平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
|
先祖が浄土真宗の門徒になって何世代かたっています。私は僧侶から一度も仏説を聞いたことがありません。月参りをして貰っていて、その都度「阿弥陀経」を唱えて貰いますが、阿弥陀経とはどういうお経なのかを教えられたことは十年来一度もありません。お盆の法要にお寺にも行って、浄土真宗本山の高僧より説教を聴くことがありますが、唯有り難い、有り難い…のみ、阿弥陀様はどう有り難いのか、という説教は一度もありません。月参りの僧侶に聞いても「難しい」というだけ。そんなに難しい仏説がなぜ今日まで世にあるのか、難しいから馬鹿な庶民には教える値打ちがないのでしょうか。
ある僧侶によると、阿弥陀経を門徒に教える団体が大阪にあるそうですが、受講するのに10万円の授業料を払わなければならない由。そんな教理なら平凡な庶民には必要ありません。問題意識をもった僧職にある人は浄土真宗にはいないのですか
ご質問をうかがうと、仏法を聞き始めた当初の私自身の疑問を思い出します。真剣に自分自身の生き方を問えば問うほど、教えを説く僧侶に対する不信感が芽生えてくる、ということではないでしょうか。
私ごとになりますが、幼少より死への恐怖を抱いて過ごし、その克服として「今生きていることが大切なのだから、とにかく一生懸命生きて、社会に私のいのちを刻み付けられる一生にしていこう」と、悔いの無い一生を誓い仏法を聞き始めました。しかし当初は私の期待を裏切るお説教ばかり聞かされました。
僧侶曰く、「努力しても皆凡夫であることは変らないので、どこまでも如来に救いを任せるしかない」、「逃げてばかりの凡夫を追いかけて救いとるのが阿弥陀如来で、本当に有り難い」、「有り難く思えないのは、自分が救いようのない人間だと気付いていないからだ」等々、まるで前近代的な“ありがた宗教”で、およそ私自身の人生の問いに応えてくれるものではありませんでした。特に反発をおぼえたのは煩悩の譬えで、「私たちは炭団[たどん]のようなものだ。洗っても洗っても汚れは落ちない。腹の底まで煩悩のかたまりだからだ」などと言うのです。
<俺はそんな犬の糞のような存在じゃない。尊い人間のはずだ!>と怒りました。そして、<世にはびこる不正・巨悪・戦争などとどのように対峙し、どういう世界を、どのような方法で打ち立てていくのか>という問いに、満足な応えが聞けるはずもないと思いました。
来る日も来る日も「あなたは煩悩のかたまりで、そんなあなたを救うためにこそ阿弥陀如来は活動している。だから感謝しなくてはならないが、その感謝もあなたにはできない・・・」等々、こんな感謝の押し付けのような言葉に私は絶望し、寺を継ぐのを止めようと思ったことさえあります。
結論から申しますと、こんなピンボケしたような教えを説くのは、完全に僧侶の不勉強のせい、それも人生の不勉強からくる誤解です。
肝心なのは、「私はこれから具体的に何を目指し、どう生きていけばいいのだろうか」という問いを持ち続けているかどうかで、この問いの中にのみ仏法ははたらくのです。問いを忘れずにいれば、経典は充分それに応えてくれるのです。また真剣に人生を問い続けている僧侶なら、私の生きるべき方向を、その生きざまで指し示すことができるはずです。
さらに、経典に書かれている内容を自分の内なる物語として味わい、如来の願いが成就することと私の人生が成就することを一体として読むことができれば、如来の願いの展開に私も参画することができるはずです。
先の例で言えば、念仏の行者は、凡夫性の恐ろしさを痛感するが故に、そこから脱却した人生を目指せるはずです。また、今まで如来の呼び声から逃げていたことを慚愧し、如来と共に歩みを進める人生に大転換することができるはずです。そして、常に私の存在を尊み励まされる如来のはたらきを私の生き方の中心にすえれば、あらゆる人々に如来の徳が展開され、それを現実に目撃することができるはずです。
