平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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登高座についてお聞かせください。
ある寺の報恩講で登高座を見たのですが、これにはどんな歴史と意味があるのでしょうか?
見ていて意味もわからなければ、僧侶が何を言っているのか、説明もなくてまったくわかりません。
荘厳作法だといわれればそれまでですが、どう見ても祈祷を行っているとしか思えず、非常にあやしげです。
それに平等を説くべき僧侶が派手な衣装を着た上に、あのような高いところに上って儀式を行うことは権威主義を象徴しているのではないでしょうか?
登高座について、ということですが、浄土真宗では説戒はありませんので「礼盤」と言います。寺院では常に目にするものですので「非常にあやしげです」という感覚はありませんが、見慣れない方にとっては気になる存在でしょう。
そこでまず、高座・礼盤についての資料を提示し、内陣荘厳や衣装について話を進めていきたいと思います。
[佛教語大辞典/東京書籍]
[佛教語大辞典/東京書籍]
[仏教美術辞典/東京書籍(河田 貞)]
礼盤 らいばん : 法会の際に導師のために本尊の正面に設ける座,前には向卓を据え,右に磬,左には柄香炉又は持蓮華を置く.
[真宗新辞典/法蔵館]
もう少し説明しますと、古来より、寺院でのお勤めというのは内陣でするのが原則でした。ですから、法要に際し、導師の座る場である高座や礼盤は必要不可欠のものです。
礼盤には、読経等に必要なものが置かれ、登礼盤の際には柄香炉を持って三拝をしますが、これは最も丁寧な挨拶の仕方です。また、作法によっては行道[ぎょうどう]が入る場合がありますが、これは『大無量寿経』に「世自在王如来の所に詣でて仏足を稽首し、右に繞ること三ゾウして、長跪合掌して、頌をもつて讃めてまうさく」とありますように、やはり尊い人を敬う礼です。行道は経典の内容を動きをもって現わし、仏徳讃嘆させていただくわけです。
ちなみに、時代が進んで外陣(礼堂)ができ、建築の発展とともに外陣が広くとられるようになりました。特に浄土真宗では内陣より外陣の方が大きい本堂が一般化しましたが、これは門徒数の拡大と同朋意識の高まりが形になったものです。普段は、浄土真宗の一般寺院では僧侶も外陣で門徒の方々といっしょにお勤めすることもありますが、報恩講などの法要では内陣に出勤し、礼盤を使い、より丁寧なお勤めをさせていただく訳です。
私論を言いますと、浄土真宗において受け継がれてきた文化的な面の多くは、作法に集約されていますので、礼盤を無くしてしまうと、そうした大切な伝統がごっそり削げ落ちてしまいます。礼盤を無くして喜ぶのは不勉強な僧侶だけでしょう。現実の教団における心配は、声明や作法の質が低下していることです。「昔はもっと作法が美しかった」と言われる方がみえますが、ご門徒の方々は、礼盤を不審がるより、「もっと丁寧に声明作法を勤めてほしい」という要望を寺院に出して頂きたいと思います。
なお、浄土真宗の荘厳作法は加持祈祷とは一線を画しています。特に蓮如上人は、当時の天台宗から無理やり押し付けられていた護摩壇(これは元来「ゾロアスター教」のもの)を壊して念仏一道を宣言されました。そのためもあり本願寺は焼き討ちの憂き目を見ますが、真実の法は全国に広がっていきました。
ご質問の主旨は、「誤解を受けやすい」という意かも知れませんが、法を聞いていただけば、すぐに違いは分かっていただけると思います。
「平等を説くべき僧侶が派手な衣装を着た上に、あのような高いところに上って儀式を行うことは権威主義を象徴しているのではないでしょうか?」
というご質問ですが、僧侶の意識の中に差別や権威主義が全く無いとは言えません。僧侶はこの点、よくよく己の言行を慎み、如来の心に順じて平等の法を体現していかなくてはならないでしょう。
ただし、礼盤や衣装自体に問題はありません。これを扱う僧侶の意識は上記のように問題が起きる可能性があるのですが、荘厳は仏法を展開するたしなみであり、浄土の表現なのです。それは「権威主義を象徴」するものではなく、むしろ平等の法の展開を荘厳しているのです。
