平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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「真実の信心か否かはどうやって見分けるの?」 のお答えを読ませて頂きましたが、私の頭が悪いのでしょう、 スッキリしませんでしたので、愚鈍な者にもわかるように ご教示頂きたく、お願いいたします。
己が真実の信心を獲たのか、否かは、死ぬまでハッキリしないものでし
ょうか。
「ハッキリわかる」
「ハッキリわかるものではない」
どちらなのか、教えて頂けないでしょうか。
よろしくお願いいたします。
宗教の問題で、最も尊く、ありがたく、そしても最も説明しにくいのが御信心の味わいです。そのため、前回は多くの引用と言葉を用いましたが、余計に混乱を招いてしまったかも知れません。そこで今回は手短にまとめてみました。ただ、短いと誤解が生じやすいことには注意して下さい。
また、「愚鈍な者にもわかるように」というご依頼ですが、むしろ愚鈍に徹して、たゆまず法を聞かせていただく姿勢の中に、答えは自ずから顕れ出て下さると思います。
救いというのは、「ハッキリわかる」のか「わかるものではない」のか、という視点でとらえると、実に窮屈で、時として危険を伴うものに変質してしまいます。信心は方程式のように答えの出る問題ではありませんし、そこに信心の広がりがあるのです。如来からたまわる信は、例えば海のように大きく、あらゆる流れを受け入れるのですが、求道の姿勢、問いかけによって、その味わいは千差万別です。
信に入る時、大きな感動を伴う人もあるでしょう。また、気付いたら法を喜ぶ人生になっていた、と、ある時ふと気付く人もみえるでしょう。しかしいずれにしても、人は気付く以前から既に救いの中に受けとられているのです。日々の暮しのありさまは同様でも、念仏は確実に内面深くから私を変革せしめているのです。
ですから、喜びや味わいは人に披露することはできますが、胸中を断定したり押し付けることはできません。
また、如来のはたらきを喜ばせて頂く時には、一見「ハッキリわかる」と述べそうになるのですが、この「ハッキリ」というところが曲者で、しばらくすると、やはり如来のはたらきで微塵に打ち砕かれてゆきます。「ハッキリ」は表層で、まだ意識の範囲にとどまっていますが、時としてこの意識上の理解が打ち砕かれることを恐れ、「ハッキリ」理解した内容にしがみつく人もいますが、こうなると教条主義で狭い人生観しか得られません。脱皮しない蛇は成長しません。如来のはたらきはもっと深く意識下で進行するのです。
どれほど壮大でもっともらしい完璧にみえる境地でも、自分で理解した内容など実に浅ましくもろい、と示して下さるのは、常に限界の無い如来からのはたらきであり、それが信心となって私に届けられているのです。
たとえば親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』の至心釈においても「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに・・・」と述べてみえます。もし真実信心の獲得が「ハッキリわかる」のであれば「測りがたし」とは仰られなかったでしょう。「ハッキリわかる」と思ったのは仮の信心で、学べば学ぶほど深みがある、前の念が常に破られて後の念を導く、この無限性こそ「測りがたし」と讃嘆された真実信心でしょう。
ただ「測りがたし」で終わっては人々を導けませんから、「しかりといへども、ひそかにこの心を推するに」と推察されたものが教学です。教学が先ではありません。測りがたい信心・仏心が先で教学は後の味わいです。ですから教学を理解しても信心を獲得したわけではないのです。測っても測っても、なお測りがたい仏意そのものが信心ですから、「ハッキリわかる」という「測りうる心」ではありません。それが私の内にあり、私と一体となってはたらいて下さるのです。それが念仏の声であり、念仏とともにある生活なのです。
妙好人(浄土真宗篤信者)浅原才市さんの歌に――
晴れた心に安心するは
自力疑い悪虫よ
ご法義は 聞いたと思うじゃない
聞いたと思うは みな皮で
皮をどけたら 何にもない
あさまし あさまし
というものがありますが、法を聞いて、心が晴れ、その時の境地が真実信心なのだと思って安心しても、それこそ「自力疑い悪虫」ですから、その喜びは断たれることがあります。そこで、「これではいけない」と、その気持ちをいつも持っていようと励む人がいるのですが、これでは信心を固定し腐らせることになります。聴聞をいくら厚着しても理論としてしか残りません。理論は文法のようなもので、間違いを正すには有効ですが、法を味わうことはできません。法を味わうには、むしろ心を裸にして如来の願いを聞いていくことです。
如来のはたらきは、一切衆生に覚りを施し、尽きることのない創造の泉となって私の人生と絡み合って下さいます。ですから決してあやふやなものではないのですが、「ハッキリわかる」という限界を超えて、常に先手で如来は待ち受けて下さっています。そこで私は後から<ああ、あの時「ハッキリわかる」と思ったのは浅い理解だった>と、毎回懺悔することになるのです。
では「今は分かるのか?」と聞かれれば、やはり如来は「分かる」という中にはいません。「分かる」と思った私を、如来は常に越えていく。「分かる」のではなく「一体」なのです。見えないけれど私の生きる場所で一体となってみえる、一体となってみえたんだ。こうた信心を、私は背中で味わってゆくことになるのです。
わたしゃ大きな目を貰うて
浄土のような目を貰うて
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
娑婆で楽しむ極楽世界
ここが浄土になるぞ
うれしや 南無阿弥陀仏
(浅原才市)
現実は、地獄の様相を呈しているとともに、如来のはたらきそのものの顕れであり、浄土に包まれた私、浄土に支えられた世界を見させていただく場なのです。そう気付いてみると、全ての人やものごとに自ずと頭が下がり「お陰様」といただく人生に立ち戻ることが味わえるのです。
最後に親鸞聖人の和讃を引かせていただきます。
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
(浄土和讃 1)
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(高僧和讃 結讃 118)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(正像末和讃 97)