「私は凡夫です」とは、こうした展開を実行する中においての自覚なのです。つまり本願のはたらきが現実化される中でこそ見いだされる煩悩の姿で、これは自身への絶望ではなく、新たな本願展開の方向を見いだした言葉なのです。
ところが、自分が凡夫であることを既成事実のように受けとめ、自分の存在が極めて尊いことにさえ気付かずにいると、まるで絶望を前提としたような信心に陥り、仏法を情緒的・主観的にしか論じられず、人生の転換に消極的になります。さらに凡夫という言葉にあぐらをかいてしまうと、努力を蔑ろにし、仏法を言い訳に使うような結果になります。これでは本願が展開するはずありません。そして問題なのは、こうした考えの僧侶がまだ大勢居る、ということなんです。
幸い私は、様々な素晴らしい出会いを通じて当初の疑念を晴らすことができました。そういう意味では、問題意識を持った僧侶は浄土真宗に大勢みえる、と断言しておきましょう。ただし、問題意識を持たない僧侶もやはり大勢いる、ということもやはり本当です。嘆かわしいことですが、その歎きを理由に学ぶことを止めてしまうのはさらに残念です。ぜひ多くの出会いを経験して、深く仏法を味わっていただきたいと思います。
ところで、ご質問にあります「阿弥陀様はどう有り難いのか」という問いは、実は『阿弥陀経』を読むだけではお応えすることはできません。そういう意味では、確かに「難しい」でしょうね。『阿弥陀経』は如来の願いが成就した浄土の姿が顕わされていまして、いわば「答え・結論」なのです。結論ならば最も明確のように思われますが、例えば学習においては問いから答えを導き出す過程が大切なように、如来が願いを建立しその願いを絶対に成就する、という経緯を自分の人生にからめて体験するところに念仏の真髄があるのです。
「阿弥陀如来は動詞である」ということを聞きますが、これはまさにこのことを意味し、本願が成就する過程、はたらき、実際の展開こそが如来の本体なのであり、どこかに実体として存在しているのではありません。
この如来の願いと、その成就の姿を丁寧に顕された経典が『大無量寿経』で、親鸞聖人は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(顕浄土真実教行証文類 教文類一 大経大意)と述べてみえます。また続けて「如来の本願を説きて経の宗致とす」とありますように、阿弥陀如来の建立された四十八願とその成就を、称名念仏とともにつぶさに味わうことが、仏教究極の道と言えましょう。
では、なぜ『阿弥陀経』を読むのかと申しますと、ひとつは『大無量寿経』への導きとしての役割があり、もうひとつには、『大無量寿経』を読んだ後に、法をコンパクトに味わい身近に展開すること、言うなればindexとしての役割があります。
ちなみに『観無量寿経』は、かつて念仏の実践面を担っていましたが、親鸞聖人はこの面でも『大無量寿経』にこそ真髄があることを示されました。しかし『観無量寿経』には「親子の断絶」や「家庭内暴力」といった現代にも通じる問題が具体的に提示してあり、やはり『大無量寿経』への導きとしての役割と、その展開を担っていると言えるでしょう。
これら『大無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三部の経典は「浄土三部経」と呼ばれていることは知ってみえると思いますが、『大無量寿経』を軸に他の二つの経典や様々な論釋を加え、全ての衆生に本願展開の機を施していくのが教団の役割でしょう。
当HPでは、「浄土真宗の教え」のコーナーの「ご本願を味わう」のところで、本願の詳細を連載していますので参考にして学びを深めて下さい。実に如来の本願は懐かしくもあり、新鮮でもあります。
多くの機会を逃さず学びを続けていけば、<法蔵菩薩の修行を通して明示されているのは、私のいのちの物語、そして全てのいのちの深いところに展開されている物語である>と、気が付くはずです。この二つの物語が一体となったのが「南無阿弥陀仏」で、この響きこそ現実に如来の徳が展開される起点なのです。