「荘厳」というと、単なる飾りのように思われてしまうかも知れませんが、浄土真宗においては、「如来の願いによって清浄にととのえられた様子」をいいます。この浄土の荘厳の様子を観察することは、「正行」と「雑行」について に書きましたように、天親菩薩の『浄土論』に示された五種の行「五念門」、善導大師の『散善義』に説く浄土往生の行業「五正行」ともに顕されています重要な助業です。
[真宗新辞典/法蔵館]
[佛教語大辞典/東京書籍]
浄土をより身近にいただくために、内陣(仏壇)や衣装の荘厳をよく見ていただき、如来の願力が浄土荘厳を果した経緯について思いを巡らしていただきたいと思います。
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはりて、仏(世自在王仏)にまうしてまうさく、〈やや、しかなり。世尊、われ無上正覚の心を発せり。願はくは仏、わがために広く経法を宣べたまへ。われまさに修行して仏国を摂取して、清浄に無量の妙土を荘厳すべし。われをして世においてすみやかに正覚を成りて、もろもろの生死勤苦の本を抜かしめたまへ〉」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 思惟摂取
▼意訳(現代語版より)
釈尊が阿難に仰せになった。
「法蔵菩薩は、このように述べおわってから、世自在王仏に、<この通りです。世尊、わたしはこの上ないさとりを求める心を起しました。どうぞ、わたしのためにひろく教えをお説きください。わたしはそれにしたがって修行し、仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください>と申しあげた」
ここにおいて世自在王仏、すなはちために広く二百一十億の諸仏の刹土の天人の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与へたまふ。ときにかの比丘、仏の所説を聞きて、厳浄の国土みなことごとく覩見して無上殊勝の願を超発せり。その心寂静にして志、所着なし。一切の世間によく及ぶものなけん。五劫を具足し、思惟して荘厳仏国の清浄の行を摂取す」
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵発願 思惟摂取
▼意訳(現代語版より)
そして法蔵菩薩のために、ひろく二百一十億のさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、菩薩の願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになったのである。
そのとき法蔵菩薩は、世自在王仏の教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願を起したのである。
その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものがなかった。
そして五劫の長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行を選び取ったのである」
仏、阿難に告げたまはく、「法蔵比丘、この頌を説きをはるに、時に応じてあまねく地、六種に震動す。天より妙華を雨らして、もつてその上に散ず。自然の音楽、空中に讃めていはく、〈決定してかならず無上正覚を成るべし〉と。ここに法蔵比丘、かくのごときの大願を具足し修満して、誠諦にして虚しからず。世間に超出して深く寂滅を楽ふ。阿難、ときにかの比丘、その仏の所、諸天・魔・梵・竜神八部・大衆のなかにして、この弘誓を発す。この願を建てをはりて、一向に専志して妙土を荘厳す。所修の仏国、恢廓広大にして超勝独妙なり。建立〔せられし仏国は〕常然にして、衰なく変なし。不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。無量の宝蔵、自然に発応し、無数の衆生を教化し安立して、無上正真の道に住せしむ。あるいは長者・居士・豪姓・尊貴となり、あるいは刹利国君・転輪聖帝となり、あるいは六欲天主、乃至梵王となりて、つねに四事をもつて一切の諸仏を供養し恭敬したてまつる。かくのごときの功徳、称説すべからず。口気は香潔にして、優鉢羅華のごとし。身のもろもろの毛孔より栴檀香を出す。その香は、あまねく無量の世界に熏ず。容色端正にして相好殊妙なり。その手よりつねに無尽の宝・衣服・飲食・珍妙の華香ゾウ蓋・幢幡、荘厳の具を出す。かくのごときらの事もろもろの天人に超えたり。一切の法において自在を得たりき」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 法蔵修行
