ご本願を味わう

『仏説無量寿経』5a

【浄土真宗の教え】

巻上 正宗分 法蔵発願

 『浄土真宗聖典(註釈版)』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【五】 その時に、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。時に国王ありき。仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予を懐く。すなはち無上正真道の意を発す。国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号して法蔵といふ。高才勇哲にして、世と超異す。世自在王如来の所に詣でて仏足を稽首し、右に繞ること三匝して、長跪合掌して、頌をもつて讃めてまうさく、

 『浄土三部経(現代語版』本願寺出版社 より

仏説無量寿経 巻上

【五】 その次にお出ましになった仏の名を世自在王といい、如来・応供[おうぐ]・等正覚[とうしょうがく]・明行足[みょうぎょうそく]・善逝[ぜんぜい]・世間解[せけんげ]・無上士[むじょうじ]・調御丈夫[じょうごじょうぶ]・天人師[てんにんし]・仏・世尊と仰がれた。そのときひとりの国王がいた。世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、そこでこの上ないさとりを求める心を起し、国も王位も捨て、出家して修行者となり、法蔵と名乗った。才能にあふれ志は固く、世の人に超えすぐれていた。この法蔵菩薩が、世自在王仏のおそばへ行って仏足をおしいただき、三度右まわりにめぐり、地にひざまずいてうやうやしく合掌し、次のように世自在王仏のお徳をほめたたえた」


 【大無量寿経点睛】(島田幸昭著『八葉通信』第13号) より

【大無量寿経点睛】
(6)法蔵菩薩の出現
経意
 その時次に仏があって世自在王仏という。如来とか応供[おうぐ]とか等正覚という、仏としての全ての徳を具えていた。時に国王があって仏の説法を聞いて、深く心に感動して道を求める意を発こし、国を捨て位を捨てて弟子となり、名を法蔵と名告った。智能は高く意志は堅く、遥かに世の人を超えていた。

【科文】 ここは法蔵菩薩の出現と師の世自在王仏との出遇いである。

【世自在王仏の説法】 私が数えの二十三の春でした。『大経』のこの文を読んで、その場に釘づけになりました。人は皆「末は博士か大臣か」といって、幸せを求めているのだが、法蔵菩薩はその頂点である国王であるのに、唯一席の説法を聞いて、国を捨て位をすて、身と命と財を捨てて悔いない。ど偉い説法だ。私もそんな説法が聞きたい。経のどこを探して見ても、説法の内容は説かれていない。おかしいぞ。昔の人はこの大説法を聞きたいとは思わなかったのだろうか。私は探した。世自在王仏の説法は解らぬが、これほど大きな感動を受けた法蔵菩薩は、お礼の言葉をどう言ったのだろうか。経には「長く跪[ひざまづ]き合掌して、歌を以て讃めて<光顔魏々として威神極まりなし・・・>」とある。これは口の説法ではない。目の前に現れた世自在王仏の姿そのもの、人格そのものが無言の説法である。その眼をもって経を見れば、五十三仏は唯名だけであるが、世自在王仏にはこれもあるこれもあると、仏の徳の全てを挙げている。これは法蔵菩薩の眼に映った世自在王仏の姿に違いない。法蔵菩薩は世自在王仏を一目見ただけで、私の求めていたのはこの人であったと、全身を挙げて惚れたのである。金子先生が「世自在王仏の徳でなければ法蔵菩薩は誕生せず、法蔵菩薩の眼でなければ世自在王仏の徳は見えない」と言ったのはこのことかと思いました。

