手本とした京都・方広寺[ほうこうじ]や知恩院[ちおいん]など大型梵鐘を除くと、ほかには見られない特徴といえる。

(原田一敏)

[梵鐘(平等院) ぼんしょう(びょうどういん)]
国宝 京都府(※註3)宇治市蓮華町・平等院蔵。総高199.0、口径123.0センチ。古来、銘の神護寺[じんごじ](京都)、声の園城寺[おんじょうじ]、姿の平等院といわれて天下三銘鐘とされている。巨鐘でありながら、笠から口へと至る線が、穏やかな裾広がりとなって、美しいカーブを描いている。この形姿のよさとともに、もう一つの大きな特徴は、鐘身全体にくまなく唐草や天人、獅子などの文様が施されていることである。日本の梵鐘で、これほど文様を濃密に表わしたものは、ほかに例をみない。鐘に文様を表わすのは朝鮮鐘の特色であり、それを取り入れたものと解されている。銘文がないため、その製作時期は平等院草創期すなわち105(永承7)年頃とするの、さらに平安後期まで下がるとみるなど各説あって、決定的な説はない。それは、乳の間に内郭があること、さらに撞座の位置が高いことなどは平安前期的な特徴を示しているのに対し、撞座の配置が竜頭の長軸線上にあること、乳の形状が茸形となっているのは、平安後期から見られる梵鐘の特徴であるためである。

(原田一敏)

[梵鐘(栄山寺) ぼんしょう(えいざんじ)]
国宝 奈良県(※註4)五条市小島町・栄山寺蔵。総高157.4、口径89センチ。もとは京都深草の道澄寺[どうちょうじ]にあった。池の間の四区にいっぱいに記された銘文が原文筆者の文字そのままの形に、陽鋳で表わされており、神護寺の鐘とともに堂々とした銘文をもつ梵鐘として著名である。銘文には、917(延喜17)年、大納言[だいなごん]従三位藤原道明[みちあき]と参議従四位上橘澄清[たちばなのすみきよ]によって道澄寺が創建され、寺名が両者の首字をとったことなどの経緯と梵鐘の功徳を称賛する内容が記される。鐘身と口径の比率からみたバランスがよく、すらりと整った形をしており、また竜頭が精巧、雄勁[ゆうけい]であることは日本梵鐘中第一であると評される。

(原田一敏)

『仏教美術辞典』東京書籍/中村元・久野健 監修 より

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[編集註 ※註3註4:蛇足ながら県名も入れておきました]

◆ 百八の鐘

 一般的に梵鐘で思い出されるのは除夜の鐘でしょう。「除夜には百八回鐘を撞く」ということはよく知られていますが、これは中国仏教の影響によるようです。

百八の鐘 ひゃくはちのかね
(1)寺院で朝夕梵鐘(釣鐘)を百八回鳴らすことで、シナ(※註5)で始まったことらしく、暁に鳴らすのは眠りをさまし、暮れにうつのは、目のくらんだ迷いをさますためといわれる。略して十八とする。
(2)日本では年末の夜半に鳴らし、除夜の鐘として一般に親しまれている。百八の数については百八煩悩を洗い清め、新年を迎えるためといわれるが、十二月・二十四気・七十二候に応ずるという説もある。

『佛教語大辞典』東京書籍 より

[編集註 ※註5:中国のこと]

 なお浄土真宗では、除夜に撞く鐘の回数は特別決まってはいません。大抵は参集者(希望者)にあわせて撞かれます。これは、煩悩の数が百八と決まっているものではないということ、そして煩悩を除いて仏道を成就するのではなく、煩悩即菩提の流れを汲み、如来の願いにより煩悩が無上菩提心のはたらきに随う縁に転じられていく教えだからです。

[百八煩悩][煩悩即菩提について] 参照)

以上



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