▼意訳(現代語版より)
釈尊が阿難に仰せになる。
「法蔵菩薩が、このように述べおわると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせた。
そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、<必ずこの上ないさとりを開くであろう> とほめたたえた。
ここに法蔵菩薩はこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのである。
阿難よ、そのとき法蔵菩薩は世自在王仏のおそばにあり、さまざまな天人・魔王・梵天・竜などの八部衆、その他大勢のものの前で、この誓いをたてたのである。
そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励んだ。
その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもない。
このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。
すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。
そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。
表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。
ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。
その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。
また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。
国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。
このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。
その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた。
あるときは富豪となり在家信者となり、またバラモンとなり大臣となり、あるときは国王や転輪聖王となり、あるときは六欲天や梵天などの王となリ、常に衣食住の品々や薬などですべての仏を供養し、あつく敬った。
それらの功徳は、とても説き尽すことができないほどである。
その口は青い蓮の花のように清らかな香りを出し、全身の毛穴からは栴檀の香りを放ち、その香りは数限りない世界に広がり、お姿は気高く、表情はうるわしい。
またその手から、いつも、尽きることのない宝・衣服・飲みものや食べもの・美しく香り高い花・天蓋・幡などの飾りの品々を出した。
これらのことは、さまざまな天人にはるかにすぐれていて、すべてを思いのままに行えたのである」
また、その国土に七宝のもろもろの樹、世界に周満せり。金樹・銀樹・瑠璃樹・玻リ樹・珊瑚樹・碼碯樹・シャコ樹なり。 あるいは二宝・三宝、乃至、七宝、うたたともに合成せるあり。 あるいは金樹に銀の葉・華・果なるあり。あるいは銀樹に金の葉・華・果なるあり。 あるいは瑠璃樹に玻リを葉とす、華・果またしかなり。 あるいは水精樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。 あるいは珊瑚樹に碼碯を葉とす、華・果またしかなり。 あるいは碼碯樹に瑠璃を葉とす、華・果またしかなり。 あるいはシャコ樹に衆宝を葉とす、華・果またしかなり。 あるいは宝樹あり、紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水精を条とし、珊瑚を葉とし、碼碯を華とし、シャコを実とす。 