平成アーカイブス 【仏教Q&A】
以前 他サイトでお答えしていた内容をここに再掲載します
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質問:『観無量寿経に学ぶ』171頁、172頁より。
↑の事が分からないのですが。それまでの話の流れから、
何となく、理屈では分かる様な気もするのですが、
果たして、どの様な事がいわれているのか。
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> 私にしがみついているのがいけないのです。
> それは私を罪悪深重の凡夫として否定する立場に
> 立つという事なのです。自分をプラスと認めるのではなくて、
> 自分はしょせんマイナスでしかないという自覚です。
さて、これは誤解が生じやすい言葉で、
実際、誤解されている人もちょくちょく見受けられます。
「私を罪悪深重の凡夫として否定する」といいましても、
自分の存在を卑下するものではありません。
逆に、この身の尊さ、いのちの尊さに目覚める言葉として受けとって下さい。
つまり、この身の尊さ、いのちの尊さに目覚めてこそ、
はじめて、今の自分の姿が「罪悪深重の凡夫」と見抜けるわけです。
もっと詳しく言いますと、
如来に見抜かれた自分を、まざまざと見せ付けられるわけです。
◆ 『五濁悪世』は自分の生きざま
> 「如来」と「私」が一つになるという事も、いまいったことといっしょだと思うのです。
> 向こう側に置いて客観化する、対象化して見る。
> このような理性的に物を見るという在り方の中では、本物は見えないし、
> 本当の心は聞こえないのです。そういうように、自己を捨てて見なくては
> 太陽を見て「太陽を見た」とはいえない。日を観て日を見ないことになるのです。
「罪悪深重の凡夫」の私が、無反省に自分の見識にしがみつき、 その立場から如来を見ようとしても、形骸しか見れません。 如来だけではなく、太陽も、日も、 そして社会で起こる様々な問題も見えてきません。
社会問題を自己反省のない人々が、自分のことを棚に上げて、
さも分かったように他人を非難し、「自説が絶対間違いない」と主張する・・・
マスコミで登場する人々によく見受けられる姿ですが、
これも「向こう側に置いて客観化する、対象化して見る」ということでしょう。
「自己を捨てて見なくては」というのは、
自分を正当化する癖を捨てることです。
「自分の『罪悪深重の凡夫』としての姿を見させてもらう中で、
社会の『五濁悪世』を見つめていかなければ」、ということで、
ここでようやく「私」と「社会」と「如来」がひとつになるわけです。
つまり「五濁悪世」という悪縁・宿業が、如来の回向により
法の普遍性を顕す良縁に転じられていくわけです。
そしてその「五濁悪世」とは、ほかでもない
「自分の生き様そのものであった」と見抜かれたのが、
親鸞聖人でした。
このことについては「信心の実践について」 という中の最後の方にも「機法一体」の説明として引用しましたが、
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、 穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。 ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議 兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修 、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如 来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の 至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩 悪業邪智の群生海に回施したまへり。
[顕浄土真実教行証文類 信文類三(本) 三一問答 法義釈 至心釈]
「機の深信」は、私自身が「無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」と深く自分自身の姿に気付くことですが、 本来は如来の先手として「法の深信」ということが一体になっています。 これは「そのような私だからこそ、救いの法がいよいよ深くはたらく」と受け取れるということです。 本願の道理としては「法の深信」が先手で「機の深信」を見出すのですが、 人の気付きとしては「機の深信」から「法の深信」が受けとられるのです。
すなはちたのむ衆生を阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたへましますなり。これを衆生に回向したまへるといへるはこの心なり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。
[御文章 四帖 11 機法一体章]
とありまして、「南無阿弥陀仏は機と法が一体になったもの」と 理解できます
このことについては、先日の 「運命」と「宿命」・「宿業」について の話の中で、
「個人個人が強い意思を持ち、悪業に屈服せず、善業を継続し
て展開していけば、圧倒的と思える悪の業にも、正しい方向性
を与えうるわけですし、悪業を善に転じていく機会も生まれてき
ます」
このように述べましたが、
現代社会はどうにもならないくらい悪業が巨大で、
とても個人個人の意思で善業を打ち立て対抗するのは困難です。
そのことをあらかじめ見抜かれ、はるかな過去から準備をされてみえたのが阿弥陀如来で、 「清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり」 という「至心」を種とし「信楽・真実信心」を施されるのです。
現実にはここにこそ「悪業を善に転じていく機会」が生まれ、 「南無阿弥陀仏」の道は、現代のような「末法」「五濁悪世」に特に力を発揮する、 と示されています。
意志薄弱であっても、転変を繰り返す私や衆生でも、正直に言い訳をせず認めるならば、そのことが既に法の導きの果報なのです。