【法蔵菩薩とは何者か】 この経の主人公である無量寿仏(アミダ仏)の前身の法蔵菩薩とは何者であろうか。経には突然「時に国王あり、世自在王仏の説法を聞いて弟子となり、名を法蔵という」といっているだけで、それ以上は国王の時の名は何といい、どこの国の王であったか、一切触れていません。この謎を解く鍵は唯一つ、世自在王仏の外にはない。  世自在王仏はその前に現れた五十三の化仏に次いで説かれているのだから、これは釈迦のような人仏でもなく、またアミダ仏のような法仏でもない。前の五十三仏と同じ化仏でしょう。そうすれば世自在王仏という名は、その説法を聞いた法蔵菩薩自身が捧げた名であり、そこに挙げられている仏の徳は、この経の序分に、阿難が釈迦の光顔魏々とした姿を見て、五徳を念言したと同じように、法蔵菩薩の眼に映った世自在王仏の姿と、智慧によって念言せられた徳に違いないでしょう。
 先月号に五十三仏は、人間が自分が人間であることにめざめて来る、その時その時の時代精神を象徴したものであることを述べましたが、経典には人々が自分自身にめざめ、人生がどんなに広く深いかを覚ったり、また私たちが今住んでいる世界の外に、大小様々な世界があることをさとったのは、生命感覚の新鮮な幼児期に、雄大な自然の姿に触れたからであることを説いています。しかしそれは一人ひとりが生活を通して経験することですが、それが自分の属している集団の知識となり、やがてその社会の慣習となって、そこに住んでいる個々の人を同化してゆく精神的働きをするようになります。環境が人を育てるのはこの力です。人が便利のために道具を造り、機械を造る。それを使っておれば、いつの間にか道具や機械が人間の体も心も造り変えていく、その社会の底流れとなったその時代その時代の精神を、時代精神というのです。

【日本の精神史】 私は世界史はもちろん東洋史も知りませんが、知りかじりの日本史を例として、私たちの先祖が現実にめざめて来た足跡をたどって見ます。今日では「人間は自覚存在である」といって、年齢に関係なく、自分が自覚されていない人を未成人としています。
 『古事記』などを見ると、神代といわれている時代は、まだ人間自覚ができていないようです。群婚時代はすでに過ぎていたのでしょうが、近親結婚は常です。日本の神代は何年位前か解りませんが、あの絶世の美女といわれたクレオパトラ女王は、紀元前五十年頃ですが、実の父親から王家の血統を守るために、自分の子を産むように迫られたと伝えられています。日本では聖徳太子の頃までも、母が違えば兄妹が結婚しています。
 また神武天皇の時代には、自分の勢力を拡張するためには、人を殺しても罪とも悪とも思わなかったようです。それが第十代の崇神天皇の時初めて天照大神を宮中から外へ移していますが、それは今までは自分は神の子であると思っていたが、自分は穢れている、神と同居することは畏れ多いと、罪の意識が生まれたからであるといわれています。その名を崇神と贈ったのも、また「初めて日本の国を治めた大王」といったのも、「この人こそ王として慕うことのできる人」ということからではないでしょうか。それは天皇一人ではない、その時代がすでに罪の意識が芽生えていたからでしょう。そのことは第十二代の景行天皇の子の日本武尊の記事を見れば明らかでしょう。
 聖徳太子の頃は、生命年齢はまだ若く新鮮で人は淳朴であったのでしょう。太子は仏教を学んだことにもよりましょうが、「倭国[わこく]」(小人[しょうじん]の国)とか、「倭奴国」は他国から軽蔑して付けられた国名ですが、それを改めて日本人本来の願い、それは全人類共通の願いでもある、国の在るべき理想である「和」を高く掲げて、国名を「和国」と改めたことは、新憲法の第九条と共に寸時も私たちの忘れてはならない大切なことでしょう。
 その頃は日本はまだ夜明け前で、中国や朝鮮からの渡来人は集団で、しかも文化人として国政の首脳部にあって、中国の政治学や兵法の影響か、血で血を洗う悲惨な殺戮は、大化改新の後までも続いています。奈良朝時代には聖武天皇は、仏教精神によって理想国家を実現しようとして東大寺の大仏を造り、光明皇后は身を以て仏の慈悲を国民に施し、平和の華が開いたかに見えましたが、日本古来の迷信の死霊生霊の呪いやたたりの風習はいよいよ盛んになり、その醜さは平安朝に、紫式部が『源氏物語』に遺憾なく書き遺しています。それに加えて、一と度源信の『往生要集』が世に出るや、それまで死んでもまた生まれて来るという幼稚な心で、楽天家といわれていた日本民族の魂を震え上がらせて、千年百年という永い間、日本列島の津々浦々まで「地獄恐怖症」のウィルスを播き散らして来ました。
 平安時代も末期になれば、公家階級から一般庶民は農奴百姓として道具扱いにされ、武士は「侍の分際で生意気だ」とか、「武士は殺さず活かさず」と軽蔑されていたのですが、その昔の平将門が新皇と称していたのに刺激されたのか、「わしも世が世であれば天皇になれたのか」と、平清盛は時の天皇を幽閉して、自ら太政大臣となって天下をほしいままにしました。そのことが地方に眠っていた武士の魂に火を点けたのです。これによって、主権が武士によって握られた封建時代が七百年も続きました。
 その間も人心は大きく変わっています。室町末期に出た北条早雲は、一介の浪人が大名となって関東に威を震いましたが、それはそれまでの風習は源平藤橘[とうきつ]という名門や、家柄などの名に縛られてひたすらこれに服従していたものが、自分たちの生活基盤の死活問題に眼がさめて、年貢の少ない方に傾いたからだといわれています。それは関ケ原の合戦にも現れています。石田三成は太閤殿下の恩義を旗印に掲げて兵を募ったのに対して、徳川家康は手柄を立てた者には国を与えると、恩賞で兵を誘うています。ここにも民心はすでに名門より実利に目が移っています。
 明治維新はその発端は、外国の黒船が開国通商を求めて来たことによるのでしょうが、内実は井原西鶴が「内裏さまのとて外になし今日の月」と、民衆のめざめを叫び続けて来たように、時はすでに士農工商の人間差別に不満が時代の底流れとなって、若者の血は爆発寸前になっていたからでしょう。下級武士の西郷吉之助が藩政を動かし、郷士の坂本龍馬が主家を脱藩し、高杉晋作が農民を動かして騎兵隊を組織したように、改革維新の火は日本中に漲[みなぎ]っていたのです。
 大正に入っては、デモクラシーの掛け声で民主主義の思想は公然と叫ばれ、一農民の子原敬は一国の宰相になりました。また大正十一年には、被差別部落の人々は自らの手によって水平社を結成して、解放運動の旗を挙げて起ち上がりました。昭和には昭和の気風があり、戦後には戦後思潮があります。その中でも世襲であった華族が廃止されて、国民平等、人格同権、それに有史以来の男尊女卑の差別も撤廃され、女性に参政権が与えられて、一人ひとりが人間である自覚が芽生えました。
 今や全世界を挙げて人権の差別も、宗教の争い、戦争のない世界が願われ、世界国家とか世界政府の声も聞こえるようになっています。