あるいは宝樹あり、白銀を本とし、瑠璃を茎とし、水精を枝とし、珊瑚を条とし、碼碯を葉とし、シャコを華とし、紫金を実とす。 あるいは宝樹あり、瑠璃を本とし、水精を茎とし、珊瑚を枝とし、碼碯を条とし、シャコを葉とし、紫金を華とし、白銀を実とす。 あるいは宝樹あり、水精を本とし、珊瑚を茎とし、碼碯を枝とし、水精を条とし、紫金を葉とし、白銀を華とし、瑠璃を実とす。 あるいは宝樹あり、珊瑚を本とし、碼碯を茎とし、水精を枝とし、紫金を条とし、白銀を葉とし、瑠璃を華とし、水精を実とす。 あるいは宝樹あり、碼碯を本とし、シャコを茎とし、紫金を枝とし、白銀を条とし、瑠璃を葉とし、水精を華とし、珊瑚を実とす。 あるいは宝樹あり、水精を本とし、紫金を茎とし、白銀を枝とし、瑠璃を条とし、水精を葉とし、珊瑚を華とし、碼碯を実とす。 このもろもろの宝樹、行々あひ値ひ、茎々あひ望み、枝々あひ準ひ、葉々あひ向かひ、華々あひ順ひ、実々あひ当れり。 栄色の光耀たること、勝げて視るべからず。清風、ときに発りて五つの音声を出す。微妙にして宮・商、自然にあひ和す。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 宝樹荘厳
▼意訳(現代語版より)
またその国土には、七つの宝でできたさまざまな樹々が一面に立ち並んでいる。
金の樹・銀の樹・瑠璃の樹・水晶の樹・珊瑚の樹・瑪瑙の樹・シャコの樹というように一つの宝だけでできた樹もあり、二つの宝や三つの宝から七つの宝までいろいろにまじりあってできた樹もある。
金の樹で銀の葉・花・実をつけたものもあり、銀の樹で金の葉・花・実をつけたものもある。
また、瑠璃の樹で水晶の葉・花・実をつけたもの、水晶の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたもの、珊瑚の樹で瑪瑙の葉・花・実をつけたもの、瑪瑙の樹で瑠璃の葉・花・実をつけたものもある。
あるいは、シャコの樹でいろいろな宝の葉・花・実をつけたものなどもある。
さらにまた、ある宝樹は金の根・銀の幹、瑠璃の枝、水晶の小枝、珊瑚の葉、瑪瑙の花、シャコの実でできている。
ある宝樹は銀の根、瑠璃の幹、水晶の枝、珊瑚の小枝、瑪瑙の葉、シャコの花、金の実でできている。
ある宝樹は瑠璃の根、水晶の幹、珊瑚の枝、瑪瑙の小枝、シャコの葉、金の花、銀の実でできている。
ある宝樹は水晶の根、珊瑚の幹、瑪瑙の枝、シャコの小枝、金の葉、銀の花、瑠璃の実でできている。
ある宝樹は珊瑚の根、瑪瑙の幹、シャコの枝、金の小枝、銀の葉、瑠璃の花、水晶の実でできている。
ある宝樹は瑪瑙の根、シャコの幹、金の枝、銀の小枝、瑠璃の葉、水晶の花、珊瑚の実でできている。
ある宝樹はシャコの根、金の幹、銀の枝、瑠璃の小枝、水晶の葉、珊瑚の花、瑪瑙の実でできている。
これらの宝樹が整然と並び、幹も枝も葉も花も実も、すべてつりあいよくそろっており、はなやかに輝いているようすは、まことにまばゆいばかりである。
ときおり清らかな風がゆるやかに吹いてくると、それらの宝樹はいろいろな音を出して、その音色はみごとに調和している。
また、無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里、その本の周囲五十由旬なり。枝葉四に布けること二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。条のあひだに周ソウして、宝の瓔珞を垂れたり。百千万色にして種々に異変す。無量の光焔、照耀極まりなし。珍妙の宝網、その上に羅覆せり。一切の荘厳、応に随ひて現ず。微風やうやく動きてもろもろの枝葉を吹くに、無量の妙法の音声を演出す。その声流布して諸仏の国に遍ず。その音を聞くものは、深法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、耳根清徹にして苦患に遭はず。目にその色を覩、耳にその音を聞き、鼻にその香を知り、舌にその味はひを嘗め、身にその光を触れ、心に法をもつて縁ずるに、一切みな甚深の法忍を得て不退転に住す。仏道を成るに至るまで、六根は清徹にしてもろもろの悩患なし。阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなり」と。仏、阿難に告げたまはく、「世間の帝王に百千の音楽あり。転輪聖王より、乃至、第六天上の伎楽の音声、展転してあひ勝れたること、千億万倍なり。第六天上の万種の楽音、無量寿国のもろもろの七宝樹の一種の音声にしかざること、千億倍なり。また自然の万種の伎楽あり。またその楽の声、法音にあらざることなし。清揚哀亮にして微妙和雅なり。十方世界の音声のなかに、もつとも第一とす。 ――
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 道樹楽音荘厳
▼意訳(現代語版より)
また、無量寿仏の国の菩提樹は高さが四百万里で、根もとの周囲が五十由旬であり、枝や葉は二十万里にわたり四方に広がっている。
それはすべての宝が集まって美しくできており、しかも宝の王ともいわれる月光摩尼や持海輪宝で飾られている。
枝と枝の間には、いたるところに宝玉の飾りが垂れ、その色は数限りなくさまざまに変化し、はかり知れないほどの光となってこの上なく美しく照り輝いている。
そして美しい宝をつないだ網がその上におおいめぐらされている。
このようにすべての飾りが望みのままに現れるのである。
そよ風がゆるやかに吹くと、その枝や葉がそよいで、尽きることなくすぐれた教えを説き述べる。
その教えの声が流れ広がって、さまざまな仏がたの世界に響きわたる。
その声を聞くものは、無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで耳が清らかになり、決して苦しみわずらうことがない。
このように、目にその姿を見、耳にその音を聞き、鼻にその香りをかぎ、舌にその味をなめ、身にその光を受け、心にその樹を想い浮べるものは、すべて無生法忍を得て不退転の位に入り、仏になるまで身も心も清らかになリ、何一つ悩みわずらうことがないのである。
阿難よ、もしその国の人々がこの樹を見るなら、音響忍・柔順忍・無生法忍が得られる。
それはすべて無量寿仏の不可思議な力と、満足願・明了願・堅固願・究竟願と呼ばれる本願の力とによるのである」
続けて釈尊が阿難に仰せになる。
「世間の帝王は、実にさまざまな音楽を聞くことができるが、これをはじめとして、転輪聖王の聞く音楽から他化自在天までの各世界の音楽を次々にくらべていくと、後の方がそれぞれ千億万倍もすぐれている。
そのもっともすぐれた他化自在天の数限りない音楽よりも、無量寿仏の国の宝樹から出るわずか一つの音の方が、千億倍もすぐれているのである。
そしてその国には数限りなくうるわしい音楽があり、それらの音楽はすべて教えを説き述べている。
それは清く冴えわたり、よく調和してすばらしく、すべての世界の中でもっともすぐれているのである。
――
―― また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝荘厳して自然に化成す。また真珠・明月摩尼の衆宝をもつて、もつて交露としてその上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。〔大きさ〕あるいは十由旬、あるいは二十・三十、乃至、百千由旬なり。縦広・深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして、味はひ甘露のごとし。黄金の池には、底に白銀の沙あり。白銀の池には、底に黄金の沙あり。水精の池には、底に瑠璃の沙あり。瑠璃の池には、底に水精の沙あり。珊瑚の池には、底に琥珀の沙あり。琥珀の池には、底に珊瑚の沙あり。シャコの池には、底に碼碯の沙あり。碼碯の池には、底にシャコの沙あり。白玉の池には、底に紫金の沙あり。紫金の池には、底に白玉の沙あり。あるいは二宝・三宝・乃至七宝、うたたともに合成せり。その池の岸の上に栴檀樹あり。華葉垂れ布きて、香気あまねく熏ず。天の優鉢羅華・鉢曇摩華・拘物頭華・分陀利華、雑色光茂にして、弥く水の上に覆へり。かの諸菩薩および声聞衆、もし宝池に入りて、意に水をして足を没さしめんと欲へば、水すなはち足を没す。膝に至らしめんと欲へば、すなはち膝に至る。腰に至らしめんと欲へば、水すなはち腰に至る。頚に至らしめんと欲へば、水すなはち頚に至る。身に潅がしめんと欲へば、自然に身に潅ぐ。