【理想の國は足元に】 しかしこの願いは今世紀になって初めて興ったのではありません。インドでは遠く紀元前釈迦の生まれた頃には、既に世界国家、世界政府の夢をみています。四天下の偉大な王その名転輪聖王これです。転輪聖王とはその「車の行く所草木も靡く」と歌われた、智徳兼ね備えた名君のことです。しかもそれはたんなる夢ではなかったのです。紀元前百年頃か、「人間の求める最後のもの」といわれる理想の世界国家、偉大なる国王が、すでにこの地上に成就されていることが発見されたのです。その浄土といわれている偉大な世界を発見した、讃めても讃め尽くせず、謝しても謝し足らぬ「不世出の天才」(今まで釈迦の名で呼ばれていた)、どこで生まれてどこで死んだのか、その名さえ知れぬ、この『大無量寿経』の初めに「我」と名告ったその人によってです。
 その著者が「我説く」といわず、「我聞く」とあたかも釈迦が説いたかのように述べているのは、さとりの世界はそういう説き方より外に説くことのできぬ性質のものでもありますが、筆者が先師釈迦の上に自分のさとりを見出したのでしょう。そのことは経の序文に釈迦の一生を説いて、それをそのままそこに集まった聴衆の一生と説いていることでもいえるでしょう。また「人間は誰でもその一生に、人類の歴史をくり返す」といわれているように、この著者が心の眼が開けたとたんに、法蔵菩薩の求道の歴史の跡が自証されたのです。
 法蔵菩薩が世自在王仏の説法を聞いて誕生したとは、永い地上の幾山河の旅に、自分の在るべき真実の道を求めて手探りに、月に照らされ日に照らされ、雨の音にまた風の音に育てられて来て、自分の在るべき理想が見えたとたんに、この世の闇の中から法蔵菩薩は名告り出たのです。あたかもアンデルセンの「醜いあひる」が、美しい白鳥の姿を見た時、全身の血が躍動して思わず羽ばたいたら、身は空中になって自分は美しい白鳥になっていたように。