還復せしめんと欲へば、水すなはち還復す。冷煖を調和するに、自然に意に随ふ。〔水浴せば〕神を開き、体を悦ばしめて、心垢を蕩除す。〔水は〕清明澄潔にして、浄きこと形なきがごとし。〔池底の〕宝沙、映徹して、深きをも照らさざることなし。微瀾回流してうたたあひ潅注す。安詳としてやうやく逝きて、遅からず、疾からず。波揚がりて無量なり。自然の妙声、その所応に随ひて聞えざるものなし。あるいは仏声を聞き、あるいは法声を聞き、あるいは僧声を聞く。あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、もろもろの通慧の声、無所作の声、不起滅の声、無生忍の声、乃至、甘露潅頂、もろもろの妙法の声、かくのごときらの声、その聞くところに称ひて、歓喜すること無量なり。〔聞くひとは〕清浄・離欲・寂滅・真実の義に随順し、三宝・〔十〕力・無所畏・不共の法に随順し、通慧・菩薩と声聞の所行の道に随順す。三塗苦難の名あることなく、ただ自然快楽の音のみあり。このゆゑに、その国を名づけて安楽といふ。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 講堂宝池荘厳
▼意訳(現代語版より)
―― また、その国の講堂・精舎・宮殿・楼閣などは、みな七つの宝で美しくできていて、真珠や月光摩尼のようないろいろな宝で飾られた幕が張りめぐらされている。
その内側にも外側にもいたるところに多くの水浴する池があり、大きさは十由旬から、二十・三十由旬、さらに百千由旬というようにさまざまで、その縦横の長さは等しく深さは一定である。
それらの池には、不可思議な力を持った水がなみなみとたたえられ、その水の実に清らかでさわやかな香りがし、まるで甘露のような味をしている。
金の池には底に銀の砂があり、銀の池には底に金の砂がある。
水晶の池には底に瑠璃の砂があり、瑠璃の池には底に水晶の砂がある。
珊瑚の池には底に琥珀の砂があり、琥珀の池には底に珊瑚の砂がある。
シャコの池には底に瑪瑙の砂があり、瑪瑙の池には底にシャコの砂がある。
白玉の池には底に紫金の砂があり、紫金の池には底に白玉の砂がある。
また、二つの宝や三つの宝、そして七つの宝によってできたものもある。
池の岸には栴檀の樹々があって、花や葉を垂れてよい香りをあたり一面に漂わせ、青や赤や黄や白の美しい蓮の花が色とりどりに咲いて、その水面をおおっている。
もしその国の菩薩や声聞たちが宝の池に入り、足をひたしたいと思えば水はすぐさま足をひたし、膝までつかりたいと思えば膝までその水かさを増し、腰までと思えば腰まで、さらに首までと思えば首まで増してくる。
身にそそぎたいと思えばおのずから身にそそがれ、水をもとにもどそうと思えばたちまちもと通りになる。
その冷たさ暖かさはよく調和して望みにかない、身も心もさわやかになって心の汚れも除かれる。
その水は清く澄みきって、あるのかどうか分からないほどであり、底にある宝の砂の輝きは、どれほど水が深くても透きとおって見える。
水はさざ波を立て、めぐり流れてそそぎあい、ゆったりとして遅すぎることも速すぎることもない。
その数限りないさざ波は美しくすぐれた音を出し、聞くものの望みのままにどのような調べをも奏でてくれる。
あるいは仏・法・僧の三宝を説く声を聞き、あるいは寂静の声、空・無我の声、大慈悲の声、波羅蜜の声、あるいは十力・無畏・不共法の声、さまざまな神通智慧の声、無所作の声、不起滅の声、さらに無生法忍の声から甘露灌頂の声というふうに、さまざまなすばらしい教えを説く声を聞くのである。
そしてこれらの声は、聞くものの望みに応じてはかり知れない喜びを与える。
つまりそれらの声を聞けば、清浄・離欲・寂滅・真実の義にかない、仏・法・僧の三宝や十力・無畏・不共法の徳にかない、神通智慧や菩薩・声聞の修行の道にかなってはずれることがないのである。
このように苦しみの世界である地獄や餓鬼や畜生の名さえなく、ただ美しく快い音だけがあるから、その国の名を安楽というのである。