【世自在王仏の徳】は、(1)如来。色も形もない真如法性そのものが、形をとってこの世に現れたこと。この世のものでないという讃辞。
(2)応供[おうぐ]。供養を受ける資格があること。
(3)等正覚[とうしょうがく]。また正遍知とも訳されていて、どんな人も皆仏性を具えていることが見え、どんな人をも平等に尊敬できること。
(4)明行足[みょうぎょうそく]。「明」は三明のことで智慧のこと。(A)宿命智。宿命が解ること。(B)天眼智[てんげんち]。どんな人をも仏として尊敬できること。(C)漏尽智[ろじんち]。自分の損得を離れて、何事も法のため全人類のためにだけ手を動かし足を動かすこと。「行」はこの三明智によって生活すること。「足」はその徳を満足成就していること。
(5)善逝[ぜんぜい]。尊い一生であったと、満足して死に切れること。
(6)世間解[せけんげ]。この世のことを知り尽くすこと。
(7)無上士。この上ない尊い人のこと。
(8)調御丈夫[じょうごじょうぶ]。自分の煩悩や僻を制御でき、世の諸の悪を正すこと。
(9)天人師。知識人も一般の庶民も導いて、真実の生き方に育てること。
(10)仏。心の眼を開いて人生の謎を解き、人間としての徳を身に即けた人のこと。
(11)世尊。世の人から家の宝、国の宝と尊敬され愛される人のこと。

【世自在王仏と法蔵菩薩と著者の関係】 経には五十三仏もまた世自在王仏も、あたかも私たちが人間として存在しているように、どこかに生きていたかのように説かれていますが、そうではなく、いわばそれは色も形もない精神的光として受けとられたもので、その名はこの経の著者が付けたものです。私たち人間は初めどこから来てどこへ行くのか、存在の自覚もなければ理想もない、唯生きているという盲目的存在であったものが、人間としての自分にめざめ育てられて来た、それを法として名づけたものです。それも「無量の衆生を教化した」とありますが、実は一人ひとりがめざめ、それが時代の流れとなったのでしょう。それによって形成された歴史的社会的現実が創造的世界とか創造的主体と呼ばれている弥陀の浄土であり法蔵の願心です。
 その世界を初めて自分の根源的主体としてさとった人がこの経の著者であり、この著者こそ浄土の人天として誕生した、創造的世界の創造的前衛主体としての正定聚不退転の菩薩と呼ばれている人です。随って事実として現実に存在するものは、弥陀の浄土と、法蔵の願心であって、世自在王仏は、法蔵菩薩によって発見された理想の人間像です。さらにそれらを自分の根源的主体としてさとることのできるものは、浄土の菩薩の不退転の菩薩だけです。

 『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳 より

◆ 法蔵菩薩の出現(如来の十号)
 その次にまた目覚めたお方が出現された。この世を何の障害もなしに自由に生きるお方(世自在王仏)であり、真実の世界から身を現されたお方(如来)、衣食住を身に受けるにふさわしいお方(応供)、私(釈尊)と同じ心の世界に目覚めたお方(等正覚)、いつも明るい足どりで歩むお方(明行足)、何も思い残すことのない充実した生涯を歩まれたお方(善逝)、世の中を正しく見通すことができるお方(世間解)、このうえない人格を備えたお方(無上士)、道を求める素晴らしい人を育てる力を備えたお方(調御丈夫)、順境、逆境を問わず、人びとをすべて導かれるお方(天人師)、目覚めたお方(仏)、この世で一番尊いお方(世尊)、とお呼びしよう。(如来の十号)
 その世自在王如来の前に、この世の幸せの代表ともいうべき国王が現れ、ご縁あって目覚めた人とめぐりあい、教えを受けることになった。そこで今まで味わったことのない喜びを体験し、人と生まれた本当の意味を尋ねて行こうと、心に誓うのだった。そして今まで幸せの根源だと思い込んでいた財産(国)と、名誉、権力(王位)を捨てて、本当の幸せを求める人となり、真実を内に蓄えた人、法蔵菩薩と呼ばれるようになった。法蔵菩薩はこの世においても、とくに優れた才能と行動力とを身に備えていたにもかかわらず、この世の見せかけの幸せに見切りをつけ、先生の世自在王如来に傾倒し、その心の世界に一歩一歩まわりから近づき、ついに私の進むべき道はこの人の歩んだ道だ、と合掌礼拝し、思わず師をたたえ、歌わずにはいられなかった。

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