阿難、かの仏国土にもろもろの往生するものは、かくのごときの清浄の色身、もろもろの妙音声、神通功徳を具足す。処するところの宮殿・衣服・飲食・衆妙華香・荘厳の具は、なほ第六天の自然の物のごとし。もし食せんと欲ふときは、七宝の鉢器、自然に前にあり。金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・珊瑚・琥珀・明月真珠、かくのごときの諸鉢、意に随ひて至る。百味の飲食、自然に盈満す。この食ありといへども、実に食するものなし。ただ色を見、香を聞ぐに、意に食をなすと以へり。自然に飽足して身心柔軟なり。味着するところなし。事已れば化して去り、時至ればまた現ず。かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥オンの道に次し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人は、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形に異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、天人の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。
<中略>
仏、阿難に告げたまはく、「無量寿国の、そのもろもろの天人の衣服・飲食・華香・瓔珞・ゾウ蓋・幢幡、微妙の音声、所居の舎宅・宮殿・楼閣は、その形色に称ひて高下大小あり。
あるいは一宝・二宝、乃至、無量の衆宝、意の所欲に随ひて、念に応じてすなはち至る。
また衆宝の妙衣をもつてあまねくその地に布けり。一切の天人これを践みて行く。無量の宝網、仏土に弥覆せり。
みな金縷・真珠の百千の雑宝の奇妙珍異なるをもつて荘厳校飾せり。四面に周ソウして、垂るるに宝鈴をもつてす。
光色晃耀にして、ことごとく厳麗を極む。自然の徳風やうやく起りて微動す。その風、調和にして寒からず、暑からず。
温涼柔軟にして、遅からず、疾からず。もろもろの羅網およびもろもろの宝樹を吹くに、無量微妙の法音を演発し、万種温雅の徳香を流布す。それ聞ぐことあるものは、塵労垢習、自然に起らず。風、その身に触るるに、みな快楽を得。
たとへば比丘の滅尽三昧を得るがごとし。
――
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 眷属荘厳
▼意訳(現代語版より)
阿難よ、無量寿仏の国に往生したものたちは、これから述べるような清らかな体とすぐれた声と神通力の徳をそなえているのであり、その身をおく宮殿をはじめ、衣服、食べものや飲みもの、多くの美しく香り高い花、飾りの品々などは、ちょうど他化自在天のようにおのずから得ることができるのである。
もし食事をしたいと思えば、七つの宝でできた器がおのずから目の前に現れる。
その金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀・明月真珠などのいろいろな器が思いのままに現れて、それにはおのずからさまざまなすばらしい食べものや飲みものがあふれるほどに盛られている。
しかしこのような食べものがあっても、実際に食べるものはいない。
ただそれを見、香りをかぐだけで、食べおえたと感じ、おのすから満ち足りて身も心も和らぎ、決してその味に執着することはない。
思いが満たされればそれらのものは消え去り、望むときにはまた現れる。
まことに無量寿仏の国は清く安らかであり、美しく快く、そこでは涅槃のさとりに至るのである。
その国の声聞・菩薩・天人・人々は、すぐれた智慧と自由自在な神通力をそなえ、姿かたちもみな同じで、何の違いもない。
ただ他の世界の習慣にしたがって天人とか人間とかいうだけで、顔かたちの端正なことは世に超えすぐれており、その姿は美しく、いわゆる天人や人々のたぐいではない。
すべてのものが、かたちを超えたすぐれたさとりの身を得ているのである」
<中略>
釈尊が続けて仰せになる。
「無量寿仏の国の天人や人々が用いる衣服・食べものや飲みもの・香り高い花・宝玉の飾り・天蓋・幡や、美しい音楽や、その身をおく家屋・宮殿・楼閣などは、すべて天人や人々の姿かたちに応じて高さや大きさがほどよくととのう。
それらは、望みに応じて一つの宝や二つの宝、あるいは数限りない宝でできており、思いのままにすぐ現れる。
また多くの宝でできた美しい布がひろく大地に敷かれていて、天人や人々はみなその上を歩むのである。
その国には数限りない宝の網がおおいめぐらされており、それらはみな、金の糸や真珠や、その他、実にさまざまな美しく珍しい宝で飾られている。
その網はあたり一面にめぐり、宝の鈴を垂れており、それがまばゆく光り輝くようすはこの上なくうるわしい。
そして、すぐれた徳をそなえた風がゆるやかに吹くのであるが、その風は暑からず寒からず、とてもやわらかくおだやかで、強すぎることも弱すぎることもない。
それがさまざまな宝の網や宝の樹々を吹くと、尽きることなくすぐれた教えの声が流れ、実にさまざまな、優雅で徳をそなえた香りが広がる。
その声を聞き香りをかいだものは、煩悩がおこることもなく、その風が身に触れると、ちょうど修行僧が滅尽三昧に入ったようにとても心地よくなるのである。
――
―― また風吹きて、華を散らして、仏土に遍満す。色の次第に随ひて雑乱せず。柔軟光沢にして馨香芬烈なり。 足その上を履むに、陥み下ること四寸、足を挙げをはるに随ひて、還復することもとのごとし。 華、用ゐることすでに訖れば、地すなはち開き裂け、次いでをもつて化没す。清浄にして遺りなし。 その時節に随ひて、風吹いて、華を散らす。かくのごとく六返す。また衆宝の蓮華、世界に周満せり。 一々の宝華に百千億の葉あり。 その華の光明に無量種の色あり。 青色に青光、白色に白光あり、玄・黄・朱・紫の光色もまたしかなり。 イ曄煥爛として日月よりも明曜なり。 一々の華のなかより三十六百千億の光を出す。 一々の光のなかより三十六百千億の仏を出す。 身色紫金にして相好殊特なり。 一々の諸仏、また百千の光明を放ちて、あまねく十方のために微妙の法を説きたまふ。 かくのごときの諸仏、各々に無量の衆生を仏の正道に安立せしめたまふ」と。
『仏説無量寿経』 巻上 正宗分 弥陀果徳 華光出仏
▼意訳(現代語版より)
―― また風が吹いて花を散らし、この仏の国を余すところなくおおい尽す、それらの花は、それぞれの色ごとにまとまって入りまじることがない。
そして、やわらかく光沢があって、かぐわしい香りを放っている。
その上を足で踏むと四寸ほどくぼみ、足をあげるとすぐまたもとにもどる。
花が必要でなくなれば、たちまち地面が開いて花は次々とその中へ消え、すっかりきれいになって一つの花も残らない。
このようにして、昼夜六時のそれぞれに、風が吹いて花を散らすのである。
またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。
その花の放つ光には無数の色がある。
青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。
それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。
それぞれの花の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。
そのお体は金色に輝いて、お姿はことのほかすぐれておいでになる。
この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである」
観彼世界相 勝過三界道
これより以下は、これ第四の観察門なり。この門のなかを分ちて二の別となす。一には器世間荘厳成就を観察す。二には衆生世間荘厳成就を観察す。この句より以下「願生彼阿弥陀仏国」に至るまでは、これ器世間荘厳成就を観ずるなり。器世間を観ずるなかに、また分ちて十七の別となす。文に至りてまさに目くべし。この二句はすなはちこれ第一の事なり。名づけて観察荘厳清浄功徳成就となす。この清浄はこれ総相なり。
『往生論註』 巻上
▼意訳(聖典意訳七祖聖教 上 より)
彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり
これより以下は、第四の観察門である。
この門の中を分けて二とする。
一つには、器世間(浄土)荘厳成就を観察する。
二つには、衆生世間(如来および聖衆)荘厳成就を観察する。
この功徳より後、「かの阿弥陀仏国に生ぜんと願ず」までは、器世間荘厳成就を観察する。
器世間を観察する中を、また分けて十七とする。
その一一は文に至って名づける。
今この二句は、すなわち最初のものである。
それを名づけて荘厳功徳成就とする。
この清浄功徳は荘厳のすべてにわたる徳である。